ウーヴェが姉夫婦の突然の来訪を受けたその夜遅く、出勤に便利だという理由から借りている小さなアパートではなく実家に帰宅してきたギュンター・ノルベルトは、両親がいつもくつろいでいるリビングに妹夫婦の姿を発見して軽く驚いてしまう。
「エリー? ミカも一緒に帰ってきたのか?」
ワールドツアーはまだ行われているだろうと疑問を口にしつつソファに近付くが、大きなソファに小さく身体を縮めた老夫婦の姿も発見して今度は心底驚いてしまう。
「ヘクターにハンナ? 今日は一体どうしたんだ?」
妹夫婦が戻ってくることはまあ珍しいことではないが、ここから車で2時間以上もかかるドイツアルプスの麓の小さな村で暮らしている二人が出てくることは滅多にないことだと笑い、躊躇するような笑みでギュンター・ノルベルトのキスを頬に受けたハンナは、どうしたんだと視線で問われて毛足の長い絨毯を見つめるように俯いてしまう。
「どうしたんだ、父さん?」
「……旦那様、私からお話しします」
彼女の表情が曇っていることに比例するようにこの部屋にいる者すべての顔に翳りがあり、何が嫌な出来事でもあったのかと問い掛けながらハンナが座るソファの肘置きに腰を下ろす。
「今日、大学病院に行って参りました」
「大学病院? ……どちらか調子が悪いのか?」
ハンナの表情と声の調子から友人知人の見舞いに訪れたのではなく、ハンナかヘクターのどちらかの体調不良により病院に行ったのだろうと問い掛けるとハンナの頭が小さく上下する。
「今年の春頃から調子が悪くなることが多くて、地元の医者に診て貰ってはいたのですが、先日紹介状を書いて頂いて大学病院で調べて貰いました」
彼女の言葉を継ぐようにヘクターがギュンター・ノルベルトを見上げつつ己の妻の体調不良の理由を口にする。
「悪性腫瘍だそうです」
その一言がもたらしたものは目の前に広がる世界から明かりを一気に掻き消すような衝撃だったが、それを何とか堪えてハンナの皺だらけになった手をそっと取ったギュンター・ノルベルトは、長い間自分たち家族の面倒を良く見てくれた母代わりの手を無言で撫で続ける。
「ギュンター様……」
「……エリーが生まれて小学校に通うようになるまで、俺は本当にハンナとヘクターが両親だと思っていたよ。だからハンナがガンになったのはショックだ」
ギュンター・ノルベルトがぽつりぽつりと呟く言葉に込められた膨大な思いを感じ取ったアリーセ・エリザベスが顔を伏せ、そんな妻の様子に夫が守るように肩を抱いて引き寄せる。
「……そう思われても仕方がないな」
息子の言葉に父は重苦しい溜息を零すが、それに対して息子は無言で肩を竦めるだけだった。
ギュンター・ノルベルトやアリーセ・エリザベスが無事に成長し、兄は世界的にも有名な企業の社長として日々忙しく働き、妹も大学を卒業して制限はあっても選び放題の未来の中から世界を転戦するラリードライバーの妻として夫を支える道を選んでいるが、その根幹を築き上げたのは父や母ではなく、今ソファに小さくなって座っている老夫婦であることは紛れもない事実で、レオポルドやイングリッドはどのような言葉で子ども達から批判されても甘んじて受けるしかないと覚悟はしていた。
だが、そんな思春期の子どもが抱く親への不満や恨み辛みは昇華されていて、それを肩を竦める行為で伝えたギュンター・ノルベルトが世界規模の企業のトップとは思えない気軽さでハンナの前の絨毯の上に胡座を掻いて座り込み、それを見たヘクターが驚き慌てふためいてギュンターをソファに座らせようとする。
「ギュンター様、こちらにお座り下さい!」
「ここで良い。ハンナ、痛みは無いのか?」
慌てるヘクターを手で制してハンナを見上げたギュンター・ノルベルトは、これからの治療方針などは相談したのかと問い掛け、その事を今話し合っていたとアリーセ・エリザベスが少し湿り気を帯びた声で告げる。
なにぶん高齢でもあるため手術での癌の摘出は難しいと医者に告げられたことを伝えたヘクターは、ハンナの手を握りながらあの家で出来る限り今まで通りの暮らしを送りたいとも伝えるが、レオポルドとギュンター・ノルベルトの顔に同じ表情が浮かんだため、恐縮したように顔を下げてしまう。
