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叩き付けるような雨と雷はいつしか止み、残滓のような雨が静かに降っている夜半、オイゲンはベンチに腰掛けながら祭壇を見上げ、屋根に降っては流れ落ちる雨音を聞くとはなしに聞いていた。
そんな彼の脳裏には今夜の出来事が時系列を無視しながら再生されるが、その再生が終わる時のウーヴェは無表情に涙を流す顔であったり、今まで自分が見た事のない幼い子供のような顔で脅えて最も信頼出来る男にしがみつく姿であったりした。
何故自分ではなくリオンのように底知れない何かを感じさせる男なんだという醜い嫉妬心からウーヴェを襲ってしまったのだが、さきほど己が目の当たりにしたウーヴェの様子を思い出すと、何故リオンなのかが分かった気持ちになる。
あのように半狂乱に陥ったウーヴェを目の前にし、己はリオンのように彼の壊れた心を護れるのかを考えた時、悔しいし腹立たしいことだが何もできないとの言葉が返ってくる。
学生からの付き合いでウーヴェが家族と不仲であることも知っていたし、その不仲の理由も何となく聞いていたが、ウーヴェの喉にあんなにも鮮やかな痣があることは知らなかったし、まさか首筋を触られることで抵抗することが出来なくなるなど思いも寄らなかった。
リオンが言ったように抵抗出来なくなったウーヴェをレイプしたのは紛れもない事実で、例えウーヴェの事情を知らなかったとしても許して貰えるとは思わなかった。
多感な青春時代をともに過ごし、この後もそれぞれの夢の道をそれぞれのペースで進んでいき、その最中で笑い合い時には意見をぶつけて口論しながらもそれでも最後には笑って過ごせると信じて疑わなかった友人を最悪な形で自ら裏切ることになるなど、あの頃の自分が今の己を見ればきっと唾を吐いて軽蔑することが容易く想像でき、その思いに暗い顔で肩を揺らしたオイゲンは、静かな足音が聞こえてきた為にゆっくりと顔を向けると、複雑な面持ちをした自分たちと年の変わらないシスターが救急箱を手に立っていることに気付く。
「…迷惑をかけました」
「いいえ。……あなたの傷も手当をした方が良いわ」
「いや、私は医者です。これぐらい自分で手当てできる」
「そう?」
教会という聖域で殴り合う醜態を晒したが、これ以上この教会に関係する人の手を患わせる訳にはいかないとの思いから丁重に断ってベンチから立ち上がろうとするが、がくんと膝を折って床に座り込んでしまう。
「……あの子は昔から良くケンカをして今のあなたみたいな顔で帰ってきたり、相手を同じような顔にしてきたけど、バルツァーさんと付き合ってからはケンカをしなくなったわ」
だが、たとえ性格が穏やかになったとしても幼い頃と同じで己の愛する人が傷付けられると抑制が効かなくなると呟きながらオイゲンの横に膝をついたのはゾフィーで、救急箱を開けて常備している消毒薬を手際よくガーゼに染みこませてオイゲンに差し出す。
「さっき隣のドクに彼の診察をして貰ったわ。その医者がついに手加減を覚えるようになったかと言ってたわね」
私は今回のケンカを見ていないから何とも言えないが、あなたの今の顔を見れば確かにあの子は手加減をしたように見えると小さく笑い、あれで手加減をしているのかとオイゲンが己の顔を消毒しながらげっそりと呟くと、昔はあの子ももっと荒んでいて手が付けられなかったと目を伏せる。
「……医者の診察を受けたのか?」
「ええ。リオンが間違って…オーヴェを…蹴っちまったって真っ青な顔で駆け込んできたのよ。医者を呼ぶのは当然でしょう?」
彼女はマザー・カタリーナと共にキッチンでリオン達が戻ってくるのを待っていたのだが、騒々しい足音が響いた直後、ぐったりとしているウーヴェを抱いたリオンが蒼白な顔で駆け込み、ドクを叩き起こしてくれと叫んだのだ。
