コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
今回の脅迫騒ぎは狂言ではないのかと決めつけかけていた己を反省し、とにかく自らの誘導でステージサイドに避難させたレオポルド達に怪我らしい怪我が無いことを確かめたリオンは、振り返ってステージ下に目をやり、ヒンケルが一人の男を取り押さえている姿を確認すると、ドアを開けて入ってきた制服警官に合図を送って現場の保持とこのホールにいる人たちへの聴取への協力を命じ、自らの代わりにステージ上の彼らの安全な場所への誘導を命じるとヒンケルの傍に駆け寄る。
「ボス!」
「・・・このまま連れて行けるか?」
「Ja.フリッツがいるので頼みます。ボス、親父をお願いします」
「親父?」
顔馴染みの制服警官が駆け寄ってきてくれた事に気付いて手を挙げて合図を送ったリオンは、肩越しにステージを振り返って誘導されるのを渋っているのか、仁王立ちのまま動かないレオポルドに視線を送るとヒンケルに後のことを頼むと告げるが、お前が言う親父とは誰のことだと問われて苦笑し、レオポルドだと囁いてヒンケルに押さえつけられながらも暴れる男の背中に膝を乗せて押さえつけると、差し出される手錠を掛けて素早くジャケットを脱いで男の顔に被せて引きずり起こす。
「ボス」
「あ、ああ・・・・・・お前以外が行けば殴り飛ばされそうだぞ、おい」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないっての」
クランプスがクランプスを怖がってどうするんだとヒンケルにしっかりと聞こえるように呟きを発し、フリッツと呼ばれた制服警官が目を丸くした後で堪えきれないように小さく吹き出した事で我に返ったらしい彼がリオンに一瞥をくれると、小走りにステージに駆け上がり、不機嫌さを隠しもしないで腕を組むレオポルドに身振り手振りを交えて説明をし始める。
その様を溜息混じりに見つめたリオンは、周囲の紳士淑女の視線を一身に浴びている事に気付き、鹿爪らしい顔を作って男に歩けと命じてその場から離れようとするが、その時、会場中に響き渡る大声で名前を呼ばれて飛び上がりそうになる。
「何処に行く、リオン!!」
「へ!?」
自分を呼び止めた人が誰であるかなど最早確認するまでもなく理解できたリオンがそれでも恐る恐る振り返ると、ステージ上でヒンケルが広くなってきた額に手を宛って天を仰いで片手で十字を切る姿が見え、その前ではレオポルドが憤懣やるかたない顔で腕を組んで睨み付けてきていた。
「何処って・・・犯人を連行するんですよ」
「そんなことはそこの制服警官に任せておけ!」
「んな・・・!」
そこの制服警官と呼ばれたフリッツが呆気に取られた後で不愉快そうに顔を顰めるが、リオンと仕事以外でも付き合いがある為か、俺が連れて行くと肩を竦めてリオンに囁きかけ、犯人の身柄を引き受けてくれる。
「悪ぃ、フリッツ」
「・・・・・・じいさんの面倒も大変だな」
二人声を潜めて苦笑しあったのだが、その声が聞こえていたのかどうなのか、レオポルドが誰がジジイだ、ケツの青いヒヨコが一端の口を利くなと一喝し、その声にリオンやフリッツよりもその周辺にいた紳士淑女の面々が飛び上がってテーブルの陰に身を隠す。
「すげー地獄耳」
「おっかねぇ」
心の裡で舌を出したらしいフリッツの肩を叩いて宥め、今度時間が出来たら一杯奢ると約束をして彼と犯人を送り出し、紳士淑女の唖然と呆然の中を堂々と突っ切り、ステージ下からレオポルドを見上げる。
「犯人を連行しないと拙いでしょうが」
「お前の今日の仕事は俺の護衛の筈だ、違ったか?」
「そうですけどね」
彼の尤もな言葉に肩を竦めて助けを求めるようにヒンケルを見上げたリオンだが、こうも見下ろされたままの会話というのも癪に障ると笑みを浮かべ、ひらりと身を翻してステージに登ると、鼻息荒く睨み付けてくるレオポルドに護衛も仕事だが、犯人の身柄拘束も歴とした仕事だと胸を張る。
「犯人逮捕は警部に任せておけばいい」
「そりゃあそうですけど、今回は俺がメインで動いてるんです。だから警部に護衛に回って貰って犯人を俺が連れて行くのが仕事だと思ってます」
