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街中にお祭りムードが広がり、その空気に浮かれた人たちが軽微な罪を犯す確率が上がりだしたその日、そんな空気の中でもいつものように犯罪者には厳しく被害者にはなるべく優しくをモットーに日夜働くリオン達の元を絶世の美女が訪れた。
すらりとした長身で背中の半ばまで伸びている髪はハニーブロンド、切れ長の瞳は澄んだ青で、一見するだけでは若い頃にモデルや芸能活動をしていたのかと思われそうな外見をしたその女性は、周囲の視線など一切気に掛ける様子もなく刑事部屋に入って来るなり、部屋のやや奥まった席でコーヒーカップを片手に気怠げな顔で書類に向き合っているリオン目掛けて鋭い声を飛ばした。
「リオン・H・ケーニヒ刑事! 今すぐこちらに来い!」
「!?」
突如響いた女性にしては多少低い良く通る鋭い声に名を呼ばれてコーヒーで喉を詰めそうになったリオンは、呆然としたまま入口へと顔を向けてあんな美人にフルネームで呼び捨てにされる覚えはないと脳内で呟くが、早く来いと言っているだろうと居丈高に怒鳴られて首を竦めたかと思うと、満面の笑みを浮かべたまま勢いよく立ち上がり、茫然自失の顔で見つめてくる同僚達に片手を挙げると大股に彼女の前に歩み寄る。
「ケーニヒ刑事、来ました!」
「よろしい! ヒンケルに用があるんだ、案内してくれないか」
「へ!?」
場合によっては元スーパーモデルを自称してもおかしくない美貌の持ち主が、普段着は腰蓑と革のベストで十分なクランプスに一体何の用事があるんだと素直な感想を零すと、青い瞳がじろりと睨み付けてきた為、もう一度首を竦めてすぐ近くにあるヒンケルの部屋のドアを破る勢いで二度だけノックをする。
「ここはトイレじゃないぞ!」
「んなこと分かってますよ。ボス、お客さんです」
二度のノックはトイレのドアにするもので、敢えてそのノックをしたリオンにヒンケルの怒声が返ってくるが全く意に介せずにドアを開けて背後の美女を部屋の主に見えるように身体をずらすと、その美女が鷹揚に頷いた為お役ご免だと踵を返そうとするリオンをヒンケルの意外そうな声が呼び止めてしまう。
「ビアンカ!?」
「久しぶりだな、マルティン」
己の上司が素っ頓狂な声で呼んだ名前に僅かな引っかかりを覚えて思わず足を止めたリオンだったが、一つに纏めた髪を思い切り引っ張られる暴挙を受けて悲鳴を上げる。
「いててててて!」
「何処に行く、お前にも話があるんだ」
「いてぇ! ボス、手を離せって言って下さい!」
「自分で言え」
日頃の悪ふざけの数々の仕返しを今ここでするつもりなのか悲鳴を上げるリオンを見てほくそ笑んだヒンケルだが、痛いから離してくれ、このままだとそこにいるクランプスのように頭が禿げ上がると、転んでもただでは起き上がらない根性を発揮したリオンが叫ぶとようやくビアンカと呼ばれた彼女の手が離れ、それを見守っていたヒンケルも苦笑をしつつ自由を得たリオンを見つめる。
「おー、いてぇ……。マジで禿げたらどうしてくれるんだよ……」
本当に禿げたら経費で育毛剤を購入してやると涙目になってぶつぶつと文句を垂れるリオンに旧知の仲らしい上司二人がにべもない声でそんなものを経費で買えると思うのかと言い放つと、ヒンケルの管理職手当てから抜き取ってやると吼えられて頭痛を堪えるような顔になる。
「……そんなことはどうでも良いが、本当に久しぶりだな。今日はどうしたんだ?」
「久しぶりだ」
その美貌がもったいないと思える程のぶっきらぼうな話し方だったが、ヒンケルはそれについては全く気にしている様子もなく、黙っていれば美人なのにともう一度素直な感想を口にしたリオンは、ほぼ同時に二人に睨まれて亀のように首を竦めるが、彼女の刑事とは思えない綺麗な手が椅子を指し示したことに気付いて気分を切り替える。
「うちの管轄で起きた殺人事件の被疑者と重要参考人がこの街に逃げ込んだという情報があった」
