コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
私は、どれだけ経ってもこのパズルを解くことができない。 すべての問題には解があり、問いがあるなら、必ずそれに辿り着く“道”がある。
理屈が通るものには、それで全てが解決する。
しかし──“今回の事件”だけは違った。
どこをどう切っても、“答え”が見つからない。
犯人を特定しても、動機を見つけても、原因を追い詰めても──証拠がない。
まるで、最初から「解くこと」を拒んでいるかのように──
では、なぜ?
なぜ答えがない?
奴はどうして私に、本当の答えを提示してこない。
どこにある。どこに隠した。
──こんなこと、初めてだ。
解けないパズルなど、存在しないはずなのに。
犯人は、意図的に“名前”を狙い、イニシャルが〈B・B〉の人間だけを次々に殺害している。
そして、私の顔と、私の名前を使って。
なぜ私には、解けないのか。
……それは、私に“名前”がないからか。“顔”がないからか。
どちらも──“私自身が分からない”ものだからか?
L、竜崎、ルエ、エラルド=コイル、ドヌーヴ、エル・ローライト──
そのどれもが“私の名であり、本当の名ではない”。
本当の名前が分からない。
本当の顔も誰も知らない。
だから、私にはこの事件が解けないのか?
奴は、私の顔を知っている。
奴は、私の名前を知っている。
“オリジナルの私”が知らない私を──奴は知っている。
ならば──この事件は、奴が“私を超える”ために作った事件か。
顔を奪い、名前を奪い、いつしか存在すら奪う。
“私”を消すことで、完全な“彼”になる。
そうなれば、私は名を持たないまま、コピーに追われ、本物の私を永遠に探すことになる。
それが──BB連続殺人事件の正体か。
……ならば、この事件は、“顔”と“名前”を持つ彼女に託そう。
私が介入しても、余計に事件をややこしくするだけだ。
ならば──“父と母に近づくパズル”。
それも、解けないというのか。
この世界のどこを探しても、“父と母”が私に与えるはずだった無償の愛は──どこにもいないのだから。
❅❅❅
──Lを継ぐものへ。
正直に言おう。
これは書くつもりのなかった遺書だ。
出来れば墓場まで持って行きたかった話ではあるが──共に燃えるには些か勿体ない話だと思った。
本来なら、あの天才の後を継ぐ君にわざわざ種明かしなんてしてやる義理はないけれど──Lという名が、どれほど偉大で、どれほど世界を変え、どれほど常識を書き換えてきたのか。それを知らずにLを継ぐのはあまりにも無粋だろう?
ウィンチェスター爆弾魔事件。
君はまだ知らないだろう。
世界一の発明家キルシュ・ワイミーことワタリと、当時推定8歳のLとの出会い──
世紀の名探偵L誕生のきっかけとなった、第三次世界大戦をすんでのところで食い止めた爆弾魔事件について──
語ろうか。
その前に、君は薄々こう思ってるはずだ。
なぜ“BB連続殺人事件の犯人”が爆弾魔事件を語るのかって。
自分の事件を語らないのかって。
──語らない。
語れるわけがない。
犯人が自分の作った事件を語るなんて、そんなの、“死体の横に『犯人は私です』ってサインを残すようなものだ”。
──でも、だからって、BB事件を“解け”とは言わない。
むしろ、“解けても解かないでほしい”。
あれは“Lに向けた”事件だから。
それを部外者がパズルを完成させるように遊びの延長で解かれたんじゃ──命懸けで事件を作った犯人が、あまりにも可哀想だろう?
じゃあ、“ウィンチェスター爆弾魔事件”は語っていいのかって?
もちろん、語っていい。
だって、“BB事件”のほうが、比べものにならないほど難解で、不可解で奇妙で、完璧なのだから。
ウィンチェスター爆弾魔事件の規模はデカくとも、事件そのもののクオリティは遥かにこっちの方が上だ。
犯人が誰であろうと、無責任に惜しみなく語ろう。
この事件を君が既に知っていたとしてもだ。
さて、
時は1969年。
偉大なる発明家キルシュ・ワイミーによる夢の金属が完成した年だ──
❅❅❅
Sunday, November 2, 1979 | Morning Edition | Page 14
“Miracle Metal” — Lumiliet Promises to Revolutionize the Power Grid. British Tycoon-Inventor Dr. Quillsh Wammy Unveils New Material
(“夢の金属”──ルミライトが電力網に革命を。英国富豪発明家キルシュ・ワイミー博士、新素材を発表)
ウィンチェスター、ミルフォード研究施設──英国を代表する発明家、キルシュ・ワイミー博士が本日、驚異的な新素材“摂氏28.7度以下で超伝導を起こす金属”の完成を公式に発表した。政府高官、電力会社代表らが出席する中、ワイミー博士は「熱を持たず電気を流す金属が、送電ロスを激減させ、人々の暮らしを一変させるだろう」と語った。
同素材は、既に国内外の送電導線の八割以上への導入が決定しており、英国電力公社の報告によれば、供給ロス率が従来比で30%以上改善される見通しという。これにより、寒冷地や島嶼部においても効率的な電力供給が期待されており、原発のいらない世界になると語った。
しかしながら、反対意見も少なくない。超伝導という性質上、低温環境の維持が前提となるため、システム故障や冷却停止に起因するリスクを懸念する専門家も存在する。さらに、世界各地で気候変動や温暖化の兆候が報告される中、「地球規模で気温が上昇していく時代に、冷却を前提とするインフラを拡大するのは時代錯誤だ」との批判も上がっている。
本日未明にはロンドン・セントラル変電所において、異常な低温下での電力設備の負荷増大が報告されており、冷却(超伝導システム)をめぐる技術競争や政策対立を指している。
❅❅❅
誰かが道端に捨てた新聞紙。
雨上がりの風に、ページが一枚ずつめくれていく。紙の端は泥で濡れ、見出しのインクが滲んでいた。
ここは、ウィンチェスター大聖堂のすぐ裏手にある、公園。
濡れたベンチと、石畳に落ちる木々の影。
雨の匂いが、まだ空気に残っている。
通りを歩いていた黒髪の少年──“boy”が、それを拾い上げた。
まるで汚いものを摘むように──いや、実際に汚いのだから、そういう持ち方で間違ってはいないのだが、それでも、彼の持ち方はどこかあからさまに、「これは汚い」と主張していた。
少年は八つか九つか……。
茶色のコートに、サイズの合わないジーパンの裾が、濡れた舗道に擦れている。
白い息を吐きながら、彼は新聞を読んだ。
「キルシュ・ワイミー……」
そして、読み終わった瞬間──boyは新聞を拾った場所とほぼ同じ位置に戻した。
あの歳の子供なら、拾ったものは持ち帰ることもあるだろう。
濡れていようが、汚れていようが、危険なものであっても「自分が見つけたもの」として家に持って帰ることがある。
だが、彼はそうしなかった。
──持ち帰る“家”が、なかったのかもしれない。
「……………」
boyは立ち上がると、濡れた指先をコートで拭ったあと、口元に持っていき──
「ふぅ……」
白い息をひとつ吹きかけた。
寒そうに手を擦り合わせ、もう一度白い息を吹きかける。
コート1枚では拭えない寒さに肩を縮こませ、背が丸まる。
寒い──
寒い──
寒い──
冬の冷気が顔に当たり、自然と涙が出てきた。
boyは雨の降りそうな空を見上げると、一言ポツリと呟いた。
“……Mummy,where are you……?”
