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高くて大きいリビングの窓に叩き付ける雨の音が響き、遠くで雷鳴の轟きが小さく響くが、雷は天使が下す裁きの刃だという言葉を思い出し、今の自分に何と相応しいのだろうかと暗く嗤うと身体が揺れた為にか己 の下で微かな声が挙がる。
その声は快感を得ているものではなく苦痛を発生源としていて、この行為が無理矢理なのだと教えてくれるが、例え無理矢理であろうとも長年夢見続けてきた存在を抱いている現実に身体の奥底から言い表せない熱と歓喜と快感が沸き上がり、その度に押さえつけて無理矢理入り込んだ白い身体が苦痛に身動ぎ、顔を押しつけたソファの座面からくぐもった声が流れ出す。
今まで軽く手を伸ばせば届く距離にいながらも決して手に入れられなかった身体を組み敷き、スラックスと下着だけを脱がせてソファに押さえつけても何故か抵抗しない友人の中を性急に解すように指を突き立て、それだけ乱暴に扱っても暴れることもなく睨んでくることもない姿に苛立ちにも似た何かを感じながら己を突き入れたとき、彼には意味の分からない掠れた声がこぼれ落ちただけで、やはり抵抗らしいものは一切無かった。
恋人とのセックスや同意を得たものであれば当然ながら快感を得るだろうし、それを表す声も流れ出すだろうが、今己がソファに押しつけながら出入りしている中は熱を持つこともなければ快感を得ている証もなく、また座面に押しつけた顔辺りからは腰がぶつかる衝撃で零れる呻き声のようなものしか聞こえて来なかった。
己が最も信頼している友人をレイプしている後ろめたさから早く事を終わらせたいという思いと、いつまでも終わることなくこのまま中に入っていたいという思いが彼の中で鬩ぎ合うが、この身体がたとえ熱を持たなくともこのままずっと埋もれていたいと悲鳴のような声が腹の奥底から沸き上がり、後ろめたい心を掻き消していく。
初めて挑戦する山を見上げた時に感じる高揚感や山頂に手が届く確信を得たときとは似ているようで違うが、それでも胸が高鳴るのを抑えられずに腰を掴んで引き寄せ、横臥した足を抱えて腰をつき出すと衝撃に白い髪がソファに押しつけられる。
その姿に被虐心が煽られてしまい、声を聞いてみたいとの思いから萎えたままのものに手を添えて指の腹で先端を少し強めに撫でたとき、初めて声が流れ出す。
一度聞いたその声をもっと聞いてみたいと思った瞬間、脳裏に一人の男の貌が思い浮かび、その男は毎日この白い身体を抱き今聞いた声を満足するまで聞いているのだと思うと、瞬間的に目の前が真っ赤になって何も考えられなくなってしまう。
自分は決して耳にする事のない声を、見ることの出来ない姿を見ている男に対する嫉妬とそれを許している友への何故という苛立ちが混ざり合い、横臥する肩を掴んでソファに押しつけて真正面から初めて向き合うと、レイプしている現実も白い首を囲むように初めて目の当たりにする痣が浮かんでいることも、目尻のほくろを濡らすように涙が流れている事実も何もかもが掻き消えて、ただ本能の赴くままに白い身体を征服し蹂躙していく。
脳裏に浮かぶ顔には聞かせていないだろう苦痛の声など聞きたくなかった彼は、ソファに引っ掛かっていたアスコットタイを丸め、せめてもの口封じに押し込む。
「…………」
その行為にすら目立った反応を示されず、ただそれが無性に悲しくて苛立たしくて友人-今日を境にその関係は壊れてしまうだろう-の細い腰を両手で掴んで引き寄せると、登山で一時的に山頂が見えなくなった時、このまま永遠に山頂が見えないのではないかと感じる絶望感にも似た思いの中でくぐもった悲鳴が響くのも構わずにただ一心に腰を押しつけるのだった。
リビングの窓が小刻みに揺れるほどの雷鳴が轟き、その轟音にのろのろと顔を上げたオイゲンは、ソファの座面に横臥したままぴくりとも動かないウーヴェへと顔を向けるが、もう一度稲光と雷鳴が同時に光と音を伝えた瞬間、まるで屋根を貫通した雷に打たれたかのように身体をびくんと竦ませ、麻痺したような手を恐る恐る伸ばしてシャツを羽織ったままの肩にそっと載せる。
