その一
背格好に大差がないことから、梢は笑理のパジャマを借りて、そのまま泊まることになった。寝室のベッドはシングルサイズで、必然的に笑理とは至近距離で寝ることになる。笑理の手で転がされ、俗にいう沼にはまった状態になっていることは梢自身自覚をしていた。
ベッドの端に体を寄せて笑理に背を向けるように眠っていた梢と、その隣で同じように背を向けている笑理との間には、妙な隙間ができていた。
「もう寝た?」
背後から笑理の声が聞こえた。
「いえ、まだ起きてます」
「もっとこっちおいでよ」
笑理も隙間に違和感があったらしく、それを埋めてほしいようだった。
「私、寝相悪いんで。これぐらいスペースあった方が」
梢はごまかした。すると笑理が、
「じゃあ、私がそっち行っちゃおう」
と、言い出したのだ。梢が何かを言おうとする前に、もう梢の背後には体を密着させた笑理がいた。
十年前、キスをした後に抱き合ったときと同じぬくもりを梢は感じていた。更に笑理は、梢の腕の隙間から手を入れてきたので、バックハグをされている状態になっている。
身動きがとれない梢の心拍数が上昇していく。トクトクという胸の高鳴りは、そのまま笑理にも伝わっていた。
「あったかいね、梢ちゃんの体」
「……」
「心臓、バクバクしてない?」
「いや、そんなことありません……」
「ドキドキしてるね」
笑理のささやく声が、まるで動画サイトのasmrのように梢の鼓膜に突き刺さった。せっかく収まった梢の顔と耳が、再び真っ赤に染まる。
「耳赤いよ」
声と同時に、笑理の細長く白い指が梢の耳を撫でた。
変な声を出さないよう、梢はグッと布団を握りしめていた。
「笑理先輩……」
寝返りを打った梢の目の前には、こちらを優しく見つめる笑理の顔があった。
「可愛くなったね……いや、綺麗になった」
笑理に頭を撫でられ、梢は照れを隠すためにうつむいた。
「そんなこと……。笑理先輩も、変わらず美しいです。小説家なんてもったいない、女優にでもなれば良かったのに」
梢の言葉の通り、笑理は女優のような美しさがあった。目の前に映る笑理の美貌は、高校時代から全く変わっていない。
「お世辞が上手くなったね」
「お世辞じゃありません、本心です」
「梢ちゃんったら」
頬に触れた笑理の手は、やがて梢の唇を撫でた。
今は仕事のことを忘れよう、目の前にいるのは小説家の三田村理絵ではなく、高校時代の先輩である村田笑理である、と梢は己の心の中に言い聞かせた。
その二
シングルベッドの上で、梢と笑理は密着していた。笑理の視線は、指で撫でている梢の唇に向けられていたが、梢の視線はそんな笑理の目に向けられていた。
やがて二人は、しばらく無言で見つめ合った。そして、どちらかともなく顔を近づけ、唇を重ねていく。つい数時間前に笑理からキスをされたことが嘘のように、梢はもはや抵抗もせず、むしろ笑理に合わせるように積極的に何度も唇を重ねていった。
「笑理先輩、好きです……」
「私は、梢ちゃんのこと愛してるよ」
「私もです」
笑理に優しく抱きしめられた梢は、笑理の腕の中でそのまま眠りについた。
小鳥のさえずりと、カーテンから降り注ぐ日差しによって、最初に目を覚ましたのは笑理だった。ゆっくりと目を開けると、笑理の腕の中でスヤスヤと眠る梢の寝顔が見えた。
「可愛い寝顔してる……」
ボソッと呟いた笑理は、枕元に置いてあるスマホを手に取ると、梢の寝顔を写真に収めた。そして、カメラを自撮りモードにすると、梢の寝顔に自らの顔を近づけて、そのままシャッターボタンを押した。
梢の寝顔を見た笑理は、より一層梢のことを愛おしく思えるようになった。
「あ……」
笑理の脳裏に、十年前に梢の寝顔を見た出来事が蘇った。
高校時代、共にテニス部だった梢と笑理。直近に控えた夏の大会は、笑理にとって引退前最後の大会で、逆に一年生の梢にとっては高校生活最初の大会だった。
朝練と授業後、そして休日と、この頃のテニス部は、連日熱中症対策をしながら練習を重ね、まさに佳境を迎えていた。笑理は部活内のエースで、技術力だけでなく、後輩への育成や指導にも定評があり、顧問や部員たちから絶大な信頼を得ていた。