背後で自分と同じように置き去りにされた新聞紙が風に煽られ、1枚めくられた─────
❅❅❅
Monday, January 12, 1987 | Morning Edition | Page 9
“ウィンチェスター大聖堂に爆弾”──“Q”を名乗る人物が声明、政府に対しルミライト全世界回収を要求
本日正午、英国政府に対して送られた一本の声明が、国中に激震を走らせた。
内容は、「ウィンチェスター大聖堂に都市壊滅級の爆弾を設置した」というものであり、犯人は“Q”と名乗っている。
爆弾は、“光爆弾”と呼ばれ、“摂氏28.7度以下で超伝導を示す金属──ルミライト”を中核に用いているとされる。
この金属は、1969年に英国の発明家──キルシュ・ワイミー博士によって開発され、現在では国内外の電力インフラや医療機器などに広く利用されている“金属”である。
犯人Qは声明の中で、次のように述べている。
「これは脅迫である。私は破壊を望んでいない。だが、ルミライトが核兵器や戦争に利用されたとき、世界がどうなるのか──それを“現実”として突きつける必要がある。本日より4日間、市民の避難を許可する。だが、政府が爆弾の解除を試みたり、武力で現場に侵入するような行動に出れば、即座に爆発させる。──世界中のルミライトを回収しろ。それが、唯一の条件だ。」
■ “猶予は4日間” 市民に緊張走る
英国内務省は本件を受け、即座に非常対策本部を設置。ウィンチェスター市内には“最高度の緊急警戒態勢”を命じ、全域封鎖を発令された。大聖堂一帯は全域封鎖され、地元住民には速やかな避難が呼びかけられている。
警察当局は現在、爆弾の有無とその構造の確認を行っているが、声明にあった「5つの爆弾」の所在については明言を避けている。
また、犯人が主張する“光爆弾”の存在について、国防省の匿名筋は「構造上、理論的には可能」と認めており、状況は深刻化している。
■ ルミライトとは何か──“奇跡の金属”と呼ばれた物質の正体
“ルミライト”は、金属でありながら常温付近で超伝導状態に達する特性を持ち、電力損失ゼロでの送電を可能にした革新的素材だ──
しかし近年、その軍事転用リスクについて一部の研究者から懸念の声が上がっていたことも事実である。エネルギーの蓄積・開放が容易であることから、爆弾・レーザー兵器への応用も視野に入るとされていた。
❅❅❅
濡れた石畳に、細く長い影が落ちていた。
白く霞む息が、吐くたびに曇っては消える。
boyは黙って歩いていた。
フードのない薄手のコートは、冷気を遮るには心許ない。靴の底は泥に濡れ、歩くたびにぬちゃりと音がした。
突然、遠くの空にサイレンが鳴った。
「異常を告げる」ための、長く、重く、警告的な音。
道を挟んだ先の花屋が、急にシャッターを降ろし始める。買い物帰りの主婦らしき女性が、ベビーカーを抱えるように押しながら足早に去っていく。
その背後で、通りの電柱に取り付けられたスピーカーが、がさがさと音を立てた。
《──ウィンチェスター大聖堂付近にて、危険物発見──市民の皆様は、政府の指示に従い、速やかに避難してください──》
それだけで十分だった。
人々の顔色が変わる。
皆それぞれ避難を始めている中、彼だけは歩みを止めなかった。
「……………」
サイレンが。
警告が。
人々の逃げる足音が。
自分には関係ないもののように思えた。
あるいは──「自分は避難しなくていい側の人間だ」と、どこかで思っていたのかもしれない。
とぼとぼと行くあてもなく、歩いて、ベンチの上に膝を立ててちょこんと座った。
歩き疲れた──
ゴソゴソと薄いコートからとあるものを取り出す。
“改造されたラジオ”だ。
内部の配線はすべて組み替えられ、ダイヤルの一部は音量調節ではなく周波数の手動探索に使われている。
特定のチャンネルに合わせると、一般の放送ではなく──警察無線、研究所内の通信、果ては誰かの自宅の通話までも拾えるように細工されていた。
つまり、それは“盗聴器”だ。
“大人が趣味で”手ずから改造した、罪深いおもちゃ。
ラジオのツマミをひねる。
──カチ、カチ、カチ。
やがて、微かな電子音と共に、録音モードに切り替わる。
それは、過去の誰かの会話だった──
❅❅❅
ジジ……ジ──ッ……
《──言っておくが、ルミライトがなけりゃ話にならん》
《ああ。通常の合金じゃ、月面での冷却効率が足りん》
《じゃあどうする? キルシュ・ワイミーの許可でも取るのか?》
《バカを言え。あれはもう民間でばら撒かれすぎだ。技術は“共有財産”だと》
《くだらん話だ……こっちは“兵器”を作ってるんだぞ》
錆びたダイヤルの向こうから、声がいくつも重なって聞こえてきた。
《で、現状の構想は?》
《名称は“Light・of・Halberd”(光の槍)》
《月面に照準固定式のレーザー砲塔を設置する》
《照準は? 地球に向けてどう操作する?》
《地球側から指令を送る。既存の通信衛星経由で、発射角を遠隔制御》
《地球に落とすってのか、レーザーを? 正気か?》
《あんた、最近の軍備開発見てないのか。これは“次の戦争”の話だ。》
《……照射温度、ピークで5000度だ》
《……5000、だと?》
《地表が蒸発する。街がまるごと吹き飛ぶわけじゃないが、“焼け落ちる”。確実にな》
《戦術兵器どころの話じゃないな》
《問題は、これを“誰が持つか”だ。ロシアか? アメリカか? 中国か?》
《そんなの“月を取った国”だ。そこが地球を取る》
《第三次大戦が始まるぞ、こんなものが現実になったら》
《……だから、まだ構想段階だって言ってるだろうが》
《構想なんてのは、止めなきゃ進む一方だ。》
《“ルナティック・ルミナス”は、まだ誰も知らない。だが……》
《“月と光”が、世界を変える》
ガガガ……プツ……ザザ……ッ──
❅❅❅
カーン、カーン、カーン。
避難命令の鐘──ではなく、こっちは教会の金。
ワイミーズハウスの食堂にある小さなブラウン管テレビ。その前に、“本日避難予定”の子どもたちがぎゅうぎゅうに集まっていた。
「──ねぇ、避難って、マジのやつ?」
