その一
山辺梢の視線の先には、長い黒髪をなびかせた二歳上の先輩、村田笑理の大きな瞳があった。笑理の制服の胸ポケットには卒業用の胸花が刺さったままである。
笑理の顔が近づくと、梢はゆっくりと目を閉じる。唇に当たる感触は実に柔らかいもので、この瞬間こそ梢にとってはファーストキスだった。
微動だにしない梢が目を開けると、そこには優しく微笑む笑理の姿があった。
「笑理先輩……」
「梢ちゃん」
梢はそのまま、笑理にそっと抱きしめられた。密着した笑理の体のぬくもりが、梢にも伝わっている。
「じゃあね」
笑理はそれだけ言うと、梢の特徴であった三つ編みを撫でて、去っていった。梢はただ、呆然と笑理の後ろ姿を見送ったが、これが笑理の姿を見た最後の日となった。
あの卒業式から十年の歳月が流れ、入社四年目の春を迎えた梢は、都心にある出版社『ひかり書房』で、小説担当の編集者をしている。三つ編みだった髪型はポニーテールに変わっており、どちらかと言えば控えめだった性格も、編集者という仕事柄か割とハキハキした物言いになっていた。
「山辺君」
名前を呼ばれた梢は、文字校正中だった原稿と赤ペンを置き、文芸部長の高梨のデスクへ向かった。
「三田村理絵先生の後任、正式に君になった。先生には、既に俺から後任の担当が君になったことは伝えてある。近いうちに、先生の事務所に挨拶に行ってきてくれ」
「分かりました」
名前以外に公となっている情報は出ていないものの、三田村理絵と言えば恋愛小説のヒットメーカーで、文芸部にとっても大きな存在であることは梢にも分かっていた。
数日後、梢は高梨から教えてもらった住所を元に、スマホのマップアプリを見ながら、私鉄で三十分ほどの郊外を歩いて、三田村のマンション兼事務所を探していた。
とある高層マンションに到着すると、梢は部屋番号を押し、インターホンを鳴らした。
「はい?」
スピーカーから女性の声が聞こえた。
「『ひかり書房』の山辺と言います。ご挨拶に伺いました」
「どうぞ」
と、声が聞こえ、オートロックとなっている自動ドアが開いた。
三田村の部屋の前に来た梢は、ドアの前でチャイムを鳴らした。部屋からはこちらに向かってくる足音が聞こえる。
「やっぱり、梢ちゃんだ」
ドアが開き、明るい声で出迎えたのは、笑理だった。あの長い黒髪は健在である。
「笑理先輩……」
突然の笑理との再会に、梢は思わず唖然となった。
その二
梢は落ち着かない様子で、笑理の作業部屋となっている書斎のソファーに腰かけていた。まさか三田村理絵の正体が笑理だったとは、未だに信じられない思いだったが、確かに本棚には『著・三田村理絵』と書かれた書籍がいくつも整頓されている。
何事もないように、笑理がケーキと紅茶を運んできた。
「こんなものしかないけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
十年ぶりの先輩に向かって、何を聞いて良いのか分からなかったが、笑理はまるで梢の気持ちを読み取るかのように、
「作家三田村理絵の正体が私だって、驚いてるんじゃないの?」
「え……それは……」
「気づくと思ったのになぁ」
笑理は苦笑すると、デスクの上に置いてあったメモ帳とペンを持ってきて、『みたむらりえ』と書き、梢に見せた。
「並べ替えてごらん」
梢はメモ帳を凝視した。
「む・ら・た・え・み・り……あ……」
「アナグラム」
「全然気づきませんでした」
「ほら、紅茶冷めちゃうよ」
「はい……」
笑理に勧められ、梢はティーカップを手にしたが、やはり緊張してしまい、手が震えた。
「十年ぶりにこんな形で会ったら、緊張もするか」
ふと梢の脳裏に、十年前にキスをした情景が蘇った。
梢も笑理も共にテニス部だったが、笑理は部活内だけでなく学校全体で憧れの存在で、他校の生徒からも人気があったほどだった。当然笑理とキスをしたことは、この十年で梢は誰にも告げず、自分の胸の内に秘めていたが、間違いなくキスをした事実を周囲の人間が知れば、羨ましがられるだろう。それぐらい、笑理の存在は特別なものだった。