笑理が指導していた後輩の中に、梢の姿もあった。ある日笑理が部室に顔を出すと、壁にもたれて休んでいる梢を見かけたのだ。疲れ切ったのか、スヤスヤと眠る梢の寝顔にうっとりしてしまった笑理は、しばらく立ちすくんで梢を見つめていた。
これが、笑理が梢に好意を抱いた瞬間であった。笑理が梢を意識し始めたことに当然梢は気づいておらず、笑理の片想いは卒業式を迎える日まで長く続くことになる。
笑理自身、男子生徒に告白をされたのは数多知れないが、その都度笑理は断り続けていた。梢の存在が決定打となり、この時から異性への意識が全くなく、自分は同性しか好きになれないことを察していた。
そのことに気づかせてくれたことに、少なからず笑理は梢に感謝していた。
その三
梢が目を覚ましたとき、スマホが表示する時計は朝の九時を過ぎていた。熟睡していた梢は、ゆっくりと体を起こして、ダイニングへ足を運んだ。
笑理のマンションは二DKで、洋室の片方が書斎兼作業部屋、もう片方が寝室となっている。ダイニングキッチンも、一人暮らしのためか物に溢れてはおらず、随所に飾られている木製の小型動物のオブジェや、エメラルドグリーン色のカーテンや、花柄のレースカーテンにも、笑理のセンスの良さが出ていた。
笑理の姿がなく、訝しそうに周囲を見渡した梢だったが、そこへダイニングキッチンに続く脱衣所のドアが開き、笑理が出てきた。
「あ、起きた」
「はい」
梢は慌てて笑理に背中を向けて答えた。風呂上がりの笑理は、バスタオル姿で、髪もまだ拭いている最中だった。笑理の濡れた長い髪やデコルテが妙に色っぽく、寝起き早々、梢の心拍が乱れている。
「結構熟睡してたね」
「ベッドと枕が良かったのかもしれません」
もう一度梢は振り返り、そんな妖艶なオーラを漂わせる笑理を見つめていた。
「どうしたの?」
笑理が微笑みながら尋ねるが、明らかにその顔は誘惑している。
「いえ……」
「この格好見て、ドキドキしちゃった? ちょっと刺激が強かったかな」
そう言いながら、笑理は梢に近づいてくる。
梢は二歩、後ずさりをした。
「大丈夫。襲ったりしないから」
笑理に転がされている自分が、恥ずかしくなってくる梢。同じ女性同士なのだから、何も多少露出があったにせよ、裸を見たところでどうしたと言うのか。もし仮に、銭湯の脱衣所で同じ状況に遭遇しても、これほどドキドキすることはないだろう。
笑理が元々妖艶だというのもあるが、やはり好きな人の普段見ることのない姿を見ると、緊張してしまうものなのかもしれない。だが昨晩の積極的なキスの通り、自分は今、間違いなく先輩である笑理を愛していることに変わりはなかった。
「ねえ、朝ご飯食べる?」
「はい」
「待ってて、すぐ作るから」
「あの……私も手伝います」
「ありがとう。じゃあ、一緒に作ろ」
ジャージに着替えた笑理は、台所に立ち、慣れた手つきで卵を菜箸で溶いている。そして、バターを乗せたフライパンの上に流し、スクランブルエッグを作り始めた。一方の梢は、きゅうりやハムを薄く切って、簡単なサラダを作っている。
好きな人と台所に立ち、一緒に朝食を作るこの時間がまるで同棲生活のように感じ、梢の顔には思わず笑みがこぼれていた。
その四
午後になり、梢はソファーに座って、笑理のデビュー作『指切りげんまん』の単行本を読んでいた。読者というよりも、『ひかり書房』の編集者の目線になりながら、笑理の紡いだ文章表現に夢中になっていた。
すると突然、右頬に柔らかい何かがあたる感触があった。梢が思わず振り向くと、既に笑理に唇を奪われている。
「梢ちゃん、集中して読んでるんだもん」
隣に座る笑理は微笑んで、そう言った。
「三田村理絵先生の文体や特徴が、どんなものかちゃんと見ておきたくて」
「編集者の目になってたよ。でもさ、二人きりの時ぐらい、三田村先生って言うのやめようよ。私、梢ちゃんの前では、村田笑理に戻りたいんだから」
「笑理先輩……」