「マジも何も、テレビで言ってるし……“至急避難してください”って書いてるよ……」
「なにがあったの? 地震じゃないよね?」
「地震じゃこんなにゆっくり避難できないでしょ」
「えー、でも火事ってわけでもないし……」
「ていうかさ、ていうかさ、避難したらどこ行くの? この寒さで!」
長机に肘をついたり、椅子に片足乗せたり、床に寝そべってみたり、落ち着きのない姿勢のまま、画面を見つめている。
《Winchester Cathedral Area – Immediate Evacuation Recommended》
テレビ画面の下に、白抜きの文字が流れていく。
その下で、口元を真一文字に結んだ司会者が、状況を説明していた。
「──あーあ、さっきまで雪降ってたのになあ」
「そんな呑気なこと言ってる場合かよ」
「いいじゃん!別に、またみんなで雪合戦したかっただけ!」
「ていうか先生達(職員)、だれもいないのやばくないか? “ロロ先生”も職員室から出てこないし……」
廊下には誰もいない。
ワイミーさんが不在のまま、施設にはロロ先生が残って子供達を見ていた。しかし、厳密には見ていない。
いや、だからと言って仕事放棄をしている訳では無い。むしろ、彼は忠実で真面目だ。
まだ新米の彼には子供たちを見守っていられる程の余裕も気も回らず、この緊急事態にどうすればいいのか、職員室から出てこられないでいる。
「逃げるとして、全員で? ていうか逃げなきゃダメなの? おとな抜きで?」
「いいのかな?」
「いいじゃん! みんなで鬼ごっこしよう!」
「遊びじゃないんだよ」
「誰が班長するの?」
「Aでしょ、リーダーなんだから」
「そうだよ!Aだ!……Aがリーダーだ!」
「……」
Aはテレビを見ながら、顎に手を当てていた。全員がその背中をちらちらと意識していたが、Aは無視して状況を見極めている。
Bは椅子に逆さに座って、首をぷらんと下げて画面を見ている。
「避難って、必要かなあ?」
「必要だよ! 死にたいのか?」
「わたし毛布持ってっていい?」
「Aがいいって言えば。いいんじゃない?」
「わたしもお菓子もってく〜!」
「遠足じゃないけどね……」
子どもたちの声が重なって、テレビの音はどんどん聞こえなくなる。
けれど、Kだけは黙っていた。
画面のテロップを、じっと、まばたきもせずに見つめている。
口元に指を添え、考えるような素振り。
その目は、他の誰とも違っていた。
──緊急避難。
──皆が一斉に移動する。
何かを思いついた顔だった。
「──私、ここ出て行く」
その瞬間、全員の会話がピタリと止まった。
「……えっ?」
「……ええぇっ!?」
「今、なんて?」
「出てくって……どこに?」
テレビの前に集まっていた子どもたちが、一斉にKの方を振り向いた。
立ち上がったKは、フードの紐を指先でくるくると巻きながら、顔はまっすぐ画面の向こうを見ていた。
「このままみんな避難するんでしょ? 私は一人で大丈夫だから」
「やめた方がいいって」
「外マイナス2度だよ?」
「どこに行くのよ?」
EとGとIが、三人同時に詰め寄る。
その勢いに一歩下がりながらも、Kは怯んだ様子はない。
「日本。おばあちゃんの家があるから。住所もわかるし、電話番号も、頭に入ってる」
「海、越える気!?」
「飛行機なんて飛んでるわけ──」
「てかK、ここから出たらどうなるか分かってんの!?」
「うるさいなあ……声でかい」
と、椅子でだらしなく寝そべっていたBが、両耳に人差し指を突っ込みひとことだけつぶやいた。
Kが出ていくってのに、男子達はそっちのけでテレビだ。
「……なあ、これ本当にただの避難か?」とJ。
「嘘なわけないよ。警報なってただろう?」とF。
「核じゃないのか?」とD。
「爆発物って言ってたけど、どこにも“爆破された”って出てないのが逆に怖いね」とA。
男子組は誰もKを止めようとしない。
それどころか、全員が冷静に“今、何が起きているのか”を分解していた。
「ちょっと! 男子ィ! Kが出ていくって言ってんのに!」
「止めてよ、A! リーダーでしょ!?」
「Fも何か言ってよぉ!!」
女子たちが口々に叫ぶ中、Kはポケットに何かを押し込みながら言った。
「騒がないで。今しかないのよ。 あの人(ワイミーさん)がいると、なんか出づらかったの。でも今は、誰も止めない。だから、行ける」
「じゃあ、今ここにいる私たちは何? ……置いてくの?」と、Cが低く言った。
「私は、“帰る”だけ。自分の意思で。ハウスを出る理由があるから、出るの。死ぬわけじゃない」
「うん、そう、死ぬわけじゃない」
Bがニヤニヤと笑いながら、Kに手を振る。
テレビの向こうでは、大聖堂付近の空撮映像が流れていた。
人々が黒い点となって、街を離れていく。
そんな中、こちらにも一人離れていく者がいる──
「じゃあ……みんな、元気でね」
Kはそれだけ言って、背を向けた。
ほとんど荷物は持たず、早々に出て行ってしまった。
「待って、Kっ!」
Eが立ち上がろうとした、その手首を、Aがつかんだ。
「……今は、動かない方がいい」
「で、でも──!」
「緊急避難命令が出てる。いま個別に動いたら、それこそ危険だ」
Eは歯を食いしばったまま立ち尽くし、Kの背中は、何も言わずに門の外へと消えていった。
そのまま、食堂に沈黙が落ちた。
テレビから流れるニュース音声だけが、空気を振るわせていた。
「──ところで」
やがて、Jがポツリと言った。
「なんでこんなことが起きてんの?」
その問いにAは迷わず答えた。
「犯人は、世界を脅迫してるんだよ」
「脅迫?」
「うん。新聞に載ってた。犯人の名前は“Q”。“ルミライト”っていう、ワイミーさんが発明した金属を全部、回収しろって世界に向けて怒ってるんだ」
「金属?」
「うん。電線とかにね、使われてるんだよ 」
すると、Cが口を開いた。
「なんで犯人は怒ってるの?」
それに対し、Bが答える。
「その金属を核兵器とかに使われるのを危惧してるんだ。あんな金属使ったら、より火力の強い核兵器が出来るからね」
「でも、なんでウィンチェスターなの? ここでやる必要ある?」