護衛を放り出したと言うのであれば、その時には犯人が警部によって取り押さえられている事を確認した後だから大きな問題はない筈だと断言し、自分のやり方に間違いはなかったと顔を上げたリオンの前、太い腕を組んでいたレオポルドが大きく溜息を零したかと思うと、鼻息で不満を露わにして顔を背けながらも短く助かったと礼を述べた為、その心を察したリオンが太い笑みを浮かべて一つ頷いて気持ちをちゃんと受け取ったと伝える。
「会長、この後申し訳ありませんが、署で少しお話を聞かせていただけますか?」
「面倒だから断る」
ヒンケルの言葉にレオポルドが即答し、別に狙撃されたが怪我をしたわけでもないし、この後予定が入っているから事情聴取なり参考人聴取なりならば後日してくれと告げ、何かを思い出したような顔でリオンを見つめる。
「ん?どうしました?」
「そう言えば、さっき俺のことを何と言った?」
「へ?ああ・・・・・・気分を悪くしてしまったなら謝ります」
レオポルドの問いに軽く目を伏せて苦笑したリオンだが、誰も気分が悪いとは言っていない、聞かれたことに答えろと促されて顔を上げ、真正面から何処か恋人と似通った面持ちの男の顔を見つめる。
「親父、そう呼びました」
何故そう呼んだのかは自分でも分かっていないので詳しいことは聞かないでくれ、これが気に入らないのであれば警部と同じで会長と呼ぶと、気負うでもなく淡々と語ったリオンは腿の横で軽く握った拳の中で爪をかりかりと引っ掻きながら返事を待つが、聞こえてきたものは会場中に響き渡る笑い声だった。
「お前がそう呼びたいのか?」
「そうですね」
「ではこれからもそう呼べ」
自らの考えで、聞いただけではどのようにも取れる呼び方をしたいというのであれば、今後それ以外の呼び方を誰の前であっても許さないと笑い飛ばし、それで気分が良くなったのかどうなのか、今からならば署での事情聴取に付き合えるが当然ながら聴取の担当はリオンだとヒンケルを見れば、リオンが言うところのクランプスがクランプスに睨まれて言葉を無くすが、妥協点がそこだというように溜息を零して分かりましたと頷く。
「ボス、後を任せます」
「ああ、分かった」
ここの面々については自分が聴取をしておくので、とりあえずコニーとマックスに応援に来てくれるように頼めと命じ、リオンが頷く代わりに携帯を取りだして仲間に連絡を付けて手短に事情を話して通話を終えると、レオポルドが蒼白な顔で駆け寄ってきた秘書に事後処理について何やら命じるのを黙って見守っているが、ふ、と意識がこの時初めてレオポルド以外に向き、唐突にもう一つのパーティの事を思い出してしまう。
今夜、この同じホテルでウーヴェと一緒に彼の恩師の新たな門出を祝うパーティーに参加することになっているのだが、どうかこの後順調に聴取が進み、パーティが始まる時間には再びここに戻って来られることを焦燥感と共に強く願うのだった。
冬の女王が春の王女とバトンタッチをする季節になったが、やはり夜の世界を支配しているのは女王らしく、日中の温かさが嘘のように冷たい風が吹く夕刻、慌てて引っ張り出してきたロングコートを羽織ったオルガが駅から足早にホテルへと向かい、ホテルのロビーにあるソファセットでロビーを行き交う人々を見送っていた青年に気付いて小走りに駆け寄る。
「ウーヴェ!お待たせしたかしら?」
「大丈夫だ」
自分が予定よりも早くに来ただけだと眼鏡の下で目を細めたのは、小一時間前にまた後でと別れたウーヴェだった。
彼の向かいのソファに腰を下ろし、時間は大丈夫だろうかとバッグに入れた携帯で確認をした彼女は、待ち合わせの時間にまだ余裕がある事に気付いて安堵に胸を撫で下ろす。
「リオンはどうしたの?」
「・・・・・・まだ連絡がない」
「え?」
今日の午後、仕事が一段落付いた恒例のお茶の時間にこのパーティの事を二人で話し合っていたのだが、その時にリオンとどこで待ち合わせをしているのかと問われ、遅くなるかも知れないからホテルでスーツを持って待ち合わせていると肩を竦めたウーヴェだったが、何か引っかかる物を感じたのか、珍しくその場で携帯を取り出してリオンにメールを入れたのだ。
いつもならばすぐさま返事のメールか音声が届くか、もしくは本人そのものが職場を抜け出してきたと笑顔を見せるのに今日に限ってはそれら全てがなく、かなり忙しいのだろうと察しを付け、始まるまでに連絡が入るだろうと思っていたのだが、後少しでパーティが始まる時刻になってもまだ連絡は無かった。