「十年前のあの日、私がキスをした後の梢ちゃんのリアクションを見て、私分かったの。梢ちゃんにとって、あのキスはファーストキスだったんだって」
梢は何も言い返せなかった。
「ファーストキスを奪った罪悪感みたいなのが私の中であったの……それで、何だか梢ちゃんと会うのも気が引けてたの。高梨部長から、後任の編集者の連絡をもらったとき、ただの同姓同名なのか、それとも本当に梢ちゃんなのか、正直ソワソワしてた。けどまさか、梢ちゃんだったなんてね……あの時は、ごめんなさい」
笑理はふと頭を下げたが、梢は慌てるように、
「そんなことありません。むしろ私、嬉しかったんです。告白をしてくれて」
「梢ちゃん……」
「私、ずっと笑理先輩のこと、忘れられませんでした」
意を決したように梢は深呼吸をすると、笑理の大きな瞳を見つめてそう言った。
その三
十年前の二月二十七日、金曜日だったためにこの日が笑理と梢の高校では卒業式が行われた。体育館には外からの冷たい空気が漏れ、設置されたストーブが会場を少しでも暖かくする役目を果たしていた。
三年生の各教室でそれぞれ最後のホームルームを終えた後は、部活ごとに送別会が開催され、テニス部室では笑理を始めとした卒業生が在校生から色紙や花束をもらっていた。
梢が笑理に呼び出されたのは、送別会の後のこと。笑理の教室である三年二組に行くと、既に笑理が待っていた。
「笑理先輩、どうしたんですか?」
不思議そうに梢が尋ねた。
「あのさ……。私、梢ちゃんが好き」
笑理の告白に、一瞬梢は返答に迷った。
「笑理先輩……」
「突然こんなこと言われても困るよね」
梢にとっては複雑な気持ちだった。誰もが憧れる笑理に告白をされたことはある意味では誉であったが、だからと言ってこういう時、恋愛経験のない自分は何と答えるのが正解だったのか、分からなかったのである。
「じゃあ、せめて一回だけ、キスさせて」
笑理にそう言われ、梢はハッとなった。
「分かりました……」
梢は小さくコクリと頷き、その後、笑理からのキスを受け入れたのだった。
「あの時、ちゃんとした返事もできないままになってました。まさか、私のファーストキスを奪ったことを、そんなに気にしてたなんて」
十年前のことを振り返り、梢は苦笑して笑理にそう言った。
「私、てっきり断るのが怖くて、仕方なく受け入れたものだと思ってたの。何だか妙に申し訳ない気がしてさ。だから、私のほうから勝手に距離置いてたの」
「そうだったんですか……」
笑理は申し訳ない気がしたと言ったが、逆に梢のほうが明確な返答をしなかったがために、今の今まで笑理が罪悪感を抱いていたことを申し訳なく感じていた。
「気にしないでください。もう、過去のことです。それにこれからは、あくまで作家と編集者の関係ですから」
「作家と編集者の関係か……」
笑理の残念そうな声を聞いて、梢は弁解するかのように、
「忘れることができなかったのは本当のことです。でも、それは高校時代の話で。今は仕事の関係性をちゃんと築くことのほうが、大事だと思うんです」
「立派になったんだ、梢ちゃん」
ショックを隠そうとしていることが、何となく梢は感じ取っていた。
「けどね、私は今でも梢ちゃんのこと好きだよ」
笑理の目がやけに真剣になっていることは、梢から見ても明らかだった。
その四
「嫌だったら、はっきり言って。それなら私も、諦めがつくから」
笑理から言われ、梢は十年前と同じような結末にはしたくないと思った。
「いえ……私も、笑理先輩のことが好きです」
先ほどまでの緊張がいつの間に無くなっており、梢は己の気持ちを素直に笑理に伝えることができた。
「梢ちゃん……」
「今日は挨拶で伺いました。この続きは、またゆっくりと」
これ以上いるのが恥ずかしくなり、梢は出ていこうとした。
「ねえ」
と、笑理に呼び止められた。
「次、いつ会える?」
「今晩、また会えますか?」
「うん。お酒飲める?」
「はい」
「じゃあ、用意しとく」
梢は一礼するとマンションを去っていった。
一人になった途端、急に胸の鼓動が激しくなった。自分で笑理の告白を受け入れたのに、やはり憧れの先輩のこととなると、ドキドキが止まらなくなってしまう。十年も経ったが、このドキドキは卒業式の時に笑理に抱きしめられた時と全く同じだった。