そう言ったのはGだった。
「爆破の規模なんて、そこまで大きくなくていいんだと思う」
と、Bが椅子から身を起こしながら言った。
「目的が破壊じゃないなら、“破壊できる”って示すだけでいい。しかも場所が目立てば、効果は同じ」
「……つまり、目立つならどこでもよかったってこと?」
代わりにAが答えた。
「恐らく……。しかし、大聖堂に爆弾を仕掛けるなんて──罰当たりにも程があるよ」
Aが小さく首を振った。
「それにしても──」
Iが言った。
「なんでこんな寒い時にやるんだろう。 犯人、時期ずらせなかったわけ?」
プルプルと自分を抱きながら文句を垂れるIに、皆が頷く。
「僕たち民間人を困らせたいから──?」
Fがぽつりと呟くと、Bが反論した。
「……いいや、それはないだろうね」
「どうして?」
「犯人は民間人と政府に対して4日間の避難命令を出している」
「犯人が避難命令を出してるの?」
「そう。人を殺すのが目的じゃなくて、あくまでも世界にルミライトの恐ろしさを知らしめるための──爆弾さ」
みんなが微妙な顔をする。
そんな中、最も険しい顔をしていたのが、A。
「そんなことしたら……“余計ルミライトを欲しがる連中が湧くのが分からないのか”……」
誰かがリモコンをいじり、テレビの画面が切り替わった。
キャスターの声が重々しく響く。
《──最新情報です。先ほど、ウィンチェスター大聖堂に設置されたとされる爆発物について、技術チームによる初期解析が発表されました》
画面には、大聖堂を囲む非常線と、白い防護服に身を包んだ作業員たちの姿。
その奥に、低く沈んだ冬の空と、警備車両の赤いライトが回っていた。
《国防省および科学技術庁の合同発表によれば──爆弾の内部構造には、ルミライトと呼ばれる特殊金属が使用されていたとのことです》
画面が再びスタジオへと戻り、カメラは眼鏡をかけた年配の専門家に切り替わった。
胸元には「ロンドン大学材料科学教授」のテロップ。
『ルミライトは、1969年にキルシュ・ワイミー博士によって開発された新素材です。特徴は、摂氏28.7度以下で超伝導を示すという点。つまり、一定の温度環境下では電気抵抗がゼロになります。これは従来の金属とは根本的に性質が異なるものです。今回の爆弾には、そのルミライトが電力蓄積装置として組み込まれていると見られます。さらに解析によれば、装置は“外部の電線と直接接続”されており、一定の電力を常に取り込み続けていることが判明しました。──つまり、爆弾自体がエネルギーを“生きたまま”蓄えている可能性が高い。これは非常に危険な構造です』
キャスターが口を挟む。
『つまり、爆弾は今も起動中という理解でよろしいですか?』
『正確に言えば、まだ“点火”はしていませんが、“呼吸をしている”ような状態です。電力が流れ続けている限り、爆弾は活性状態にあります。遮断すれば暴発する可能性もある。これは、非常に精巧に作られた“脅しの象徴”です』
画面が再び現地映像に切り替わる。
今度は、封鎖線の奥で、機材を前に立ち尽くす軍服の男たちの姿。
その隣には、電柱から伸びたコードが、建物の裏手に繋がっているのが見えた。
『この爆弾は、ただの爆発物ではありません──》
《“電力によって支えられた超伝導装置”であり、本質的には“技術の暴力”そのものである──と、専門家は語っています》
テレビでは、専門家のインタビューからニュースキャスターの声へと切り替わっていた。
《繰り返します──ウィンチェスター大聖堂に設置された爆発物は、依然として起動状態にありますが、起爆は確認されていません。一部の関係筋によれば、“爆弾を安定させているのは、現地の電力供給そのものである可能性がある”とのことです。政府関係者の中には“供給を止めれば解除されるのではないか”との見方もあり、引き続き技術的検討が進められています》
「……電気、止めたら爆弾が解除できるか……」
Gが眉をひそめながら、画面に目をやる。
「……浅はかだな」
と、直ぐにAが小さく言った。
「どういうこと?」
Iが聞き返す。
Dが立ち上がり、皆に説明する。
「ルミライトって、普通の金属と違って、エネルギーが無駄にならないんだ。抵抗ゼロだから、電気をずっと爆弾の中に溜め込めるってこと。しかも、普通の金属だったら加熱して劣化するところ、ルミライトは劣化しない。どれだけ溜めても、壊れない」
「つまり……」
Eが息を飲んだ。
「“いつでも爆発できる状態”を、安定して保てるってことだ」
その一言に空気が凍る。
「D詳しいね……」
「まあ、“そっちの専門”だから」
照れたように首をかくと、Cが声を上げた。
「政府は、電気を止めたら“消える”と思ってるってことだよね?」
苦笑まじりに言うと、Bが肩をすくめる。
「たぶん、仕組みをまだ理解してない。今ごろ“スイッチ切ればいいのでは?”とか言ってるんじゃ、手遅れだ」
Fがぽつりと呟いた。
「どうしたら、止められるんだ……?」
テレビでは、現場の映像が続いていた。
立ち入り禁止のテープ越しに、兵士たちが機材を前に立ち尽くしている。
《なお、犯人は事前に“爆弾に手を出した場合、即時起爆する”との声明を出しており──現在、政府側は“迂闊な解除”を控え、“静観”を選択している状況です》
それを聞いてやっとAが顔を上げる。
「……そういうことか!」
Aが呟いた。
「どういうこと?」
Eが聞く。
「迂闊に爆弾を解除しようものなら、爆破させると犯人は言ってるんだ。そのことから、犯人は起爆スイッチを持っていると考えられる。あの爆弾は時限爆弾じゃない。しかし、放っておいても、4日後には何かが起きる。誰かが選ばないといけないんだ──動くか、動かないか」
子どもたちは黙った。
ニュースも、もう何も語ってくれなかった。
「……ここから大聖堂までって、歩いて何分くらいだっけ」
Jがつぶやく。
「大人の足で四十分。僕たちなら……六十分かな」
Aが答える。
「近すぎる……大聖堂の爆弾が爆発したら、恐らくここも吹き飛ぶだろうね」
──そのときだった。
バチン。
テレビの画面が一瞬揺れて、暗転した。