「……ウーヴェ…」
一度の呼びかけに返事は無く、もう一度呼びかけてゆっくりと身体を揺さぶるとその動きに合わせて身体が揺れ、横臥していたウーヴェが仰向けになる。
窓から差し込む稲光が瞬間的に影を生み出しては消える為、眩しさを堪えてウーヴェを見つめたオイゲンは、明滅する光の中で横たわる友人とその友人の身体-特に首筋や内腿に残されている己の痕跡に小刻みに身体を震わせ始める。
自分は一体何をしてしまったのか。
脳内で突如響いた自問の声に、今更何を言っている、お前は何も疑わずに己を信じてくれているウーヴェをレイプしたんだと自答されてしまい、短く刈った髪を抱えるように開いた足の間に折り曲げた上体を押し込む。
「────っ!!」
一体何という事をしてしまったのか。友人としてだけではなく人として最低な事をしてしまったと、一時の狂乱から解放されたオイゲンの心と脳味噌が過ぎ去った嵐の爪痕にただ呆然とするが、次から次へと沸き上がってくるのは友人を最も卑劣な手で傷付け汚してしまった後悔の念ばかりだった。
酒に酔った勢いで押し倒してしまった訳ではない事は己が誰よりも理解していて、取り返しのつかない事をしてしまった後悔に歯を噛み締めていたが、隣で人が動く気配を察してびくんと背中を揺らしながらも恐る恐る顔を上げたオイゲンは、目の当たりにした光景が信じられないように切れ長の目を瞠る。
ついさっきまで糸の切れたマリオネットのようにソファに横臥していたウーヴェが無表情にシャツの乱れを直し、ソファの下に投げ捨てられていた下着とスラックスを静かに身につけていたのだ。
「ウ、ウーヴェ…」
静かすぎるほど静かなウーヴェの態度にオイゲンが言葉に詰まりながらも何故あんな事をしたのかと身振り手振りを交えて説明-はっきり言って言い訳にすぎなかった-をするが、己の口の中に突っ込まれていたアスコットタイを暫く眺めていたウーヴェは、隣で捲し立てるように言い訳をするオイゲンを見ることなく、何かと一緒に捨てるように床にふわりと捨てると、その手で床に落ちていたメガネを取ってポケットにしまいながら口を開く。
「……俺が許せないんだろう?」
だからこんな事をしたんだろう、これで許して貰えるだろうかと呟かれて拳を握りしめたオイゲンは、お前は何も悪くないと歯軋りの奥から声を絞り出すが、リオンと付き合うことを選んだのは自分だ、だから自分が悪いと淡々と言い募られて絶句する。
「そう、じゃない、ウーヴェ。お前は本当に悪くない、悪いのは…俺だ」
ウーヴェの言葉にようやく己の言葉を取り戻したオイゲンは、悪かったと腹の底から謝罪をしながら頭を下げるが、そんな彼の頭に降ってくるのは自分が悪いという感情の籠もらない声だけだった。
「ウーヴェ!!」
「……今まで気付かなくて悪かった……」
「違う!だから……!」
「…俺からは…伝えにくいから、カールに断っておいてくれ」
淡々と語られる声に思いの一割も伝えられない苛立ちに拳を握ったオイゲンは、共通の友人に断っておいてくれと言われて目を瞠り、近いうちにカスパルとオイゲン、ウーヴェとそしてリオンとで飲みに行こうと誘われていた事を思い出し、ウーヴェとの関係もウーヴェの感情も壊してしまった事に改めて気付いて歯を噛み締める。
「今日は……悪かった」
いつもと比べれば遙かに乱れているが、それでも最大限整えたスーツの上にコートを羽織り、オイゲンの顔をこの時になって初めて見つめたウーヴェは、真っ白な顔で見つめてくる友人にどうして自分よりも傷付いた顔をしているのだろうと思案するが、許せないほど腹が立っていたのだから傷付いていて当然だと納得し、無言のままリビングから出て行く。
静かにドアが閉まる音がやけに大きく耳につき、ぎゅっと唇を噛み締めたオイゲンだったが、窓を叩き付ける雨音に気付いて我に返り、微かに玄関のドアが開いて閉じた音も聞きつけて蒼白になる。