「あの家じゃなく病院にいればいいだろう?」
そうすれば万が一何かあってもすぐに医者が駆けつけてくれるのにと、さすがに昔は啀み合った父と子であっても考えていることは同じなのか、レオポルドがついさっき口にした言葉をギュンター・ノルベルトも口にし、母イングリッドが悲しそうに顔を左右に振る。
「やはり家にいたいもの、そうでしょう、ハンナ?」
悪性腫瘍と診断されたのならばこそ、今まで過ごしてきた家にいたいのだと告げ娘も同意するように頷いたため、父と息子が顔を見合わせる。
「ただ、あの家で二人きりは心配ね」
だからうちから誰かをハンナの家に行かせようと思っていることも教えられてそれについては一も二もなく頷いたギュンター・ノルベルトだったが、当の本人であるハンナの顔色が変わらずに悪いことに気付いて名前を呼ぶ。
「色々心配事はあるだろうけど、どうした?」
良かったらそれをすべてここに出してくれと促すとハンナの目が躊躇うように左右に泳いだ後、意を決したのか夫の手を握り返しながら顔を上げ、ギュンター・ノルベルトだけではなく室内にいる全員の顔をゆっくりと見つめた後に震える声でもう一人の子どもの名前を呼ぶ。
「ウーヴェ様が……」
「……ああ、そうだったな」
もうすぐこの街を祭り一色に染め上げる季節がやって来るが、その祭りに合わせてこの街を離れるウーヴェを大学生の頃からずっと毎年何も言わずに受け入れて世話をしてきたハンナにしてみれば、理由はどうであれウーヴェの来訪は二人にとっても嬉しいものだったため、それがもう出来なくなるかもしれないという現実についにハンナが両手で顔を覆ってしまう。
肩を揺らす妻を宥めるように背中を撫でるヘクターが妻に次いで何かを決意したのか、誰かお止め下さいと悲痛な声を上げたため、一斉に皆の視線がヘクターの顔に注がれる。
「もう25年近くになります。四半世紀、です……。もうウーヴェ様があの事件から解放されても良いはずです」
誰かウーヴェ様にあの教会に行くことを止めるようにお伝え下さいと、長年抱き続けてきたであろう思いの一端を口にしたヘクターに誰も何も返すことが出来ず、ハンナが悪性腫瘍に冒されている事実を知ったときよりも重苦しい沈黙が室内を支配する。
「……あの子は頑固だからな……」
いくら俺たちが言ったとしても聞き入れてくれないだろうとレオポルドが苛立ちを隠さないで髪を掻きむしると、イングリッドもギュンター・ノルベルトに非難された時よりも悲しい顔で俯いてしまう。
「……今日一緒に食事をしてきたけど……フェルは今年も行くつもりだし、ベルトランが言うには止めるつもりはないそうよ」
つい何時間か前まで一緒にいた弟の様子を伝えるアリーセ・エリザベスは、ウーヴェが席を外したのを狙ってベルトランを呼び、自分たちが決して聞くことの出来ない本音を聞き出したのだが、ベルトランの説得にも頑として首を縦に振らなかったと教えられたのだ。
一部始終を家族に伝えてやるせない溜息をつくアリーセ・エリザベスの脳裏にこの時ウーヴェを説得できる可能性が高い男の顔が浮かんでいたが、ギュンター・ノルベルトがいる手前、その名前を口にすることを躊躇わざるを得なかった。
だから彼女は小さく咳払いをした後に父をじっと見つめると、娘の思いが通じたのか何かに気付いた父がそっと頷いてもう一度溜息をつく。
「あの子への説得は今はおいておこう」
とにかく今はハンナとヘクターが自分たちの家で最後まで自分たちらしくいられるようにしてやろうと終止符を打つと、打って変わった口調で二人がしばらくの間家に滞在することをギュンター・ノルベルトに告げる。
「もうすぐ祭りだろう。二人も久しぶりに会場に行ってみたいと言うから祭りが終わるまでここにいることになった」
別に反論はないだろうと息子を見た父は、もちろん反論などあるはずがない、祭りに行くのならば俺も一緒に行くと、涙を拭いたハンナを見上げながら宣言したギュンター・ノルベルトは、皆忙しいだろうから自分たちだけで行くと言い張る育ての親を交互に見つめ、俺も行くと決めたのだからもうそうするしかないと尊大な態度で言い放ち、ハンナとヘクターを驚きの後に小さく笑わせることに成功する。