リオンが血相を変える姿など滅多に見ることはなく、その事からも驚き慌てつつも何処か冷静な様子でゾフィーが何かと世話になっている医者を呼びに行き、マザー・カタリーナがタオルを濡らして吐瀉物で汚れているウーヴェの顔を丁寧に拭いてリオンを部屋に連れて行き、ゾフィーが連れてきた医者に意識のないウーヴェの診察をしてもらったことを伝え、ただの打撲だから心配はないとの診断を受けたことをゾフィーが告げると、消毒している彼の手が動きを止める。
「ただ…血液検査を受けた方が良いとも言っていたわ」
「………」
その一言が意味するものをゾフィーは今までの経験から知っており、ある思いを込めて囁くと同時に己の考えが間違っていなかったことに気付き、やるせない溜息を零しながら今度は軟膏を彼の前にそっと置く。
「……床を掃除したい。モップか何か無いだろうか」
彼女の視線を避けるように軟膏を借りて傷口に塗った彼は、少し離れた場所に残されている吐瀉物をぼんやりと見つめ、友人が汚してしまった場所を掃除したいと申し出て口を閉ざす。
「後でやっておくから良いわ」
「させてくれ」
「そう?じゃあ持ってくるから待っていて」
オイゲンの言葉に溜息をついたゾフィーが立ち上がり、掃除道具を取りに出て行くと、彼の手が拳の形になって床に叩きつけられる。
血液検査を受けた方が良いという言葉の真意を彼女は読み取っているようで、おそらくその原因となった相手が誰であるかも気付いただろう。
リオンや彼女らから自分は友人をレイプした最低な男として認識されただろうと気付き、自嘲に肩を揺らしながら床を殴る。
どれだけ事情を説明しようが己の思いを告白しようが、己の言葉はきっと言い訳にしか聞こえないだろうし、またそう取られても仕方のない言動を取ってしまったのだから誰にも恨み言を言えるはずもなかった。
ただ、もしも許されるのならば、己を疑うことなど考えられない顔で傍で笑ってくれたウーヴェにだけは思いを知っていて欲しかったが、今更どんな思いを伝えるつもりだと嘲笑われて身体を強張らせる。
そんな友を裏切ったのは誰だ、ウーヴェが今までのように笑ってくれると思うのかと笑われて拳を震わせた彼は、床から何とか立ち上がってベンチに力無く腰を落として項垂れる。
確かに内なる声のように今までのように笑いかけてくれないだろう。それどころか、顔を見ることすら嫌だと思うに違いない。
自らが本能の声に突き動かされた結果が暗い未来として突き付けられ、項垂れた頭を抱えて後悔の念に奥歯を噛み締める。
思いを伝えたいのであれば何も無理矢理ではなく、伝わるように言葉を使えば良いのだ。なのに嫉妬のために平静さも相手を気遣う心もなくし、結果最も傷付けたくないと思っていた友に癒えるかどうかも分からない傷を与えてしまったのだ。
一生涯掛けて償わなければならない傷を与えてしまった後悔が次から次へと押し寄せ、オイゲンの心がそれに押しつぶされそうになったとき、人の足音が聞こえたために頭を一つ振って何食わぬ顔を作りながら上体を起こすが、足音の主を見上げたまま身体を強張らせてしまう。
「……リオン…」
「……あんたが掃除をするってゾフィーが言ってたから道具を持ってきただけだ」
オーヴェと約束をしたからもう殴らないと吐き捨て、水の入ったバケツとモップを床に乱暴に置いたリオンは、オイゲンの顔に浮かんでいる幾つかの感情を読み取り、後悔するぐらいなら最初からするなと呟いて煙草に火を付ける。
「…………」
「オーヴェが二度と笑ってくれない、それを覚悟してやったんじゃねぇのか?その覚悟も無くてやったのか?」
無理矢理力尽くで襲った友人が、明日になれば以前と同じように笑顔で接してくれるかも知れないと、そんなおめでたい考えを本気でしているのなら一度その脳味噌を見せてくれと、痣が浮かび始めた口の端に絆創膏を貼り冷たく笑って煙を天井に向けて燻らせたリオンは、顔を引きつらせるオイゲンを憐れみの目で見つめ、掃除が終われば勝手に帰ってくれ、天国の扉の鍵は開けたままで良いと呟くと、オイゲンが天国の扉と小さく呟く。
