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特別編
第四章 限界
午前中。
千弥は泣いたあと、少しだけ穏やかな表情を取り戻していた。
リビングのソファでくぅちゃんを抱きしめながら、三人で静かに過ごす。
「紅茶、飲む?」
遥が優しく尋ねる。
「うん……。」
温かいハーブティーを少しだけ口にする。
「おいしい。」
その小さな一言に、千景も遥も少しだけ安心した。
(このまま落ち着いてくれれば……。)
そんな願いを抱きながら、穏やかな時間は流れていった。
午後一時過ぎ。
窓の外が少しずつ暗くなり始める。
ぽつり。
ぽつり。
雨が降り始めた。
「降ってきたね。」
遥がカーテンを閉める。
その時だった。
ソファへ座っていた千弥の肩が、小さく震えた。
「ちーちゃん?」
千景が隣へ座る。
返事はない。
ぎゅっとくぅちゃんを抱きしめる力だけが強くなる。
「寒い?」
首を横に振る。
「頭痛い?」
また首を横に振る。
「苦しい?」
その質問だけには、ゆっくり頷いた。
「……くるしい。」
声は震えていた。
午後一時三十分。
雨脚はさらに強くなる。
窓を打つ雨音が部屋へ響く。
「……っ。」
千弥が耳を押さえた。
「ちーちゃん!」
千景は慌てて肩を抱く。
「いや……。」
「うん。」
「いや……。」
「大丈夫。」
「……いやぁ。」
千弥は何かを拒むように首を振る。
呼吸も少しずつ速くなっていく。
「息をゆっくり。」
千景が背中をさする。
しかし。
「やだっ……!」
突然、千弥が立ち上がった。
「ちーちゃん!」
そのまま玄関の方へ走ろうとする。
「いやっ……!」
「やだっ!」
何から逃げようとしているのか。
本人にも分からない。
ただ。
胸の中の苦しさから逃げたかった。
「ちか!」
遥の声が響く。
「病院へ行こう。」
千景も迷わなかった。
「うん。」
午前中は様子を見ると決めていた。
けれど。
もう限界だった。
千弥自身が苦しみ続けている。
これ以上は、自分たちだけで抱え込んではいけない。
「車を回してくる!」
遥はすぐに玄関を飛び出した。
ガレージ。
遥は急いで車のエンジンをかける。
(お願い、間に合って。)
深呼吸を一つ。
落ち着いて。
安全に。
それでも急いで。
車を玄関前へ回した。
その頃。
家の中では。
「やだ……!」
「ちーちゃん!」
千景は千弥を抱きしめていた。
「はなして……!」
「ごめんね。」
「いやぁ……!」
腕の中で小さな体が必死にもがく。
涙が止まらない。
呼吸も乱れている。
「くるしい……。」
「うん。」
「わかんない……!」
「うん。」
「やだぁ……!」
その声を聞くだけで、千景の胸は締め付けられた。
(苦しいよね。)
(怖いよね。)
(自分でも分からないんだよね。)
「大丈夫。」
「僕がいる。」
「はるもいる。」
「絶対に一人にしない。」
千弥は涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも必死に首を振り続ける。
「にぃに……。」
その小さな声に、千景はさらに強く抱きしめた。
「ここにいる。」
「ずっといる。」
玄関の外から遥の声が聞こえる。
「ちか!」
「車、準備できた!」
「ありがとう!」
千景は暴れてしまわないよう、千弥を優しく、それでいてしっかりと抱き上げた。
「ごめんね。」
「今から先生のところへ行こう。」
「先生が、ちーちゃんの苦しいを一緒に考えてくれるから。」
千弥は苦しそうに息をしながら、小さく頷こうとした。
けれど涙が止まらない。
「やだ……。」
「こわい……。」
「大丈夫。」
千景は額へそっと口づけるように前髪を撫でた。
「僕も、はるも、一緒だから。」
車へ乗り込む。
遥は運転席。
千景は後部座席で千弥を抱きしめる。
シートベルトを確認すると、遥はバックミラー越しに二人を見た。
「出発するよ。」
「お願い。」
静かに車が走り出す。
車内には雨音だけが響いていた。
千弥は千景の胸へ顔を埋め、震えながら小さく呟く。
「にぃに……。」
「うん。」
「……はるにぃ。」
「ここにいるよ、ちーちゃん。」
遥は前を向いたまま、優しく答えた。
「もうすぐ先生のところへ着くからね。」
その言葉を聞いた千弥は、少しだけ千景の服を握る力を緩めた。
病院まで、あと少し。
二人はただ一つだけ願っていた。
どうか、千弥の苦しさが少しでも和らぎますように。
特別編 第四章おわり。
特別編 第五章へ続く。
コメント
1件
読ませていただきました。第四章、胸がぎゅっとなりました……。千弥ちゃんの「くるしい」「わかんない」という言葉が、どうしようもない苦しさをそのまま表していて、読んでいる私も息が詰まりそうでした。そんな中、千景さんが「ずっといる」としっかり抱きしめる姿に、涙が出ました。雨の音が余計に切なくて、病院へ向かう車の中の静けさも印象的でした。お二人の必死な優しさが伝わってきて、続きがとても気になります。更新、心待ちにしていますね🌷
#完全オリジナルストーリー
𝐀𝐘𝐀_

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