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──10年前。 ウィンチェスター爆弾魔事件の起点となる、とある事故があった。

『ルミライト臨界事故』。

あの事故をただの“実験の失敗”と語るのは、少し違う。

あの臨界事故だけを語るのは簡単だが、そこにどんなストーリーがあり、想いがあったか、それを知らずに事故だけを語るのは物語として面白みにかけると思った。

もし、自分が事件を起こした犯人だとして、強烈なインパクトのある事件だけを語られたら、非常に悲しい。

せめて少しだけ。

ほんの前菜くらいは付き合ってくれないか。

三人の影──その名前すら残されなかった助手たちの物語を。


❅❅❅


キルシュ・ワイミーには、優秀な助手が三人いた。

ここでは、“敢えて”二人の名前は伏せておく。

そう、“敢えて”伏せるのだ。

“敢えて伏せる”ということは、書いている者が意図して記さないということだ。

だがしかし、物語を語る以上、便宜上、何かしらの呼び名が必要だ。

だから、ここではこう名付けよう。

三人の助手のうち、一人は女性。

彼女は仮に『コイル』と名付けよう。

なぜコイルかって?

うん、理由は特にない。

もう一人は男性。『ドヌーヴ』と名付けよう。

うん、これにも意味は無い。

そう、ない。……ないはずだ。

のちに“あの人”がそう呼ばれることがあったとしても──それとは一切関係ない。断じて、無関係だ。

そして最後の一人。

キリス・フラッシュハート。

男性だ。

あだ名は“フラッシュ”。

……ん?

この男の名前は出していいのかって?

別にいい。

どうでもいい。

どうせ、その名は後に──世界中の報道で見飽きるほど繰り返されることになるのだから。

さて、話を戻そう。

彼ら三人は、ヴォクスホロウ研究所の地下第七試験室で、ある話をしていた。

昼休憩の時間帯。

実験用パネルの熱が落ち着いたタイミングで、無音の換気音が天井から流れていた頃だ。

「ねえ、ドヌーヴ。今日の制御盤ってまた別構造だったわよね?」

声の主はコイル。白衣の袖をまくりながら、部品箱を弄っている。

「ああ。変わってる。昨日深夜にワイミーさんが書き直したらしい」

答えるドヌーヴは、モニターに目を落としたまま。その声は、眠気を煮詰めたような温度だった。

「またか。……いやさ、ワイミーさんのやってること、正直、理解が追いつかない時があるよ」

部屋の隅でジュース缶を傾けていたフラッシュが、口元に笑みを浮かべた。

「すごすぎるってのも罪だな。論文10本分の理論を、メモ1枚で片付けるんだから」

「だからって、毎日図面が更新されるのはやめてほしいものだ」

フラッシュはため息をついた。

「私たち、世界の最先端と研究してるなんてね。実感湧かないわ。シャワー浴びる暇もないもの」

「最先端どころか……あれが“最後の兵器”にならなきゃいいけどな」

フラッシュがぽつりと呟いた。

コイルとドヌーヴの手が止まる。

「……何だ?それ。……冗談のつもりか?」

「冗談だと思いたいよ、こっちだって」

フラッシュは椅子の背もたれに身を預けた。

天井を見上げる視線の奥には、言いようのない重さがあった。

「この金属……ルミライトが、電気を損失なく蓄える。発熱もしない。劣化もしない。貯めるだけ貯めて、好きなときに放出できる。もし──これを“高出力レーザーの媒介”に使ったら……どうなると思う?」

「……レーザー?」

「そう。蓄電したエネルギーを、瞬間的に光に変換する。狙った一点に、秒速で──5000℃の熱を送り込める。場所はどこでも。地上だろうが、宇宙だろうが。要は──照準さえ定まれば、“その都市”をまるごと消せるって話」

コイルの表情が凍る。

「……それって──」

「“核”より早くて、きれいで、誰が撃ったかも分からない。世界を取るには、これ以上ない道具だ」

部屋が静まり返る。

冷却ファンの音が、空気の隙間を埋めるように回っている。

「……ワイミーさんは、そんなことのために発明してるわけじゃないわ」

ようやく、コイルがかすれた声を出す。

「私たちだってそう。……誰かを焼くために、ここにいるんじゃない。そうでしょう?」

「そりゃそうさ」

ふいにフラッシュが肩をすくめた。

「でも、さ──」

彼はわざとらしく、間延びした声で言う。

「……俺、“盗聴器”作るの、趣味だろ?」

「ぷっ!」

ドヌーヴが思わず吹き出す。

「……もう……」

コイルは、呆れ顔で小さくため息をついた。それでも、すぐに表情を緩めてしまうのが、彼女の優しさだ。

フラッシュは、にやりと笑いながら、背もたれに深く沈み込んだ。

「聞いちゃったんだよ。政府の連中が話してんの。ルミライトが実用化されたら──次は“月面レーザー衛星”だって」

「月面レーザー……?」

コイルが眉を寄せる。

「ああ。要するに、狙った一点に、瞬間で──5000度の熱を送り込める。場所は地上でも宇宙でも。要は、照準さえ合えば“都市ひとつ”を消せるレーザーだ」

言葉の重さに、コイルがしばらく黙る。

やがて、そっと口を開いた。

「……でも、それを止める方法だってあるはずよ」

「どうやって?」

コイルは微笑む。まっすぐに。

「……この金属を、“そういうこと”に使おうとする人たちに、渡させなければいいのよ」

「それは、案外難しい提案だな」

ドヌーヴが呟く。

フラッシュは、腕を組んでコイルを見た。

「……つまり、規制ってやつか?国家単位で?」

「そう。使用目的を限定する法律。ルミライトは“送電用”としてのみ認可。軍事利用、兵器転用、研究目的の複製は禁止。製造や管理は、国際的な監視下に置く。……そういう“枠組み”を作っておくの」

フラッシュは少し目を細めた。

「理想的だな。でも、それを誰が守る?“人間は、賢くて便利なものをより便利に使う生き物だ。法律より早く、誰かが抜け道を見つける。きっと軍のどこかが“応用研究”って名目で先に触るだろう」