「ねえ、ノル、ミカも行きたいって言ってるから一緒に行ってくれない?」
「そうだな、ミカも一緒に行こうか」
皆で飲みに行こうと笑って頷き立ち上がったギュンター・ノルベルトの脳裏にはこの季節になると精神的にも不安定になっていた弟の顔が思い浮かんでいたが、何かに気付いたように腕組みをする。
「ノル?」
「……ヘクターとハンナが家にいるのなら……」
フェリクスを呼び戻せないか、その小さな呟きが室内にいた全員の耳に入ったときは誰しもが無理だろうと思ったものの口には出さずに表情や視線で不可能だとギュンター・ノルベルトに伝えてきたが、妙案だと頷く彼には皆の思いは届かなかった。
「ギュンター、ウーヴェは……帰って来ないだろう」
レオポルドの絞り出すような言葉にギュンター・ノルベルトも一度唇を噛むものの、不安そうに見上げてくる老夫婦を安心させるような笑みを浮かべて頷く。
「いや、大丈夫だ、父さん」
フェリクスは世話になった二人の面倒ならば絶対に見るはずだし、その為に家に帰ってこいと言えばどれだけ悩んだとしても帰ってくるはずだと断言し、妹の意味ありげな視線にも頷いてもう一度二人の前に膝を着く。
「ヘクターもハンナも行きたいところがあればフェリクスに言えばいい。やりたいことがあれば言えばあの子は何でもやってくれるだろう」
今まで世話をかけたのだからそれぐらいは何と言うことはないと請け合い、気後れから頭を左右に振って好意を辞退しようとする二人の手を一緒に両手で包むと、俺からも頼むからどうかあの子の思いを受け取って欲しいことを真剣に伝える。
「ギュンター様……」
「そうしてやってくれないか、ヘクター、ハンナ」
今まで長い間あの子の面倒を見てくれて来たこと、あの子に代わって礼を言いたいし礼をさせてくれとも伝えると、ハンナが礼ならば今までずっと生活費を援助して貰ってきたと返すが、ウーヴェの兄であるギュンター・ノルベルトも負けず劣らずの頑固さで、それはそれだと断言する。
「ヘクター、ハンナ、そいつもかなり頑固だからな、遠慮せずに受けておけ」
「旦那様……」
根負けしたように頷く二人にギュンター・ノルベルトも頷きもう一度立ち上がって伸びをすると、腹が減ったので何か食べるものが欲しいと言いながらリビングを出て行く。
ギュンター・ノルベルトが出て行った後のリビングは一種の緊張感から解放されたようで、ヘクターもハンナも肩から力が抜けたのか、ソファの背もたれに寄り掛かって高い天井を見上げ、レオポルドもイングリッドも溜息をつくが、そんな皆の様子を不思議そうに見ていたミカは妻の耳に何ごとかを囁きかけて苦笑を貰ってしまう。
「……そうね、ミカの言うとおり、何故かノルがいると緊張してしまうのよ」
それはアリーセ・エリザベスにとっては意識するしない以前の問題で、注意をしていてもどうしてもそうなってしまうのだと苦笑すると、ミカが首を傾げてその理由を聞き出そうとする。
「あなたには信じられないかもしれないけど……」
その前置きをすると同時に父の顔を見た彼女は、ウーヴェがこの家に来るまでは父と兄は顔を合わせれば啀み合っていたし、そんな夫と子ども達に母は一切関心を示さなかったと告げると、その通りだなとレオポルドが苦渋の表情で頷く。
「でも……フェルが来てからは……そんな関係が一変したのよ」
己の思いを泣いて伝えることしかまだ出来なかったウーヴェがギュンター・ノルベルトの腕の中で気持ちよさそうに眠っている顔を彼女自身初めて見るような穏やかな優しい顔の両親が見守り、幼い自身がウーヴェの頬を恐る恐る撫で笑っている光景を思い出し、随分と遠い昔のように感じると苦笑したアリーセ・エリザベスは、更に夫が話を聞きたそうにしているのを察すると長い髪を掻き上げてこの話はここまでとにべもない声で言い放つ。
「アリーセ、聞かせてくれないのか?」
「……私が言えるのはここまでよ。聞きたいのならノルから直接聞いてちょうだい」