彼女の口から流れ出たのは、この街から南に2時間近く車で走ったドイツアルプスの麓に位置する小さな町で起きた凄惨な殺人事件についてで、こんなにも凄惨で残虐な事件は20数年前に起きたあの事件ぐらいだと、心底憤慨している声が事件のあらましを語った直後、リオンの青い瞳が限界まで見開かれると同時に腰を下ろしていた椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
「思い出した! あんた、クランプスに不釣り合いな美人刑事……!」
「そうだ。今頃思い出したか」
そんな記憶力で良く刑事をしているなと旧友がクランプスで己が美女であることを肯定したビアンカ・クリンスマンに笑われて絶句したリオンだが、あの時一言二言言葉を交わしただけの己を良く覚えていたなと感心しつつも、彼女が言う20数年前の凄惨な事件が何を意味するかを察し、倒した椅子を起こして静かに腰を下ろす。
「大通りの一角で土産物屋をしている一家が殺されたが、その家族の下の娘と被疑者が一緒に逃げている」
「殺された家族の娘? その娘が重要参考人だと言うのか?」
「そうだ。……その娘と付き合っていた男が被疑者だ」
若い娘のその親が娘と恋人の付き合いを反対していたが、子ども達が実力でもって親と姉をこの世から追いやってしまったのだと沈痛な顔で語った彼女は、神妙な表情になったリオンをちらりと見、次いでヒンケルを見て形の良い唇の両端をしっかりと持ち上げる。
「そこで、だ。被疑者と重要参考人を追いかけるのに何人か借りたい」
「そう言う事情ならば後で誰かを応援にやろう。何処に向かわせればいいんだ?」
事件について掻い摘んで聞いただけでも嫌な汗が背筋を伝いそうな雰囲気を察し、ヒンケルが顎の下で手を組んで溜息をつくとリオンも上司のその態度から何かを察したのか、広げた足の間で両手の親指を回転させ始める。
「この街での足取りを追いかけるのに協力して欲しい」
まだこの街にいるのかそれとも何処か別の土地に移動したのかを調べたい、可能ならば被疑者の逮捕と重要参考人の保護をしたいと伝え、細くて長い足を組み替えたクリンスマンは、ロルフの最後の事件だから何が何でも解決したいんだと長い睫毛が影を落とす整った顔にこの時初めて女性らしい感情を見せると、ヒンケルが残念さを隠しもしない顔で深く頷いて辞めるのかとしんみりした声で返す。
「ああ、もうすぐな。この事件が終われば休暇を消化すると言っていた」
だからどうしても彼の手で事件を終わらせたいのだろうと笑い、その為の協力を頼むと人にものを頼んでいるとは思えない態度で言い放った彼女は、その言葉が消えるか消えないかの素早さでそこにいるリオンを借りていくとも告げる。
「リオンを?」
「そうだ。この街に逃げているが、隠れやすい場所などは限られているだろう」
ドイツ国内でも大都市として名前の知れているこの街であっても、二人の青年男女が隠れようと思えば場所は限られてくるだろう、そんな場所に精通している人間の手を借りたいと笑いながらリオンを振り返ったクリンスマンは、青い目を見開いて呆然と見つめてくるリオンに笑みを深め、お前ならば分かるだろうと言い放ってリオンの口元に不敵な笑みを浮かべさせる。
「分かりますねー。犯罪者を匿ってもおかしくない地区とかならお手の物ですよ」
その一言に込められている思いの一端をヒンケルは感じ取っているがクリンスマンもどうやらそれを察したようで、一つ咳払いをすると同時に掌を立ててもう一度咳払いをし、リオンの顔を真正面から見つめてゆっくりと口を開く。
「私が望んでいるのは被疑者の逮捕と参考人の保護だ。その為に土地勘のある人間の協力を得たい。ただそれだけだ」