今日は久しぶりに飲み明かすつもりだったのだ、当然ながらウーヴェはここに来るのに自分で車を運転してきてはいなかった。
電車で来たと言っていた事を思い出し、この激しい雨の中を駅までどうやって行くつもりだとようやく気付いて慌てて服を着込み、廊下を駆け抜けて玄関のドアを開けるが、すでにウーヴェの背中は雨のカーテンの向こうに隠れてしまったようで、土砂降りの中に人の姿など見えなかった。
短く舌打ちをしながら踵を返し、コートとバスタオルを手当たり次第掴んで車に飛び乗って駅への道を進んでいくと、程なくして細い背中が雨の向こうに見えてくる。
窓を開けて名を呼びクラクションを鳴らせば、頭から爪先まですでにずぶ濡れになっているウーヴェが無表情に見つめてくる。
「送って行くから乗れ、ウーヴェ」
「……必要ない」
まだ電車が動いている時間だし気を遣わせたくないからこのまま駅に向かうとにべもなく告げたウーヴェだったが、同じように雨の中に飛び出してきたオイゲンに腕を掴まれて強引に車に引きずり込まれてしまえばついさっき覚えてしまった恐怖と痛みが増幅されて抵抗もできずに大人しくシートに腰を下ろす。
「家に送って行く」
「……駅で良い…」
「家に送ると言ってるだろう?」
狭い車内でオイゲンと二人きりになる事への恐怖はどうしても抑えられず、だがそれを表に出して更に友人を怒らせてしまうことも出来ずにただ俯いたウーヴェは、信じていた友人があのようなことをしてしまう程怒らせていたのにそれにも気付かずに今まで通りの関係でいられると思っていた己の甘さに自嘲の笑みが零れ出す。
助手席で俯き加減に座っているウーヴェが突如笑い出したことに驚きを隠せなかったオイゲンは、どうしたんだと問いかけようとして心の声にどうしたもこうしたもないだろうと笑われて問いを飲み込んでしまう。
お前がしたことの結果がウーヴェの今の笑いだとも嗤われて奥歯を噛み締め、今まで何度もこうしてウーヴェを自宅に送り届けたり送られたりしたが、それら総てが遙か遠い昔の出来事で、二度とこんな時間を送ることは出来ないと教えられているようで、胃の辺りに不快感を覚えながら土砂降りの中を車を走らせるのだった。
ウーヴェの自宅に向かう道を進んでいたオイゲンは、助手席で俯き加減にぼんやりと座っていたウーヴェの口から突如左に曲がってくれとの言葉が流れ出した事に驚きつつも、友人の指示に従って次に見えてきた交差点を左折する。
そのまま道なりに進んでいくと次は右、左と、大きな交差点から徐々に小さな交差点へと進んでいくことに気付き、さすがに初めて通る道である不安をオイゲンが抱いた時、その付近一帯があまり治安の良くない地区である事に気付き、掌に汗をかいてしまう。
この付近にウーヴェが行きたい場所があるとは思えなかったが、そのまま真っ直ぐ進んでくれと言われて素直に従い、遠くに見えてきた教会らしきものをオイゲンが認識しその教会の手前までやってきた時、ウーヴェの口が停めてくれと告げてオイゲンを驚かせる。
「こんな所に何の用があるんだ?」
お前の家はまだ先だしここはあまり昼でも治安が良くなく、夜ともなればどんな事件に巻き込まれるか分からないから家に帰ろうとオイゲンが告げるが、その声に一言も返さなかったウーヴェが静かにドアを開けて雨の中に降り立った為、オイゲンも仕方なく車から降りてロックをすると、躊躇うことなく教会の敷地に入っていくウーヴェを追いかける。
「ウーヴェ、おい、ウーヴェ!」
「………ここは治安が良くないんだろう?早く帰った方が良い」
「何を言ってるんだ?ここの教会に用があるのなら明日にすればどうだ?」
教会の扉の前で立ち尽くすウーヴェの肩に手を載せたオイゲンは、何でも良いからとにかく早く車に戻って家に帰ろうと言い募るものの、やんわりと上がったウーヴェの手に手を払われて目を瞠る。
「……送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってくれ」