告白を受け入れたということは、形式的には笑理と交際したということになる。が、まだ梢にはその実感が湧いていなかった。
『ひかり書房』に帰社した梢は、高梨に「三田村先生にご挨拶に伺ってきました」と、形式的な報告をしたのち、高校時代の部活の先輩であることだけは打ち明けた。
「そうか。世間ってのは狭いもんだな。けど、三田村先生からすれば、気心の知れた後輩が担当編集者になってくれたら心強いだろう」
呑気そうに高梨は答えたが、さすがに笑理に交際を申し込まれたことは告げることができなかった。
「三田村先生が、より良い作品を書けるように全力でフォローします」
その言葉に嘘はなかったが、それと同時に公私にわたって笑理をフォローしたいと梢は思っていた。
この日、梢は夕方まで仕事をしていたが、集中力がやたら途切れてしまった。未だに面と向かって笑理を見ると、少なからず緊張してしまう自分だが、それでも笑理のことを考えてしまうと仕事に身が入らない。これが俗にいう『恋煩い』なのかもしれない、と梢は身をもって感じていた。
同じ頃、買い物を済ませた笑理は、食事の支度をしていた。普段使うことのない、来客用の食器を食器棚から出して、ローストビーフやシーザーサラダ、ビーフシチューなど、腕によりをかけたごちそうを作っていた。
美味しそうに自分の手料理を食べてくれる梢のことを思い浮かべ、笑理は鼻歌を歌いながら、梢の来訪を首を長くして待ちかねていた。
その五
その夜、仕事を終えた梢は再び笑理のマンションに足を運んだ。
笑理の手料理を片手に赤ワインを飲みながら、梢と笑理は高校時代のテニス部の大会の話や、お互いに高校卒業後に大学へ進学したことなど、十年の間に積もりに積もった話をしあった。
梢は文学部を経て今の勤務先に就職したことを告げ、笑理は芸術学部在学中に作家デビューをしたことを告げた。高校時代は、特に小説が好きだった話などしたことがなかったが、こうして今『小説』が二人を再会に導いたことは、何とも不思議な縁だった。
懐かしい話に花を咲かせたこともあってか、笑理がワインを飲むペースは速く、梢は心配になった。
「先輩、飲みすぎじゃありませんか?」
「そんなことないよ」
「お水飲んだ方が良いんじゃないですか。コップ借りますね」
梢はキッチンでグラスに水を注ぐと、笑理に渡した。笑理はグラスではなく、梢の手を取った。思わず梢は赤面になった。
「可愛い手。この手も全然変わってないね」
梢の手は子どものように小さいもので、笑理はその手を優しくさすった。梢の心拍は早くなり、慌てて笑理の手を離した。
「どうしたの?」
「いえ……」
「ねえ、梢ちゃん」
突然梢は、笑理に唇を奪われた。一瞬何が起きたか分からない梢は、直立のままびくともしなかった。十年ぶりの笑理とのキスがあまりにも不意打ち過ぎて、心の整理がつかなかった。
交際をスタートしたのだから、キスをするのは至極当然のことかもしれないが、心の準備ができていなかった梢にとって、笑理からのキスは更に梢の心拍が早くなる要因になった。
「あ……」
ふと腕時計を見た梢は、終電を逃したことに気が付いた。
「何かあった?」
「いや……その、終電が無くなったので。カラオケか漫喫にでも泊まります」
すると笑理は突然笑い出し、
「ここに泊まれば良いじゃん。まあ、ベッドはシングルだから、手狭になるかもしれないけど」
十年ぶりに再会したその日に、一つ同じベッドで笑理と眠るなど予想だにしなかった出来事だった。
「え……でも」
梢は気が引けたように、うつむいた。
「大丈夫。そりゃ、狭いからゆっくり疲れは取れないかもしれないけど」
「私、ソファーで寝ますよ。横になって休めれば、どこでも良いんで」
ごまかすように答えた梢だったが、それでもなお、笑理はじっと梢を見つめた。
「一緒に寝ようよ」
笑理に上目遣いで見つめられた梢は、顔面だけでなく耳までもが真っ赤に染まっていた。
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