テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夜の帳が下りきった王都の屋根の上を、私は音もなく渡り歩いていた。
瓦を踏む感触も、風に混じる炊事の残り香も、夜になるとまるで違う顔を見せる。人の目には映らない裏路地の襞の一つ一つが、猫の耳と鼻を持つ私には、手に取るように分かった。
夜の見回りは、もう何ヶ月も続けている、私にとっての日課だ。
トウヤと、あの店を守るための、私なりの仕事のうちだ。任務でもなければ命令されたわけでもない。ただ、この街のどこかで何かが軋み始めれば、真っ先にその匂いを嗅ぎ取れるようにしておきたかった。それだけのことだ。
それが私の流儀なのだ。
今夜も、いつも通り屋根の上から裏路地を見下ろし、顔なじみの情報屋たちの様子を窺うつもりだった。
だが。
(……妙だな)
いつもならふらふらと出歩いている小物の情報屋も、賭場の隅で油を売っている連中も、今夜はどこにも見当たらない。
耳を澄ませても、聞こえてくるのは酔客の遠い笑い声と、風に軋む看板の音だけだ。裏路地特有の、あの湿った緊張感が、綺麗さっぱり消えている。
まるで、示し合わせたように、一様に姿を消していた。
(賭場の隅で油を売ってる連中も、今夜は見当たらないのだ)
裏社会の作法で言えば、これは一種の合図だ。皆が一斉に口をつぐみ、影に潜む時。それは、大抵、何か大きなものが動く前触れなのだ。
同じ側にいる身だからこそ、この静けさの意味は嫌というほど分かる。嵐の前の凪。誰もが自分の身を守ることに専念し始めた時、街の裏側では決まって、誰かが誰かに牙を剥く準備を進めている。
(……これは、少し本気で裏を取った方がいいのだ)
尻尾の先が、微かに逆立つ。屋根から屋根へ、私はより深い裏路地へと足を進めた。
○
私は裏社会でも一枚上手の情報屋のもとへ向かった。
王都の外れ、看板の文字もろくに読めないほど古びた酒場の裏口。情報の裏取りをするときに幾度となく世話になった……というより、互いに利用し合ってきた男の縄張りだった。
この男は、金を払えば大抵のことを話す。だが口の軽さと引き換えに、いつも余計な駆け引きを挟んでくる質だ。今夜も、それを覚悟の上で屋根の隙間から音もなく降り立った。
「……お前か。今夜は、いつもより機嫌が悪そうだな」
情報屋は、こちらの気配だけで正体を言い当てた。
「……単刀直入に聞く。最近、裏で何が動いている」
「はは、相変わらず前置きがねえな。……いくら出す」
無言で、懐から金貨を数枚差し出す。
「……悪いが、今夜のは、それじゃ足りねえ話だぜ」
私の纏う気配に、いつもより多くの緊張が滲んでいることに気づいたのだろう。それとも、単に足元を見ているだけか。どちらでもよかった。さらに数枚を差し出すと、情報屋はようやく肩をすくめて話し始めた。
「……お前が前に叩きのめした、あのギルドの残党どもだ。この数ヶ月、静かに人員を集め直してたって話だ」
「……知っている。それで」
半分は予想していた話だった。だが情報屋の口ぶりには、まだ続きがある気配がある。
「それだけじゃねえよ。……お前と、あの防具屋。両方に対して、かなりの額の契約が交わされてる。誰が出したのかまでは分からねえが、金額だけは、洒落にならねえ額だ」
(――やはり、な。だが、思っていたより、切迫している)
予感が確信に変わる瞬間というのは、いつも胸の奥がすっと冷たくなるものだ。恐怖ではない。ただ、状況の輪郭がはっきりと見えてくることで、自然と冷静なる感覚だ。
「規模は」
「詳しくは知らねえが……あの時の三人程度じゃ済まねえだろうな。人数を揃えるための時間、それだけかけてきたんだ」
情報屋の声には、いつもの軽薄さの奥に、わずかな緊張が滲んでいた。この男でさえ、今回ばかりは平静を装いきれていないらしい。
それだけで、事の重さが察せられた。
○
契約と再編の話は掴めた。だが、まだ確証と呼べる材料が足りない。
私はさらに足を伸ばし、王都近郊の交易倉庫が並ぶ一角の荷運び人足たちの溜まり場へと向かった。
酒と博打の合間に漏れる噂話は、時に情報屋の話よりも正確だ。金のために嘘を吐く動機がない分、余計な脚色もない。焚き火を囲んで愚痴をこぼす人足たちの言葉には、街の実情がそのまま滲み出ている。
倉庫街の隅、焚き火の傍らに気配を殺して身を潜め、耳を澄ませる。
「そういや、最近、鉱山ギルドの方で妙な話を聞かねえか?」
「ああ、鋼材の買い占めの話だろ。市場価格の倍近い値をつけてでも、質の良い鋼材を欲しがってる連中がいるって話だ」
「誰が買ってるんだ、そんなに」
「知らねえよ。ただ、量が量だ。ちょっとした武具屋が丸ごと武装できるくらいの量だって噂だぜ」
(……鋼材の買い占め、か)
火の粉が夜風に舞い上がる音を聞きながら、私は静かに頭の中で糸を繋いでいく。