だからお前が何処の地区の出身であろうと昨年世間を賑わせた一連の事件の被害者と関係があったとしても私の関知するところではないし、またそうだからと言ってお前の仕事ぶりを判断するつもりは毛頭無いとぶっきらぼうな口調の中にも優しさが滲んでいる声で告げられてはリオンも一瞬覚えた反発心を解消するしかなく、肩を竦めて己の思いを霧散させたことを伝える。
「さっきも言ったが、うちで古くから刑事としてやってくれているロルフがこの事件を終えて辞めることになった。その彼に敬意を示すためにもどうしても早く被疑者を逮捕したいんだ」
だからここからも人員を貸して欲しいとヒンケルに向き直って僅かに頭を下げたクリンスマンに旧友も頷き、彼女の肩越しに部下を見て無言で頷くとすっかりと暗い感情を解消したリオンが真摯な顔で頷き、この後どうすればいいのか指示をくれと伝えて立ち上がる。
「詳しいことが決まったら教えて下さい」
「ああ、分かった。宜しく頼む、リオン」
「Ja.」
「そうだ。ロルフが今日の夜にこちらに来る手筈になっている。お前にも会いたいと言っていたぞ」
彼女の言葉からロルフという名前の定年間近の刑事の顔が脳内の引き出しに眠っていた一人の男の顔と重なり、自然と笑みを浮かべてリオンも大きく頷く。
「俺も会いたいですね」
今日もしも事件が無くて平穏に終われば彼と一緒に飲みに行きたいと笑い、部屋の外から同僚に呼ばれていることに気付いて顔を振り向けたリオンは、姿勢を正して上司とその旧友に礼をして部屋を出て行く。
その背中を見送った二人だったが、クリンスマンが足を組み替えて溜息を吐き、己の膝頭に手を載せると同時に咳払いをしてヒンケルの意識を向けさせる。
「今回の事件、20年前を思い出すとロルフが熱くなっていて困っているんだ」
だから少し事件の核心ではなく核心に繋がる何かを探して貰おうと思っていると、上司と言うよりは長年刑事を続ける彼への敬意を滲ませたぶっきらぼうな言葉にヒンケルも頷き、あの事件はあまり記憶にないがかなり凄惨な事件だったそうだなと返すと、クリンスマンの形の良い眉がくっきりと寄せられて苦悩の皺が浮かび上がる。
「そうだな……生き残った子どもが心を壊したとは聞いたが……」
あの事件の被害者であり唯一の生き残りである子どもはどうしているんだろうなと話にだけ聞いている事件に思いを馳せた彼女は、旧友の口から流れ出した言葉に目を瞠って到底同じ年とは思えない厳しい顔を直視しつつ身体を強張らせてしまう。
「今はこの街で精神科医として立派に生きているぞ」
「事件の傷から立ち直ったのか!?」
「ああ。俺も再起は無理だと思っていたから忘れ去っていたが、数年前にある事件で知り合った。その時は本当にうかつだとは思うがその子どもだとは気付かなかったな」
お前の言葉ではないがこれで良く刑事をやっていられるものだと肩を竦めた彼は、脳裏に端正な横顔を思い描きながらデスクの引き出しから変哲も飾り気もない名刺を取りだし、驚く彼女の前にそっと差し出す。
「……ウーヴェ・F・バルツァー……そうか、バルツァーの末っ子だったな」
「ああ。かなり大きな事件だったが、現場になったのがそちらの町だったからか直接事件に関与していないから記憶に残らなかった」
ただ、その事件で知己を得てからは折に触れてはその時その時に抱えている事件についての意見を求めているとも伝えると、事件を生き延びた幼い命が日々の暮らしを送っていることが彼女の心に何らかの思いを芽生えさせたようで、その名刺の縁を人差し指で撫でたクリンスマンの顔はリオンが見れば仰天のあまり腰を抜かしてしまいそうな程優しいものになり、名刺をそっとデスクに戻すと安堵の溜息を天井に向けて吐き出す。
彼女もヒンケルと同じだけ刑事として現場を日々見つめ、その中でも目を背けてしまいたい程の凄惨な事件の担当をしてやるせない思いもしてきたが、常の彼女は被害者が事件に巻き込まれる前のような生活に戻れるかを密かに案じていた。
その為、自身は担当していないが話にだけは聞く事件の生存者が今も生きているだけではなく、警察から意見を求められる医者として生活している姿を垣間見ることが出来てつい表情を和らげたのだが、次いで聞かされた言葉に椅子から身を乗り出してしまう。
