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朝霧がまだ地表に溶け残る街路を
ライエルは
肩を小さく竦めながら歩いていた。
喫茶桜のファサードはまだ開店の支度中
看板も「CLOSED」のまま。
店先のドアノブにそっと手をかけるも
鍵は固く閉ざされていた。
「⋯⋯あれ?」
ぽつりと呟いたその声音には
どこか途方に暮れたような色が滲む。
落ち着きなく視線をさまよわせた末に
ライエルは店の脇を回り
裏庭へと足を進めた。
時也が手入れを欠かさないその庭は
朝露に濡れた花々が静かに咲き誇り
柔らかな陽に照らされて淡く輝いていた。
白や薄紫のアネモネ、風に揺れるパンジー
青みがかったスズランの葉先が
小さく震えている。
その一角
背中を向けたまま
紫煙を燻らせる人影があった。
深緑のパンクジャケットに
ざっくりと跳ねたダークブラウンの髪。
鋭さを帯びた輪郭。
それは紛れもなく、ソーレンだった。
ライエルは歩みを緩めながら
そっと近付こうとする。
だが、地面の小枝が一本──
ぱきり、と音を立てた。
瞬間、ソーレンの背が勢いよく振り返った。
「っ⋯⋯!」
目が合ったその瞬間
ライエルの肩がびくんと大きく跳ねる。
息を呑んで立ち止まった彼に
ソーレンは煙草を咥えたまま目を丸くした。
「⋯⋯お前、どっちだ?」
問いかけの語調は鋭いが
そこに宿るのは威圧ではなく、確認。
ライエルは少しだけ背筋を伸ばして答えた。
「⋯⋯あ、ライエル、です。
おはようございます」
すると
ソーレンは盛大に鼻を鳴らして笑った。
「は!
その怯えっぷりは、確かにお前だな。
時也か?リビングにいるぜ」
「⋯⋯あ、はい⋯ありがとう、ございます」
丁寧に頭を下げて
ライエルは居住スペースの玄関へと向かう。
扉の前で一度立ち止まり
ぎゅっと指を握ってから──
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
そして
玄関横のチャイムを控えめに押した。
──カチャ、と内側の施錠が外れる音。
開かれた扉の向こうに現れたのは
柔らかな笑みを浮かべた時也だった。
黒褐色の髪が
朝陽を受けて金糸のように艶めき
鳶色の瞳はいつも通り
優しく人を迎える色をしている。
「おはようございます、ライエルさん」
その一言に
ライエルは直立不動のまま声を張り上げた。
「おはようございます!時也〝様〟!」
時也は僅かに目を瞬かせたが
すぐに微笑みを崩さずに答える。
「⋯⋯〝様〟?どうぞ、お入りください」
玄関を通り抜け、案内されるリビングには
温かな陽の光が差し込んでいた。
木製の床には朝の掃除が行き届き
観葉植物の葉先に霧吹きの名残が光る。
テーブルの上には
準備中のカップと
湯気の立つポットが置かれ
どこか家庭的な香りが漂っていた。
ライエルはその空気に
少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、心の奥にある緊張だけは
まだ解けないまま──
静かに、しかし確かに
時也と向き合う時を迎えようとしていた。
そのリビングの中心
テーブルの椅子に
アリアは静かに座っていた。
金糸のような長い髪が
陽に照らされて光の粒となり
儚げに肩を流れている。
その白磁のような肌と、冷たく美しい横顔は
まるでこの空間に存在すること自体が
幻想のようだった。
テーブルに置かれた
白い陶器のカップを手に取り
アリアは無言のまま、コーヒーを口に運ぶ。
蒸気が一筋、微かに彼女の頬を撫でては
消えていった。
ライエルは思わず立ち止まり
丁寧に一礼した。
「おはようございます。アリア様」
その声に、アリアは返事をしない。
だが──
その深紅の瞳がわずかに
ほんの一瞬だけ柔らかく細められた。
それだけだった。
それだけなのに、ライエルの心は満たされた。
見下ろされるのでも、拒絶されるのでもなく
〝視線を返された〟
その事実が
彼の胸に温かな何かを灯すには十分すぎた。
背筋を正したまま
微笑を浮かべたライエルに
時也が穏やかに声をかける。
「お食事はお済みですか?
今、コーヒーをお持ちしますね」
その声音はまるで
春の陽だまりのようだった。
静けさを乱さず
そっと寄り添う優しさだけがある。
「食事は済ませてあります。
お気遣い、痛み入ります、時也様」
ライエルの返答は
自然と丁寧なものになっていた。
その口調には、言葉以上の敬意が滲む。
時也はキッチンへと歩き
湯気の立つポットを持ち上げながら
ふふ、と小さく笑う。
陶器のカップに音も立てず
濃く香るコーヒーを注ぎながら
軽く首を傾けた。
「どうして、僕なんかにそのような敬称を?」
注ぎ終えたカップを
ライエルの前にそっと置きながら
時也は茶目っ気を含んだ
優しい表情を浮かべた。
だが、ライエルは首を横に振り
真っ直ぐな目で時也を見つめる。
「貴方様は
アリア様が伴侶にお選びになった御方です。
ならば──当然ながら、高位の御方ですから」
その言葉は
ライエルにとっては〝常識〟であり
疑う余地のない事実だった。
五百年前の価値観。
彼の中で〝神〟であるアリアに選ばれた者──
それが
〝王〟のような存在でないはずがなかった。
時也はその言葉に、少し目を見開いた。
だが、すぐに目を細めて
困ったように、けれど温かく微笑んだ。
「⋯⋯そう、ですか」
その一言に
諦めにも似た色が混じっていた。
ライエルの中で
それが揺るがぬ認識であることを
時也は悟ったのだ。
彼は、敬称を正そうともせず
それ以上の問いも投げなかった。
ライエルが
差し出されたカップを両手で受け取り
深く頭を下げる。
その所作は
かつての一族の長としての
誇りと礼節を内包していた。
リビングの片隅
アリアは何も言わないまま
またコーヒーに口をつける。
だが──
その仕草は
どこか満ち足りたもののように見えた。
静かな朝。
三人の呼吸が
ようやく同じ時を刻み始めた瞬間だった。