「あら、お帰りなさい」
典晶とイナリが帰ると、歌蝶はいつもの様に居間におり、ちゃぶ台に肩肘を付いてテレビを見ていた。
「母さん、他に言う事はないの?」
浴場の方から、水の流れる音が聞こえる。典成は風呂に入っているようだ。
「………ご飯食べる?」
ニコリと微笑む歌蝶。
「母さん! 那由多さんと宇迦さんから聞いたよ! イナリは、一人で帰ったんじゃなくて、母さんに頼まれて薬草を採りに行ったんでしょう?」
「ん~、そうだったかしら? 私も年ね、忘れちゃった」
「あれだけ俺を焚き付けておいて……」
俺は呻いたが、歌蝶はその呻き声も聞こえないフリだ。
歌蝶は悪びれる風もなく、テレビから視線を離さない。
歌蝶のことだ、何を言ってもこんな感じでいなされてしまうだろう。全てが露呈してもなお、彼女はいつも通りの生活を貫き通している。良心の呵責云々の前に、彼女は自分の謀(はかりごと)が悪かったと、これっぽっちも思っていないのだろう。
歌蝶から謝罪の言葉を引き出すことは不可能だと判断した典晶は、溜息をつきながらイナリと共に自室に戻った。
「典晶、これからどうする?」
畳の上に腰を下ろしたとき、イナリが不意に声を掛けてきた。最初、質問の意味が良く分からなかったが、彼女の真面目な表情から、すぐに全てが理解できた。
「…………」
結局、彼女には言いたいことの少ししか言えなかった。こうしてイナリが戻ってきてくれたが、状況はなにも改善はされていないのだ。
「……私は、これからも宝魂石を探すが、典晶はどうする?」
「俺も、そのつもりだけど……」
だけど、それでどうするというのだろうか。その先にあるのは、『結婚』という、思い一文字。宝魂石を集めることは許容できるが、この状況で本当に結婚などあり得るのだろうか。そもそも、本当にイナリは自分で良いのだろうか。
結局、問題はそこに戻ってしまう。
典晶は俯き、ささくれだった畳を指先で擦っている。イナリは、典晶の話を待つ風もなく、目を閉じて窓から入ってくる風を感じていた。
「……本当に、イナリは俺なんかで良いの?」
うっすらと、イナリが目を開けた。こちらを見ず、窓の外を見つめている。
「典晶は、私の事が嫌いか?」
「いや……、嫌いじゃない、と思う。だけど、たまにイナリが怖くなるんだ。人とイナリ達とは、命の考え方が、価値観が少し違う。俺たち人間の間じゃ、命はとても重要な物なんだよ。今回、俺はそれをとても強く感じた。簡単に奪って良いようなものじゃないんだ」
「私は、なによりも典晶が心配なだけだ。もし、典晶の命が脅かされるようなことがあるなら、私は誰がなんと言おうと、その危険を排除する」
力強い言葉だ。自分の信念を曲げない。自分の行動が正しいと思っている者の、力強さだ。
「やっぱり、イナリだな。君は、凄いよ。やっぱり俺なんかよりずっとさ……」
典晶に、イナリのような強さがあるだろうか。イナリが殺されそうになったとき、その相手を殺せる強さ、覚悟を持っているだろうか。
「そんな事は無い。典晶だって、十分強いではないか。今日は、自分が傷つく事も恐れず、那由多に立ち向かってくれた。私は嬉しかった」
「あの時は……」
自分でも分からなかった。昔の約束を思い出したというのもあるが、それでも、あれは無謀な行為だったと思う。ただ、一つ分かることがある。
「俺は、どうしてもイナリを守りたかったんだ。あんな所で、死んで欲しくは、消えて欲しくなかった」
「典晶……。私は、いつも同じ気持ちだ。だから、典晶の目には私は暴力的に映ってしまうときがあるかも知れない。私は、やっぱり典晶が大好きだ。愛している。今日、それを改めて確信したよ」
月光を浴びるイナリは、同じ世界の住人とは思えない。
ステージに立つ女優と、それを見に来た観客ほどの差があるように感じる。やはり、典晶は自分に自信が持てなかった。彼女をそこまで引きつける魅力を、どうしても有しているとは思えない。
「そうだな……、もう少し、時間が必要かもな」
典晶は項垂れる。
重い沈黙が流れる。聞こえてくる風鈴と虫の音。時折吹き込む風が、重い空気をゆっくりと掻き回した。
「私は宣言したはずだ。私は、絶対に典晶を振り向かせると」
イナリは笑っていた。屈託のない笑い。白い歯を覗かせた彼女の笑いは、そのままスッと典晶の心に入ってきた。
「………ハハ」
典晶は小さく笑った。何か言葉を口にしたら、きっと涙を流してしまう。それほど、イナリの言葉は典晶の胸に響いた。彼女はこれ程までに自分を好いてくれている。子供の頃の自分が、ずっと守ると約束してしまった。都合良く典晶は忘れていたというのに、イナリは憶えていたのだ。イナリの強さを支えていたのは他でもない、自分の言葉だった。その事が、嬉しい反面、恥ずかしかった。
「……頑張るよ……いろいろと、さ……」
一筋の涙が流れた。自分で口にした言葉。その言葉に恥じない人間になる。イナリを守ることが、そのまま結婚になるとは思えない。それでも、典晶はイナリに少しでも相応しい男になるように、努力し続けなければいけない。
「期待しているぞ、典晶」
「……ああ」
涙を拭った典晶は顔を上げた。イナリと目が合う。イナリは赤い瞳を細めると、音も無くこちらへ寄ってきた。