明かりも消えて扉も閉ざされている教会何の用があるんだと問いかけたかったオイゲンは、先程の事を神に懺悔するつもりなのかと考えるが、本当に悔い改めて懺悔しなければならないのは己だし、学生の頃からウーヴェは教会を筆頭に神という存在を信じていなかったことも思い出し、苛立ちを込めて声を荒げてしまう。
「ウーヴェ!」
「……誰かいるのですか?」
頑なに口を閉ざして身動ぎしないウーヴェにさすがに焦れたオイゲンが肩を揺さぶって声を荒げたとき、教会の横から短い渡り廊下で繋がっている古い建物の窓が開き、一目でシスターだと分かる衣装を着た中年の女性が雨に濡れるのも構わずに身を乗り出してくる。
「…夜分お騒がせして申し訳ない。友人がこちらの教会に用があると言って…」
俯いたままのウーヴェに代わってオイゲンが手短に事情を説明すると、窓から身を乗り出していたシスターが姿を消し、程なくしてドアが開いて早足にやってくるが、オイゲンの顔を見て初対面の人であることを確かめ、俯いたウーヴェへと視線を動かすと同時に驚きの声を挙げる。
「ウーヴェ?そんなに濡れてどうしたのです?」
「……マザー……お騒がせして申し訳ありません…」
駆け寄ってきたそのシスターの言葉からウーヴェと知己である事に驚いているとウーヴェが小声で謝罪し、迷惑ではありませんよと雨の滴が流れ落ちるウーヴェの髪を労るように撫でた為、友人達でもそうそうウーヴェの髪や身体に触れることは少ないのにこのシスターはどういう関係なのかという疑問がオイゲンの中に芽生える。
「何があったのか聞かせてくれますね?」
「……は、い」
マザーと呼ばれた女性の言葉に躊躇いを覚えながらも逆らうことはないと言いたげな声で頷いたウーヴェにオイゲンはただ呆然とするしか出来なかったが、その時、窓が勢いよく開いたかと思うと雨などものともしない陽気な声が響き渡る。
「マザー、誰かいたのかー?」
雨の帳を一瞬で吹き飛ばしそうな陽気なその声が響いた瞬間、ウーヴェが雷に打たれたように硬直し、次いで自らの身体を抱え込みながら上体を折って震え始め、オイゲンとマザー・カタリーナの目を見開かせてしまう。
「………ァ…っ…────ッ…ヒ…っ!!」
ウーヴェが全身濡れ鼠のようになり、親友だと思っていた—今でもそう思っている—オイゲンに受けた暴行の痕跡も生々しいままここにやって来たのは、まともに働いていない理性がリオンの元に行けと命じたからだった。
日頃の冷静さがあれば、一度自宅に戻って何とか夜を越え朝を迎えて平気な顔でバザーの手伝いをするためにここに顔を出す判断が出来たのだろうが、冷静さなどかなぐり捨ててしまうほどの衝撃を受けていたウーヴェは、後のことを何も考えることも出来ずにここにやってきて、リオンの声を聞いて安心したい思いが強かった。
だが、いざその声を聞いた瞬間のウーヴェの脳裏に浮かんだのは、過去からの声とオイゲンの好きだったとの言葉と、言い表しようのない罪悪感だった。
その思いから悲鳴じみた声を上げ、心配で駆けつけてくれたマザー・カタリーナとオイゲンを更に心配させてしまう。
「!?」
マザー・カタリーナが身を乗り出した窓から同じようにその声の主が身を乗り出すが、彼女とは違って渡り廊下を通るのではなく直接窓から飛び出し雨の中駆け寄ってきたのは、彼女と久しぶりに母と子の心の触れ合いのような時間を持っていたリオンで、教会の入口辺りで人の声がすると気付いたマザー・カタリーナと長身の男と、その間に見慣れた背中を発見して声を掛けたのだが、己の声にウーヴェが予想もしなかった反応を示した為、慌てて駆け寄る。
「オーヴェ、どうした?」
どうしてずぶ濡れのウーヴェが教会の入口でがたがたと震えているのかが全く理解出来ずに顔を覗き込んだ瞬間、今まで表情がなかった顔が急に歪んで震える唇の間から言葉にならない悲鳴が流れ出した為、咄嗟にいつものようにウーヴェの頭を胸に抱え込んで濡れている白い髪にキスをする。
「どうした?」
「…ッ、ァ…アァア…っ!!…ッツ…!」
「うん。俺はここにいる」