編集者をしている梢にとって、作家は常に孤独との戦いであることは分かっており、笑理の立場も痛感していた。前任の編集担当者が本人の希望で漫画部に異動したことは、文芸部長の高梨から聞いていたが、笑理にとっては編集者というパートナーが突然変わったことが少なからず動揺した出来事であったことは間違いないだろう。
作品を生み出すためのコンディションを良くすることや、モチベーションを上げることが編集者の仕事であると考えている梢は、改めて公私に渡って笑理を支えていきたいと思っていた。
「書けなくなったらどうしようっていう不安な気持ちはね、常にあるんだよ。これから先の人生、あと何作生み出すのか、そもそも生み出せることができるのかなって考えちゃうの」
これが、作家三田村理絵の心境であった。梢は担当編集者として、何ができるのかを考えようとしたが、今すぐにパッと思い浮かぶものではなかった。
「笑理先輩……いや、三田村先生。その不安な気持ちは、分かります。私、他にも担当を受け持ってますが、どの作家さんも言うんですよ。これから、今の作品よりも面白いものが書けるのかって。作家のクオリティを向上させるのも、我々編集者の仕事だと思ってます」
真剣な眼差しで梢は笑理を見つめた。
「ありがとう、梢ちゃん」
「あ、また三田村先生って呼んじゃいましたね」
「良いの。今の目は、私の後輩じゃなくて、担当編集者の目だった。偶然の再会だけど、梢ちゃんが後任の担当編集者になってくれて良かった」
「私も光栄です。三田村理絵先生の担当になれたんですから」
梢は笑理に手を握られた。そして微笑み合うと、どちらからともなく顔を近づけ、優しい口づけを交わした。
その五
夜になり、梢は自身のマンションに帰宅した。勤務先の『ひかり書房』から私鉄を乗り継いで一時間ほどの場所に位置するワンルームマンションである。
クッションソファーにもたれながら、梢は笑理から借りたデビュー作『指切りげんまん』の単行本の続きを読んでいた。会社に行けば在庫もあり、駅から自宅までの途中にある書店で購入することもできたが、あえて笑理から借りたのは、返却を口実にまた笑理に会うことができるからである。
入社以来、数多くの原稿に目を通してきたこともあり、梢の文章を読むスピードは速いほうであった。その日のうちに、梢は小説を読み終えた。
本をテーブルに置くと、梢は背筋を思い切り伸ばした。そしてふと、唇に手を当てた。昨日と今日で、笑理にキスをされた感触がまだ残っている。
「笑理先輩……」
頭の中は、笑理のことで夢中だった。これまで恋愛経験の無い梢にとって、笑理は初めての相手である。ふとしたタイミングで笑理のことを考えてしまうこの感覚が、恋というものなのかと梢は思っていた。
未だ笑理に直接会うと緊張することがあるが、それは先輩だから緊張しているのではなく、作家三田村理絵だからでもなく、心から愛している人だからだろうと、自分に言い聞かせた。
同じ頃、笑理は自身のマンションの書斎兼作業部屋で、パソコンで原稿を書いていた。梢が帰り、一人になった作業部屋では、ただキーボードで文字を打つ音だけが響いている。
ルーズリーフをまとめたファイルは創作ノートになっており、アイディアやプロットなどのメモが殴り書きされており、笑理はそれを見ながら原稿の執筆を進めている。しかしこの日は、作業効率が異常なまでに悪くなっていた。
赤縁のPC眼鏡をはずし、肩を回すと、椅子から立ち上がってストレッチを始めた。パソコン相手の仕事なので、肩や首が凝りやすく、執筆のタイミングを見計らってストレッチをするのが、笑理の日課だった。
ストレッチを終えると、再び椅子に座ったが、やはり筆が進まない。笑理はスマホの写真フォルダを開き、保存してある梢の寝顔写真を見つめた。
「会いたいよ、梢ちゃん……」
昨晩から数時間前まで会っていたはずの梢に、また無性に会いたいという気持ちが出ていた。これから編集者と作家という関係で、いくらでも会う機会はあるのに、梢の存在が恋しくなっている。愛している人ともっとずっと一緒にいたいと、心底梢に惚れている笑理だった。
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