「近いうちにドクのクリニックに出向く事になっているが一緒に来るか?」
「良いのか?」
「ああ。先日終わった事件について何人かの精神科医の意見を聞いているだけだからな、問題は無いな」
この街にいつまでいるんだと問いかけつつ受話器を手にしたヒンケルは、明後日には町に帰らなければならないと教えられて一瞬眉を寄せるが、受話器の向こうにすっかり聞き馴染んでいる女性の声が聞こえてきた為に意識をそちらに向け、急なことだがこれからそちらに出向いても大丈夫だろうかと問いを発しつつ彼女の顔を見ると、本当に嬉しい事なのか目元がうっすらと色づいていて、普段は意識することがない旧友の年を経ても美しい顔が更に輝いているように感じて思わず受話器を取り落としそうになる。
『……警部?』
「あ、ああ、失礼した。急で申し訳ないが、先日頼んでいた意見のことでこれからそちらに窺ってもいいかね?」
訝る声が聞こえて咳払いをし、受話器を肩と頬で挟みながらブロックメモに何事かを書き込んだ彼は、覗き込んでくる友人にメモを引きちぎって手渡し、にやりと笑みを浮かべて一つ頷く。
『先生に繋ぎますので直接お聞き下さい』
「頼む」
彼女の言葉にヒンケルが頷いて保留音が流れる受話器を一度耳から離して持ち直すといつもと比べれば疲労感が滲んでいる声が名前を呼んでくることに気付き、再度これから窺っても良いかと問いかけると少しの沈黙の後に小さな溜息が聞こえてくる。
『今日はちょっと時間が取れないので、明日では駄目ですか?』
「無理を言っているのはこちらだから気にしないでくれ。明日の朝一番にクリニックに出向いても大丈夫か?」
『少しお待ち下さい……朝一番なら大丈夫です』
そういうことでしたらと快く了承してくれる電話相手に笑顔で頷いたヒンケルだが、メモを読んだ彼女が楽しそうな背中を見せながら部屋を出て行くのを見送り、ガラス張りの部屋から見える部下達の並んだデスクの間で湧き起こりつつある狂騒に一瞬目眩を覚えるのだった。
今日の診察も何事も無く終えたウーヴェだったが、帰り支度をしている時にリアが緊張の面持ちで来客を告げた為、ここ数日悩ませている手紙が納められている引き出しを今まさに開けようとしていた手を止めて客を招き入れたのだが、入って来た人達を目にした途端、深く溜息を吐いた。
そんな不意の来客がデスクの向こうの一人掛けのソファに細くて長い足を組んで座る女性と、ソファの肘置きに遠慮がちに腰掛けている男性であり、彼女達を交互に見つめたウーヴェの口から溜息が零れ、デスクを指先でノックする音が一定のリズムを刻んで室内に響く。
奇妙な緊張感を撒き散らしているウーヴェの前ではナイフとフォークよりも重いものを持った事がないのではないかと疑いたくなるような綺麗な白い手でブロンドを掻き上げた女性が苦笑し、そんなに難しい注文をしているつもりはないと笑うが、彼女の顔より高い位置から諦めの溜息がこぼれ落ちる。
「……前にも言ったと思うが、来るのならどうして先に知らせてくれないんだ?」
このところウーヴェを悩ませている手紙の存在をこの時ばかりは脳内の片隅に追いやり、溜息を吐いて椅子の背もたれにしっかりともたれ掛かったウーヴェは、己の言葉に黙って肩を竦める女性にもう一度溜息を吐くが、こうなってしまえばどうすることも出来ないと理解している為にデスクを手の甲で一つ叩いて気分を切り替える。
「――久しぶりだな、エリー、ミカ」
「ええ、久しぶりね、フェリクス」
元気そうで良かったわ、そう笑いながら立ち上がりデスクの横に回り込んだ彼女、アリーセ・エリザベスを見上げたウーヴェは、白くて綺麗な手を掴んで引き寄せると、いつでもいい匂いのする姉の身体を緩く抱きしめる。
「本当に、元気そうで良かった」