「イナリ……?」
先ほどの爽やかな笑顔とは違う。怪しい妖艶な笑みを浮かべる。
「私は言っただろう? 絶対に、墜としてみせると」
四つん這いのイナリが近づいてくる。白い着物の胸元は僅かに開かれており、形の良い胸の谷間が目に飛び込んでくる。
「ちょっと……」
典晶は上半身を後ろへ引き、僅かに後退した。だが、典晶の足をイナリが掴んだ。
「逃がさない」
小さな赤い舌が唇を舐めた。唇が照明の明かりに照らされ、艶やかに輝いている。
「覚悟しろ、典晶。今日は逃がさない……」
イナリの腕が典晶の首に蛇のようにまとわりつく。
熱い。
焼けるように熱いイナリの体。
「あの……まだ、準備が……」
典晶の言葉を、イナリの唇が塞いだ。生き物のようにイナリの舌が典晶の口内に侵入してくる。イナリの舌は典晶の歯をなめ回し、さらに舌を見つけると蛇の交尾のように絡めてきた。
官能的な刺激が電流のように全身を駆け巡る。体の血が沸き立つように熱くなり、下半身が硬直してくるのが分かる。
典晶はイナリを引きはがそうとするが、その力に抗うようにイナリは体を密着させてくる。
典晶の抵抗する力が抜けたとき、イナリが唇を離した。唾液が糸を引くが、それをイナリはペロリと赤い舌で掬い取った。
「イナリ……」
「典晶……」
典晶は手を伸ばしてイナリの顔を触り、銀髪を優しく撫でた。イナリもそれに答えるように、嬉しそうに目を閉じてジッとしている。
典晶はイナリを抱きしめた。イナリもそれに答えるように抱きしめてくる。
「私の準備はできている」
スルスルとイナリが着物を脱いでいく。白い肌、形の良い乳房が露わになる。花のように甘い体臭が、典晶の鼻をくすぐる。
典晶はイナリの手を取り、引き寄せた。そして、自らの意志でキスをしようと迫る。目を閉じ、イナリの唇に自らの唇を合わせた。
「………」
唇の周りがチクチクする。握っていた手も、小さくなりやけに毛深くなった。
恐る恐る目を開けると、そこには子狐のイナリがいた。いや、正確に言えば子狐ではない。幼女の子狐バージョンと言った方が良いかもしれない。二本の手足は人と同じだが、顔は狐と人間を足して二で割った様な感じだ。全身を短い毛が覆い、お尻からは三本の尻尾が生えていた。
半人半獣の幼女になってしまったイナリは、不思議そうに自分の手足を見下ろしていた。
「イナリ、その姿は?」
「私にも分からん。まだ、人化は半日程度しか持たぬといっただろう。タイムリミットを過ぎて神通力が切れると、狐ではなくこの中途半端な感じになってしまうようだ」
「そ、そうか……」
典晶は大きく息を吐きながらごろんと寝転がった。
助かったような、残念だったような。だけど、ほんの一瞬でも自分の無力さを忘れ、心をイナリだけで満たせた。不思議と、気分は良かった。
「チッ、残念」
イナリは舌打ちをすると、ポンッと小さな音を立てて子狐へ戻った。あのどっち付かずの幼女の姿よりも、狐の姿の方が良いのだろう。イナリは座布団の上で犬のように丸くなると、大きな溜息をついて目を閉じてしまった。
「はぁ~……」
典晶は、開け放たれた窓から見える月を見上げた。
色々あった二日間だった。
まるで、一週間がギュッと濃縮されたような、そんな密度の濃い二日間だった。理亜の入院した病院から始まり、那由多の凶霊退治。
今思えば、あと少し那由多の到着が遅かったら、典晶とイナリはこうしてくつろいでいられなかったかも知れない。
そして、イナリの家出(仮)。
今日は様々な世界を歩き、常世の森にある宇迦の神所に辿り着いた。湖の畔で過去のことを思いだし、イナリに助けられた。
「那由多さん、家に着いたかな」
なんの連絡も無いところを見ると、まだ帰路の途中なのだろう。
何よりも一番驚いたのは、那由多が宇迦を斬り捨て、さらにイナリの命を奪おうとしていたことだった。鬼気迫る那由多。あれが演技だと分かっていても、あの時の事を思い出すだけで嫌な汗が流れてくる。
「………」
寝転がりながら、典晶は丸くなって寝息を立てるイナリを見る。
那由多は言っていた。イナリがいなくなれば、元の生活に戻れると。普通の人間として生きていけると。その言葉は、きっと那由多の本心なのだろう。彼自身が、神々に人生を翻弄された一人なのだ。那由多も典晶の迷いを全て知っていて、典晶に可能性の一つ、人としての平凡な一生を示した。
「平凡な人生、か……」
典晶の呟きに、イナリの耳がピクリと動いた。
これまでの人生、自分の人生が特別だとは思わなかった。だが、イナリが登場してガラリと変わった。いや、その考えは違うのかも知れない。人生は一度しか無い、特別な物なのだ。その事を認識できるかどうか。典晶は、イナリという切欠でそれを認識したに過ぎない。人生の転機が訪れただけで、自分の人生は人とは違う、特別な物だと分かる。
今回の一件で、典晶はそれを再認識した。それだけでも、イナリと出会ったことは素晴らしかったと思える。
典晶は目を閉じる。
心も体も、クタクタだった。布団を敷くのも忘れて、典晶はそのまま寝入ってしまった。
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