「分かってるわ」

コイルは、声を落とした。

「でも、諦めて設計の段階から“悪用される前提”で造るより、“正しい用途しか認めない”って姿勢で始めたほうが、少なくとも、未来は選べると思うの」

フラッシュは、しばらく目を伏せた。

「……そうかもな。世界の未来を発明するのがワイミーさんなら、その未来を“信じて”造るのは、俺たちか」

「ええ、そのためのルミライトですもの」

ワイミーの夢を、希望のかたちにする。

誰かの手で握りつぶされる前に、光のままで残しておきたい──そういう大人達がここには集っている。

しばらく、誰も口を開かなかった。

時計の針が鳴る音すら、やけに遠くに聞こえた。

ふいに──フラッシュが、髪を弄りながら呟いた。

「ところで、さ」

「ん?」

「その、お前たちの結婚式──本当に俺がベストマンでいいのか?」

それは冗談にも聞こえるし、深刻にも聞こえる、奇妙な温度の問いだった。

ドヌーヴは、一瞬だけ沈黙し、爪を密かに弾いた。

「他に頼める奴、いないんだよ。俺とコイルに共通する友達、フラッシュしかいないし──」

素直すぎる答えが返ってきた。

でも、そこにあるのは責めでも距離でもなく、“お前にだけは、嘘をつきたくない”という空気だった。

「……いないのかよ」

フラッシュは苦笑した。

「ごめん」

「はは、なんで謝るんだよ、謝るなよ」

ツッコミのようでいて、ドヌーヴにとってはほんの少しだけ救われた。

「……まぁ、しょうがねぇな」

「……………」

そこに──

「──何の話してるんだ?」

3人が同時に振り返った。

扉の向こうから、白衣姿の男が現れた。

両手には紅茶のティーセットと焼き菓子のトレイ。

──キルシュ・ワイミーだった。

「お、お疲れさまです、ワイミーさん」

フラッシュが立ち上がろうとするのを、ワイミーは片手を上げて制した。

「いい。座っていてくれ」

彼は穏やかに笑いながら、机の端にそっとトレイを置く。

紅茶の香りと、焼き立てのショートブレッドの甘い匂いが、研究室の空気を和らげた。

「わあ! 美味しそう!……いいんですか?」

コイルが思わず声を上げると、ワイミーは確かに頷いた。

「集中力が落ちてくる時間帯だろう。糖分補給は、必要だからな──いや。そんなの言い訳か。それ以上に、君たちへの感謝だ。遠慮なく食べてくれ」

「なら、いただきます」

ドヌーヴは飾り気のない口調でそう言って、迷いなく菓子をひとつつまむ。

「んふ……うまい」

幸せそうに食べるドヌーヴ。その様子をコイルが見てクスッと笑った。

「これ──手作りですか?」

お菓子をまじまじと見つめるフラッシュが目を丸くした。

ワイミーがティーポットを傾けながら、軽く笑う。

「ああ。昨夜、焼いたんだ」

「昨夜……!?」

「ワイミーさんって……」

フラッシュは湯気の立つ紅茶を眺めながら、呟いた。

「仕事もできて、お菓子も作れて、発明もできて、頭も良くて……完璧じゃないですか!なんか、バグってません?」

「はははっ、そんなんじゃない。単に、昔から何かを作るのが好きなだけだ」

ワイミーはごく自然にそう答えると、一枚ショートブレッドをつまんだ。

「……ねえ、ワイミーさん」

と、コイルが顔を上げる。

「このお菓子の作り方教えてくださいよ」

「ああ。今度、レシピを渡そう。……金属工程と一緒にね」

「ふふふっ」

コイルが口元を押さえて笑う。

「そんなレシピ、分量がミリ単位で書かれてそうだな」

「当然だろう。製菓も研究も、誤差との戦いだ」

フラッシュがにやりとしながら紅茶をすすった。

ドヌーヴは黙って、次のショートブレッドに手を伸ばしている。

「──そういえば」

ワイミーはふいに声を落ち着かせて、二人を見た。

「君たちの結婚式、もうすぐだったな」

コイルとドヌーヴが一瞬、顔を見合わせる。

「ええ」

「はい」

「なら──ケーキは私に作らせてくれないか」

「ええっ……」

コイルが目を丸くする。

ドヌーヴも少し驚いたように顔を上げる。

「でも……ワイミーさん、忙しいでしょう。そんな……」

「いや、作らせてくれ」

ワイミーは微笑んだまま、しかしその声には揺るぎない響きがあった。

「私が、君たちにしてやれることなんて、これくらいしかないんだ。機械の調整よりも、数式よりも──これは、私の“手”で作りたい」

その言葉に、しばし沈黙が落ちた。

コイルは、そっと目を伏せて、紅茶の湯気に微笑む。

ドヌーヴは口をふにゃりと上げると「お願いします」とだけ言って、またお菓子を頬張った。

未来の話が、まだちゃんと未来だった頃。

ほんの束の間の、温かい時間だった──


❅❅❅


──日本。とあるカフェ。

ほのかに抹茶の香りが漂うカフェの奥のテーブルに、二人の姿があった。

緑がかったクリームの山。滑らかなソース。抹茶のパフェ。

「……あの、“先生”?」

スプーンを手にした青年──

『夜神総一郎』が、ため息まじりに言った。

「どうして僕が、平日の昼間からカフェ巡りに付き合わされてるんでしょうか」

当時、彼はまだ20代。

法学部の学生で、世の理と正義の境界線を、ノートの上で線引きしては消す日々を送っていた。

先生はというと、講義のときも今も、変わらずカフェインと糖分で出来たような人間である。

講義中に「司法とは“正義”という名のカラメルで焦げを隠したプリンである」と言い出したその日から、僕はこの人を信用していない。

──にも関わらず。

総一郎は、この人を尊敬していた。

いや、尊敬という言葉では足りない。

講義中、理屈を煙に巻き、学生を眠らせ、結論を曖昧にしたままチャイムで逃げるように去る──そんな教師なのに。

彼の言葉だけは、何故か心に残る。

だからこそ──先生から連絡がきた時、生まれて初めて学校をサボって平日の昼間から抹茶パフェを食べに来ている。

要するに、カフェ巡りに付き合っているのは、信念でも好奇心でもなく、単なる彼への“情”だった。

しかし、感謝はしている。何よりも、彼は『恩師』だ。

この恩師が法を教えてくれたからこそ、僕は“警察”という輝かしい道に踏み切ることができたのだから。

「……日本に帰ったら、これが食べたかったんだよ」

恩師はスプーンを掲げ、まるで国旗でも掲げるような誇らしげな顔で、抹茶パフェを見つめていた。

総一郎は、その言葉を咀嚼するより早く、突っ込んだ。

「帰国子女の女子大学生か何かですか」

「帰国男子さ」

あっさりと訂正が入る。しかも真顔で。

この会話のテンポの悪さが、恩師と僕の“いつものペース”である。

「それで……」

パフェをひと口。

──抹茶の甘味が喉の奥を通り抜けたその瞬間、僕はふと顔を上げた。

「急に連絡してきて、何か話したいことでもあったんじゃないですか?先生が“ただ甘いものを食べたかっただけ”なんて、僕は信じませんよ」

「ふふ……いい目をしてる」

紅茶の縁を舐めるように口をつけながら、彼は笑った。

「相手の“裏側”を読もうとする癖。──そういうの、嫌いじゃない」

「……褒め言葉ですか?」

「もちろん。人の言葉を正面から受け取るようじゃ、社会では生き残れない。“裏”を読むことは、“表”を守ることになる」

紅茶の湯気が、言葉の続きのようにゆらめいた。

「──君、探偵に向いてるんじゃないか?」

唐突すぎて、スプーンが止まる。

「また急ですね」

総一郎は肩をすくめ、笑いながら応じた。

「僕、警察志望ではありますけど、探偵志望じゃないですよ」

「まあ、君は正直者だからね」

「……先生にだけです」

そう返すと、彼は紅茶を揺らしながら、ゆるく笑った。

「光栄だね」

その言葉の後、ふたりの間に短い沈黙が落ちた。

抹茶の香りが、やけに濃く感じられる。

「ところで、学校の方はどうだ?」

紅茶の縁に指をかけたまま、先生は問いかけた。

質問というより、独り言。

紅茶の表面をすべらせる指先の方が、よっぽど雄弁だ。

「そういう先生こそ、どうなんです?」

つい、言い返してしまった。

聞かれたくないわけではなかったが、大学生活なんて語るほどのことはない。

毎日講義を受けて、適当にノートを取り、テストの前だけ徹夜する。

それが“正しい青春”だというなら、僕の人生は教科書みたいに退屈だ。

でもこの人は違う。

イギリスで何かを“発明していた”人だ。

だから、僕の日常の報告なんかより、彼の話が聞きたかった。

──……知りたかった。

抹茶パフェを食べるこの人が、どんな風に世界に羽ばたくのか。

つまり僕は、質問を返したんじゃなくて、ただ、“退屈な自分”より“面白い先生”を話題にしたかっただけだ。

先生は目線をカップの底に落としたまま、すぐには答えなかった。

「そういえば、」と先生は、カップを指先で軽く回した。

紅茶の表面に、白い光がひと筋ゆれる。

「“夜神くん”好きな人でもできた?」

──パフェのスプーンが、空中で止まる。

まるで、脳が一瞬バグったみたいに。

「……な、なんですか急に」

「質問に理由が必要かい?」

「ひ、必要ですよ!」

先生は楽しげに笑った。

笑うたびに、カップの中で紅茶が波打つ。その音が、沈黙を壊すようで、妙に悔しい。

「いや、なんとなく。髪型が変わってたからね」

その“なんとなく”が、まるで伏線みたいに気障で、わざとらしい。

「そういうところ、わかりやすいよね、君は。──」

スプーンが皿を叩く。小さな音が、会話の隙間を埋めた。

さすがだ、と総一郎は思った。

隠しているつもりでも、この人の前では無意味なのだ。

「ま、まあ……」

曖昧に笑って、つい前髪をいじる。

無意識の防御反応。

それすらも、先生には見透かされてそうだ。

「誰?」

その問いに、総一郎は一瞬、視線を泳がせる。

「幼なじみというか……なんというか……」

言いながら、視線が勝手に泳いだ。

窓の外を見ても、逃げ場はない。

「歯切れが悪いね」

「そういうんじゃないですって」

顔が熱くなる。

言葉の温度と羞恥の温度が同時に上昇して、もう湯気が出そうだ。

赤くなった頬を隠すように俯いた僕を見て、先生はくすりと笑った。

──あの笑い方はずるい。

人を責めるでも、許すでもなく、ただ面白がるだけの、悪意のない悪意。

「……いいじゃないか。そういう日が来るのは。教師として嬉しいよ」

声の調子は冗談めいているのに、その奥に、ほんの少しだけ本気の温度が滲んでいた。

「“教え子に幸せが訪れる”──それを見られるのは、案外、教師冥利に尽きる」