「ホームの子ども達がその扉を天国の扉って呼ぶんだよ」
こんなちんけでボロボロの教会の何処が天国なんだと思うが、子ども達は純粋に信じているし、小さな教会には過ぎた宝と称されたこともある有名画家の絵があるからだと肩を竦めて立ち去ろうとするが、入ってきたドアに手を掛けて肩越しに振り返る。
「ああ、そうだ。ヤブ医者が確かめろって言ってたけど、あんた性病なんて持ってねぇよな?」
「…っ!あ、当たり前だ!!」
「ならいい。ただでなくても辛いのに、性病に感染して更に辛い思いはさせたくねぇからな」
「ウーヴェは、あいつは大丈夫なのか?」
「…オーヴェのことだ、週明けにはいつものようにクリニックで仕事をしてるだろうな」
だが仕事を終え心身の疲れがピークに達していると今日の出来事を思い出して辛いだろうと、さすがにこの時ばかりは顔を曇らせながらリオンが舌打ちをし、ようやく過去の事件を表に出し、二人でその苦しい時間を乗り越えられるようになってきたのに、過去を抉って新たな傷を作ったと、今度は憎悪を隠さないでオイゲンを睨み付ける。
リオンの憎悪とオイゲンの嫉妬を含んだ視線が絡み合い、目には見えない火花が二人の間に飛び散るが、オイゲンが拳を握りしめてリオンを睨み返しながら口を開く。
ウーヴェが必要とするのが己のように親友という関係から一歩を踏み出す勇気がなく、己の心から目を背け続けた男ではなく、どんな顔を見せてもそれを受け止められるリオンのような存在であることを分かっていても、何故という思いがこみ上げて言葉を吐き出させてしまう。
「どうして…お前なんだ」
何故今まで付き合ってきた彼女達と同じ女性や自分ではなく、刑事として今は働いているが昔は何をしていたか分かったものではないお前と付き合っているのかと、リオンのものを遥かに上回る憎悪を目に込めたオイゲンに瞬きをしたリオンだったが、いきなり何を言うのかと嘲笑し、絆創膏が貼られている口元を歪める。
「何で俺なんかと、か?」
「ああ。あいつに相応しいヤツは沢山いる。なのに何故お前なんだ」
「…友人をレイプするような奴がオーヴェに相応しいか?」
「!!」
痛烈な皮肉に顔を引き攣らせて腰を浮かせたオイゲンを今日最も冷酷な瞳で一瞥したリオンは、あんたが言う相応しい相手とはどんな人種だと鼻先で笑いながら煙草をバケツに投げ入れると、確かに自分は地位もなければ金もないと歌うように呟き、再度煙草に火をつけて面白そうに煙を天井に吹き付ける。
「オーヴェが俺と付き合ってる理由かー。そんな事も直接聞けねぇのか、あんた」
「…………」
「オーヴェがあんたじゃなくて俺を選んだ理由を教えてやろうか?」
煙草を咥えて親指の爪をカリカリと引っ掻きながら上目遣いにオイゲンを見たリオンに教えろと素直に言えず、ただ眉を寄せて睨み付けていた彼は、聞かされた言葉に一瞬耳を疑ってしまう。
「俺がちゃんとオーヴェにはっきりと好きだ、付き合ってくれって言ったからだ」
「な、んだと…?」
「あんたはオーヴェに好きだって言ったことはあるのか?」
「ある訳が…」
「ないからレイプしたんだっけ?────オーヴェは自分に向けられる好意に対して鈍い。だからはっきり好きだと言わなければ分からない」
その時隣にいる存在が、友情以上の感情を抱きながら好きだと告白したとしても、友達として好きだと認識する可能性が高く、恋人としての好きだとは想像しない所があると苦笑したリオンは、二人の出会いを思い出して自然と笑みを口元に浮かべる。
二人の初対面は最悪だった。だがその後、何の偶然か事件現場で何度か再会した時、今まで己の周囲のいないタイプの人だと気付き、最初は純粋に友人になりたいと思った。