だから落ち着いて深呼吸をしろと囁きかけ、何とか己の言葉に従おうとするウーヴェの動きを感じ取りながらも、間近で茫然自失の態度で立ち尽くすオイゲンへ厳しい視線を向ける。
「マザー、オーヴェを落ち着かせたいから礼拝堂使うぜ」
「え、え、ええ、…何か持ってきましょうか?」
「んー、平気。後でタオルを使いたいけど……あ、そうだ、命の水…」
「え?…皆の分を用意しておきますね」
「ダン、マザー」
オイゲンの顔から視線を逸らさずに口調だけは陽気に語りかけ、己の胸に意味を成さない呻き声のような悲鳴をこぼすウーヴェの肩を抱いて髪にキスをし、色を無くした頬にもキスをする。
「……ヘル・ビアホフだったよな?」
「………ああ」
「ここで立ち話してると近所迷惑になるから中に入ってくれないか?」
それにここでは雨が吹き付ける為、これ以上ウーヴェを濡らしたくないと苦笑混じりに伝え、ウーヴェの耳に口を寄せてオイゲンに告げたのとは全く違う優しい声で移動を促すと、ウーヴェの肩が激しく上下しながらも大人しくその言葉に従ってくれる。
「ダン、オーヴェ」
オイゲンが扉を開けて暗い礼拝堂の中に入り、すぐ後をリオンがウーヴェを抱えるように進んで祭壇に最も近いベンチにウーヴェを座らせ、自らは祭壇の近くの壁際で何やらごそごそとしているが、礼拝堂内を照らすには暗いが今ここにいる者達の表情を浮かび上がらせるのには十分な明かりを付けてオイゲンにベンチを指し示しながらウーヴェのすぐ傍の床に膝を着き、恋人とその友人の顔を交互に見つめるのだった。
彼らの間に静かに溢れ出す緊張を高めようとするのか、それとも霧散させようとするのか突如雷鳴が轟き、稲光によって浮かび上がった壁に掛けられている絵がオイゲンの視界に入り、フィレンツェにある天国への門と呼ばれる扉に彫られているのと同じ場面が描かれている事に気付くが、それに対して感想を持つよりも早くにリオンの声が礼拝堂内に静かに響く。
「……何があった?」
その声からは決して逃れられないと思わせるものが滲み出ていて、無意識に腿の横で拳を握ったオイゲンが唾を飲み、この後己の身にどんな事態が降りかかるのかを考えるだけで背筋が震えてしまいそうになる。
ベンチの背もたれに手を付いてじっと見つめてくるオイゲンをいつもと全く変わらない表情で見たリオンだったが、何があったのか話してくれと語りかけたのは小刻みに震えながら己の両腕を強く抱き締めているウーヴェに対してだった。
「オーヴェ、今日はヘル・ビアホフと一緒に飲み明かすって言ってたよな?どうしたんだ?」
飲み明かすと言う言葉から連想する時間にしてはまだ早い時間だと苦笑し、一体何があったんだとようやくオイゲンから視線を外してウーヴェの腿に手を載せて見上げるようにその顔を覗き込んだリオンは、ウーヴェの口から何らかの言葉が流れるのを期待するものの、その口から流れ出すものはと言えば意味を成さない途切れ途切れの音だけで、恋人の心が過去に囚われていることを察して眉を寄せる。
今夜はそこで呆然と立ち尽くしているオイゲンと一緒にいたはずなのに、何故ウーヴェの精神状態が過去にとらわれた時のようになっているのか。
友人と飲み会の時は心底楽しんでいる様子で、カスパルから聞き出した学生時代のウーヴェの様子からも、この気の良い友人達は過去に絡んだ事象をウーヴェに突きつけることはないと予想していたのだ。
なのに、こんなにも脅えきって言葉もロクに話せない子どものようにただ呻き声を出しているウーヴェの身に起きた何かを察することができず、本当に何があったんだともう一度ウーヴェの顔を覗き込む。
「なぁ、オーヴェ。どうしたんだ?」
「……っ…ごめ…っ、な、さ…」
「ん?何で謝るんだ?」
ウーヴェの震える手が上がったかと思うと手の甲を口に押し当てて言葉を封じようとした為、リオンがゆっくりと首を左右に振りながらその手を取って己の口元へと引き寄せる。
「オーヴェ、約束しただろ?お前が思っていることを口にしても誰も怪我をしない。だから言っても良い」
「…っ…俺、が…っ…ゆる…し、…っ…」
「謝らなきゃならないことをしたのか?」