そう言って、先生はカップを傾けた。

白い湯気が、彼の笑みをぼかす。

どこまでが冗談で、どこからが祈りなのか、判別不能。この人の言葉は、いつも真実と皮肉を五分五分でブレンドしてある。

「ちなみに──」

先生は軽く息を吐いた。

紅茶の湯気が、その吐息をさらっていく。

──嫌な予感がした。

先生の“ちなみに”は、たいてい地雷の導入である。

前置きのない本題ほど、危険なものは────





「──俺、結婚したよ」




「……………………………」

スプーンが止まる。

いや、心臓も止まったかもしれない。

そのくらい唐突で、悪意がなく、そして完璧にタイミングが最悪だった。

「お、おめでとうございますっ!」

反射的に声が弾んだ。

あまりに素直すぎて、カップの中のコーヒーが波打つほど。

「ありがとう」

あっさり、そして普通に返された。

その“普通さ”が逆に刺さる。

まるでこちらだけが感情を暴発させてるみたいじゃないか。

「そんなに驚かれるとは思ってなかった。俺そんなに結婚出来なさそうに見えた?」

その言い方。

悪意がある。

というか、悪意を砂糖に──紅茶に溶かして飲んでるタイプの言い方だ。

声のトーンは穏やかで、笑顔も柔らかい。

けれどその笑顔の裏に、確実にひとつ「刺す用のフォーク」を隠している。

「いえ……そういうわけじゃ……」

焦って否定すれば、またそれも砂糖にされる。

もはや僕の反応ひとつひとつが、この人にとっての娯楽なのだ。

「子どもが生まれたら──日本で暮らそうと思ってる」

その一言で、世界が一瞬、春めいた。

まるでコーヒーの湯気が桜色に変わったみたいに。

「本当ですか!」

声が弾んだ。というより、跳ねた。

嬉しさが言葉より先に口から出て、音になって飛び出した。

「じゃあ、また先生と同じ国にいられるんですね!」

──その瞬間、自分でも驚くほど顔が明るくなったのがわかる。

光が胸の中を跳ねたみたいだった。

この人の近くに、またいられる。

その事が純粋に嬉しかった。

「そうなるかもしれないな」

先生はふと窓の外に目をやった。その視線の先には、人の流れ。

──だけど、彼だけが違う時間を歩いているように見えた。

「……けど、どうなるかはまだ分からない」

その言葉のあとに、静寂がひと口ぶん、挟まった。

僕は何も言えず、ただコーヒーの表面に映る自分の顔を眺めている。

「…………」

「まだ、仕事が山ほどあるんだ」

先生は小さく笑って、カップの縁を指でなぞる。

「出来れば……子どもが生まれる前に、今取り組んでいる発明を完成させたいと思ってる」

──“発明”と“命”。

どちらも新しいものを生み出す行為だ。

けれど、この人が語ると、それは希望じゃなくて、重く聞こえる。

「どんな発明なんですか?」

気づけば、声が勝手に前のめりになっていた。

スプーンを置くのも忘れて、僕は思わず身を乗り出す。

──純粋な興味。

それ以上でも、それ以下でもない。

「んー……」

彼はカップを持ち上げ、視線を紅茶の底に落とす。 そして、考えるふりをして、答えを隠すみたいに、ひと言。

「──秘密」

「秘密?」

思わず聞き返した声が、店内の音よりも大きく響いた。

「そう、秘密」

先生は肩をすくめて笑った。

その仕草が、まるでカフェの空気を一瞬だけ軽くした。──けれど、その笑みの奥には、ほんの一滴だけ影があったのを僕は見抜けなかった。

だって──僕は思いもしなかったのだ。

彼が生み出した発明が、後に世界を驚愕させる大事件を起こすなど──

「俺が新聞に載った暁には──一番に教えてあげるよ」


❅❅❅


一方その頃、イギリス。

研究所で、コイルは椅子に腰掛けていた。

小さく膨らんだお腹を、そっと撫でる。


「……もうすぐ、会えるね」



優しく──優しく──温もりを与えるように。

囁くような声。

その背後で──ガシャン!と鈍い音が響いた。

「!?──ワ、ワイミーさん!?」

慌てて振り向くと、ワイミーが実験台の前で転倒していた。

腕から血が滲み、散らばった試験管の中で、金属片がカチンと音を立てて転がる。

「こりゃ……また、やらかした……」

ワイミーは苦笑しながら立ち上がろうとするが、足元がふらつく。

コイルはすぐに立ち上がり、近くの棚から救急箱を取った。

「なにしたんですか、ワイミーさん!」

コイルは慌てて駆け寄り、倒れた実験器具を片手で避けながらワイミーの腕を掴んだ。

「いや、ちょっとした反応実験を試してみただけなんだが……」

ワイミーは苦笑しながら額の汗を拭う。

床には溶けかけた金属片──それが“夢の金属”の試作品のひとつだった。

「温度制御がほんの数度ずれただけで、こんなことになるとはね」

「“こんなこと”じゃありません! 危険すぎます!」

コイルは少し強めに言いながら、慣れた手つきで包帯を巻いた。

「指が焼けてます、冷やして……我慢してください」

「……うん、痛いな……けど、いい兆候だ」

ワイミーは眉をひそめながらも、どこか嬉しそうに笑う。

その笑顔が、痛みを“進歩”と呼び換える。

「あと一歩で、金属が完成するんだ。温度さえ正確に保てれば……摂氏28.7度、だ」

「にっ、28.7度……!?」

──なんてことだ。

そこまで上がるなんて、誰が考えただろう。

金属が“夢”を見る温度。

理論の中でしか存在しないはずの数値が、今まさに現実に顔を出そうとしている。

「そこまで上がったんですか……。でも、それを確かめるたびに怪我してたら意味ないじゃないですか。あなたが倒れたら、誰が続きを……」

言いかけて、ふと声を詰まらせる。

ワイミーが、申し訳なさそうにこちらを見ていたからだ。

「君のほうこそ、こんな所にいていいのか?」

ワイミーは、包帯に包まれた手を見下ろしながら、そっとお腹へ視線を落とす。

「子どもを授かっているのに、実験室なんて危険だ」

「わかってます。でも……家にいても、ひとりで、寂しいんです」

──そう、寂しいのだ。

部屋にはランプが灯っているのに、温かくない。紅茶を淹れても、香りが独り言にしかならない。カップを二つ並べても、片方を飲んでくれる人はいない。

ドヌーヴのいない家は冷たくて、寒い。

──母にも、温もりが必要なのだ。

命を宿しているからといって、ぬくもりを分け与えるばかりじゃ、心が冷えてしまう。

だから、温もりに縋る。

人の体温のように、確かで、脆くて、あっけないぬくもりを。

コイルはお腹を撫でた。

「夫は日本ですし、誰もいない家にいると、余計に不安になって……」

だから、彼女は実験室に来る。

命を育てる母親が、人の温もりを欲しがるのは──そんなに、不思議なことじゃない。

「……そうか」

ワイミーは納得したように目を細める。

「寂しいから、危険を選ぶとは……まったく、君はドヌーヴそっくりだ」

コイルは微笑む。

「あの人もたまに容赦ない時がありますから」

ワイミーの傷に包帯を巻き終え、そっと手を離した。

「でも、もう少しで完成するなら見届けたいんです」

その目には、痛みよりも強い光が宿っていた。

それは母としての強い光ではなく、研究員としての光。

ワイミーは息を呑んだ。

自分の研究に人生を賭けてきた彼でさえ、その眼差しには一瞬、気圧された。



それから──実験室の火を落とし、ようやく二人は椅子に腰を下ろした。

静寂の中には、まだ金属と焦げの匂いが残っていた。

コイルが立ち上がり、棚の上のティーポットを手に取った。

「お茶にしましょう。……わたしが入れます」

「いや、そんな──」

「いいんです。ワイミーさんの手、包帯ぐるぐるですから」

カチリ、とティーカップが触れ合う。

紅茶の香りが、張りつめた空気をゆるやかに溶かしていった。

ワイミーは、包帯を巻いた手を膝の上に置き、申し訳なさそうに俯く。

「……すまないね。こんな時にまで気を遣わせてしまって」

「気にしないでください。あなたこそ、少しは休まないと」

コイルは柔らかく笑いながら、湯気の立つカップを差し出した。

ワイミーはそれを受け取り、湯気越しに彼女の腹部を見つめる。

「……調子は、どうだ?」

「おかげさまで、順調です」

「性別は?」

「まだわかりません。もうすぐ病院で検査の予定です」

「そうか、そうか──」

ワイミーの声が、不自然なほど明るく弾んだ。

いつも金属と理論でできたような人なのに、子どもの話になると、一気に柔らかくなる。

「男の子か、女の子か……どっちでも嬉しいけど、やはり気になるな」

「ふふ。ワイミーさんのほうが楽しみにしてるんじゃないですか?」

「当たり前だ」

ワイミーは笑う。

「教え子の幸せを見ることが、今の私の幸せなんだ。君たちが笑っていれば、それで充分、嬉しい」

穏やかに、まるで自分の研究よりも確かな“成果”を見守るように。

炎の中で新しい金属を生み出すよりも、人の中に灯る光を見るほうが、よほど尊いことを──この人は分かっている。

「……そんな風に言ってもらえるなんて、光栄です」

コイルは微笑んだ。

「……あと5ヶ月くらいなんです」

その一言の中に“未来”という言葉の全部が詰まっていた。

「“12月”に産まれる予定で──」

彼女らにとってこんな待ち遠しい5ヶ月が、この世にあっただろうか。

時が過ぎるのを恐れる人間は多いけれど、彼女は今、時の流れを“抱きしめて”いる。

「そろそろ名前も考えないといけませんね」

その声は、紅茶の湯気みたいに柔らかく、それでいて、どこか夢に似ていた。

「もう決めたのか?」

「いえ、まだ……」

“まだ”。

その二文字の中には、無限の白紙があった。

まだ見ぬ顔。まだ聞かぬ声。まだ知らない未来。

未来に授かる子に名を与えるという行為は、人間に許された、最も幸福な創造なのかもしれない。

「──ワイミーさんにつけてもらおうと思っていたんです」

紅茶を口に運ぼうとしていたワイミーの手が、ぴたりと止まった。

小さな音ひとつしないのに、世界が静止した気がした。紅茶の表面に映る湯気が、わずかに震え、その震えが“ためらい”の形をしていた。

「……それは、いけない」

穏やかな声だった。

「名前は、君達でつけなさい」

「え……」

「名は、親が子に最初に与える“愛情”だ。君がその子の名を呼ぶたびに、愛が形になる。そして子どもは、生まれた瞬間から──その“名前”を通して、愛を受け取るんだ。だから、私がつけるべきじゃない」

