「じゃあご馳走様」
「お粗末様でした」
「なにがよ!廻らない寿司がお粗末とか嫌味なの!?」
「また行きましょう」
伊月は木蓮の悪態に動じる事なく柔かな笑みを浮かべた。
「今度はビックリしたドンキーでハワイアンなハンバーグよ」
「何枚でも食べて下さい」
「じゃあね!」
「おやすみなさい」
今夜は伊月が贔屓にしている江戸前寿司で廻らない寿司を堪能して来た。
(………..伊月も案外面白いじゃない)
これまで木蓮は伊月に対し、睡蓮との深刻な状況を打破する相談相手として接して来た。然し乍ら、阿吽の呼吸で自身の伝えたい言葉や感情の波を察してくれる幼馴染の存在は傷心の木蓮の心を癒した。
走り去る車のテールランプ、ハザードランプが3回点滅した。
(歌謡曲かっ)
ご機嫌でショルダーバッグの肩紐を振り回していると背後に強く触れた感触があり、木蓮は「ごめんなさい!」と慌てて振り返った。そこには険しい表情の雅樹が立っていた。
「なんだよ、見合い相手はハンバーガー屋じゃなかったのかよ」
「あんたまだ居たの」
「悪ぃか、出前の寿司をご馳走になってたんだよ」
「酒臭っ!」
「少し呑んだからな」
「へへーん、私なんて江戸前寿司よ、廻らないのよ、凄いでしょう」
「……….それで外車かよ」
木蓮の口元はへの字になった。
「なに張り合ってるのよ、子どもじゃあるまいし」
「おまえ、幼馴染とか言ってたじゃねぇか」
雅樹の語尾は強く売り言葉に買い言葉、木蓮の声も自然と大きくなった。
「あんたに私の事をとやかく言われる筋合いはないわ!」
「そう、そうかもしんねぇけど!」
「婚約破棄するって言ったじゃない!」
「言ったよ!」
「もう無理なんでしょう!?」
「仕方ないだろう!」
(…….仕方………ない)
その言葉は木蓮から一筋の希望の光を奪い去った。
「仕方ないって言った?」
「…………ああ」
「もう、もう無理なの」
「………..ああ」
「あんたは私じゃなく睡蓮を選んだの」
「叶製薬からウチの会社に金が渡った、もう無理だ」
「お金」
「金の貸し借りみたいなもんだ」
「だから睡蓮を選んだの?」
「睡蓮じゃない、会社を選んだ」
「同じ事よ、私じゃなく睡蓮を選んだのね」
木蓮の頬に涙が伝い、顎から落ちた粒がシャツに滲みを作った。
「……….睡蓮を選んだのね」
雅樹は呆然と立ち尽くす木蓮へと手を伸ばしたが、それは力無く降ろされた。
「……….選んだのね」
雅樹にとって木蓮はもう抱きしめる事すら躊躇われる存在となってしまった。
「木蓮」
その呟きに弾かれるように木蓮は雅樹の胸に飛び込み背中に腕を回した。通りを流れるヘッドライトがその泣き顔を浮き上がらせた。
「抱いて」
雅樹の息が止まった。
「え、聞こえない」
「今夜だけで良いの」
「な……….なにが」
木蓮の指先は小刻みに震えていた。
「抱いて……..お願い……..これ以上言わせないで」
雅樹の腕が木蓮の背中を強く抱きしめた。
雅樹が左手を挙げると吸い寄せられるように一台のタクシーが路肩に停車し後部座席のドアが開いた。思わず木蓮の足は竦んだ。
「やめるなら今だ……..乗らなくても良い」
「やめないわ」
その手が助手席のヘッドレストを掴み座席の奥に腰を下ろした。
ギシっ
座面のスプリングが軋み、木蓮の心臓は跳ね上がった。次いで雅樹が乗り込み後部座席のドアが静かに閉まった。
「お客さん、何処まで」
「西念の和田コーポレーションまで、支払いはチケットでお願いします」
「はい、西念ですね」
「なに、会社に行くの」
「隣のマンションに俺の部屋があるんだ」
ビビビビビビ
その音に木蓮は飛び上がった。何が起きたのかと運転席を見遣ると料金メーターの横に深夜料金と表示されていた。
「あー、うるさくてすみません」
「いえ」
「これから深夜料金になりますから」
22:00の街は騒がしく楽しげだがタクシーの車内には気不味い空気が漂っていた。木蓮は反対車線のヘッドライトを目で追い、雅樹は賑やかな街並みを車窓から眺めていた。
(………….!)
無言の雅樹の指先が座面に置かれた木蓮の指に触れ力強く手を握り締めた。手のひらはじっとりと汗ばみ、脈打つ血潮を感じた。どうして言ってしまったのだろう、木蓮は姉の婚約者に一夜を過ごして欲しいとせがんだ自分を恥じた。
(後悔したくない………後悔したく無いから)
煌びやかな街から遠ざかったタクシーは明かりが消えたオフィスビルの谷間を走り続けた。交差点の向こうに和田コーポレーション本社ビルが見えて来た。確かにその手前には白いタイル貼りのマンションが建っている。
(5階、8階、12階、さすがお坊ちゃん、高そうなマンションね)
「あ、運転手さん」
「はい」
「ここで降ろして下さい」
ハザードランプが点滅し2人は片側3車線、大通りのポプラ並木に降りた。
「どうしたの」
「馬鹿かおまえ、おまえを正面玄関で降ろせる訳ないだろ」
「………….あ」
「ごめん、言い方キツかったな」
そう、雅樹は未だ独身とはいえ婚約者が居る身、これは人の道に反した行為なのかもしれない。
「これって浮気とか不倫になるの」
「そんな悲しい事言うなよ」
2人は車通りの無い道を曲がり管理人室脇の入り口からエレベーターホールへと向かった。上階へのボタンを押す。木蓮の脚は震えた。
「嫌ならなんもしねぇ」
「私が頼んだのよ」
「もう少し恥じらえよ、可愛げねぇな」
「うるさいわね」
この気軽さが心地良かった。
ポーーン
エレベーターの扉が開き、2人は足を踏み入れた。