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アベル王子は執務室で山積みになった問題を片付けながら、ふと隣に目を向けた。
専用に作られた足の高い椅子に座ったフェーデが、手紙とにらめっこしている。
もうすぐ春がやってくる。
季節が変われば時節の挨拶を送るのが王侯貴族のならわしだった。
フリージアの王族や貴族へ宛てた手紙は原則的にアベルが書いている、フェーデが書いているのは、自らの父母に充てた手紙である。
自らを虐待し続けて来た者に手紙を書くということが十歳の少女にとってどれだけの苦しみを伴うものかわからない。最初はアベルが代筆することも考えていた。
だが、フェーデは自分の手で手紙を書くことを選んだ。
「……あ」
手先が震え、字が崩れる。
書いているうちに過去を思い出すのだろう、飛び散ったインクからは恐怖が滲み出ていた。
アベルは何度もフェーデを止めたが、そこで止まるフェーデではない。
痛々しいほどに繰り返しながら、上達していく。
最近のフェーデは片時もアベルから離れようとしない。
安全な場所にしがみつきながら、恐怖と向き合い続ける。
そこまでする必要はない。
恐ろしいなら逃げればいい、関わらなくてもいいのだ。
フェーデが熱を出して寝込んでしまった時には、無理にでも止めさせようとさえ思った。
しかしある日、急に流れるような文字を書けるようになったのである。
どういった心境の変化だろう。
アベルがフェーデを見るとその心が一部だけ凍り付いていた。
「少し、恐怖を麻痺させてみました」
フェーデはかつてアベルにかけられた氷の魔法を利用して、溶けかけた心を再び凍らせたのだ。
「本当は乗り越えたかったんですけど、時間がないから」
申し訳なさそうな顔をするフェーデの右手にアベルが手を重ねる。
「それであっている」
「その魔法は本来そうやって使うものなんだ」
心を凍らせることで強度を高め、衝撃から守る。その際に感受性が犠牲になるが、愛されることで氷は溶かすことができる。そしてまた強い衝撃が来る際には心を凍らせて守る。
氷の魔法なしで心が耐えられるようになるまで、これを繰り返す。
それがこの魔法の正しい使用法だった。
「そっか」
フェーデがアベルの端整な手をとり、頬に寄せる。
氷の魔法使いの手は温かかった。
「わたしがまた凍り付いてしまったら、溶かしてくださいね?」
「ああ、約束する」
二人は微笑みあうと、フェーデの両親に宛てた手紙に目を落とす。
署名は「アベル王子の婚約者フェーデ」とされている。
内容はありきたりな時節の挨拶。
古い詩句をなぞらえ、両国の繁栄を望んでいること。
婚約者としてよき日々を送っていること。
そして、最後に「アンナは元気にしていますか、どうかお返事をください」と書かれていた。
この最後の一文。
これこそがフェーデが手紙を書こうとした理由である。
事の発端はフェーデのことをアンナと誤認する手紙が増えてきたことに始まる。
おそらく、黒猫一座の劇によって令嬢の実家がヴィドール家であることが市井の人々に推測されたのだろう。
そして結婚可能な年齢が十四歳からである以上、十歳のフェーデではなく十四歳のアンナが嫁いだに違いないと判断された。
フェーデの計画では、そこでヴィドール家が事実を告げてくれるはずだった。
フリージアに嫁いだのはアンナではなく妹のフェーデであると、否定してくれるはずだと考えていた。
確かにヴィドール家当主、実父ガヌロンからすれば言い出しにくいことだろう。
フリージアの王族とランバルドの令嬢の結婚が停戦条件であるにも関わらず、結婚できない年齢の娘を押しつけたのだ。フリージアのひんしゅくを買うのは目に見えていた。
下手をすればランバルドの王にも無断で行った暴挙なのかもしれない。そうだとしたら、ランバルドからも厳しい目を向けられることになる。
だが、すべてはガヌロンの撒いた種なのだ。
ガヌロンがどのような思惑でそうしたかはさておき、やってしまったことは事実。その責任はとらなければならない。
フェーデの名前が広まるタイミングによっては、開戦の口実に使われてしまう可能性もある。
そうならないためにもガヌロンが嘘を精算する必要があるのだ。
具体的にはガヌロンが自らの行いを認め、頭を下げて罪を受け入れること。それからランバルドとフリージアに停戦条件の変更を願えばいい。
辺境城塞都市トロンはうまくやっているし、ランバルドもフリージアも相互利益の為に現在の状態が継続することを望むはずだ。
変更だって、結婚を婚約にするだけでいいのだ。
歴史的にも前例はあるし、大したことではない。
というか、ガヌロンはそうするしかないはずなのだ。
アンナがフリージアに嫁いだという情報が定着してしまえば、ヴィドール家にいるアンナは社会的に存在を失ってしまう。まさかフェーデとして生きるわけにはいかないだろう。
これまでのループと違って、今回フェーデはアンナを名乗っていない。
ガヌロンが自分のプライドを守るためだけに両国を危険に晒し、娘が社会的に消滅することを選ぶとは思えない。普通に反逆罪だし、誰も幸せにならないからだ。どうすることが正解かなんて、少し考えればわかることだ。
しかし、ガヌロンは一向にフェーデを認めようとしない。
できればガヌロンからフェーデの名を呼んでもらいたかったが仕方なかった。
公的な書簡に名前を残し、返事をもらうことで「ガヌロンはフェーデが婚約者であることを認めている」とすることもできなくはない。
フェーデが自筆にこだわったのは筆跡鑑定を見越してのこと。ガヌロンに言い逃れをさせないためにも、自分自身が書いたという証明を残しておきたかったのである。