灯が一斉に落ち、電気の音が消える。
食堂全体が、急に真っ暗になった。
「きゃあっ!」
「うそ、うそでしょ……!」
「怖いよぉ!!」
女子たちが声を上げる。
IがFの腕にすがり、Eは椅子を蹴って立ち上がる。
そしてCは、パニック気味にBの首にしがみついた。
「びぃぃぃぃっ!」
「──ぐえっ」
Bは腕をだらりと垂らしたまま、うんざりとした声を漏らした。
その瞬間、廊下の奥で足音が響く。
そして、白い光が差し込んできた。
「おいっ、大丈夫か!?」
懐中電灯を手に、ロロ先生が駆け込んできた。
「ロロ!」
「ロロ先生!」
眩しい光の向こうに立っていたのは、職員のひとり──ローレンス・ウッドロウ。
子どもたちからは“ロロ先生”と呼ばれており、その呼び方が、からかい半分・親しみ半分だったことを、きっと本人もわかっている。
「……よかった、みんな無事か!」
彼はまだワイミーズハウスに来て三ヶ月ほどの、新米の先生だ。
髪は薄茶で、寝癖のように跳ねている。
眼鏡の奥の瞳はいつも怯えていて、優しいのに頼りなさげ。子どもたちの中には、まだ彼を“本当の大人”として見ていない子も多かった。
子どもたちが一斉に駆け寄る。
懐中電灯を掲げたロロ先生の顔を見た瞬間、子どもたちの緊張は一気にほどけた。
「こわかったよぉ……!」
「ロロどこ行ってたの?」
「ロロ先生、おばけかと思ったじゃん!」
ロロ先生は息を切らせながら、膝をついた子どもたちの頭を順に撫でた。
「すまない。今までワイミーさんとずっと連絡を取っていたんだ。君たちをどう避難させるか、それを話していた」
「……決まったの?」
Aが問うと、先生は頷いた。
「“フランスに逃げる”。車で港まで移動して、そこから渡る。向こうにもワイミーズハウスがあるから、そっちに移るんだ」
「遠くない?」
「でも、他に道はない。今ここにいる方が危険なんだ」
すると、Gが口を尖らせた。
「……やだ」
「え?」
「やだ。行きたくない」
その一言に、空気が少し揺れる。
「わたし、ここが大好きだし……お別れなんて嫌。フランスって、言葉も違うでしょ? 知らない人もいるんでしょ……?別の家なんて、やだよ……!」
Iも同調するようにロロ先生の白衣の裾を握った。
「わたしもここがいい……ここで待ってちゃダメなの?」
Cが後ろから、ぼそりとつぶやいた。
「……“追い出される”みたいで、やだ」
誰もが、ほんの一瞬、目を伏せた。
普段なら絶対に泣かない子たちが、それでも今だけは声を荒げずに、ハッキリ嫌だと言った。
「気持ちはわかる」
ロロ先生が視線を低くして目線を合わせる。
「だけど、これは“お引っ越し”じゃない。“避難”だ。命を守るために、一度、離れるだけなんだ」
「……戻ってこられるの?」
と、Jが尋ねる。
ロロ先生は、ほんの一拍だけ黙ってから、答えた。
「──約束する。落ち着いたら、必ずここに帰ろう。だから今は、動くんだ。君たちの未来のために」
その言葉に、誰も泣かなかった。
「わかった……」
そのとき、ふっと明かりが戻った。
蛍光灯が一つずつ、時間差で点灯していく。
「停電……終わったのか……」
誰かがつぶやく。
「いいかい、君たち。すぐに荷物をまとめなさい」
ロロ先生の声が、強くなった。
「防寒具、食料、絶対に忘れるな。荷物は最小限。すぐに車を出す。時間がない」
「はーい」
子どもたちは一斉に動き出した。
椅子を引き、食堂を出て、ぞろぞろとそれぞれの部屋へ散っていく。
──ただ一人、Bを除いて。
「……おい、何してんだ」
Aが戻ってきて、Bの袖をつかむ。
「早く行くよ。……バースデイ、置いてくぞ?」
「避難する必要なんて、ないのに」
小さく、それだけを呟いて、Bは動こうとしなかった。
けれどAは構わず、服の背をつかんでぐいっと引っ張る。
「いいから行くんだよ!ほら」
ずるずると引きずられながらも、Bは抵抗するでもなく、しかし足を自分から動かそうとはしなかった。
そんな中、ロロ先生が振り返り、ふと思い出したようにAに声をかける。
「……そういえば、Kはどこに行った? 一緒じゃないのか?」
Aはあっさりと答えた。
「出てったよ」
その瞬間、ロロは息をのみ、顔面蒼白になる。
「──なにぃッ!?!?」
ロロ先生の叫びが、石壁に反響した。
●●
冷たい空気が、肺に刺さる。
呼吸が白く震え、吐くたびに肩が上下する。
皆が避難所へ向かう中、boyは逆方向を走っていた。
路面は凍っていない。雪もない。だが風は刺すように冷たく、手の指はかじかみ、鼓動は耳の中で爆音のように響いていた。
「はっ、はっ、はっ……」
“ワイミーズハウスまで、あと少し”。
そこに、“キルシュ・ワイミー”がいる可能性がある。
ポケットの中のラジオは、まだかすかに音を発していた。
ノイズの合間に聞こえてくるのは、爆弾の解析報告。
電線に繋がっていること。
ルミライトが使われていること。
誰も解除方法を知らず、触れれば爆発する状態であること──
それだけの情報で、boyはひとつの希望を胸に走っている。
(……止められるかもしれない。しかし、私の考えるやり方で本当に止められるのか──“分かる人”に聞くしかない)
しかし、boyが危惧している問題はそこではない。
誰も、自分の言うことなんて信じないのではないかという不安。
8歳の子どもが、爆弾の止め方を語ったところで、まともに取り合う人などいないだろう。
「……はっ、はっ、っ、はっ……」
乾いた地面を踏むたびに、肺が音を上げた。
身体は冷えているのに、内側だけが灼けるように熱い。
──だからって。
──だからって……。
ハルバードのことを聞いて黙っていられるわけがなかった。
あの“レーザー衛星”の存在を知った瞬間、少年の中の何かが音を立てて崩れた。
ただの爆弾じゃない。
地球の上空から、光だけで街を消し去る兵器。
それを作ろうとしている“誰か”がいる。
「……っ、はっ……」
そんなものがもし出来上がってしまったら──この地球は一溜りもないだろう。
皆そのハルバードを自国のものにするために再び戦争が始まる──
──第三次世界大戦!