今から一年ほど前になるだろうか、あなたと彼の周囲で起きた悲しい事件が後を引いているのではないかと心配していたと教えられて苦笑し、自分よりもリオンがひどかったことを伝えるとアリーセ・エリザベスが少し身体を離して伏し目がちになる。
「そうね、ゴシップで随分とひどく書き立てられていたみたいだけど、もう大丈夫なの?」
今はここにいないリオンの心身を案じての言葉にウーヴェが胸中で礼を言い、もう大丈夫だと笑みを浮かべると姉の顔にも安堵の表情が広がる。
「それよりも、まだシーズン中だろう?」
ミカと一緒に帰ってきたと言う事はドイツ国内でラリーがあるのかと、姉と義兄に向けて問いを発すると、姉の顔が一瞬で曇り義兄が無言で肩を竦めてしまう。
「ミカ?」
「……先のレースで足の骨をやってしまってね」
「え?」
情けないことに利き足を骨折してしまい、今シーズンは復帰できないと肩を竦める義兄の言葉にウーヴェが立ち上がってミカの前に向かうと、文字通り残念だし心配している顔で傷を労いミカの広い肩に腕を回す。
「悔しいな」
「本当に悔しいよ。前半が調子が良かったからね」
だから余計にこの怪我が疎ましいと舌打ちをする義兄に首を振り、来シーズンをフルで戦い抜く為の休養が必要なんだと宥めると義兄もその思いをしっかりと受け止めて頷き、いつまでも不安そうな顔の妻を手招きして長い髪を掻き上げながらキスをする。
「アリーセ、そんなに心配しなくて良い」
「心配なんて……」
していないと言い張る姉だがその手は夫の腕に重ねられていて、氷の女王だのと称されていた姉の本心をしっかりと義兄も見抜いていることに気付いたウーヴェが少し安堵しつつデスクに腰を下ろし、これからどうするんだと二人に向けて問いを発すると、アリーセ・エリザベスがミカの頬にキスをした顔で半月ほど実家に戻っていると答え、ミカも同意するように頷く。
「ミカの傷を診てくれる腕の良いドクターがいるらしいのよ」
己の夫の傷が完治し来シーズンも表彰台に立てなかったとしてもレースには出て欲しいと控えめに己の夢を語ったアリーセ・エリザベスにウーヴェも頷くが、リハビリと通院以外はすることがないしもうすぐ始まる祭りに参加してみたいとミカが笑うとウーヴェの顔が緊張に凍り付いてしまう。
「……あなたも一緒になんて言わないから安心しなさい、フェリクス」
「……」
弟の緊張を見抜いた姉が夫に対する気遣いとはまた違う声音で弟の傷を庇ったため、夫もそれに気付いてもう一度肩を竦め、それを見たウーヴェの顔からも緊張が僅かに解ける。
「ヘクターとハンナの家に今年もお世話になるつもりでしょう?」
ウーヴェが大学を卒業する前から恒例になっているドイツアルプスの麓の村にある知人の家への訪問を今年も行うのだろうと問われて無言で頷く弟だったが、ノックの音に気付いて緊張の残った声を発する。
「どうぞ」
「ハロ、オーヴェ……ってアリーセ!?」
そのノックがいつもリアがしているものと変わらなかった為に心構えなどを一切していなかったが入って来たのがいつもに比べれば大人しい様子のリオンだった為、さすがのウーヴェも驚きに目を丸くするが、ウーヴェとリオンの間にいる姉と義兄は二人の顔を交互に見つめて最終的には素っ頓狂な声を発したリオンの顔に視線を固定する。
「久しぶりね。元気だったかしら?」
アリーセ・エリザベスの冷たさを感じる声音ににやりと笑みを浮かべ、元気だけが取り柄なんだから元気に決まっていると憎まれ口を叩いたリオンは、微苦笑を浮かべるウーヴェの前に大股で近づくと、いつものように恋人の頬にキスをする。
「仕事お疲れ、オーヴェ」
「……お前もお疲れさま」
誰がいようとも変わることのない挨拶を交わす二人を見守っていたアリーセ・エリザベスは、リオンの言動が-と言うよりはその表情が-微妙な変化をしている事を感じ取りつつ仕事が終わったのかと背中に問いかける。
「それがさ、小さな町で起きた事件の参考人がこの街に逃げてきたらしくて、探し出すのを手伝わなきゃならなくなった」
