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別れ
「お紺さん、この鳥居は伊勢神宮、一の鳥居よ」
海上七里、東海道唯一の海路『七里の渡し』を無事渡り終えた志麻とお紺は、船着場に聳える大鳥居を見上げた。
「天明年間に伊勢神宮初めの地に相応しい鳥居をという願いによって、関東諸国に勧進して立てられたの」
お紺が「やっと着いた・・・」と感慨深げに呟いた。
思えば、江戸を出てから数々の危難を乗り越えてここまで来たのである、思い一入であろう。
「今日は四日市宿に宿を取りましょう、急げば陽のあるうちに入れるわ」
「志麻ちゃんと寝るのも今日が最後か・・・なんだか寂しいねぇ」
「変な言い方しないでよ・・・仕方ないわ、それぞれに目的があるんだもの」
「そうね、こうなる事は最初からわかっていた事だもんね・・・」
お紺はなんとなく元気が無い。
「さ、行きましょう、ここに居たってお伊勢さんは迎えに来ちゃくれないわよ」
志麻に促されて、お紺は鳥居の前で深々と頭を下げて歩き出した。
桑名宿から富田の立場にかけては、道の両側に焼き蛤を食べさせる店が軒を連ねて繁盛していた。言うまでもなく焼き蛤は桑名の名物だが、これは即席に旅人に供する為のもので地元の人は時雨しぐれ蛤と言って佃煮にして食すのが一般だ。
「ん?この匂いは・・・」
お紺は醤油の焼ける香ばしい香りに、さっきのしんみりとした気持ちはどこへやら、急に目を輝かせて一軒の店先に走り寄った。
「くださいな!」
「へい、幾つ差し上げましょう?」
網の上で蛤を焼きながら、親父が訊いた。
「そうね、十とうも貰っとこうかしら?」
「へい、焼き蛤十個ね、焼き上がるまでそこの床机で待っていておくんなさい」
「分かったわ」
お紺は床机に腰を下ろすと、志麻に手招きをした。
「ここまで来て焼き蛤を食べない手はないわよね?」
志麻は苦笑いを浮かべてお紺の隣に座った。
「ついでにお酒も頼みましょうか?」
「え、いいの?」
「お紺さんのわがままも聞き納めだもの」
「やった、志麻ちゃん太っ腹!」
「でも、飲み過ぎは駄目よ、夕方までには四日市に着きたいから」
「分かってるわよ、お紺姐さんを信じなさい!」お紺はドンと胸を叩いた。
暫く待つと、青葱を散らした焼き蛤がいい匂いをさせながら運ばれて来た。
「美味しそう!」
お紺が早速一つ口に入れた。
「おいし〜い!」幸せそうに頬を緩めている。
「おじさん、お銚子を二本お願いね」
志麻が頼むと、へいと頷いて親父が小走りに焼き場に戻って行った。
「ああ、美味しかった!」
お紺が元気な足取りで歩くのを見て、志麻もホッと息を吐いた。
「良かった、お紺さんが元気になって」
「いつまでも湿っぽくしていらんないしね、これからお伊勢さんまで一人で頑張らなくちゃならないんだもの」
「でも本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、伊勢まではもう一足だし、山田の町まで行けば江戸のなじみが教えてくれた御師おんしさんの家があるの。そこを尋ねれば万事面倒を見てくれる事になってる」
御師おんしとは参宮の世話する神職の事である。
「そう・・・」
「だから志麻ちゃんももう心配しなくていいわよ」
「うん、分かった」
その日二人は四日市宿の旅籠で、最後の旅の夜を過ごした。
*******
『左いせ参宮道、右京大坂道、すぐ江戸道』
翌日、朝早く宿を出た二人は、道の傍らに石の道標を見つけた。ここは日永の追分、東海道と伊勢街道の分岐点である。
「あれが、伊勢神宮、二の鳥居。ここで東海道とはお別れね」志麻がお紺に言って鳥居を見上げた。
「志麻ちゃんの家はもうすぐなのね?」
「うん、もう少し南に下って安濃川を渡れば津の城下町。私の家は大手門の北側の武家地にあるわ」
「さあ、いよいよ志麻ちゃんともお別れか・・・志麻ちゃん今まで色々とありがとう、わがままばかり言ってごめんね」
「ううん、こちらこそ。私の所為でお紺さんを危ない目に合わせてごめん」
「いいっていいって、お陰でとっても楽しかった」
「ねぇお紺さん、よかったら今日は私の家に泊まらない?家族にも紹介したいし・・・」
「ありがとね、でも遠慮しとく。一日志麻ちゃんと一緒にいれば、それだけ別れが辛くなるから」
「そう・・・」
「それより、志麻ちゃんはもう江戸には戻らないの?」
「たぶん・・・もう、家を出る名目も無くなっちゃったから」
「そうね、きっと一刀斎たちも寂しがるわ」
「江戸に戻ったらよろしく伝えておいてね」
「分かった・・・」
それからは二人とも口数も少なく、そうなればただ黙々と歩くばかりでいつの間にか安濃川を渡り切って津の城下町の入り口に差し掛かっていた。
「じゃあ、私はここを右へ曲がるから」志麻が思い切ったように口を開いた。
「うん、あっちは真っ直ぐ行くわ」
「お紺さん・・・」
「待った!それ以上言いっこ無し、言ったらきっと泣いちゃうから。別れに涙は不吉だから」
「そうね・・・」
「じゃ、縁があったらまた会いましょ!」
急にお紺が駆け出した。あっという間に後ろ姿が小さくなって行く。
「お紺さん・・・ありがとう」
志麻はお紺の背に深々と頭を下げて、次の瞬間、真っ直ぐに天を仰いだ。そうしなければ涙が地面に水溜りを作りそうだったから。