その後、仕事上の付き合いから頻繁にあのクリニックに訪れるようになり、当初は目には見えない壁を作っていたウーヴェが、ある日を境にその壁を取り払ったかのように親しくなり、その時に見た笑顔に一目惚れをし、その後時間をかけて知ったウーヴェがリオンが今まで誰にも見せたことのない深い場所で蹲っている幼い己の存在に気付き、手を差し伸べてくれていると本能的に察してからは、友情などではない感情を抱くようになっていた。
そうして、友人関係恋人未満の期間を経てようやく恋人として隣で笑えるようになった事を伝えると、オイゲンの口が閉ざされてしまう。
「あんたは言葉で伝えたか?オーヴェとの人間関係が壊れることを怖れて思ってる事を伝えなかったんじゃねぇのか?」
リオンの言葉が事実その通りだった為に何も返せずに悔しそうに唇を噛んだオイゲンは、ずっと傍で見つめているだけで思いが通じるのならば言葉など不要だろうとも笑われて息を飲み、あんたは魔法使いか超能力者かと嘲笑われて肩を震わせる。
「好きなら好きとはっきり言えば良いんだよ」
「……………」
「オーヴェが自分のダチに告白されたからと言ってそのダチを毛嫌いしたりする事などあり得ない。あいつは一度友達だと決めれば何があっても友達だ。そんなのは…俺よりも付き合いが長いあんた達の方がよく知ってるんじゃねぇのか?」
それとも長年の付き合いであるウーヴェの性格を見抜いていなかったのかと、告げられた言葉に今度は驚きに目を瞠ってオイゲンが最早何も言えずに肩を落として項垂れる。
確かにリオンが言うとおりウーヴェの交友関係を思い出せば、広く浅くではなくたとえ幅は狭くても深かったり奥行きのある関係を築き上げていた。
そんな関係を作り上げられる男が告白され、たとえ恋人という関係になることは無理であっても、友人関係まで拒絶するなど考えにくい事ではあった。
友人の性格を理解していなかったと笑われ反論できずに唇を噛んだオイゲンは、最早自分はどんなことを何をしてもウーヴェの友人でいられることは無理だと悟り、小さく溜息を零した後でリオンを見ることなく呟く。
「ウーヴェに会って……謝りたい」
たとえもう友人とは呼ばれなくなったとしても今日の出来事だけは直接会って謝りたいと項垂れるオイゲンに落ち着いた頃なら好きにしろとにべもなく言い放ち、眉尻を下げた情けない顔で見つめられて舌打ちをする。
「今すぐオーヴェに会ってまともに話が出来ると思うのか?あんたは俺と冷静に話が出来るのかよ?」
「それは……」
「俺は…オーヴェが殴るなと言ったから殴らないだけだ」
「……」
「その約束が無ければ、あんたが医者として復帰できねぇほど殴って天国の外に放り出してやるのにな」
それでも謝りたいのならばオーヴェに許しを求めろと告げてドアノブを掴んだリオンは、頭を抱えて三度項垂れるオイゲンを振り返ることなくドアを開けて出て行く。
雨が降る音が静かに教会の屋根から染み渡るように響くが、オイゲンは座り込んだベンチからなかなか立ち上がることが出来ないのだった。
目を凝らしても何も見えない闇の中、荒い息遣いが耳元で響き、その不気味な音に意識が向いたのと同じ頃、自分でも殆ど触れることのない場所に言い表しようのない不快さを感じて身体を竦ませるが、直後に訪れた痛みに悲鳴を上げそうになる。
だがその口を大きな手で塞がれてしまって声が籠もり、腹の奥底で生まれる痛みに自然と涙が出るが、痛みは一向に和らがず、また口を押さえる手からも力は抜けずに徐々に息苦しくなりはじめ、苦痛を訴える代わりに顔を左右に振って何とかその拘束から抜け出そうと藻掻いてみる。
ようやく口を覆っていた手が外れて新鮮な空気を思い切り吸い込めるようになったが、腹の奥に存在するものが限界までゆっくりと突き進んでくることに気付き、目を見開いて息を飲む。
もう無理だから止めてくれと叫びそうになったが、今度は喉を絞めるように手を宛われてしまって何も考えることが出来なくなり、全身から力が抜けていく感覚に囚われる。