だから暫く忙しくなるしこれからまた職場に戻らなければならないとこの時ばかりは真剣な顔で返すと、アリーセ・エリザベスの目が不安に見開かれる。
「犯人が逃げているの?」
「そうらしい。一応写真も貰ったけど、こんな奴だって」
ついでにだがその犯人は被害者の家族で唯一生き残った少女を連れて逃げていると答えると、差し出した写真をアリーセ・エリザベスが受け取り、その横からミカとウーヴェが覗き込む。
「特徴は右眉と小鼻のピアス」
「ピアスだと外せるんじゃないの?」
「そうだけど、多分それどころじゃねぇからそのままの可能性が高いと思う」
だからもしも外出した時に見かけたらすぐに連絡をくれと伝えると、もう一度ウーヴェの頬に名残惜しそうにキスをする。
「じゃ、オーヴェ、ちょっと抜けてきただけだから戻るな」
「あ、ああ。そうだ、リオン、警部に明日の朝一番の訪問だが時間の調整がつかないから後日にしてくれと伝えてくれ」
「へ? そう言えば分かるか?」
「分かる。さっき電話をくれたんだ」
こちらに来てくれる約束をしたのだが明日の朝は少し都合が悪くなったことを伝えて欲しいと頼み、意味が分からないが伝えておくと頷くリオンに信頼の証の笑みを見せるが、次いで聞かされた言葉にウーヴェだけではなくアリーセ・エリザベスの表情も凍り付いてしまう。
「そうそう。その犯人さ、すげー美味いレバーケーゼのスープを作ってくれたハンナだっけ、あの人達が住んでる村に近い町から逃げてきたって。だからその町からボスのダチの警部ともうすぐ定年になるロルフって刑事が来てるんだ。今日はもしかするとボス達と一緒に飲みに行くかも知れねぇから、帰る時にまた電話するな、オーヴェ」
「な、んだって……!?」
リオンの口から聞かされた地名に姉と弟の表情が一瞬にして凍り付き、それを訝るように見つめたリオンだが、己が口に出した地名が恋人とその家族にとっては忌まわしい名前であることも思いだし、短く舌打ちをしてウーヴェの身体を抱きしめる。
「……ロルフって人さ、今回の事件を最後に退職するって。だから張り切ってるってボスのダチが言ってた」
外見はスーパーモデルと言っても通用する美貌だが、口を開けば出てくる言葉はぶっきらぼうで厳しいものばかりの警部の横顔を思い出しながら伝えると、無意識の行動なのかウーヴェの手が震えつつ上がってリオンのシャツを握りしめる。
「リ、オン……っ」
「……大丈夫だ、オーヴェ。お前の口からしか話を聞くつもりはねぇ」
例えその定年間際の刑事があの事件について語ったとしても俺は聞くつもりはないと優しく断言するリオンにウーヴェが理由の分からない頷きを何度もするが、その背後ではアリーセ・エリザベスが蒼白な顔でソファの肘置きを握りしめていた。
「じゃあ戻るな」
「……ああ」
突然やってきて突然帰って行った、そんな雰囲気を室内に残したリオンだが、彼が出て行った室内には重苦しい空気だけが残り、ウーヴェが無意識に拳を握って掌が感じ取る指輪の冷たさに気付いて顔を上げる。
先日イズミルというトルコの港町から投函されたらしい手紙といい、あの事件が最終的に解決した現場-ウーヴェ以外の関係者が皆命を落とした町から逃げている犯人を追っている刑事の存在といい、ウーヴェの周囲の空気が静かに緩やかに、だが確実に過去の事件へと流れている気配を感じ取ってしまうと背筋に嫌な汗が伝い落ちる。
「フェリクス、今日はリオンが遅くなるようね」
「え? ……そう、だな……遅く、なる、な」
どうしても途切れて掠れてしまう声に姉が目を細め、事態の推移を見守っている夫の腕に手を重ねてその顔を見上げた後、気分を切り替える為に溜息を吐いて夫の身体に寄り掛かる。
「今日は久しぶりに一緒に食事をしたいわ。ゲートルートに三人で行きましょう」
姉の言葉に遠慮するとも返せずに無言で頷いたウーヴェは、リオンが出て行ったドアをぼんやりと見つめ続け、姉と義兄に心配そうに呼びかけられるまでドアから目を離せないのだった。