コイルは目を伏せた。

指先でティーカップの縁をなぞりながら、小さく息を吐く。

「……愛、ですか」

ワイミーの目が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。

「君がその子を呼ぶたびに、“子供は生きていることを自覚する”。そして、何時しか子にも親にも互いに尊い存在に変わる。それが、名前の役割だ」

コイルの瞳に、そっと光が差す。

まるでその言葉に呼応するように。

──当たり前のように呼ばれる、この“名前”。

それは、世界で最初に受け取る“愛”のかたちだったのだと、コイルはそのとき、初めて実感した。

「──そんな風に考えたこと、ありませんでした」

「親は、最初に名を与え、最後に手を離す生き物だからな」

ワイミーは微笑んだ。

その瞬間、コイルは思った。

これが、きっと“無償の愛”というものなのだと。

理屈も、条件も、理由もない。

ただ、生まれてくる誰かのために、名を与え、未来を託し、手を握る。

──それは、すべての“親”がこの世界に刻む、たった一度きりの愛。

そっと優しくお腹を撫でる。

この世界の誰よりも優しい微笑みを。

この時コイルは浮かべていた──


❅❅❅


夜の街が、柔らかな灯りに沈んでいた。

昼間の喧騒が嘘のように消え、遠くで電車の音だけが、かすかに夜を撫でていた。

──あっという間の一日だった。

先生は最初、ホテルのディナーでも奢ろうかと言われたが、丁寧にお断りをし、結局二人は近くの居酒屋へ足を運んだ。

個室の座敷。

木の引き戸を閉めると、外の喧騒が一気に遠ざかる。

テーブルの上には湯気を立てる鶏鍋と、冷えた烏龍茶。

そして──お酒が入ったグラスがひとつ。

「……それ、ほんとに飲むんですか?」

総一郎が呆れたように眉を下げる。

「飲んでみたいんだ。どんな味がするのか……」

と、先生。

強がりながらも、もう顔は少し赤い。

「先生、お酒弱いですよね」

「弱い? いや、飲めるんだよ。ただ……眠くなるだけで」

「それを世間では“弱い”って言うんです」

総一郎は心配そうに見つめ、鍋の中の鶏肉を掬う。

「ほら、食べないと冷めますよ」

「……ああ、うん」

先生は返事をしながら、箸を取るよりも先にグラスを手にしてしまう。

ぐびっ……ぐびっ……。

氷が小さく音を立て、グラスの底で転がる。

「先生、もうそれ以上はやめといたほうが……」

「だって美味しいんだもん」

「子どもですか」

総一郎は思わず笑ってしまう。

──ほんとうに、この人は昔から変わらない。

どんなに聡くても、どんなに理屈っぽくても、どこか抜けていて、愛される。

湯気がゆらめく。

「ふわぁ……」

小さなあくび。

湯気と一緒に、眠気まで漏れている。

「ほら……もう、寝ちゃうじゃないですか」

「だって……あったかいし……」

先生は頬杖をついたまま、ふにゃりと笑った。

その笑顔は、まるで子どものように無防備だった。

そして、ぽつりと、こぼすように言葉が出る。

「……子どもが、さ。もうすぐ、性別がわかるんだ」

総一郎は、少し驚いたように目を瞬かせた。

「そうなんですか。楽しみですね」

「うん。すごく、楽しみだよ。……名前は、まだ決めてないけど」

「先生がつけるんですか?」

「……んー、たぶん」

先生は笑って、それから少し間を置いた。

「──うん、でも、ほんとは、もう決めてるんだ」

「決めてる?」

「うん」

「……どんな名前なんです?」

「……んー?」

先生は目線を隅に逸らすと、柔らかく笑う。

「……秘密」

けれどその瞳の奥には、どこか慈しむような光があった。

「……夜神くんも、いつかそうなるんだよ」

「え?」

「好きな子と結婚して、子どもができて、幸せな家庭を作って──それだけで十分生きてて良かったと思える」

その声は、酔っているのに妙に真面目で遠くの誰かに語りかけているようだった。

「夜神くんならさ、子どもができたらどんな名前をつける?」

「え? そんなの、すぐには……」

「まあ……そうだよね」

先生は少し俯いてグラスを転がす。

氷が鳴る。

そして、ぽつり──と。

「……俺、男の子なら、“ライト”って名前を付けたい」

「……え?」

「女の子なら、“ルミエル”」

グラスの中の氷が、ゆっくりと溶けていく。

「どっちも“光”の名前だ」

先生は笑って、少し潤んだ目で続けた。

「俺は“ライト”が気に入ってたんだけど……妻に却下されちゃった」

「どうしてです?」

総一郎が訊ねたのは、純粋な興味からだった。

けれど、返ってきた答えは想像以上に純粋な理由だった。





「──“苗字と、被るから”、だって」






その言葉が、個室に落ちる。

次の瞬間、総一郎の表情が一瞬止まり、暖かな湯気の中で、時間がゆっくりと凍った。


……“夜神ライト”……。


夜の神に、光の名。

暗闇に、明けの兆し。

夜神ライト。

偶然にしては出来すぎているし、必然にしてはまだ早すぎる。

未来は、まだ何の形もしていない。

けれどこの瞬間──

光の名を持つ子を、最初に夢見たのは彼だった。


❅❅❅


──地下第七研究室。

思考だけが忙しい部屋。

キリス・フラッシュハートは、ノートPCの前で額に指を当てていた。

「今のままでも充分すごい。ワイミーさんの理論も正しい。でも──それで終わらせていいのか?」

画面には、滑らかすぎるカーブ。摂氏28.7度の超伝導曲線が、正確すぎてつまらない顔をしている。

超伝導の発現閾値、28.7度。

けど、もし、29度を超えても“持つ”としたら? 30度でも維持できたら?

そこから先の世界は、もっと冷却システムのいらない超伝導になる。

産業用電源。宇宙開発。家庭の中のすべてのデバイス──“冷やさなくていい”というだけで、世界の設計は書き直される。

カーソルを動かし、別のページに飛んだ。

次に現れたのは、“ペルチェ素子”の冷却効率データ。

ゼーベック効果、ペルチェ効果、トムソン効果……温度差さえ作れれば、熱は電力になるし、電力は冷却に変換できる。

ふと机の上の試作基板が目に入る。前回、冷却ファンの異音を止めるために使った部品だった。

「温度差を、操る……か」

ペルチェを重ねて、表面の局所温度だけ冷やすことができれば──中心温度は29度台に到達できるかもしれない。

28.7度の超伝導を保ちながら、“29度”という非公式領域に接触する。

構造上は可能だが、問題は、精度と安定性。

「………………」

ペルチェの出力を誤れば、冷やすはずの熱が逆流する。

どこまでが限界か……。

まだ先があるのか……。

分からないな……。

試してみるか……。

その時。

「また残業?」

音のない部屋に、声が落ちた。

「……っわあっ」

フラッシュは反射的に背筋を伸ばした。

立ち上がっていた背がさらに2cm伸びた気さえした。

入り口には、コイル。

白衣の下からのぞくスカート。手にはファイル。

表情は柔らかいのに、目だけが“いつまでいるの”と訴えている。

「いや、これは残業っていうか……その……作業確認というか」

「夜中に“作業確認”は、立派な残業よ」

すぐに否定が刺さる。

穏やかに見えて、どの言葉にも“逃げ道を残さない癖”があるのが彼女だ。

「もう日付変わってるの気づいてる?また研究室に泊まり込みなんて、やめてよね」

「……忙しいのは、研究員にとって、褒め言葉じゃないんですか?」

フラッシュがそう返すと、コイルは一瞬だけまばたきをした。

その一瞬に、“ふーん、言ったな?”という含みが詰まっていた。

「忙しさと無茶は別なのよ」

「じゃあ、これは無茶じゃないです」

「じゃあ、残業じゃないって言ってたさっきの発言と矛盾するけど?」

「え、あ、それは……」

言葉のルートが行き止まりにぶつかったような顔になるフラッシュ。

そこで、コイルはふっと視線を外して言った。

「……まったく、あいかわらず強引な理屈で逃げるのね」

優しい呆れだった。

でも、それが続かない。

フラッシュは、言い返さなかった。

代わりに、ふっと息を吸って、視線をお腹に向けた。

「……それはこっちのセリフですよ」

以前よりも──確かに大きくなっていた。

コイルのお腹。

形として、もう明らかに“命”を抱えている。

それを見てしまえば、もう見なかったことにはできなかった。

「こんな時間までいていいんですか……あなたこそ。お腹に赤ちゃんいるんですから。休むのも、仕事のうちですよ」

その言葉に、今度はコイルの動きが止まる。

背筋に、すっと空気が通った。

──これが、彼の“本音”なのだと、すぐにわかる。

「……気遣ってくれて、ありがとう」

コイルはそう言って、少しだけ頬に微笑みを浮かべた。それは“研究者”としての顔ではなく、“母”になろうとしている人間の表情だった。

「……実は今日、病院に行ってて」

言葉の出だしが、いつもよりゆっくりだったのは、たぶん話す内容を選んでいたからだろう。

「朝から定期検診に行って、そのあと一度帰って洗濯物干して……すぐにまた学会の論文添削、夕方にここのミーティング挟んで、それから──」

自分で話していて、スケジュールの密度に少し笑ってしまった。

「気づいたら、もうこんな時間」

「ちょっと、何してるんですか!休んでくださいよ!」

フラッシュは感心というより、驚きに近い声を出した。

ただでさえ詰まった予定表に、新しい命を抱えているという事実に不安になった。

「……ドヌーヴは何してるんです?」

言葉が出た瞬間、自分でも“あっ”と思った。

けれどもう止まらない。

「日本に帰ってる場合ですか。こっちで奥さんがバタバタしてるってのいうのに──」

「家をね、探してるの」

「………………」

「向こうで新しい住まいを探してるのよ。赤ちゃんが生まれたあと、しばらく日本で暮らすつもりだから」

「…………へ、へぇ」

フラッシュは、思わず口をつぐんだ。

喉元に浮かんできた言葉は、どれも口に出すには幼稚すぎて。

結局、そのまま飲み込んだ。

ドヌーヴは“仕事”をしに行っていると思っていたが、“家族の未来を整えていた”という事実が、あまりにも眩しかった。

「いざというときの支援施設の手配まで……あの人、ちゃんと考えてるのよ。私たちのために」

「…………」

言葉が、また止まる。

今度は、止めたのではなく、出せなかった。

けれど、次の一言は、勝手に口を滑り落ちた。

「……日本、行っちゃうんですね」

少しだけ、声が低かった。抑えているつもりでも、震えが滲んだ。

自分の気持ちが混ざった声は、いつも相手の耳に届きやすい。

コイルは、それを否定しなかった。

「ルミライトが完成したら、ね」

さらりと、そう言った。

ただの予定確認のように聞こえたが──それは、“今はまだここにいる”という約束だった。

「でも、子どもが大きくなるまでの間だけよ」

フラッシュは黙った。

“間だけ”──その一言が、やけに遠く聞こえた。何ヶ月か、何年か。数字では測れない長さを含んだ「間」。それは、彼女の未来から自分が切り離される猶予のようにも感じられた。

沈黙が続くのを見かねたように、コイルがぽつりと話を切り出した。

「赤ちゃんの性別が、今日わかったの」

その言葉に、フラッシュはわずかに眉を動かした。声を整える間もなく、口が反応する。

「……どっちだったんですか」

できるだけ平坦に言ったつもりだったのに、自分の耳には、想像以上に震えが混ざって聞こえた。

「“女の子”、だった」

答えはやけにあっさりと返ってきた。

どこまでも穏やかで、あたたかくて──でも、フラッシュの胸の内では、何かがざらざらと崩れていた。

「…………へ、ぇ……」

絞り出したその声は、言葉というより音に近かった。

硬直した顔を無理やり通した、絶望の表情。

返事をするための言葉はいくつも頭に浮かんでいたのに。「おめでとうございます」でも、「よかったですね」でも、あるいは、もっと軽く「かわいい名前を決めなきゃですね」なんて軽口でもよかったのに。

だけど、どれも“おめでとう”に聞こえてしまいそうで──それを自分の口から出すのが、どうしてもできなかった。

だってそれは、彼女の幸せを心から喜べない自分を認めることになるのだから。

(──聞かなきゃ、よかった)

