テラーノベル
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幼い頃。あれは、確か、私が小学校1年生だったとき。
母と、兄のコンクールを聴きに行った日のことは、今でもはっきり覚えている。大きなホールの前に立ったとき、私はその広さに少しだけ圧倒されて、母の手をぎゅっと握った。人がたくさんいて、みんな楽器ケースを持っていて、そこだけ違う世界みたいだった。
その中に、兄もいた。
丸くて金色の楽器――ホルンを抱えるように持っていて、少し緊張した顔をしていた。でも、その姿はいつもよりずっと大人っぽくて、遠い存在のように見えた。
ホールの中に入ると、空気がひんやりしていて、静かなざわめきが広がっていた。席に座ると、舞台の上には椅子と譜面台がずらりと並んでいて、「ここで演奏するんだ」と思うだけで胸がそわそわした。
やがて照明が落ちて、演奏が始まる。
最初の一音が鳴った瞬間、私は思わず息をのんだ。
音が、まっすぐ体に届いてきた。トランペットの明るさ、フルートの軽やかさ、打楽器の力強さ。その中で、ホルンの音は少し丸くて、やわらかくて、でも芯があって――不思議と全部を包み込むように響いていた。
(あれが、お兄ちゃんの音なんだ)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
どの音が兄か正確には分からない。でも、あの優しくて少し深い音のどこかに、兄がいる気がした。
演奏が進むにつれて、音は重なり合って、大きな波みたいになっていった。その中でホルンの音は、目立ちすぎないのに、確かにそこにあって、全体を支えているように聞こえた。
それが、すごくかっこよかった。
演奏が終わると、大きな拍手がホールいっぱいに広がった。私は小さな手で一生懸命拍手しながら、ただ「すごい」と思っていた。
その中にいる兄が、誰よりもかっこよく見えた。
外に出ると、夕方の空が少しオレンジ色に染まっていた。母と一緒に兄を待ちながら、私はずっとさっきの音のことを思い出していた。特に、あのホルンの音。丸くて、あたたかくて、ずっと耳に残っていた。
やがて出てきた兄に、私は言った。
「すごかった」
それだけ。でも、本当にそれしか言えなかった。
兄は少し照れたように笑って、「ありがと」と言った。
その帰り道、私は初めて思った。
――私も、あの中に入りたい。
それからの日々、私は少しずつ音楽を意識するようになった。学校の音楽の時間、リコーダーを吹くときも、あのホールの音を思い出していた。特に低い音を出すとき、なんとなくホルンを思い浮かべてしまう自分がいた。
家では、兄の練習をよく聞いていた。
ホルンの音は、壁越しでも分かるくらい独特で、やわらかくて、少しこもったような響きがした。最初はただの音だったのに、だんだん「今日はうまくいってるな」とか「今ちょっと外したな」とか、なんとなく分かるようになってきた。
兄は何度も同じところを繰り返していた。
失敗して、止まって、また吹いて。
その繰り返し。
「そんなに大変なのに、なんでやるの?」
ある日、私は聞いた。
兄は少し考えてから、ホルンを持ったまま言った。
「楽しいから」
その答えが、ずっと心に残った。
大変そうなのに、悔しそうなのに、それでも「楽しい」と言える。その気持ちが、当時の私にはよく分からなかった。でも、分からないままでも、「いいな」と思った。
小学校高学年になる頃には、私は完全に吹奏楽に憧れるようになっていた。
コンクールの話を聞いたり、兄の演奏を思い出したりするたびに、あのホルンの音が頭の中でよみがえった。
(私も、あんなふうに誰かの中で残る音を出したい)
そう思うようになっていた。
そして迎えた中学入学。
新しい制服に袖を通して、新しい教室に座って、少しずつ新しい生活に慣れていく中で、私の中にある目標はひとつだけだった。
――吹奏楽部に入る。
部活動紹介の日。
体育館でいろんな部活が紹介される中、吹奏楽部の順番が来た瞬間、私は自然と背筋を伸ばしていた。
壇上に並ぶ先輩たち。
その中には、ホルンを持っている人もいた。
丸く光るベル。抱え込むような構え。
それを見ただけで、胸がドクンと大きく鳴った。
そして、演奏が始まる。
響いた音は、あの日のホールほど完成されたものじゃない。それでも、確かに同じ世界の音だった。
その中で、ホルンの音がふわっと広がる。
やわらかくて、あたたかくて、全部を包み込むような音。
あのときと同じだ、と思った。
気づいたときには、もう決まっていた。
中学1年生。
私は、吹奏楽部に入る。
そして――
できることなら。
あのとき憧れた、兄と同じホルンを吹きたい、と。
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