何としてでも食い止めなくては──
足がもつれる。視界がぶれた、その瞬間。
ガツンッ
目の前から歩いてきた男と、ぶつかった。
「いってぇな、何やってんだガキ!どこ見て歩いてやがる!ったく!」
捨て台詞のように吐き捨て、男は乱暴に押して除けて去っていった。
boyは倒れはしなかったが、ぐらりと揺れる。
前を見ていなかったのは、そっちなのに。
「…………」
言い返さなかった。
言い返しても、意味がない。
そんなことはわかっていた。
ただ、食いしばった。
(……世の中、こんな腐った大人ばかりなのか)
あの男も、政府の誰かも。
避難だけして、爆弾のことは理解せず、ルミライトの恐ろしさを知ろうとはしない。避難命令だけをしていればいいと思っている──
拳を固く握り直す。
冷たい指先に、確かな感覚が戻る。
しかし──ワイミーさんは違うはず。
少年はもう一度、足を踏み出した。
世界の終わりを止めるために──彼の足音は、小さく、けれどまっすぐに、世界を変える方向へと進んでいた。
ワイミーズハウスまであと3km──
●●
「バースデイ、いいかげん支度しようよ」
Aが呆れ声で言う。
「……どうせ死なないって」
Bはベッドに寝転び、呑気に片手で漫画をめくっていた。
読みかけのページの端が、指でくしゃくしゃになっている。
「いや、そういう問題じゃなくて」
「爆発なんてしないさ。たぶん何も起きない。避難するなら、この漫画の最後を読んでからだ」
Aは溜息をついてリュックのファスナーを閉めた。
部屋の開けっ放しの扉からは、準備を終えた子たちが食堂の方へ向かう様子が見える。その姿に焦りを感じながら、Bの分まで避難準備をしてくれていたA。
そのとき──
軽いチャイムの音が鳴った。
「……来客?」
Bが目線だけを窓にやる。
誰が来るというのか。この状況下で。
来客なんて、いるはずがないんだが。
Bはむくりと起き上がり、窓辺に歩み寄った。
門の前に立っていたのは──黒髪の少年。
冬の風に髪がなびいていたが、表情はよく見える。
「…………バースデイ?」
懸命に窓の外を見ているから、Aは気になったのか、一緒に窓を覗いた。
「男の子だ……」
Aはそれだけ見て、再び支度に戻るが、Bは微動だにせずその少年を見つめている。
その後ろ姿が気になったのか、Aは疑問を口にする。
「……どうしたの?」
Bはあの少年を一目見て、違和感に襲われた。
(なぜ、なぜだ? なぜ──)
──名前が、浮かばない。
人の顔を見れば必ず浮かび上がる名前。
なのに、そこにいる少年は名前が浮かばない。
名も無き少年なのだ。
「……なに、あれ……」
Bは前のめりになり、窓に額がつくほど接近して見つめた。
少年はロロと短く会話を交わしたあと、ワイミーズハウスを振り返りもせず、別方向へ走っていった。
──避難所とは、真逆の方向へ。
「へぇ……」
Bの唇が、ひとりでに吊り上がる。
眉はピクリとも動かないのに、目だけが、興味でわずかに色を変えていた。
──しばらくして、子どもたちは全員玄関に集合した。
「全員いるな?」
ロロ先生が確認しようとしたところで、Bが声を上げた。
「ねえ、さっき来た子──あれ、誰?」
「……ああ」
ロロ先生は少し顔を曇らせて答えた。
「彼は、ワイミーさんを探してここに来たらしい。けど、今ここにはいないって話したら、ミルフォード研究所に向かったよ。あっちは山道で危険だがらやめた方がいいって言ったんだけどな……一人で行ってしまった」
ロロは小さく息を吐き、外の暗闇を一瞥した。窓の向こう、風に煽られて揺れる木々の影が、不安を煽るように壁を這っている。
ロロは膝に手をつくと、子供たちの目線に合わせて語りかけた。
「いいか、君たちはここで待っていなさい」
「え?」
「私が今からKを迎えに行ってくる。君たちをこれ以上危険に晒すわけにはいかない」
「……でも」
「いいね? 私が戻ったら、すぐに出発する。だから、それまでこのハウスから絶対に出ないこと──約束だ」
子どもたちは不安げな顔を見合わせながら、しぶしぶ頷いた。
ロロ先生は「約束だぞ」と言い残し、扉を閉めると、そのまま足早に去っていった。
車のエンジン音が、通りの先で遠ざかっていく。
その数分後だ。
“約束を破った者がいた”。
「──じゃあ、ちょっと行ってくる」
ふらりと身を滑らせるように、Bは外へ出た。
──そして、それを見つけていた者が一人。
「……おい、バースデイ! どこ行くんだよ!」
Aが、玄関から駆け出す。
冷たい風が吹き抜ける中、二人の姿は施設の敷地を軽々と抜けていった。
❅❅❅
気づけば街には、もう誰もいなかった。
ガラス張りのカフェも、薬局も、交差点のタクシー乗り場も、警官すら見当たらない。すべて無人。
シャッターの降りた店、意味の成さない信号、無人のバス。
ニュースで報じていた通り──避難は着実に進んでいる。
逆を向いているのは己だけか。
体温が急速に奪われていく。
-2度の世界では、風の強さは変わらないはずなのに、空気が冷たく、皮膚の奥が痛い。
頭がズキズキと疼き、足の感覚も曖昧になってきた。
boyは、手袋のない手を口元に当てて、白い息を吐いた。
「……はー」
その瞬間、視界が揺れる。
「っ……!」
足元がもつれ、boyは前のめりに倒れ込んだ。
コンクリートの地面が、容赦なく膝を打つ。
手をつく間もなく、肩から崩れ落ちるように倒れた。
❅❅❅
「──っ!? ちょっと! 大丈夫!?」
声が響いた。
boyの近くに駆け寄ってきたのは、小柄な少女──Kだった。
「しっかりして……!」
Kは息を切らしながら、自分のマフラーをすぐに外してboyの首元に巻いた。
その動作には一切の迷いがない。
「何で……君、こんなとこで……」
Kはboyの頬を軽く叩きながら尋ねた。
「避難所は、逆方向だよ?」
boyは、震える声で言った。
「……ミルフォード研究所に……行かなきゃ……」
Kは、言葉を失った。
「え……?」
「ワイミーさんが……爆弾を……止められるかもしれないから……行かなきゃいけないんだ……」
その言葉に、Kの目が大きく見開かれた。
「爆弾を止める!?」
「そう……ワイミーさんなら、きっと、止められる。だから……行かなきゃいけないんだ」
こくりと力なく頷いた少年。
その言葉を聞いた瞬間、Kの心臓が跳ねた。
風の音が消える。
目の前にいるのは、自分と同じくらいの歳の少年。