繰り返される謝罪の言葉にさすがにリオンも苛立ちを感じるのか、口調に強い思いを混ぜてしまうとウーヴェの喉から息を飲む音が響き、慌ててウーヴェの手をしっかりと握りしめる。
「ごめんごめん」
「ァ…っ…っ、ごめ、なさ…ぃ…っ」
生まれてきて、一人生き残ってしまってごめんなさい。
ウーヴェの口から流れる言葉が謝罪の言葉だけであることにリオンは焦りを感じ始めるが、そんな二人の姿を少し離れた場所から見守っていたオイゲンは目の前の現実が俄には信じられず、そこに座っているのが友人の身形をした見知らぬ人のように思えてくる。
ギムナジウムや大学を過ぎ、お互いに医者の道へと歩み出してからも付き合っていたが、まるで言語障害や発声障害を持つ人のように言葉をロクに話せず、ただただ同じ言葉を繰り返すだけのウーヴェなど見たことが無く、その姿に強かに頭を殴られたようなショックを受けるが、それ以上にオイゲンがショックを感じていたのは、そんなウーヴェの姿に動じることなく接し、落ち着きを取り戻させようとしているリオンの姿だった。
自分はウーヴェの過去について少し聞きかじった程度だが、リオンの様子から感じたのは、間違いなく自分以上にウーヴェの過去を知っている事実だった。
その事実に目眩を覚えるような嫉妬を感じ、腿の横で拳を握ってそれを堪えるが、次いで聞こえてきたリオンの言葉に最大限に目を瞠ってしまう。
「オーヴェ……な、そこにいるヘル・ビアホフに何をされたんだ?」
「────ッひ…ッ…!!…な、さ…っ!!」
恐怖に脅える幼い子供を根気よく諭す口調で何度も大丈夫だと告げ、震えが止まらないウーヴェの手を握ってキスをし、ここは安全な場所で誰も危害を加えない事をゆっくりと確実に思い出させるような言動をするリオンをオイゲンは少し離れた場所で顔を強張らせたまま見守っているが、ウーヴェの顔を覗き込んだリオンの目が一瞬大きく見開かれた直後、膝立ちになって身体を起こすと項垂れているウーヴェの頭をそっと抱き寄せる。
「……後はそこにいる本人に聞くからさ、もう何も言わなくて良いぜ」
「…ゥ…ッ…アァ……っ!!」
「うん。────痛かったな、オーヴェ。でももう大丈夫だからな」
ウーヴェに向けて語りかけるリオンが肩越しに振り返りオイゲンを見る蒼い双眸には直視出来ない程強い光が宿っていて、思わず視線を逸らしてしまったオイゲンだったが、リオンの口振りからウーヴェに対して何をしたのかに気付いている事を察し、逃げたい思いを必死に押し殺してその場に踏みとどまる。
「さー。ヘル・ビアホフ、話して貰おうかな」
「な、にを話せと…言うんだ?」
「ん?またまたー。しらばっくれちゃってー」
ウーヴェの濡れた髪にキスをし、この後の出来事からウーヴェを護るようにパーカーを頭から被せて今度は布地の上からキスをすると、肩越しではなく正面からオイゲンと相対する為に立ち上がってくるりと踵を返す。
「────レイプしたんだろ?」
「ど、うして、レイプなど…!!そんな事をするはずが…」
「ない、か?じゃあオーヴェが自分からケツを突きだしたのか?」
そんな事は天と地が入れ替わってもあり得ねぇと鼻先で笑い、パーカーのポケットからパッケージが少しひしゃげている煙草を取り出して火をつけると、高い天井に向けて煙を吐き出す。
リオンの直裁的な言葉と挑発的な態度にオイゲンが息を飲み、ウーヴェが誰かと付き合っているときに遊びであれ本気であれ恋人以外とセックスをする可能性は限りなく低いはずだと呟き、己の思いが間違っていないことを確かめるようにウーヴェを見たリオンは、次いでオイゲンへと視線を向けて唇の端を持ち上げる。
その、真正面から見たリオンの獰猛さすら感じる笑みにオイゲンの本能が危険信号を点滅させ始め、逃げ出さないといけないと咄嗟に考えるが、リオンの身体の横に見えるウーヴェの姿に気付いて息を飲み、指摘されたように信じていた友人にレイプされるという傷を負わせてしまった後悔の念が押し寄せてくる。
「酒に酔った勢いでオーヴェを押し倒したんじゃないだろ?」