心の奥で、誰かが呟いた。

報告してくれたことが嬉しくないわけじゃない。

でも、“彼女の未来”が、いよいよ輪郭を持って迫ってくる──その現実を突きつけられるには、まだ覚悟ができていなかった。

“女の子”というその一言が、まるで自分には絶対に届かない場所で、彼女がちゃんと“家族を作っている”という証明に聞こえた。

だから、もう会話なんて終わらせてしまえばよかった。

けれど、そうしなかった。

いや、できなかった。

このまま黙っていたら、彼女がどこかへ行ってしまう気がした。心じゃなくて、現実として、距離が離れてしまう気がした。

──だから。

「……名前、決まったんですか」

喉の奥から、かすれたような声が出た。

聞きたくなかった。

けれど、それ以外に繋げる言葉が、どうしても見つからなかった。

コイルは少し目を細めて、穏やかに笑った。

「まだ正式じゃないけど……“ルミエル”って名前にしようと思うの」

その名前が落ちた瞬間、まるで部屋の中にやわらかい光が差したように感じた。

「『光』……って意味ですか」

訊くつもりはなかったのに、声がまた勝手に漏れた。

「そう。ルミナスより柔らかくて、真っ直ぐで──何より、言葉の響きが“あの人っぽい”気がして」

あの人。──ドヌーヴのことだろう。

“光”の名を娘に。

未来に灯す名を、夫と重ねて。

それは美しい話だった。

眩しすぎて、目を逸らしたくなるほどに。



「……羨ましいですね」



空気が一瞬、止まった。

その瞬間、心臓が跳ねた。

言葉が先に、感情を追い越した。

「い、いや、今の、あの──」

反射で言葉をつまらせる。

舌が自分のものではないみたいだった。

「すみません!なんでもないです。俺──」

「え?」

呼吸が急に狭くなる。

言い訳を掴もうとして、全部すり抜けた。

「もう、帰ります。疲れて、頭回ってないみたいで。……その、お身体……気をつけて」

「フラッシュ?……ちょっと……」

それだけ言うと、逃げるように背を向けた。

歩き出す足は妙に速くて、早歩きなのか、逃走なのか、自分でも判断できなかった。

──廊下に出た瞬間。我慢していたものが吹っ切れた。

「……っ……っ……」

音のない世界で、涙がこぼれ落ちたのだ。

声は出なかった。

出したくなかった。

泣き声は、誰にも聞かれたくない。

だってそれは『敗北』を宣言するようなものなのだから。

ただ、ぽた、ぽた、と床に落ちる滴の音だけが自分の足元を、突き刺した。

“光”の話を聞いて涙を流すなんて、滑稽だ。泣く理由を探せばいくらでも言い訳はある。

疲れていたとか、ストレスだとか、めでたくてとか。

──全部違う。

彼女の幸せを祝うはずの心と、祝えなかった自分。

どちらが本物かなんて、今はわからない。

ただひとつ分かるのは──



──どうして、彼女の隣が俺じゃなかったんだろう。



そんな切ない未来だけだ。

呟けば終わってしまう気がして、言葉にはしなかった。

でも胸の中では、はっきり形になっていた。

あの頃から届かない光を、まだ追っていたことに、気づいただけだった。


❅❅❅


──夜の公園。

ベンチに座るドヌーヴは、すっかり酔っていた。

瞳がとろんとして、口元に笑いが張り付いている。まるで笑うことそのものを研究してる途中の人間みたいだ。

「……ほら、立てます?」

総一郎が呆れ顔で肩を貸す。

学生とはいえ、さっきまで恩師をここまで運んできた彼の背中は、なんだかもう、社会人より疲れている。

「夜神くんはいいねぇ……まっすぐで」

「先生はまっすぐ歩けてませんけどね」

「それは、物理的な話だろ」

と、先生はへらへらと笑った。

この男、理屈を酔いで薄めても、結局中身は理屈だ。厄介の化学反応体である。

「もう時期できるんだ」

「何がです?」

総一郎は、つい問い返してしまう。

──酔っ払いの話は、たいていくだらない。けれど、この人の“くだらない”は、たまに世界をひっくり返す。

「夢の金属だ……」

──夢を語る人間ほど、目が醒めている。

しかし、呂律は回っていない。

「金属、ですか」

「そう。……熱を持たず、電気を常に流し続ける。夢のような物質だ」

「それって……そんなもの、本当に……」

「できる。いや、もうすぐ“できてしまう”んだ」

笑いながら言うその“しまう”が、どうしようもなく怖かった。

「もしそれが完成したら、多くの人が救われる。貧しい国にも電気が通って、寒さで死ぬ子どもはいなくなる。それに──」

先生は少し顔を上げて、夜空を見た。



「“犯罪”だって、なくなるかもしれない」



──その言葉が落ちた瞬間、総一郎の脳内に、文字通り「?」が光った。

あまりに唐突で、総一郎は思わず眉をひそめた。犯罪と金属の間に、どんな回路があるというのか。

先生は酔った勢いで構わず続けた。

「ルミライトが実用化されれば、すべてのインフラが変わる」

先生の声が落ち着いていた。

「電気があれば、街中どこにでも“目”が置ける。監視カメラだ。電力コストを気にせず、24時間稼働できるから、“すべてを見ている社会”になる」

少し風が吹いた。街灯の光が二人の影を揺らす。

彼の口調はどこまでも真っ直ぐだ。

「つまり……監視社会になるってことですか?」

「そう」

先生は夜空を見上げる。

「悪事を働こうとした瞬間、映像が残り、即座に個人が特定される。そんな社会になれば、誰も“犯罪をしよう”とは思わない。“やってもすぐバレる”。ならば、犯罪を選ばなくなる──」

酔っているはずなのに、先生の声には濁りがなかった。

明確で、冷たくて、まっすぐだ。

「ルミライトが広がれば、監視カメラの死角はなくなり、昼も夜も関係ない。暗視、熱感知、顔認識。それらを搭載し、カメラは悪事を見逃さない。人の目よりも、監視カメラ──証拠さえあれば、裁判で勝てるからね」

総一郎は息を呑む。

それは比喩じゃない。

“本当に、世界のすべてが見える社会”だ。

「そんな社会になれば、犯罪は減ると思わないか?」

その声は穏やかだった。春風のように。

──減る。そう思ってしまった。

犯罪が“できない”世界では、人も“しようとしなくなる”。

欲望より先に、誰かの目がそれを止める。

そんな世界がもし、本当に存在するなら──



「──優しい世界ですね」



ぽつりと零したその言葉に、先生は目を細めた。

けれど、その表情は微笑みでも満足でもなく──ほんの、かすかな痛みを湛えていた。

「……それを目指しているんだ、俺は」

その声は夜風よりも低く、街灯よりも淡い。

「法を学んで、法を教えて……ずっと思っていた。“法は正義だ”って言う人がいるけど──俺は違うと思う」

総一郎は黙って聞いていた。

元法学教授であり、発明家であり、理想主義者でもあるこの人が、“正義”という言葉を批難する姿を初めて見た。

「法律っていうのは、“犯罪が起きたあとに機能するもの”であって、全部、事後対応だ。いくら法を整備しても、裁判を厳格にしても、人が悪いことをしようと決めた瞬間を止めることはできない。世の中が“最初から悪事を起こさせない世界”になったら──」

酔っているのに、その語りには一点の迷いもなかった。

「世界は確実に良い方向へ進むと思うんだ」

彼にとっては、“計算可能な現実”。

どこかに向けた言葉と言うより、何度も自分が夢に見た世界のように響いた。

「だから、ルミライトが必要なんだ」

──心では止められない衝動を、彼は“仕組み”で止めようとしている。

「俺はね、人の善意に頼らない世界がいちばん優しいと思ってる」

“人は変われる”ではなく──“人が変わらなくても平和でいられる”世界。それが彼の掲げる理想であり、祈りであり、研究の目的だった。

「法は、正義の最後の砦でしかない。──犯罪のない世界、俺はそういう“優しい世界”を作りたい」

唐突に語られた先生の“目的”は、あまりにも真っ直ぐで逆に耳を打った。

「法を知っていても、それで悪事を止められるわけじゃない。起こってしまった事件に名前をつけて、理由を探して、罰を与える。そういうことじゃなくて──そもそも、事件が起こらない世界の方が、よっぽど価値がある」

この人は本当に“覚悟”してる。未来に責任を持とうとしている。

「だから、発明家になった」

ぽつりと落とされた一言。

総一郎の目が見開かれる。

「犯罪を起こさせない技術を作るために。誰かを疑わなくて済む世界を作るために」

先生は、未来を“裁く側”から、“防ぐ側”へと自分の人生の舵を切った人間だ。

それは、誰かに認めてほしくて言った言葉じゃない。ただ、自分の進んだ道を言葉にしただけ。

けれど、総一郎の胸には──驚くほど深く刺さった。

(……この人は、ほんとうにすごい)

尊敬は、すでにしていた。

講義の姿勢も、法への造詣も、教育者としての在り方も。

けれど今、この瞬間──それらすべてが“前座”に思えた。

──これは、覚悟の話だ。

知識や技術の話じゃない。

“どう生きるか”という根本の問いに、この人はとうの昔に答えを出していた。

「……すごいですね、先生」

思わずこぼれたその言葉に、先生は肩をすくめて笑った。

「なにが」

「……全部がです」

答えになっていない答えだったが、それ以上の言葉は出なかった。

人の善意に頼らない。

人の過ちを前提にしない。

最初から“誰も悪いことができない世界”をつくろうとする、その志に、総一郎は圧倒されていた。

ここにいたのは、ただの酔っぱらいでも、ただの法学者でもない。

未来に責任を持とうとしている人間だ。

誰よりも優しく、誰よりも冷静で、誰よりも“世界を信じていない”からこそ、“みんなが信じられる世界”を作ろうとしている──



──光みたいな人だと、思った。



まぶしくて。

眩しくて。

でも決して見下ろしてこない。

ただ、自分が照らすべきものの方角に向かって、確実に進んでいる。自分の信じる“優しい世界”に向かって、まっすぐに。

あの光は、きっと誰かの影を照らすためにある。

総一郎は、その夜、ほんとうに心から思った。

この人の言葉を忘れてはいけない。

これから先、自分が何かを選ぶたびに先生の声が頭の中に響いてしまうだろう──そんな気がした。


❅❅❅


ルミライトの開発は、ついに最終段階に入ろうとしていた。

試作機はうまく動いていて、28.7度以下なら問題なく超伝導が起きていた。設計もきれいにまとまっていて、論文の準備も進んでいた。──あとは、“完成しました”と宣言するだけの段階。

