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第八話 ただの5文字
夜の館を、私は見回りしていた。
奴隷として連れてこられたのだから、そんなことをするのは当たり前だ。
普通なら1日も寝ずに見張れなど無理な要求をするものだから、こんなものは朝飯前である。
廊下は静まり返り、私の足音だけが石床に響く。
ふと、アディポセラ様の部屋の前を通りかかる。
いつもはドアの下部から漏れる柔らかな光が、今夜は消えていた。
耳を澄ますと、かすかに声が聞こえた。
「……困りました」
いや、確かに聞こえた。例の声だ。
普段はあの穏やかな声も、今はどこか焦っている。
どうやら、部屋の中で何かあったらしい。
私はドアを少し押す。鍵はかかっていない。
案の定、蝋燭の火は消え、部屋は暗闇に包まれていた。
「アディポセラ様、よろしければ──」
私は持ち歩いていたランタンを取り出す。
明かりを灯すと、足元の机に散らばった書物や紙が見えた。
転倒しそうになっている様子も一目で分かる。
黙ってランタンを差し入れる。
アディポセラ様は驚き、目を丸くした。
「ありがとう……」
いや、別に助ける気はなかった。
ただ光がなければ、書物の整理もままならず、うるさく騒ぐ音が廊下まで響くことになるだけだ。
ただ、奴隷としての仕事を全うしていただけだ。
ランタンの光で書物を元の場所に戻すアディポセラ様を横目に、私はただ黙って立っていた。
その顔は、驚きと少しの安堵で輝いていた。
──なるほど。
私は奴隷として普通のことをしたまでだが、それを「助けられた」と思い込むのは、思い込みというよりも、仕方のないことだ。
暗闇の中で、私は静かにそう思った。
何も言わず、必要以上に関わらず、ただ光を差し出す。
それだけで十分だ。
部屋の中でアディポセラ様の手が動き、書物が整えられていくのを見届けながら、私は小さく息を吐いた。
人とは、時に自分の良い方向へと物事を考えてしまうらしい。
「そうだ、“おまじない”について教えてあげましょう。……本当は秘密で大事なものですが」
“おまじない”?
なんの儀式だか、アディポセラ様は私の手を取った。
馬鹿らしい。おまじないだなんてこんなところで唱えても神が見ているわけではあるまい。
そんなのでおまじないのお陰だの言っているやつはそれこそ思い込みに過ぎない。
「『おまじない』……なにか、怖くなったり、心配になったりしたときには、そう唱えましょう。心が落ち着いて、正気になれます」
……それだけか?
「……おまじない……」
呟かなければならない気がして。
でも、それを言ってもあまり気は変わらない。
「ええ。5文字だけ。……これは、今は亡きお母様から教えられたものです。決して他の者に教えないように」
5文字。たったの。
しかも同じ思い込みの類だ。
そう唱えるだけで正気に?
やはり蛙の子は蛙で、アディポセラ様のお母様もそんなことを信じていたのか。
この5文字になんの意味もない。
実にくだらない。
ただの5文字だ。
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