「いや…酔っていた」
リオンの煙とともに吐き出される言葉に一縷の希望を見いだした顔で告げたオイゲンは、煙草を咥えた口に浮かぶ笑みがより深く狂暴さを増したように感じて背筋を震わせる。
「あんた、ここに来るのに車を運転してきたんだろ?車を運転するのにワインは飲まねぇだろうし、あんたみたいな山男がビールで正気を失うほど酔うなんて考えにくい」
「────!!」
だったら答えは簡単だ、あんたがオーヴェを襲ったときあんたは酔っていなかった筈だと煙を再度天井に向けて吐き出したリオンは、靴の裏で煙草を揉み消して礼拝堂の床に吸い殻を捨ててジーンズの尻ポケットに両手を突っ込む。
「な、教えてくれよ。てめぇのダチをレイプするってどんな感じ?」
「っ…!!」
「俺も色々悪い事やってきたけどさー、さすがにダチをレイプってなぁ…。な、教えてくれよ、ドクター。どんな感じなんだよ?」
もしもここにマザー・カタリーナやゾフィーらがいればリオンのその言動と表情から危険を察知してオイゲンに逃げろと言えるが、今ここにいるのは頭からパーカーを被せられて視界を遮られているウーヴェだけだった。
だからこの直後に何が起こるのかを予測出来るものは誰もおらず、ただ、さすがに何かを感じたオイゲンが一歩足を後ろに引いた瞬間、何か重いもので殴られた衝撃を受けてそのまま後ろに吹っ飛んでしまう。
「がは…っ!?」
心身の構えを取る暇もなく吹っ飛ばされ、何とか手をついて身体を起こしたオイゲンは、己の頭上に影が落ちている事に気付いて顔を上げようとするが、己の意思よりも先に外的な強い力で顎を蹴られて悲鳴を上げながら再度床に倒れてしまう。
「ぐぁ…っ!!」
己の爪先が見事に顎にヒットした事にも何らの感慨も抱かないのか、顎を両手で庇いながら床の上を左右に転がるオイゲンを無表情に見下ろしていたリオンだったが、その動きが癪に障ったのか、オイゲンの顔すれすれの床に足を踏み下ろす。
「────っ!!」
リオンの足を避けるように転がり、お前は刑事なんだろう、こんなことをして許されると思うのかと喚くと、暫く目を丸くしたリオンが気持ち良いほどの笑い声を礼拝堂内に響かせるが、その笑いが収まるが早いか、レイプ野郎が言えたことかと嘲笑されてしまう。
「!!」
「俺が刑事だってことをどうこう言う前にあんたの職業は何だ?」
リオンの手がジーンズの尻ポケットに突っ込まれたままである事に気付き、身体を起こしつつその足に体当たりをしようとしたオイゲンだったが、彼が考えているよりも早くリオンが飛び上がってオイゲンの体当たりを躱すと、彼の背後に立って今度は広い背中を蹴りつけて肩を踏みつける。
「ぐぅっ…!!」
「ヤってる最中にオーヴェはあんたの名前を呼んで、キスしてハグしてくれたか?」
己の肩を踏みながら満面の笑みで問いかけるリオンを睨みつけた彼は、リオンの言葉の総てが行為の最中の様子を言い当てていることに唇を噛み締めるが、いつまでも踏みつけられたままではいられず、全身の力を込めてリオンの足を振り払うように上体を起こす。
「あぶねー」
軽く口笛を吹きながらオイゲンの動きをしっかりと見きり、少し離れた場所へと飛び退いたリオンがようやくポケットから手を出し、もう一度煙草に火をつけて気怠げに煙を吐き出したときにオイゲンが初めてファイティングポーズを取った為、咥え煙草のまま軽く顎を上げて目を細め、オイゲンからの宣戦布告を受け取るのだった。
窓の外の雨は激しさを増し、時折雷鳴も遠く近くで轟いているが、古びた教会の礼拝堂内では何かを殴る音と悲鳴とが時々響く。
その物音を暗く閉ざされた視界でぼんやりと耳にしていたウーヴェは、誘拐されていた当時も常に何処かで暴力の影を感じていた事を思い出し、やはり自分はまだあの事件の最中にいるのだと暗く嗤ってしまう。
事件は解決し、周囲の手助けもあって医師の道を歩いていると思っていたが、それらはすべて夢だったのだと嗤って額を膝に押しつけるが、その時無意識に繰り返している呼吸が何かの匂いを感じ取り、夢の中で夢を見ているような脳味噌がその匂いに反応を示す。