その日の夕方、研究棟の旧制御室。

今では使われていないガラス張りの会議スペースで、ドヌーヴとフラッシュが向き合っていた。

「──で?」

腕を組んだまま、ドヌーヴが俺を見た。

「“相談”ってのは何だ?」

俺は返事をせずに、背後のラックへと手を伸ばした。目当てのファイルはもう決まっている。

「設計図だよ。“ワイミーさんには見せてないやつ”」

ドヌーヴの顔に曇りがさす。

俺は紙の右上、断熱層の処理構造の部分をトントンと指で叩く。

「この断熱層を逆転させて、内部にペルチェ素子を三重構造で組み込む。さらに炭素系の変換膜を挟んで、温度応答を補完すれば──“29.1度”まで耐えることができるはずだ」

「ペルチェ素子だって!?」

「ああ」

ペルチェ素子を三層にすれば、熱を感じた瞬間に、自動で冷やしてくれる仕組みができる。さらに、その間に炭素の膜を一枚挟んでおけば──もし急に熱くなっても、その膜が“クッション”になって、金属が壊れるのを防いでくれる。

「今の炭素ペルチェなら10ミリ秒で熱応答できる。しかもこれは、“自律冷却構造”だ。外部の冷却装置に頼らずに、金属自身が超伝導状態を保てるから“冷却装置がいらなくなる”」

金属が“自分で自分を冷やす”ってことだ。

配線も装置も要らない。ただその構造ひとつで、超伝導を維持できる。

ルミライトの“完成形”だった。

「……それが、“常温超伝導”だと言いたいのか」

「ああ」

ドヌーヴはしばし沈黙した。

設計図のページを一枚めくり、言葉もなく指先を止めた。

シミュレーションパラメータ、臨界挙動、断熱層の多重反転処理。全てが計算し尽くされている。しかも理にかなっていた。

「……確かに、これなら──すごいな」

「そうだろ?」

ドヌーヴは設計図を丁寧に畳み、口を開いた。

「もちろんやるだろ?」

「ああ。やろう!」

ドヌーヴは別の設計図を広げて、赤ペンである場所を指した。

「……じゃあ、段取りを確認しよう」

そこは、“断熱材の向き”と“温度センサー”が組み合わさる重要なポイントだった。

「俺が裏側のペルチェから温度を上げる。お前は、表層に電流を流す側」

「分かった。電気を流すタイミングは?」

「温度の上昇に比例するよう、段階的に電力を上げてくれ。28.7度を超えた瞬間に内部電流が暴れ始めるから、そこから先は“あえて逆流”させるように回路を組んである。設計通りなら、29.0度でピーク、それから少しずつ落ち着く。“安定領域”に入るはずだ」

「……成功したら、“常温超伝導”だな」

ドヌーヴがぼそっと言う。

当たり前すぎるその響きが、今はやけに重く聞こえる。

「失敗したら?」

問うくせに、答えを期待していない声。

それでも俺は、笑って応じた。

「そんな話は、ケーキを食ってからにしよう──」


❅❅❅


ヴォクスホロウ研究所──第六実験室。

気密性の高い実験室には、白衣の二人。ドヌーヴとコイルが並んでいた。

中央ステージに設置されたのは、直径10センチほどの、青銀色の金属球。

ドヌーヴはフェイスシールドを確認しながら、無言でコンソールの電源を投入する。

実験準備、完了。

観測室側──壁を挟んだ向こう側には、フラッシュがいた。フラッシュはヘッドセット越しにドヌーヴの声を聞きながら、重圧なパソコンを操作していた

一方のコイルは、ノートを広げ、ペンを走らせていた。

彼女の仕事は、実験中の温度や電流の数値、反応のタイミングを正確に記録すること。これは後で論文にまとめるための大事なデータであり、同時に、安全の手順が守られているかを確認する役目も担っていた。

〈……ドヌーヴ、音声入ってるか?〉

「ああ、聞こえてる。量子ゲイン補正も同期済み。こっちはいつでも電流流せる」

〈ペルチェ温度制御ユニット、加熱プロトコル第参階層へ移行。熱勾配の非線形フィードバックも正常。臨界前制御、問題なし〉

「了解。表層電荷分散ライン、フェーズロック完了。電流の立ち上げは、そっちの温度上昇に合わせて電気を送る」

コイルはディスプレイに目を移し、手元のノートにすっとペンを走らせた。

「了解。制御ユニット起動、記録しました、現在19:07:51──外部同期完了、超伝導臨界点手前の温度階層に移行。行けます!」

〈では……加熱する〉

「……ああ!」

天井のセーフティランプが変化する。

青 → 橙

──実験進行中を意味する、安全ランプの切り替えだった。


温度制御:25.2℃ → 26.3℃ → 27.0℃…


〈現在温度27.6度──表面抵抗値ゼロ。量子相維持、臨界領域内で安定している〉

「各ラインの読み取り正常。放電ノイズ検出ゼロ。……そのまま進行してくれ」

〈了解。昇温フェーズ、継続する〉

「……了解」

コイルはノートから顔を上げ、報告を続ける、

「記録継続中。ドヌーヴ、念のため冷却セーフラインのスタンバイ状況を」

〈……臨界熱応答ライン、フェイルセーフ済。緊急時にはすぐ冷やせる〉


28.0℃ → 28.4℃ → 28.6℃ → 28.7℃…


観測室。

モニター越しの数字を、フラッシュは睨むように見つめていた。

〈ドヌーヴ、ここからが勝負だ。最初の一秒で全部決まる〉

「わかってる……こっちはすでに、心臓バクバクだ」

──28.7℃。それは、天才キルシュ・ワイミーが自ら引いた“臨海値”だった。

そこを超えるということは、あの天才を追い抜くということ。それは──恐れ多い挑戦であり、同時に、この上ない歓喜だった。

人類がまだ一度も見たことのない領域。

発明者名義に尽きる。

それを──今、越えよう。


28.8℃


その瞬間、球体の表面がかすかに煌めいた。

青白い粒子が、まるで空間そのものから“剥がれ落ちる”ように揺らめく。

それは、臨界を超えた物質が、まだ世界の法則に留まろうとする──抵抗だった。

〈超伝導体表層、ゼロ抵抗のまま量子揺らぎに突入。電位変化Δφはノイズ下限を維持──伝播速度は光速限界に接近中、問題なし〉

「出力パルス設定、0.7A。投入時は段階に応ずる。スレッショルドを超えたら電荷流動解析へフェイルオーバー。三相逆波形で対応できるか、状況次第電力を上げる」

〈了解。そっちに合わせる〉

ドヌーヴは一拍置き、息を止めた。

「熱伝導フィルムも安定してる。分子運動量、平常範囲……行ける!温度を上げろ。臨界領域まで、一気にだ」

〈了解〉


28.8℃

28.9℃


「誘電特性、逸脱なし……臨海突破」

コイルの手が止まらない。声は震えていたが、記録は正確だった。

「抵抗値0.000以下を維持、問題なし」

〈──ドヌーヴ、いよいよだ。29.0度へ上げる!いくぞ〉

「……ああ」


29.0℃


沈黙。

ドヌーヴの声は震えていた。

「──いった……」

興奮でフェイスシールドを曇らせる。

「本当に……!できた……」

壁越しにフラッシュが拳を握る。

〈スペクトル波形、完全固定……抵抗値ゼロ、持続中。これは──臨界点を越えた“常温伝導帯”だ〉

「つまり──“成功”だ……!」

ドヌーヴの声が弾ける。

コイルは息を呑み、手を胸に当てて、笑っていた。

「……やっと……やっと届いたんだ……」

ドヌーヴは、青く輝く金属から目を離せない。

反射する光が頬を濡らし、震える唇から、言葉が零れた。

「……ああ……」


……ぁッ……あああぁぁぁ!!!


「……ああ……」


──熱いッ!! 熱い、熱い──!!

──しろい……しろい……っ!!

──視界がァッ!白い、白い白いッ!!

──全部──ッ、白くなってく……ッ!!


「これで──」


──あああああああああああああああああッ!!

──おかあさんおかあさん

──おかあさんおかあさん

──おかあさん───ッ!!

──たすけて 僕を 僕を─────



──────あああァァァァァアアアアアアア!!!



「──これで──」

──ヒィ……ッ

──ヒ……ッ……ヒ……ッ……


「──優しい世界になる!」


──ウォーーーーーン………………

──ウォーーーーーーーーーーーン………………

──ウォォォォォォォ…………

──ウォーーーーーーーーーーーーーン……







───────これで……!









