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僕たちはまだ春を知らない
病院という場所には、時間が沈殿している。
秒針の音がやけに大きく聞こえ、窓の外の雲はゆっくりと、まるで誰かのために歩調を合わせているかのように流れていく。
青がこの病院を訪れるのは、別に用事があるからではなかった。
去年、弟の水が亡くなってからも、俺はときどきふらりとここへやってくる。理由は、自分でもよくわからない。ただ、弟のいた場所に少しでも長く身を置いていたかった。
受付を通らず、まっすぐエレベーターで3階へ上がる。弟がいた小児病棟はもう使われていなかったが、その近くの病室には、見覚えのあるスタッフたちがまだ働いていた。
「お、また来たな、青」
エレベーターの前で声をかけてきたのは、看護師のアニキだった。
白衣の上からカーディガンを羽織り、いつも首にペンをかけている。口調は砕けているが、仕事は丁寧で、蒼太の担当をしていた頃から、青には妙に親しみ深い存在だった。
「……なんとなく、帰り道だから」
「お前、それ毎週言ってるで笑
ま、別にいいけどな。
顔見せてくれるの、俺は嬉しいで」
アニキは軽く笑いながらも、真っすぐな目で言った。
「今日な、ちょっと元気になった子がいるんよ。話し相手が欲しいって言っとったから良かったら、顔出してみるか?」
俺は少しだけ迷った。
けれど、アニキが背中を軽く押すように歩き出すと、そのままついていった。
──そのときだった。
病室の扉の隙間から、音楽が流れてきた。
どこか懐かしいJ-POPの旋律。ほんのりと甘いギターと、柔らかな声。
「……これ、聴いたことある」
「アイツ、古い曲が好きなんよ。
ラジカセでいつも流してんの。
なんか変わっとるんよな。」
アニキが扉をノックし、そっと開けると、窓辺のベッドに座っている少年がいた。
細い腕、点滴の管、青白い肌。
だけど、その顔には明るい笑みが浮かんでいた。
「おー、今日はアニキだけじゃなくて、知らないお兄さんも来たな?」
少年は音楽のボリュームを下げて、首をかしげながらこちらを見た。
「君、新入り?」
「……アニキに連れてこられただけ」
「ふふ、そっか。俺は“桃”。君は?」
「……青。」
「へぇ、青と桃。なんか、名前だけで春が始まりそうだな」
その日から、青は桃の病室に通うようになった。
「青という色」
桃の病室は、病室なのにあたたかかった。
壁は真っ白なのに、彼がいるだけで春のような気配が漂っている気がした。
ラジカセからは古い曲が流れ、窓辺には折り紙や観葉植物、古雑誌が無造作に並べられていた。
「青ってさ、無表情のプロだよね。俺のギャグにすら微動だにしないじゃん」
「……そういうの、昔から言われる」
「でもさ、俺、うるさい人苦手だから。君のそういうとこ、けっこう好きかも」
ある日、青がふと訊いた。
「……病気、重いん?」
桃は一瞬、言葉を探すように天井を見つめたあと、あっけらかんと答えた。
「うん、まあまあね。内臓がポンコツでさ。たぶん、俺の身体、ちょっとずつ腐ってるんだと思う」
「それ……つらくないのか?」
「そりゃ、つらいよ。でもね、慣れた。そうでもしないと、心まで病んじゃうじゃん?」
そして、ぽつりと呟いた。
「俺ってさ、まだ春を知らないんだよね」
「……春?」
「そう。外で遊ぶ春。制服でバカやる春。
恋とか、部活とか。そういう“普通の春”」
青は黙っていた。
それは──水が言っていた「春になったら外でキャッチボールしようね」という言葉と重なっていた。
次の週、青は一つの鉢植えを持って病室を訪ねた。
小さなつぼみがいくつもついた、桃の花の鉢だった。
「……これ、君に」
「わ、なにこれ……! えっ、桃の花? マジで?」
「……桃って名前だから、合うかなって思って」
桃はつぼみにそっと触れた。その目は、少しだけ赤くなっていた。
「ありがとう、青。青ってさ、言葉は少ないけど、すごくあったかいね」
「春はまだ遠く」
その日、俺はいつものように鉢植えに水をやるため、病室を訪れた。
けれど、扉の前でアニキが待っていた。
「……青」
その声を聞いた瞬間、青はすべてを理解した。
「……桃な、残念やけど、昨夜、、、
静かに逝った」
アニキの手には、あの鉢植えがあった。
桃色の花が、一輪だけ咲いていた。
青は何も言わず、それを受け取って病院を後にした。
それから数週間後、春の陽射しが柔らかくなった日。
青はふたたび病院を訪れ、桃のいた病室に入り、窓辺に鉢を置いた。
花は満開だった。
光を受けて、桃色の花びらが透けて見える。
外には桜と桃の花が揺れている。
青は、少しだけ目を細めて、ぽつりとつぶやいた。
「……なあ、桃」
誰にも聞こえないような小さな声で続ける。
「俺“たち”、本当にまだ春を知らないままだな」
沈黙のあと、微かに笑って言った。
「でも、お前が見せてくれた景色、多分……あれが春だったんだと思う」
その声は風に乗って、どこかへ消えた。
ただ、桃色の花びらだけが、音もなく舞っていた。
春は、まだ遠い。
けれど、確かに一度だけ、それはここに咲いた。
コメント
6件
泣く って
ボロ泣き
ふぇぇん好きぃっ((↩︎ばか 大好きですっ.ᐟ.ᐟ文章構成力分けて.ᐟ.ᐟ