小さくて、痩せていて、手も震えている。
なのに──たった一人で爆弾を停めようと動いているなんて。
その姿に打ちのめされる。
なんて強い子供なのだろう、と。
自分はついさっき家から逃げてきたばかりだというのに……。
「ワイミーさん?……ワイミーさんの所に行きたいのね?」
boyは、力なくこくりと頷いた。
Kの喉が、ぎゅっと詰まる。
Kは視線を逸らすようにして、ポケットの中を探った。
そこには、折り目のついたメモ紙が入っている。
ワイミーさんの携帯番号。
もし何かあったら、ここにかけなさい──そう言われた番号だ。
携帯を取り出すと、震える指で番号を押す。
もしかしたら、繋がるかもしれない。
そんな期待はよそに、呼び出し音は鳴らなかった。
電波が、途切れている。
「……繋がらない……」
Kは顔を上げた。
空には重たい灰色の雲。
吹きつける風の音しかない。
避難した人々がいなくなった街は、まるで世界の終わりみたいに静かだった。
仕方なく、携帯をしまうと、Kはboyの体を抱きかかえ、近くの壁際に彼を座らせた。
「爆弾を止めるって……無茶よ」
息が荒く、頬は冷たく、まつ毛には氷の粒がついている。
(この寒さじゃ、倒れて当然……)
考えるより先に、体が動いた。
Kは自分のコートを脱いで、boyの肩に掛ける。
それでも足りないと感じて、ためらいながらも、彼の隣に腰を下ろした。
身体を寄せて、冷え切った腕を包み込む。
お互いの体温が、わずかに重なった。
「……手、こんなに冷たい……」
Kは、思わずその指先を握りしめた。
まるで氷のようだ。
触れた瞬間、こちらの体温が奪われていくような錯覚を覚える。
「ねえ、どうして……こんなになるまで……」
問いかけても、返事はない。
boyはまぶたを閉じ、わずかに呼吸をしているだけだった。唇の色は青く、ずっと震えている。
boyの服には泥の跡。
ジーパンの裾は裂け、膝に血がにじんでいる。
ここまで歩いてきた道のりを想像するだけで、胸が詰まった。
(こんなになるまで、ひとりで……)
しばらく、風の音だけが聞こえていた。
boyはまだ何も話さず、じっとKの肩にもたれかかっていた。
Kも言葉を選びかねていたが、不意にぽつりと口を開いた。
「……君、名前は?」
boyは、ゆっくり顔を上げてから、小さく首を振った。
「……ないんだ」
「え?」
「名前は、ない」
Kは、目を丸くした。
「じゃあ……何て呼ばれてるの?」
boyはぽつりと答えた。
「“あの子”とか、“その子”とか、“あいつ”とか……ときどき“ガキ”だとか」
「……………」
boyの声は淡々としていた。
まるで、自分が「名前を持たない」という事実を、もう何の違和感もないように。
その穏やかさが、Kには逆に胸を締めつけた。
「……“名前のない人間”なんて……」
Kは、小さく呟いた。
それがどれだけ過酷なことか、今まで想像すらしたことがなかった。
「……親は?」
思わず、問いかけていた。
「君の、お父さんか、お母さん……どこかに、いるんじゃないの?」
boyは、ほんの少しだけ目を伏せてから、首を横に振った。
「……分からない」
Kは言葉を失った。
あまりにあっさりと返されたその一言が、余計に重たく感じられた。
「……分からないって、どういうこと?」
「“いた”のか、“いなかった”のか、それすら、分からない」
Kは、boyの横顔をじっと見つめた。
どこか他人事のように語るその声に、悲しみは含まれていなかった。
けれど、悲しくないわけがない。悲しむという感情を知る前に、悲しみが“当たり前”になってしまったんだ──そんな気がした。
Kはboyの手をそっと握った。
あまりに小さくて、細くて、冷たい手。
Kはboyの手を握ったまま、ふっと目を伏せた。
言葉が喉の奥につかえた。でも、吐き出さなければいけないと思った。
「……帰る家なら、あるよ」
Kの声は小さく、でもはっきりとしていた。
boyが、かすかに瞼を動かす。
「私も……両親がいない……亡くしたの。小さい頃に」
Kは前を見つめたまま、遠い記憶を引き寄せるように語り出した。
「家を燃やされて。何もかもなくなった。……両親も、全部」
「……」
「悔しかったよ。悲しいよりも、悔しかった。何で誰も助けてくれないのって。でもね──そのとき、私の手を握ってくれたのが、ワイミーさんだった」
boyは目をそっと閉じた。
Kは続ける。
「優しい人なの。すごく。頭も良くて、優しくて、懸命で。色んな事をあの人から教わった。──私、あの人が命の恩人なの」
boyは、静かにKの方を見た。
Kはその視線を感じ取りながら、言った。
「だから──ワイミーさんなら、きっと君のことも保護してくれる。名前がなくても、親が分からなくても。あの人なら、“君という存在そのもの”を、ちゃんと見てくれる」
Kは少しだけ笑って、続けた。
「──ほら、これ」
Kはそっとポケットに手を入れた。
くしゃり、と小さく鳴る紙の音。
折りたたまれたそれを、boyの手の中に押し込むようにして渡した。
「ワイミーさんの電話番号と、ワイミーズハウスの住所が書いてある」
boyが不思議そうにKを見る。
Kは、かすかに笑った。どこか吹っ切れたような、笑顔。
「もう、私には必要ないから」
「?……」
「私、ワイミーズハウスの出身なんだよ。だから、君も来ればいい」
boyは少しだけ目を細めた。
ほんの数秒、言葉が降りてこなかった。
やがて──
「……でも、爆弾が爆発したら、ここも、なくなる」
Kの顔が固まる。
boyは、まっすぐ前を見ていた。
その視線は、どこまでも遠くを見つめている。
「全部、なくなる。あなたの家も、みんなの家も、“これから”も。だから──止めなきゃいけないんです。私が生きるためにも……あなたの帰る場所を残すためにも」
その言葉に、Kは言葉を失った。
目の前の少年は、冷え切った手で、自分の手を握り直した──その正義心にKは肩を落とすと、目を閉じて、ゆっくりめを開いた。
「…………分かった」
Kは立ち上がった。
boyを見下ろすことなく、目線を合わせながら、はっきりと言った。
「私が案内する。ワイミーさんのところまで」
「……………」
boyは、ゆっくりと立ち上がると、Kの方を見つめた。
「ワイミーさんは今、“ヴォクスホロウ研究所”にいる」
「……ミルフォードじゃ……ないんですか?」