〈“原発”の要らない世界になる──!!〉








──思い出すのは、地獄の光景か。

──あの日、母の手を握っていたはずなのに、指の感触が、すうっと、なくなっていった。

──立っていたはずの町も、家も、すべてが“塵”になっていた。

──音がない。

──匂いもない。

──息を吸っても、肺が焼けるようで、喉の奥から、言葉が腐って崩れていった。

──ただ、そこにあったのは、『光』と『影』。

──僕はあの日、死ななかった。

──死ねなかった。

──それだけが、罪だった。

──それが、僕のはじまりだ。

──光でこの世界を終わらせようとする僕の─────はじまりだった。



「──フラッシュ」

名前を呼ばれた。

その声に、意識がふっと現在へ戻る。

第六実験室へ使う途中。

俺たちは廊下を歩いていた。

白い蛍光灯の光が、足元を流れていく。

ドヌーヴの手には、いつものコーヒーカップ。

俺の手には、いつもの分厚い資料。

いつも通りの光景。

いつも通りの日常。

いつも通りの──彼の背中。

それなのに、このときのドヌーヴは、少しだけ違っていた。

「俺は、フラッシュを“友達”だと思ってる」

唐突にそう言った。

まるで、実験よりも難しいテーマを提起するように、真面目な顔で。

「なんだよ、急に」

思わず聞き返す。

ドヌーヴは構わず歩きながら、まるで自分自身の影を踏むように言葉を続けた。

「……子供が、12月に産まれるんだ」

歩みが止まった。

時間も、空気も、廊下の蛍光灯のちらつきすら──止まった気がした。

ドヌーヴは立ち止まって、コーヒーを見つめていた。

それが冷めていることにも、気づいていないようだった。

「……冬だ」

ぽつりと、それだけ言った。

俺は何も言えなかった。

だって、それは──あまりにも眩しかったからだ。

“おめでとう”という言葉が、喉の奥で凍りついた。それを言った瞬間に、もう二度と戻れない気がした。

めでたい話なのに、どうしてお前はそんな顔で言うんだ、ドヌーヴ。

「……それと、もうひとつ」

少し息を吐いて、彼は言った。

「言っておきたいことがある」

「……な、に」



「俺は、お前が──コイルに想いを寄せてることを知ってる」



心臓の音が、世界のすべての音を消した。

息の仕方を、一瞬忘れた。

ドヌーヴは、やわらかい声で続けた。

「責めてるわけじゃない。恨んでもいない。ただ……知ってて、何も言わないまま、お前のそばにいるのがずっと苦しかった。……それを言うことで、お前を傷つけるのも分かってた」

ドヌーヴは目を伏せ、指先で冷めたコーヒーを軽く揺らした。

液面がわずかに波打ち、光を反射する。

「結婚式に、お前を呼ぶのが……本当に、苦しかった」

声は絞り出すように低く、けれど曇りはなかった。

「呼ばないほうが楽だったかもしれない。お前を見なくて済むから。……でも、それじゃダメだって思った」

少し目を細めて、遠くを見るような視線を落とす。

「俺たちの関係は……どこかで線を引かなきゃいけなかった。なのに俺はズルズルとお前を繋ぎ止めていた」

俺は黙って聞いていた。たぶん、何かを言えるような状態じゃなかった。

「……俺はお前との居場所を残したかった。たとえ、どんなに苦しくても──“友達”を続けたいって──それが一番、卑怯だと思った」

空気が重く、冷たくなっていく。

俺は、何も言えなかった。

“優しさ”と“残酷さ”の区別がつかない。

「……それでも、俺は気づいてたよ」

ドヌーヴは、まっすぐ前を向いたまま言った。

歩く足を止めず、でも──その言葉だけが、確実に俺の胸に向かっていた。

「お前が、コイルに……俺より先に、想いを寄せていたことも」

俺の心臓が、いっこ飛んだ。

音もなく、脈もなく、地面に落ちた気がした。

「……」

「チャンスはいくらでもあったのに、手を出さなかったことも」

彼は続けた。優しさでも怒りでもない──事実として。

「だってお前は──“コイルの未来を、望みを叶えてあげられないから”」


──やめてくれ。


「自分の気持ちに蓋をして、コイルと離れた」


やめてくれ。


「お前の気持ちも、お前の選択も、俺は分かってる。全部、苦しかったんだろ。ずっと、苦しかったんだよな。それを黙って、笑って、俺たちの側にいてくれた。ずっと。友達でいてくれた。……ありがとう」