秘密にしている訳ではないが私の口からは言いたくないと告げて立ち上がり、今日からしばらくハンナがいるのなら料理を教えてと笑ってハンナの頬にキスをし、一足先に部屋に戻ると言い残してリビングを出て行く。
「ミカ、アリーセを許してやって」
あの子はあの子なりに色々あったことを昇華してきたのだからとイングリッドの言葉に頷いたミカは、自分もそろそろシャワーを浴びて寝ることを告げて席を立つ。
残された二組の夫婦は誰からともなく溜息をつくが、祭りが終わるまでの間お世話になりますとハンナが頭を下げ、レオポルドが家人を呼んで二人が滞在することと部屋の用意をするようにと伝えると、イングリッドがハンナの手を取って女二人でお話ししましょうと誘い、男同士積もる話でもしていてちょうだいと言い残してリビングを出て行くのだった。
本格的な空腹感は自分たち兄妹の育ての親とも言えるハンナが悪性腫瘍に冒されている事実を知らされた瞬間に霧散してしまったが、代わりに体内に残されたのはやるせない思いと、今まで己が歩んできた道を振り返った時、どの分岐点でも穏やかな笑みを湛えて自分たちを見守り続けてくれていたハンナが何故というやり場のない憤りにも似た感情だった。
何故心優しい善良なハンナが悪性腫瘍に冒されるのだ、あのように優しい人に神は何故このような試練を与えるのかと、グラスにいつもより濃い目にバーボンを注いだギュンター・ノルベルトは、幼い頃の己ならば父や母が代わりになればいいのにと思っただろうと暗く荒んだ目をした当時の己に語りかけ、当たり前のことを聞くなと返答されてしまう。
己をこの世に産み落とした両親だが、彼が物心つく時には既にその両親は精神的な意味での役割を果たすことを放棄していたため、物心両面で親だったのはハンナとその夫のヘクターだった。
ヘクター夫妻が風呂に入れ食事を食べさせ着替えをさせ幼稚園への送り迎えもしてくれている間、父は拡大して軌道に乗り始めた事業を更に広げることに余念が無く、そんな夫に愛想を尽かした母は結婚時に連れてきた侍女を伴って夜毎オペラだどこぞの有名人のパーティだと忙しく出歩いていた。
ギムナジウムに進学し、その入学式や今後の進路についての相談もすべてヘクターとハンナが共に頭を悩ませ、彼にとっての最良の進路を選ぶ手伝いをしてくれていたのだが、その頃には既にギュンター・ノルベルトの心の中には両親に対する達観した冷徹な思いとヘクター夫妻に対する反抗心-それは一般的に実の両親に対するもの-を抱いていたため、ギムナジウムに入って運命的な出会いを経験したこともあり、彼らが用意しようとしてくれた輝かしく明るい未来への道から大きく逸れてしまったのだ。
道を逸れたことに対しての後悔は一切無いが、その時、形だけを残して崩壊してしまっているそこに5歳離れた妹を一人残してしまったことだけは今でも悔やまれることだったため、彼女の願いならば可能な限り聞き入れたくはあった。
そんなことを考えつつ琥珀色の喉を焼くような酒を一気に飲んでグラスをカウンターに音高く置いた彼は、背後のドアが開いてナイトガウンに身を包んだ妹が入ってきたことに気付くと、スツールを回転させて肩を竦める。
「ミカを一人にしておいて良いのか?」
「良いのよ」
一緒にいるとあれこれ詮索されそうで嫌だからと他人からは冷たいと評される顔で言い放ってカウンターの向こうに回った彼女は、自らが飲むためのブランデーをグラスに注ぎ、兄のためにバーボンを注いでギュンターの隣に戻ってくる。
「ハンナ、ガンなのね……」
「そうだな……」
知らされた事実はこの兄妹にとっても重く辛いもので、振り返ればいつもいる安心感を持った女性が遠くはない先に消えてしまう現実に直面する日が近いことも悟ると、ついつい酒の量が増えてしまいそうになる。
酒を飲んで憂さを晴らすことが出来るのは若い内だけだと笑う兄に妹も無言で頷き、年を経ると色々なものが身体の中に溜まって昇華しきれずに眠りが浅くなる、お互い不眠症かも知れないなと笑いあうが、アリーセ・エリザベスが気に掛かっていることを問うために兄に向き直る。