それはウーヴェにとって掛け替えのない存在を思い出させ、顔を上げて前を向く力をもたらしてくれると同時に、言い表しようのない安堵感を与えてくれる匂いだった。
煙草と働く男の汗の匂いと、そしていつだったか謝罪と感謝の思いを込めて自ら買い求めた香水の匂いで、優しさと強さでもって覚醒を促すようにウーヴェの裡に入り込んでくる。
一度知覚した匂いを消し去るのは難しいらしく、過去に雁字搦めになっていたウーヴェの意識が徐々に現在へと戻り始め、それを加速させるような声が耳に入ってくる。
「オーヴェの様子からあんたは学生の頃の友人で一番仲が良いと思ってたんだけどなぁ」
仲が良かったのは下心有りだったからかと笑う声に何かを殴る音が重なり、直後痛みを堪える声も聞こえてくる。
人が笑いながら人を殴る姿をウーヴェは身をもって経験したが、今笑いながら人を殴っているのは己が愛しまた己を最も理解し受け入れてくれているリオンであることを思い出すと、まるで脳内にかかっていた靄が一瞬で晴れたように世界が一気に色を取り戻す。
「リ…、オ、ン…っ!」
がちがちと噛み合わない歯の奥から何とか名を呼んでみたものの、パーカー越しのその声は小さすぎて彼には届かず、意を決してパーカーを取り除くと、世界に色を取り戻してくれた愛すべき男の匂いが今まで全身を包んでいてくれた事に気付く。
その匂いを持つ恋人が笑顔で暴力を振るう姿は見たくないと、今まで何度か告げたことがあったが、その思いは目の前で人が殴られる姿を見る恐怖よりも強く大きくウーヴェの中に存在し、それを伝えるために震える膝を拳で殴りつけて立ち上がる。
笑顔で人を殴る姿とそれに重なる、そうならざるを得なかった幼い頃のリオンの横顔を見るのは酷く辛く苦しいことだったが、自分に出来る事はそんな彼の全てを受け入れ、抱きしめることだけだった。
だから今もその思いを実行するだけだった。
「リオ…ン、もう、いい…っ!」
この時ウーヴェの中にあったのはリオンに対する強い思いだけで、彼が誰を相手に拳を振り上げているのか、その相手は何故殴られなければならないのかといった事情は一切なく、笑顔の奥に隠れている素顔を守りたい一心でウーヴェが出せる限りの声を上げ、膝を着いて悔しそうに睨み付ける男へと足を振り上げたリオンの前に回り込む。
「!?」
「オーヴェ!!」
突然割り込んできたウーヴェに気付いたリオンだったが、振り上げていた足を止めることが出来ず、そのまま自分と正対するようなウーヴェの腹を力一杯蹴り付けてしまい、腹を押さえながら床に倒れ込んで嘔吐するウーヴェの傍に膝を着いて蒼白な顔で背中を撫でる。
「かは…っ!」
「オーヴェ、オーヴェ!何で……!」
涙を滲ませながら咳き込みか細い呼吸を繰り返すウーヴェは、覗き込んでくるリオンに微かに笑みを浮かべ、もう良いんだと呟きながら手を挙げる。
「リーオ…もう、良い…」
「良くねぇよ!お前の過去を利用して抵抗出来ないのにレイプするようなヤツなんだぜ!?何が良いんだ!?」
ウーヴェの声に珍しくリオンが激昂する声がオイゲンを弾劾するが、そんな激しさを見せる恋人の頬を撫でたウーヴェがゆっくりと瞬きをした後、もう良いんだ、リーオと告げてその頬を何度も撫でる。
自分の為に拳を振り上げる必要はない、もう傷付けられた報復を笑顔でする必要はない思いを見つめた目に伝え、視界が狭まりだしたことに小さく苦笑する。
「…リ、オン……も、ぅ…」
「ああ、くそ!!分かったよ!もう殴らねぇよ!」
「う、ん……ダンケ、リー……」
リオンの腕の中で意識が薄れていくのを感じていたウーヴェは、完全に意識が消える直前、腕を押さえながら呆然と立ち上がる友人が唇を噛み締める横顔を見るが、その真意を確かめる余裕はなく、リオンが今にも泣きそうな顔で名前を呼んでいるのを口の動きで確かめるとそのまま意識を手放してしまうのだった。
窓の外では少しだけ弱くなった雨がそれでも教会の屋根や石畳を濡らす音が響いているのだった。