この後自分の身体が一体どうなるのかは考えるまでもないことだったが、暗闇の中であってもせめて相手の顔を見たいと望んだ瞬間、世界が闇から解放されてその眩しさに顔を顰め、己の身体を組み敷いて中に入っている男の顔が光によってさらけ出される。
己の身体を蹂躙しているのは、学生の頃から他の友人達以上に信頼していた友だった。
「─────ァ……ッ…!!」
その衝撃に顔中を口のようにして悲鳴を上げようとするが、流れ出す声はただの音の羅列で、それすらもうるさいと青いアスコットタイを口に突っ込まれて悲鳴を上げる手段すら奪われてしまい、それによって辛うじて残っていた感情も諦めの思いにすべて取って代わられるのだった。
「─────ァ…アアァアア……ッ…!!」
「オーヴェ!!」
突如夢の中に響いた悲鳴に飛び起きたリオンは、自らが寝ていた床の周囲を探るように手を伸ばすが、悲鳴が何処から響いたのかを思い出してすぐ傍にあるベッドに飛び乗って息を飲む。
ベッドの中では限界まで目を見開いたウーヴェが壁に縋り付くように爪を立て、先程放ったばかりの悲鳴の残滓を微かに流しながら身体を震わせていたのだ。
「オーヴェ?」
「ヒ…ッ…!!い、やだ…っ!」
「オーヴェ、大丈夫だ、何もしねぇから」
自分を見ることなく何かを見据えて悲鳴を上げるウーヴェにいつも以上に優しく呼びかけ、壁に爪を立てる手を掴もうと身を寄せると、半狂乱になったウーヴェがガチガチと歯を鳴らして逃げようとする。
「オーヴェ!」
「ぃや、だ…っ!…助け…ッ…リオ…ン…っ!!」
「……一番怖かったときに助けに行けなくてごめんな?」
人である以上は仕方がない事だが、夢で魘される原因となった出来事が起きたときに傍にいてやれなくてごめんと、ウーヴェの姿を見ているとどうして気付かなかったのかと歯軋りをしたくなる。
それを何とか押し殺しながら拳を握ってベッドに押しつけるが、何人かの足音が響いた直後にドアが開いた為、そちらに顔を向けることなく騒がせていることを謝罪し、出来れば自分たち二人だけにしておいてくれと告げて心配顔のゾフィーやブラザー・アーベルを困惑させる。
「……リオン、ここに命の水を置いておきますね」
少し遅れてやって来たマザー・カタリーナが言葉と共に窓枠にマグカップをそっと置き、ウーヴェから視線を逸らさないリオンとそんなリオンを化け物を見るような顔で見つめるウーヴェを見た後、後のことはリオンに任せましょうと告げてゾフィーらを連れて部屋から出て行く。
「ダンケ、マザー」
彼女のその行為が本当に嬉しいし力になると頷いたリオンは、恐怖に震えるウーヴェの目を覗き込むようにその場に胡座を掻いて座り込んでもう一度ゆっくり口を開く。
「助けに行けなくて…守れなくてごめんな、オーヴェ」
痛くて辛くて苦しい時に助けに行けなかった自分を許してくれと頭を下げたリオンの姿を前に、ウーヴェの目の中に恐怖以外の色が少しずつ浮かび始める。
そうして感情が入れ替わるのを期待していたリオンは、己の思うようにウーヴェの呼吸が落ち着きを取り戻したことに気付くが、乱れているシャツの襟元から見える喉にくっきりと痣が浮かんでいることにも気付いて拳を握る。
過去に繋がる扉のような存在の痣を有りっ丈の憎悪を込めて睨み付け、早くこんな痣が消えてしまえばいいと強く願うと同時に、この痣を浮かび上がらせる切っ掛けを作ったオイゲンに対する苛立ちが更に募ってくる。
「リ…オ、ン…?」
「うん。俺が分かるか?」
リオンの心が憎悪と自己嫌悪とウーヴェに対する変わらない思いに溢れて囚われそうになった頃、ようやく目の前にいるのがリオンであることに気付いたのか、壁を掴んでいた手でウーヴェがシーツを握り、夢の中で再び経験してしまった恐怖や苦痛を訴えようと口を開くが、いつものように思いを言葉にして伝えることが出来なかった。