boyがKにコートを返すと、Kはコートを羽織った。さっきよりも少し冷たいコート。自分の体温で暖かったはずなのに、こんなに冷えている……。
冷たい風がまた、ふたりの間を吹き抜けた。
「あそこじゃないよ。……私、そこそこワイミーさんに可愛がられてたから、あの人の居場所知ってるの」
boyに巻いた白いマフラーを再び巻き直し、手を引っ張った。
「こっち。着いてきて!」
その背中を追って、boyも走り出す。
目指すは、ヴォクスホロウ研究所。
世界を変える、小さな足音が、無人の街に響き始めた。
❅❅❅
ヴォクスホロウ研究所の地下第二研究室。
光の届きにくいその部屋に、熱気はない。
それなのに──キルシュ・ワイミーの額には、汗が止めどなく滲んでいた。
指先が震えている。
鉛筆を持つ手は何度も紙の上で止まり、書きかけの数式が、途中で断ち切られている。
「……ありえない。ありえないんだ……」
机上には、ルミライトの構造式、電磁熱伝導システムの試作図、そしてワイミー自らが残した設計ノート。
その全てが、今、彼自身を責め立てていた。
「……どうして、あの金属が……爆弾なんかに……!」
机を軽く叩いた後、椅子の背もたれに頭を預け、天井を見上げる。
摂氏28.7度以下で超伝導を発現する──夢の金属、ルミライト。
それは、彼の人生そのものだった。
長年の実験、失敗、理論の積み重ね──ようやく形になった成果だった。
だが、新聞がすべてを変えた。
──“軍関係者、緘口令。目撃者は語る「空気が光っていた」”
その記事を見た瞬間、ワイミーは悟ってしまった。
あれは、ルミライトだ。自分の金属が、誰かの手で“光の爆弾”に姿を変えている。
「金属で、爆弾を“安定化させる”なんて……!」
ワイミーは、頬を手で押さえながら、唇を噛んだ。
──思い出すのは、かつて研究所で起きたあの臨海実験事故。
自分がロンドン出張中、ヴォクスホロウ第六実験室で、二人の研究者が命を落とした事故だ。
今回の爆弾も同じ手口を使っているのではないか……。
ワイミーは、手の中でペンを握りしめたまま、震える指に気づいた。
脳裏に蘇るのはあの日の現場。
今も脈打つように、胸の奥で疼いている。
──ルミライト臨界試験。
目的は、理論上の限界──摂氏28.7度をわずかに超えても、超伝導が維持されるかを確認すること。
もし成功すれば、日常環境下でも冷却装置なしで運用できる“夢の金属”になるはずだった。
発電と送電のロスはゼロになり、発電量を30%減らしても、世界は動く。
原発など不要になり、災害の危険も減る。
そんな世界を思い描いて、研究員は「室温で動く超伝導」──29℃以上での安定構造を目指していた。
その試験では、ルミライトに微弱な電流を流し、安定性を測定していた。
超伝導状態にある金属内部では、電磁波や電流が損失ゼロで循環し続ける。
その性質を利用して、「どれほどのエネルギーを蓄えたまま、どこまで温度上昇に耐えられるか」を探ろうとしたのだ。
だが、温度が摂氏29.1度に達した、その瞬間──ルミライト内部に蓄積されていたエネルギーが、制御不能な“光熱変換”を起こした。
制御盤の温度センサーが振り切れ、警報が鳴る暇もなく、試験室は爆光と高熱に包まれた。
ひとりは即死。
もうひとりは重度の熱傷を負い、二日後、搬送先の病院で息を引き取った。
──この問題は、温度ではなく“蓄積されたもの”だ。金属は何も発していない。ただ、抱え込んだまま、耐えていた。それが限界を超えたとき──エネルギーは“逃げ場”を失い、光になって人を焼く。
(その性質を利用した爆弾か……)
目を閉じれば、今でも焼きついている。
床に散った白衣、炭化したスチール机、天井を突き破った焦げ跡。
壁一面に飛び散った、粉々のガラスと熱で曲がった計測装置。
「……同じ過ちを……」
低く、かすれた声で呟いた。
「……繰り返すわけには、いかない……」
紙を握る指に、青黒い血が滲む。
自分の造った“夢の金属”が、いつしか神にも悪魔にもなれるものに変わってしまった。
そして今、それが──世界を変える鍵になっている。
「だが、だからこそ……」
ワイミーは目を見開いた。
「今度こそ、“制御する方法”を探し出さなければならない」
冷たい研究室で、ひとりの科学者が、ペンを走らせ始めた。
──過去の死を繰り返さないために……。
その時だった。
無機質な電子音が、静寂を切り裂くように鳴った。研究机の上で震える携帯端末。差出人──ロロ。
ワイミーは嫌な予感を感じながら、手を伸ばし、画面を開いた。
そこに並ぶ短い文章は、あまりに唐突で、しかし決定的だった。
【Kがいなくなった。避難誘導中に姿を消した。現在捜索中。】
「……Kが?」
小さく呟いた声は、すぐに空気にかき消された。
そして次の瞬間、ワイミーの頭の中で何かが崩れ落ちた。
K──
自分が育ててきた子供たちの中で、最も期待値が高く、信頼していた存在。
そのKが、この混乱の中で、いなくなった。
ロロの連絡には「まだ街の中だと思われる」と続いていたが、そんなのも読む気になれず、目の前が暗くなる。
ワイミーは目を閉じ、机に置かれたノートを見つめた。
震える指で、再びペンを握る。
「どうすれば……」
Kの喪失──
ルミライトの暴走──
──不幸は、連続してやってくるものだ。
その事実だけが、研究室の空気を、より重たく冷たいものに変えていた。
──その時だ。
廊下から、怒鳴り声と足音が聞こえてきた。
「だめだ、子供は入れない!」
「待ちなさい、君──!」
研究所の自動扉が、警告音とともに開く。
そこに立っていたのは、ひとりの少年。まだ幼さの残る顔。
コートはボロボロ、泥が膝まで跳ねて、ジーパンには血が滲んでいる。
(……この子は……)
後ろから止めようとする警備員の腕を振り切るようにして、少年は一歩、研究室の中へ踏み込んだ。
「──あなたが、キルシュ・ワイミーですか?」
(この子……)
ワイミーは直ぐに答えなかった。
いや、答えられなかった。
少年の瞳をじっと見つめる。
「そうだが……君は?」
少年は一瞬、何かを飲み込むように黙った。
目元には隈が出来ており、肩は小刻みに震えていた。
「協力してください」
少年は一歩、ワイミーに近づく。
そして、まっすぐに言った。
「……爆弾を止める方法があります」
「ッ──!?」
研究室の空気が、わずかに震えた。
それは冷気でも、熱でもない。
ただ確かに──光が、戻ってきたような感覚だった。