「ノル、本当にフェルに帰って来いって、ハンナの面倒を見ろって言うの?」
「今までずっと面倒を見て貰ってきているんだ、当たり前だろう?」
長年あの子は事件があったあの村に通っているがその世話をして貰っているのだから当たり前だろうと首を傾げ、それぐらいでは済まされない恩もあるはずだと肩を竦めると、ウーヴェが実家に帰ってくるだろうかとアリーセ・エリザベスが呟いて口を閉ざす。
「さっきも言ったけどな、フェリクスはたとえ俺や父さんがいたとしてもハンナの為なら帰ってくるさ」
「でも……」
また昔のようにあなたを見て発作を起こせば大変なことになるとウーヴェの心身の平安を第一に考えるアリーセ・エリザベスと兄妹であることを示す冷たい目で見、言い表せないほど世話になった人の面倒ぐらい見るべきだと言い放ち、妹もさすがに兄の思いを感じ取って沈黙してしまう。
「俺を見て暴れても倒れても構わないが、ハンナの残された時間を考えればそれぐらい出来るだろう」
「……っ……!」
自分たち兄妹を慈しみ育ててくれた彼女に残された時間のことを思えば己の嫌悪など取るに足らないものの筈だと言い切られて息を飲んだ彼女は、ブランデーを一息に飲んで深い溜息をつく。
「確かにそうね」
「ああ。俺やフェリクスの思いよりも……ハンナの時間を気遣うべきだ」
それに、さっきも見ただろうがハンナ自身ウーヴェの世話が出来ない事が寂しいし悲しいと泣いていただろうと、先程よりは口調を和らげた兄に妹もそっと頷く。
「あの子は……フェリクスは、例え嫌悪する相手が一緒であっても恩人のためなら行動できる、その意志を持っている子だよ」
だから心配することはないと笑う兄の横顔を見つめた妹は、長年兄弟間の確執や父と弟の間の溝を見つめ続けてきた苦痛を少しだけ顔に出すが、誰よりも苦しいのはこの兄の筈だと気付いて気分を切り替えるように一つ頭を振る。
「じゃあフェルには私から連絡するわ」
「いや、俺からするよ」
「え!?」
グラスをカウンターに置いて驚きに目を瞠るアリーセ・エリザベスに何でもないことのように笑ったギュンター・ノルベルトは、俺から直接話をすると静かに伝えるものの妹が慌てて腕に手を置いてそれは止めた方が良いと言い募るとさすがに気分を害したのか、何故駄目なんだと拗ねた子どものような顔で問い返す。
「世話になった人への恩返しをさせる、それを俺があの子に伝えるのはいけないことなのか?」
「違うわ、そうじゃないけど、でも……」
今までならばウーヴェの心が不安定になるから止めろと言っていたアリーセ・エリザベスは、今は昔とは違ってウーヴェの傍にリオンがいるため余程の衝撃的な出来事があってもウーヴェを支えられると安心しているものの、ギュンター・ノルベルトはリオンに良い感情を抱いていないためにもしもそんな二人がウーヴェの前で遭遇したら大変なことになるとの思いから兄を制止するが、もう決めたの一言で妹の反論を封じた兄は心配しなくてもそんなに酷いことにはならないと笑いながらアリーセ・エリザベスの蒼白な頬にキスをする。
「ハンナがこちらにいる間はフェリクスも家に帰ってくるだろう」
その間、クリニックは例年通り休診しているだろうからミカと一緒に遊びに行ってくればいいと笑うギュンター・ノルベルトの脳裏には写真でしか見たことのないリオンの顔が浮かんでいたが、敢えてその名前を口に出すことはせずに妹を少しでも安心させるために穏やかな笑みを浮かべてグラスを傾けるのだった。
その夜、バルツァーの屋敷のそれぞれの部屋で一日の終わりを迎えた男女は、口には出せない漠然とした不安を皆が感じていたのか、なかなか寝付けないでいた。
振り返ってみればこの夜に感じた不安は今までの関係が大きく変わる予兆とでも言えるのだが、残念ながら当事者にそれを感じることは出来ず、ただ胸に芽生えた何とも言えない思いをどのように昇華すべきか、また腹に収めるべきかに頭を悩ませてしまい、まだ晩夏のため夜は短いはずなのに、その長さに恨み言を言いたくなるのだった。
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