オイゲンが見て驚いた発声障害を疑われるようなウーヴェだったが、そんな恋人を目の当たりにしても安堵した表情で大きく頷いたリオンは、もどかしそうに眉を寄せるウーヴェの頬を両手で挟んで額に額を触れあわせてウーヴェの目を見開かせる。
「オーヴェ」
「─────ン…ッ…ウ…ッ」
「痛かったな、オーヴェ」
でももう大丈夫だと笑ってウーヴェの目を覗き込んだリオンは、恐怖の色が安堵の色に取って代わられたことに気付き、握りしめられている手を取って労るようにキスをする。
「それと、蹴っちまってごめんな?腹はもう痛くないか?」
オイゲンへの攻撃を庇ったことは今でも納得出来ないが、ウーヴェを蹴ってしまったことはまた別の話だと反省の弁を述べ、手の甲に許しを得るようにキスをすると、ウーヴェの口からようやく声が言葉となって流れ出す。
「リ、オ…ン…」
「頭は痛くねぇか?」
首に痣が浮かび上がると必ずと言って良いほど頭痛も発生するのだが、それをよく知るリオンがウーヴェの頬に手を宛がい、汗で湿っている白い髪に手を差し入れて抱き寄せると、オイゲンに対するものとは全く違う理由から抵抗せずに素直にリオンの胸に顔を押しつける。
「……少し…」
「薬を飲むか?」
藪医者に腹を診察させたとき、念のために抗生物質と鎮痛剤を置いて帰らせたが、それを飲むかと問いかけると己の腕の中で小さく頭が左右に揺れる。
「…ワインを飲んだ…」
「そっか。じゃあ少しだけガマンしなきゃ……あ、そうだった」
アルコールを摂取した後に頭痛薬を飲むのは避けたいことを伝えたウーヴェの髪にキスをしたリオンが何かを思い出し、断りを入れてウーヴェから離れて窓枠に置いたマグカップを手に戻ってくる。
「俺が作ったのより断然美味いぜ」
「……これ、は…」
「うん。マザーが命の水を作ってくれた」
ウーヴェの微かに震えが残る手にしっかりとカップを持たせ、その手を包むように自らの手を添えたリオンは、目を瞬かせながら見つめてくるウーヴェに母親を自慢する顔で笑ってどうぞと告げてカップを傾ける手助けをすると、口を付けたウーヴェがゆっくりゆっくり命の水と呼んでいるそれを飲んでいく。
カラカラに乾燥している口の中を潤しながら喉を通って痛みを訴えていた胃に届くと、何故かは分からないが早鐘のように打っていた鼓動が落ち着きを取り戻し始める。
あっという間に胃に吸収されたそれに味をしめた身体がもっと寄越せと訴え、それが体外に音となって伝わった為にリオンが驚きに目を丸くするが、まだあるはずだから全部飲んでしまえと囁き、マグカップを同じようにゆっくりと傾けさせる。
自らの力というよりはリオンの手を借りながら文字通りの命の水をあっという間に飲み干したウーヴェは、身体の隅々に行き渡った優しい温もりとじわりと沸き上がる力に気付き、何故か嬉しそうに笑うリオンの左手を掴むと、手の甲に頬を擦り寄せてきつく目を閉じる。
「リーオ…っ!!」
友がこの優しく温かな手を持つリオンとの付き合いを反対したことから今回の事件が起きたのだが、あの時伝えたようにただ一度顔を合わせただけのオイゲンにリオンの何がわかるというのだろうか。
付き合って長くもなく短くもない自分でさえも未だ見たことのない貌を持っているのに、何故その相手のことを知りもしないで許せないと言えるのだろうか。
たとえそれが、首筋に顔を押しつけられている時に囁かれた、好きの言葉が言わせたのだとしても、何故オイゲンがウーヴェの恋人について断罪する強さで否定するのか。
大学の頃に付き合っていた彼女たちを否定しなかった彼だが、何故リオンだけが許せないと言うのかが理解出来ず、その苛立ちと変わってしまった友人への哀しみが胸の中で溢れかえり、息苦しさに一つ頭を振って項垂れる。
「……オーヴェ、今回のことはお前は何も悪くないからな?」