俺は、拳を握りしめた。

──ありがとう、じゃない。

それを言われた瞬間、胸の奥に小さな“死体”ができた気がした。俺の想いは、もう遺されたものとして扱われている。

“それでも君は優しかった”──そう語られたことで、俺の選ばなかった選択肢が、埋葬されていく。そんなふうに綺麗に片づけられるほど、俺の想いは清潔じゃない。

何度も何度も言おうとした。けれど、言えなかった。気づいていた。ふたりが互いに惹かれていることも。

けど、それでもいいと思った。

そばにいるだけでよかった。

──でも。

その「ありがとう」で、

その「優しかった」で、

俺はもう“終わったこと”にされたんだ。

だったら、いっそ、嫌ってくれた方がよかった。

「………………」

沈黙の中で、俺は何も言えずにいた。

言葉を吐けば、全部崩れてしまいそうだった。

ドヌーヴは、そんな俺の姿を見て、少しだけ目を伏せ──そして、ゆっくりと口を開いた。

「……だから、これだけは聞いてほしい」

その声は、まるで誰かを裁くようでも、赦すようでもなかった。ただ一人の男が、自分の弱さをさらす声だった。

「俺達の研究はもうすぐ発表される。ルミライトが完成したら──世界が変わるだろう。俺達が目指した“優しい世界”が、ようやく手の届くところに来る」

「…………だからなんだよ」

「だから──」

ドヌーヴは振り返ると、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。




「その論文は──お前の名前で出してくれ」




「────」

呼吸が止まった。

「俺じゃなくて、お前の名前で。世界中の学会に、お前の名を刻む。それが……俺にできる唯一の、罪滅ぼしだと思ってる」

「……なに、言って……」

「お前は必ず偉大な発明家になる。ワイミーさんの跡を継ぐという未来がある。──だから、娘には、“お前の名前をつける”」

「──ッ!」

頭が真っ白になった。

言葉の意味が、すぐには処理できず、呆然とした。

「俺は、お前から多くのものを奪った。大切な人も、未来も、全部。だからせめて、残したいと思う。お前に、“未来”を」

目が滲む。

感情が、もはやどこにしまえばいいのかわからなかった。

「は、はは……は、は」

俺は、笑っていた。

いや、笑おうとしていた。

それはきっと、顔面の筋肉の反射であって、感情ではなかった。

「……冗談だろ」

声が震える。

足元が、ちりちりと音を立てて崩れていく。

「俺の名前で発表しろ? それが俺のためだと思うのか……?」

手は、握ってもいないのに、拳の跡が残るくらい震えていた。

「ああ……」

喉が焼けるように痛かった。

けどそれ以上に、心が、裂けそうだった。

「俺が、どんな気持ちで……」

どんな気持ちで、“親友の結婚式”に立ったか。

どんな気持ちで、“ベストマン”なんて役を演じたか。

──全部、わかってたんだろ、お前。

「だから、俺の子には──“ルミエル”という名をつける」

宣告のようなその言葉に──俺の心が、奇妙な形で軋んだ。

名を与えるという行為は、未来を与えるということだ。

一生を背負わせるということ。

存在を刻みつけ、逃れられない重さとして封じ込めるということだ。ドヌーヴは俺に未来を与えると言ったが──俺の未来を、彼の子供に封印する気だ。

それはきっと善意であり、彼なりの正義心なのだろう。

だからこそ残酷だ。

「……お前、ほんと……最低だよ……」

震えていた。

声が、心が、呼吸までもが。

“俺の名前を娘に与える”なんて。

お前は知らないだろう──その子が生きるたびに、俺が思い出に閉じ込められていく痛みを。

“あの日の俺たち”は二度と取り戻せないのに。

お前は俺を未来に置き去りにし、そして未来に縛りつける。

──優しさの皮を被った、最もひどいやり方で、俺を繋ぎ止めようとしている。

“ありがとう”じゃない。

“おめでとう”でもない。

“お前を祝いたかった”でもない。

これは、俺に永遠の未練と誇りと喪失を同時に抱かせる──

完璧な呪いだ。

ドヌーヴは、何も言わなかった。

言葉なんて、きっと選びようがなかった。

この痛みを包めるような台詞なんて、世の中には存在しない。

それでも、彼は言った。

迷わず、真っ直ぐに、最も重たい言葉を。




「俺はお前を愛してる。たとえ自分の子にお前の名前を背負わせることになっても。それが、俺にできる懺悔であり──下るべき裁きだ」




それは──友情の名をした、決して癒えない呪いだった。



──手が震える。声が掠れる。

〈……ドヌーヴ……〉

フラッシュの声が、ヘッドセットの奥で揺れた。

〈成功だ……!〉

フラッシュのその声にコイルはパッと明るくなり、笑った。

「すぐ、報告しましょう。ワイミーさん、今はいないけど……きっと、喜ぶわ」

〈ああ。論文にして、最初に見せるのはあの人だ。それからだ。学会も、賞も、世界も──何でも持ってってやる〉

フラッシュの声に、ドヌーヴは一度だけ目を細める。

それはたぶん、誇らしさの目だ。いや──願望としての、誇らしさの目だ。

頬を伝う汗は、熱のせいではなかった。

それでも、誰もそれを指摘しない。誰も、気づかなかった。……たぶん。

「……さて」

彼が息を吐く。

「冷却プロトコルに、移行しよう」

手元のスイッチに、指を触れさせる。

押す、というほどの操作でもない。

ただ触れただけ。なのに──

反応が、ない。

沈黙が、耳よりも先に、指先に届いた。

金属は──青く、まだ、脈打っていた。

まるでそこに、誰かが生きているかのように。心臓のフリをしているかのように。

コイルが、首を傾げる。

その仕草は問いよりも違和感に近い。

「……どうしたの?」

ドヌーヴは、返す。返さずにいられなかった。

口に出した瞬間、それは現実になってしまうのに。

「……自律冷却が──入らない」

〈回線? いや、ペルチェの制御か……回路が死んだのか?〉

フラッシュの声が入る。

“冷静”のマスクをかぶった“不安”の声だった。


温度計:29.0℃ → 29.1℃


表示が、未来に向かって歩き出す。

「……上がってる……?」

──あり得ない。

理論上、ここで下がるはずだった。

温度は、境界を超えた直後に沈静化するはず。

“理論上”という安堵は、こういうときに限って一番最初に裏切ってくる。

ドヌーヴは、つい、前に身を乗り出した。

焦り? 興奮? いや違う──本能。

その瞬間。

金属の表面が、ふ、と──揺らめいた。

空気でも吸ったのかというくらい、自然に。

しかし、その自然さこそが、不自然だった。

光が滲む。

青でもない、白でもない。

混ざり合っていないのに分離してもいない、虹色の──そう、“ひび割れた光”。

金属に宿った“何か”が、今、脈を打っている。

〈……ノイズ反応……?〉

フラッシュの声が硬くなる。

〈いや違う、それ“放射”だ。ドヌーヴ、距離を──〉


29.1℃


誰かが、世界の息を止めた気がした。

コイルが、胸に手を当てていた。

見えない鼓動と、見える恐怖を、掌で探すように。

「光って……る?」

ドヌーヴは目を凝らす。

──金属のひだの、わずかな隙間。

まるで誰かがそこから覗いているような、薄暗い境界。

今、そこに──




──“白い刃”が走った。




その光は直線だった。

なにもかもを真っ二つに裂くことだけを目的とした、冷たくて熱い、鋭利な何か。

瞬きしたら、終わっていた。

──いや。

瞬きする前に、視界が焼かれた。

「っ──!」

声が先か、痛みが先か、それとも光か。

とにかく、何かが脳に突き刺さった。

焼き付いたのは光線じゃない。“線”だった。

白くて細い、でも確実に「命を断つための線」。

「ドヌーヴ!」

コイルの声が、現実に引き戻す。

そして、震える手が、守るようにお腹へ伸びる。“それ”は、母親の動きだった。

〈離れろ!ドヌーヴ、離れろ!〉

フラッシュの声が怒鳴る。

通信機越しの音が、やけに遠く聞こえた。

──まるで、海の底から呼ばれているみたいだ。

だが。

すでに、もう。

もう、何も、届かない。


29.2℃

内部圧:過剰反応

量子共鳴:発振中


金属が、鳴った。

澄んでもいない。濁ってもいない。

削れたオルゴールが悲鳴を上げたみたいな──音程のない、高音。

誰かが泣いているような。

誰かが笑っているような。

そんな音だった。

──そして、

世界が──“割れた”。

破裂ではない。

爆発でもない。

“割れた”のだ。

まるで、それ自体が一枚のガラスだったみたいに。

閃光。

白い。

白い。

白い、光。

そして、何も無い、

“無の世界”。


──その瞬間、ドヌーヴは、駆けていた。


たった一歩。

数歩だけ。

距離にして、約1メートル。

宇宙の法則が追いつく前に。

熱量が閃光に変わる前に。

運命がそのページをめくるよりも早く。

彼は、彼女の前に立っていた。

コイルの瞳に焼き付いたのは──

ドヌーヴの背中。

ドヌーヴの肩。

ドヌーヴの、決意。

彼女の視界の向こう。

迫る、あの白い、白すぎる、白が過ぎる光。

それは閃光というには優しすぎて、死というには美しすぎた。

「──!」

叫びは、追いつかなかい。

音は光に、光は命に、命は彼に、集約された。

白すぎる世界に浮かぶ、黒の輪郭。

両腕を広げたシルエット。

庇うように、何かを、誰かを──“守るように”立っている。

影は一人。

影は一瞬。

影は、彼だった。

白衣が音を立てずに焦げる。

皮膚に触れた光の粒が、彼の肉体を“存在”ごと削っていく。

──なのに、動かない。

いや、動けないんじゃない。

“動かないことを選んだ”人間が、そこにいた。

たった一瞬。

心臓の鼓動より短く。

まばたきより速く。

光が“彼ら”を飲み込んだ。



喧騒の止んだ深夜のキャンパス。

試験期間も終わり、人気のない大学図書館の一室で、総一郎はノートを閉じた。

最後のレポートを書き終え、帰ろうと鞄に手をかけたとき──


“受信1件”


携帯がかすかに震えた。


差出人:不明


総一郎は眉をひそめた。

「……不明?」

“迷惑メール”ではない。

不気味なくらい整ったフォーマット。差出人も、アドレスも表示されない。

そして、本文を開いた瞬間──息が止まった。



差出人:不明(アドレス表示なし)

件名:〈訃報連絡〉

本文:



夜神総一郎 様


突然のご連絡、失礼いたします。

あなたがかつて深く信頼を寄せた人物、Lawliet は、先日起こった研究所内の事故により命を落としました。


詳細は現時点で開示できません。

関係者として、まずはこの場を借りてご報告申し上げます。


深い哀悼とともに、

この知らせがあなたに届くことを願って。



読み終えた瞬間、背筋を何かが走る。

意味が、わからない。

でも、“何か大きなものが終わった”という予感だけは、確かにあった。

総一郎はすぐに返信しようとした。

だが、差出人欄は空白。

メーラーが跳ね返すように、宛先の存在を認識しない。

「……嘘だろ……?」

ガタガタと手が震えて涙がポタポタと溢れた。

「先生……」

総一郎は動けなかった。

希望を握っていた手の中に、残ったのはただ一つ──戻らないという事実だけ。


❅❅❅


サイレンの音が、遠ざかる街を切り裂いていた。

担架に乗せられたコイルの胸は、上下していない。酸素マスクの下、顔には細かな裂傷。右腕は焼けただれ、白衣の裾はほとんど燃え落ちていた。

フラッシュは、担架の横にしがみつくようにして付き添っていた。

口を開いても、声が出なかった。

“起こしたのは自分だ”という思いが、喉を塞いでいた。

「バイタル低下!SpO2、88%!」

「出血量、多すぎる……このままだと……!」

「すぐに処置室を確保!胎児モニタリングは!?」

その声を聞いた看護師が、血相を変えて叫ぶ。

「──お腹の中の赤ちゃん、生きてます!心拍確認!」

フラッシュは顔を上げた。

「……っ、助けてください。彼女を、どうか──!」

医師の声が返る。

「母体は厳しいな……長くは保たないだろう……今すぐ、帝王切開を始める。搬入後、即手術だ!」

担架が病院の自動ドアを越える。


◤ロンドン総合病院/搬入口前/1階ロビー◢


深夜0時──

回転扉が、乱暴に動く。

駆けつけたのは、キルシュ・ワイミーだった。

コートの裾が風に揺れ、足取りは速く、受付を通さずにまっすぐ看護師のもとへ向かう。

「彼らは……どこだ」

看護師が指をさす。

その先──手術フロアの控室。

ワイミーは、扉を開けた。


◤控室◢


そこにいたのは──フラッシュだった。

薄暗い灯りの中、椅子に座り、上着を脱いでもいない。

背中を丸め、両手で頭を抱えるようにして、沈んでいた。

ワイミーが立ち止まった。

「…………」

その空気を感じ取ったのか、フラッシュが顔を上げた。

青ざめ、目は赤く、頬には涙の跡が乾いていた。

何かを言おうとして、声が出ない。

唇が動いた。

「おれ……」

立ち上がろうとするが、足がもつれる。

「おれの……」

「…………」

「……おれの、せい……っ」

震える声が、喉の奥から、喉を裂くように漏れ出す。

「おれがやったんだ……っ、あいつに……あんなのを……やらせた……! コイルも……ドヌーヴも……!!」

彼は、ワイミーの胸にしがみついた。

掴んだコートの布が、しわになった。

その手は震えていた。指先に、力が入らない。

「お願いです、ワイミーさん……なんとか……なんとかしてください……!」

「……」

「おれ、なんでもしますから……! なんでもするから……戻ってきてよ……」

ワイミーは、何も言わずにゆっくりと腕を持ち上げた。

そっと、その背中を抱いた。

語る言葉はなかった。

ただ、嗚咽だけが、夜の病院の廊下に、切れ切れに響いていた。


❅❅❅


◤病院スタッフステーション◢


事故から数日後の夜。

ロンドン総合病院、新生児病棟。

廊下は消毒液の匂いがほのかに漂っていた。

午前2時──空気は眠ったように静かで、時間の流れだけがゆっくりと進んでいる。

ナースステーションの奥。

看護師たちがカウンター越しに、声を潜めて話していた。

「……あの赤ちゃん、見た?」

看護師がひそひそ声で言った。

「誰?」

「ほら、あの研究所で事故があって──」

「ああ、“ローライトさん”の?」

「そうよ。放射事故で運ばれて……」

「あれだけの光を浴びてたのに、赤ちゃんは生きてるって奇跡ね……」

「でも、母親の方は──」

「ええ、昨晩亡くなったわ……」

しばし沈黙が落ちた。二人ともその続きをすぐには口にできなかった。

「そう……」

やがて、一人が口を開けた。

「──まさか、本当に会えずに終わっちゃうなんてね……思ってもみなかったわ……」

もう一人の看護師が、小さく息を吐いた。

「……出産は命懸けなんていうけれど……ああいうお別れの仕方は……したくないわよね」

「ええ。子どもだけ助かったなんて……。子供にとってもショックでしょうね……」

「しかも、生まれてすぐ“心臓麻痺”だったんですって」

「えっ……」

「12月出産予定だったのに、10月──あんな事故じゃすぐ出産も仕方ないけれど……臓器が未完成だったみたい。特に“心臓”と“脳”が──今も、後遺症が残ってるらしいの。脳も心肺機能も。完全じゃないから、気管挿管で繋がれてる……息をするのも、機械の助けを借りてね……」

「それでも、生きてるんだもの……すごいわ、あんな小さな身体で」

しばらくして、一人の看護師が机に肘をつき、額に手を当てた。

「……私、何度か定期検診のとき、担当したから……本当に胸が苦しいわ……。“この子に世界を見せてあげたい”って、話してたのに……。こんな終わりなんて……神様って本当に意地悪だわ……」

「……あの子、名前もないんですって?」

「女の子だったら、“ルミエル”って名前がもう決まってたのにね。“エコー外れた”みたい……」

「……名前もなく、生まれてきたなんて……」

「親にも抱かれず、名も残されず、この世にだけ残されるなんて……あまりにも、酷い話よ……」

「一体、誰が“彼”に名前をつけてあげるのかしら……」

「……あの光の中で、生まれてきた奇跡の子なのにね──」

──ガラス越しの保育室。

並ぶ保育器のひとつで、赤ん坊がすやすやと眠っていた。肌はほんのり赤く、小さく、透明なほど薄い身体。だけど──どの子よりも、確かに“生きていた”。

「この子……光の中から、生まれてきたのね」

誰かが、そう呟いた。

ウィンチェスター爆弾魔事件

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