時期も、規模も、ちょうど合う。……十中八九、武装を整えるための、静かな仕込みだったのだ。
(あのグレタとやらの噂で聞いていた話が、まさかこんな形で繋がるとは思わなかったな)
以前、店の常連から漏れ聞いた、鉱山ギルドの採掘量が急に伸びたという話。あの時は単なる世間話として聞き流していたが、まさか裏でこれほどきな臭い動きの一端に触れていたとは。
世界というのは、案外どこかで細く繋がっているものらしい。
そっと焚き火の輪から離れ、屋根の上へと戻る。人足たちは、私が一瞬でもそこにいたことにすら、最後まで気づかなかった。
ーー契約、再編、そして武装の仕込み。
すべての糸が、一つの結論へと繋がっていく。
屋根の上に立ち止まり、私は夜空に浮かぶ月を見上げた。
裏社会で名の知れたギルドが、これだけの規模で動きを整えるとなれば、決行の日を無闇に先延ばしにはしない。奴らの流儀なら、大抵は月が満ちる夜、闇に紛れる必要のない、力を示すための夜を選ぶ。
こそこそと闇に紛れて仕留めるのではなく、あえて満月の下で堂々と報復を果たす。それは、同業者への見せしめであり、失った面子を取り戻すための儀式のようなものだ。
(……あと、どれくらいだ)
月の欠け方を、指先で影を作りながら確かめる。
(このペースなら、満月まで、もう数日もないのだ)
普段なら、こうした裏取りの後は、更に2、3裏付けを重ねてから結論を出す。だが今回だけは、その悠長さが命取りになりかねない。
屋根を蹴り、私は店への帰路を急いだ。
○
翌日。
店に戻ると、いつもの二人がカウンターで言い合っていた。風貌から騎士と魔術師ということだけは分かる。
一人一人でいる時は、さほど騒がしくもない。だが、この二人が揃うと、とにかくやかましくなる。犬猿の仲、とでも言うのだろうか。名前も知らなければ、まともに口を利いたこともないが、それだけはよく覚えていた。
「――だから、それはあんたの見栄っ張りが招いた結果でしょうが!」
「うるさい、貴様には関係ないだろう!」
けたたましい言い合いを尻目に、二人には目もくれず、私はまっすぐトウヤの元へ向かった。
「戻ったのだ」
トウヤは顔も上げないまま、裁断の手だけを止める。何かを尋ねてくる気配はない。いつも通りの、静かな受け答えの間だけがあった。私はそれ以上待たず、自分から昨夜の成果を切り出した。
「……敵対ギルドが、近いうちに店を襲撃してくる。裏取りが済んだのだ」
その一言が、店の空気を一変させた。
それまで軽口を叩き合っていたはずの二人が、ぴたりと口を噤む。カウンターの喧騒が嘘のように消え、代わりに張り詰めた静けさが満ちた。
「ちょっと、襲撃ってどういうことよ!」
けばけばしいローブの女が、勢いよくこちらへ詰め寄ってくる。
「トウヤ、今の話は本当か?」
赤毛の女も、剣呑な顔でトウヤへ確認を求めた。
「……ええ、そうらしいですね」
トウヤはそれだけ言うと、また裁断の手を動かし始める。それ以上、自分から説明するつもりはないらしい。
この店主のこういうところは、良くも悪くも変わらない。
「『ええ』って、それだけ? ちょっと、あなたも詳しく話しなさいよ!」
矛先が、再び私へ向いた。仕方なく、私は淡々と続きを口にする。
「……前に返り討ちにした暗殺者の大元が報復に来るのだ。今度は規模の桁が違う。二十人は下らない、腕利きを揃えた本隊が来る。曲がりなりにも、裏社会でも名の知れた、それなりの規模を持つ暗殺ギルドの一つなのだ」
「二十人……。しかも、腕利き揃いか」
赤髪の女が、低く呟く。
「加えて、鉱山周辺で鋼材が市場価格を無視した値で買い占められている。武装を整えるための仕込みだろう。奴らは満月を好む。……月が満ちるまで、あと数日もないのだ」
ローブの女が息を呑んだ。
「……腕利きの三人が戻らなかった時点で、こうなることは決まっていたのだ」
感情をあらわにする二人に対して、私は特に感情を込めるつもりもなかった。もう何ヶ月も前から、この可能性は織り込み済みだ。恐れることでも、悔やむことでもない。ただ、来るべき時が来るというだけ。
赤髪の女が、剣の柄に軽く手を触れ、何かを考え込むように黙り込む。
「……満月の夜ね」
ローブの女が、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
(……剣の間合いの詰め方も、纏う魔力の質も、只者ではないな)
ただ、それ以上、誰も何も言わなかった。私は特に気にすることもなく、屋根裏へと戻る足を進めた。
コメント
1件
うわああ第15話読み終わったよ!!🐱🌙 今回めっちゃ緊張感あってドキドキしながら読んじゃった…!! 主人公が夜の屋根伝いに情報集めて回るシーン、静かで重たい空気感がすごく良かったし、情報屋との駆け引きもかっこよかった😭💕 それに「満月まで数日」って台詞で一気に切迫感増して、最後の二人の反応にも鳥肌立ったよ…!! 次回どうなっちゃうの!?超気になる!!🔥✨