己の左手をいつかの時のように握りしめてグッと感情を堪えるウーヴェを空いた手で抱き寄せ、くぐもった声が反論しようとする事に気付いて先手を打つ。
「レイプされた方が悪いなんて言うのはやったヤツの弁解だぜ」
他の事ならばいざ知らず、お前の場合は完全に相手が悪いと告げてウーヴェの反論を封じながら更に起こるだろう反論を予想しながら白い髪にキスをする。
「あいつがどんな理由を言っていたとしても、例え学生の頃からずっと思っていたとしても…やってはいけないことをしたのはあいつだ」
お前は本当に何の落ち度もないと囁いてウーヴェの背中を一つ震わせたリオンは、呼吸も落ち着きを取り戻していることに胸を撫で下ろしながらウーヴェをベッドに横臥させ、自らもその横に潜り込んでしっかりと背中を抱きしめる。
「少し寝ろよ、オーヴェ」
「……いや、だ…」
眠りに落ちれば間違いなく夢の中でも友人にレイプされる、その恐怖を小さな声で訴えるウーヴェの額にキスをし、宥めるように肩を何度も撫でて背中をぽんぽんと叩けば、リオンの身体にウーヴェが擦り寄るように身を寄せる。
「オーヴェ、俺がいる」
「………い、や、だ…」
「大丈夫。もうそんな夢は見ない」
少しでも眠って身体の疲労だけでも解消させたいのに、眠りに落ちる事を全身で拒否するウーヴェに小さく溜息をついたリオンは、己の身体でウーヴェを下敷きにし、驚くように見上げてくる目に片目を閉じると額から鼻の頭、目尻のホクロと頬の高い場所、恐怖に震えていた顎とそして最後に薄く開いた唇にそっとキスをし、顔の横に投げ出されている手に手を重ねると今度は額をコツンとぶつけて悪戯っ子の顔で笑う。
「オーヴェ、俺の言葉が信じられねぇ?」
酷いぜハニーと囁いて上目遣いにウーヴェを見つめると、きょとんとした顔で目で見つめられるが、その口から本当に小さな泣き笑いのような声がこぼれ落ちてリオンの顔に満面の笑みを浮かべさせると、勢いを付けて寝返りを打ち今度はリオンの上に乗り上げてしまう。
「リオン……」
「一つ願いを聞いてくれよ、オーヴェ」
「な、んだ…?」
悪戯っ子の顔のまま囁かれて目を丸くしたウーヴェの鼻先に小さな音を立ててキスをしたリオンは、先程のように片目を閉じてキスして欲しいと囁く。
「今日まだ一回もちゃんとキスしてねぇしハグもしてねぇ。だからキスして、オーヴェ」
「………うん」
子どものおねだりのような、それ以上に深い意味を持つようなそれにウーヴェが一度目を閉じるが、ゆっくりと瞼を持ち上げた時には口角が微かに持ち上がっていて、リオンの頭を囲うように手をついた後、待ち構えているリオンの唇にキスをする。
「ダン、オーヴェ」
そのキスに優しく応えながらもう一度寝返りを打って今度は横臥してウーヴェの腰に腕を回したリオンは、ウーヴェの瞼がゆっくりと閉ざされる様を間近で見つめ、恐怖と戦いながらも己の言葉を信じようとしてくれる姿に無性に愛おしさがこみ上げてしまい、どうか今だけは何も考えることのない深い眠りに就けますようにと祈ってしまう。
だが、たとえどれ程ウーヴェがリオンを愛し信じていても、今日の出来事が与えた衝撃はどちらにとっても深く大きいもので、目を閉じるウーヴェの瞼が痙攣し、どうしても眠れないことをリオンに伝えてくる。
心身ともに深い傷を負ったウーヴェに今最も必要なのは傷を癒す為の休息だったが、それを与えてくれる筈の眠りに落ちる事が出来ない苦しさにウーヴェが溜息を零して小さな声で謝罪をする。
「…寝られる訳ねぇか……」
信じていた友人にレイプされるという傷を負ったウーヴェの心を思えば眠れないのも理解出来たリオンは、仕方がないと溜息をついてウーヴェの髪にキスをすると、すぐに戻ってくると一言残してベッドを抜け出す。
「リオン…?」
「んー?すぐに戻ってくるから待っててくれよ、オーヴェ」
