「橋本さん、何かいいことでもあったんですか?」
次の日、仕事終わりの榊を乗せた橋本は、いつものように黒塗りのハイヤーのハンドルを握っていた。
「何でそう思うんだ、根拠は?」
後部座席にいる榊からは、ルームミラーに映る橋本の左目の部分しか見えないはず。それなのに、機嫌のいいことを当てられたのが不思議でならなかった。
「2年間、ほぼ毎日橋本さんが運転するハイヤーに乗ってるんですよ。だからこそ違いくらいは、すぐにわかりますって」
「何だかなぁ……」
「理由、当ててみましょうか?」
榊がくすくす笑いながら告げたセリフに、内心あたふたするしかない。自分の心情を悟られただけでもギョッとしたのに、その理由まで当てられてしまったら、心に秘めている気持ちまでもが見透かされそうな気がした。
「心を許した友達と、無事に仲直りができたんでしょ?」
(そういや雅輝と喧嘩していたことを、恭介にポロッと漏らしていたっけ――)
「さすがは恭介。おみそれ致しました」
橋本はおどけて、ハンドルに向かって頭を下げた。
「やっぱりそうだったんだ。橋本さんってばハンドルを握りしめながら、人差し指を動かしてリズムを刻んでいたり、意味なく頬がピクピク動いていたりと、妙に落ち着きなかったですよ。いつもはそんな、無駄な動きをしませんよね」
「無駄な動きか……。まったく無意識だった」
目の前の信号が赤に変わる前に後方を確認しつつ、アクセルを緩めて、車が振動しないように柔らかくブレーキを踏み込み、停止線にきっちりハイヤーを停める。
「良かったですね。仲直りすることができて」
「ああ、そうだな」
榊に仲直りを指摘されたせいか、昨夜の遅くに宮本とアプリで交わした内容を思い出してしまった。
三笠山から真っすぐ帰宅した橋本は、スマホを手にしたまま、自宅のリビングの真ん中に立ちつくしていた。ブロックを解除したらしい宮本にメッセージを送ろうと思ったのに、既読がつかなかったらという不安な気持ちがどこかにあって、スタンプすら送ることができない状態だった。
(う~、当たり障りのないスタンプはなかったっけ? それを取っ掛りにしてきっかけを作ったら、雅輝も会話がしやすいだろうな)
せっかく仲直りしたのに、ちょっとしたことが気がかりになり、嫌味な言葉が口からぽんぽん飛び出てしまった橋本に、宮本はさりげなくアドバイスをしてくれた。
そんな器の大きさを見せつけられたからこそ、それが呼び水になってお礼が言えた。自分よりも年下の男に、ドライビングテクニックだけじゃなく、性格の良さまでも完敗した。
別れ際に誉めているので、ふたたび誉めることをしたらツッコミが入るかもしれない。「陽さん、持ち上げすぎですよ」みたいな流れになって、喧嘩に発展しても嫌だしなと、悶々と考えていた矢先だった。
なんの前触れもなしにポン♪と通知がきて、あたふたしまくりの橋本の目に留まった。
『こんばんは。今夜は陽さんの愛車を運転する事ができて嬉しかったです。タイヤを履き替えたら、今度は陽さんが運転するところがみたいです』
「うっ、うわあぁっ!」
宮本から送られてきた文面を読み終えたら、躰の力がなぜだか抜けてしまい、手からつるっとスマホが落ちかけた。慌てて掴もうとしてもうまくキャッチできなくて、両手でお手玉をするようにスマホを扱ったあとに、何とか握りしめることに成功した。
左手に握りしめたスマホを掲げて、某お笑い芸人のように『捕ったど!』なんて、叫びだしたい気分になったのは内緒だったりする。
(俺の運転するところが見たいとか、何を考えているんだよ。アイツの前でそんな大それたことを、できるわけがないのに)
橋本が落ち着いたところで、馬鹿なことを言ってんじゃねぇよと打ちかけた指の動きが止まる。
「……そうだよ、タイヤを変えなきゃな」
店員に勧められたタイヤをそのまま買った経緯があるからこそ、今度は改めて自分でチョイスしなければならない。宮本に指定されたのは、硬めのタイヤだった。
書きかけた、くだらない文章を素早く消してから、タイヤについての質問を投げかけてみた。車の話だからこそ、間違いなく宮本が食いついてくる自信があった。
「今インプに履かせているタイヤのメーカー以外で、良さげなもののオススメはあるのか?」
宮本との関係を崩したくない一身で、会話のキャッチボールの基本を忠実にやってしまう。はじめて逢ったときのふらついた運転をしていた面影が、今はまったくなくて、頼りきってしまう現状に橋本は苦笑いを浮かべた。
『すみません。タイヤのメーカーについては詳しくないので、どこがいいというオススメができません。これを機会に勉強します』
しばしの間のあとになされた真面目すぎるメッセージを読んで、スマホのむこう側にいる宮本の姿を想像してみる。
自分が知らない分野を質問されるなんて思いもしなかったせいで、慌てふためきながらこの文章を打ち込んだのではないだろうか。二次元が大好きそうな宮本だからこそ、オタク魂を発揮すべく、徹底的に勉強しそうな予感がした。
「雅輝の勉強の成果が見たいから、一緒に店に行きたい。おまえの休みに合わせるから、都合のいい日を教えてくれ」
もっと困るであろう内容を考えてメッセージを打ち込み、さっさと送信したら、宮本からスタンプがすぐに返ってきた。
『そ、そんな……』というセリフとともに、デフォルメされた真っ赤な顔をしている女の子のイラストが、橋本の笑いを誘う。
(あー、ニヤニヤが止まらねぇ。今頃雅輝のヤツは、相当困ってるだろうな。当日ツッコミしてやるのに、俺もタイヤについて勉強しておかなければ!)
宮本が握りしめているスマホのむこう側では、こんなイジワルなことを考えていた橋本。
自分を苦しめようと考えているなんて露知らずに、三笠山の山頂にて、宮本は送られてきたメッセージを、デコトラの運転席からしばらく読みふけった。
『一緒に店に行きたい』という文字がいつの間にか『一緒にイキたい』という文字に変化し、宮本の躰を否応なしにうずうずさせた。
(これって、陽さんとデートすることになるじゃないか。どうしよう、それ用の服なんて持っていないぞ。佑輝から借りたくても、アイツのほうが身長が高いからサイズが合わないし、当然江藤ちんも同じ理由で無理だ)
スマホを片手に、次々と顔色を変えて忙しそうにしている宮本を、青春しているなぁとちょっとだけ離れたところから店長が見つめているなんて、知る由もなかった。
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