何処に行くのかを伝えずに顔だけで振り返って片目を閉じたリオンを見送ったウーヴェは、窓の外の雨がいつしか止んで時折雨粒を残す程度になっていることに気付くが、リオンがいなくなったことで真冬の寒さを感じたように身体を震わせてしまう。
すぐに戻ってくると言っていたが、本当にすぐに戻ってくるのかと考えると同時に、誰よりも愛して信じている恋人の言葉すら素直に信じられなくなっている己に気付いて唇を自嘲に歪めると、床が軋む音が聞こえ、その音に身体を強張らせる。
「お待たせ」
陽気な声に胸を撫で下ろして目を伏せたウーヴェは、リオンの手が大ぶりのマグカップを持っていることに気付いて瞬きをし、ベッドに腰を下ろしてウーヴェの顔の前にカップを突き出されると顔を上げるように促してくる。
「まだ残ってたから貰ってきた」
さっき飲み干した命の水を持ってきたから飲もうと笑ってウーヴェの上体を起こさせると、その手にカップを持たせたあとでウーヴェを背後から抱え込むように抱き締める。
「ほら、飲めよ、オーヴェ」
マザーが作ってくれた命の水は本当に力を分け与えてくれることを今まで実体験してきた男の声にウーヴェが促されて素直に口を付けると、先程も感じた不思議な温もりと優しさが身体中に染み渡り、力となって指先にまで辿り着く。
「…な、オーヴェ、質問」
「何、だ…?」
マグカップを両手でしっかりとホールドしながら背中から抱き締めてくれるリオンの身体に寄り掛かるように重心を移動させたウーヴェを難なく受け止め静かに問い掛けると、同じように静かな声が返ってくる。
「あいつさ……あんなことをしたけど、オーヴェはどうする?」
「…どう……?」
「オーヴェのことだ、自分の友達だから憎んだり嫌ったりはしないだろ?」
俺とは違って一度友達になったのなら容易く関係を終わらせたりはしないはずだと苦笑し、マグカップをぎゅっと握る手に手を重ねてその耳に囁きかける。
「あいつがオーヴェに直接会って謝りたいって。どうする?」
聖堂での会話を思い出しながらどうすると答えを促したリオンは、ウーヴェの白い髪が何度か左右に揺れた後で項垂れるように前傾したため、カップを受け取って床に置き、頭を胸に抱えるように引き寄せる。
「………どう…っ…し…っ!」
「……どうして、あんなことをしたんだろうな」
思っていることがあるのならば口で、その言葉で伝えて欲しかったなと囁き、抱き寄せた身体が小刻みに震え始めたことに気付いて抱く腕に力を込める。
「話せば…分かっ…てくれる……っ…」
「オーヴェはそう思ってたのにな。何で話してくれなかったんだろうな」
たとえ学生の頃から思い続けていて、結婚してしまった今だから言い出しにくかったのかも知れないが、レイプという暴挙にでるのではなく話し合いをして欲しかったと告げると、腕の中で身体が震えて顔がシャツに押しつけられる。
「…ど…っ…て…っ!」
「うん。どうしてだろうな」
ウーヴェの耳の奥底では友人が囁いたお前が好きだったという言葉が響き、どうしてという思いが強くなってくる。
ギムナジウムの頃から思っていたとも言われたが、それならば何故学生の頃に何も言わず、今になってレイプという暴力でもって伝えようとしたのか。
オイゲンに対する何故という思いだけがウーヴェの中に溢れ、リオンが告げたように彼を憎む気持ちや嫌悪する気持ちは不思議なことに見つからなかった。
「友達なんだから…言ってくれれば良かったのにな」
「─────ッ…!!」
リオンの言葉に一つ肩を大きく上下させたウーヴェは、リオンのシャツに顔を押しつけながら悔しさが入り混じった声で何故を繰り返し、その度にリオンがどうしてだろうとひっそりと返すが、この時リオンは教会の前から一台の車が走り去る音を聞いていたが、肩を上下させ時折くぐもった嗚咽の声を流すウーヴェをただ抱き締め続けるのだった。
弱まった雨はすっかりと上がってしまい、小さな窓から見える夜空には分厚い雲の隙間から初冬の星々が遠慮がちに顔を出して瞬いていた。