さすがに気になったウーヴェがついさっき電話を入れてみたのだが、いつもと違ってただ虚しくコールを数えるだけで、陽気な恋人の声は聞こえてくることはなかった。
「まだなの?」
「ああ。忙しいんだろうな」
「あなたの連絡に返事もしないなんて・・・何だか信じられないわ」
いつも笑顔で転がり込んでくる金色の嵐だが、惚れて止まないあなたとの約束をすっぽかす事など想像出来ないとオルガが目を瞠り、長い髪を一つに束ねて高い位置で結わえた頭を左右に振って信じられないと呟くが、ウーヴェはその言葉に同意を示しつつも以前も似たようなことがあった事を思い出す。
それは、リオンの姉とも言える女性が急遽食事をしたいと言い、二人で出かける為に自分との約束をキャンセルした時の事だった。
その時に話し合ったのだが、もしも急に仕事なり何なりが入ったのならば連絡の一本でも入れてくれと伝え、また彼もそうすると約束をしたのだが、ウーヴェとしてはリオンを信じていながらもやはり一抹の不安を抱いてしまうと同時に、仕事で手が離せない為ならば仕方がないと思う気持ちと、それでも自分にだけは連絡をして欲しいと言う子供の我が儘にも似た思いが芽生えてきて、それを表に出さない為に白い髪を左右に軽く揺らして苦笑する。
「ねえ、もしも・・・」
仕事上のパートナーであり仕事を離れれば貴重な友人でもある彼女の言葉に目を伏せて頷いた彼は、そっと遮るように掌を向けて唇の両端を軽く持ち上げる。
もしも彼女の言うとおりもしも今夜のパーティに来られない事になれば、同級生達に恋人の紹介をするつもりにしていたウーヴェにしてみれば肩透かしを食らうような気持ちになるが、最もショックを受けるのは他ならないリオン自身ではないのかとの疑問が芽生え、その気持ちからもう一度頷いて彼女を見つめる。
「リア、もしもは止めにしないか?」
「え?・・・・・・そう、そうね」
「ああ」
確かにきみの言うとおりにあいつは今夜ここに来る事が出来ないかも知れないが、それならばそれで事情を聞けばいいだろうし、来たのならば遅いことを少しだけ問い詰めた後は揃ってパーティに出るだけだと肩を竦め、まるで先程感じていた不安を払拭したような顔でそうしないかとオルガに告げたウーヴェは、賑やかにやってきた数人の青年に気付き、軽く手を挙げて合図を送る。
「もう来ていたのか、ウーヴェ!」
先頭を歩いていた豊かなブルネットが自然と波打つままに任せた青年が同じく手を挙げてウーヴェに近寄るが、その前で軽く首を傾げながら振り返るオルガの存在に気付いてびたりと足を止めた為、後ろに続いていた赤毛を短く刈った長身で体格の良い青年がその背中にぶつかり、また別の青年もぶつかるという、人間同士の玉突き事故が発生してしまう。
それをただ冷ややかな目で見つめていたウーヴェが何をしているんだと低く呟けば、お前が女性同伴できているとは聞いていなかったぞと捲し立てられ、思わず彼女と同時に両手で耳を塞いでしまう。
「うるさい」
気心の知れた同級生だからこそウーヴェがぞんざいな態度で横柄に煩いから黙れと言い放つが、その言葉に面々の声がますますヒートアップし始める。
「お前達、場所をわきまえろ」
ホテルのロビーで、しかもまだ紹介すらしていない女性の前で大騒ぎをするなと周囲を凍り付かせるような冷えた声を響かせたウーヴェに何故かオルガまでもが口を押さえてごめんなさいと謝り、その後ろで青年達が一斉に不満を訴えるように口を尖らせたりするが、ウーヴェに睨まれて素直に悪かったと謝罪をして彼らの横のソファに陣取って二人を交互に見つめる。
「何だ?」
「・・・何だじゃないだろう、ウーヴェ!彼女を紹介してくれないのか?」
俺たちにも紹介しないなど水くさいぞと肘で腕を突かれ、今から紹介するつもりだったと決まり悪げに呟いたウーヴェは、オルガに対して苦笑しつつ一人ずつ名前と肩書きを紹介していく。
真っ先にウーヴェに近づいてきたブルネットの彼は、カスパル・バイヤーで、市内でも指折りの総合病院で外科医として腕を振るっているが、その性格はウーヴェの友人の中では珍しく派手好きな事で有名だった。
赤毛で体格の良いのがオイゲン・ビアホフ、彼もまた別の個人経営の病院で心臓外科医として働いていて、右手には結婚指輪がきらりと光っていた。
一見して分かる北欧系の顔立ちにプラチナブロンドと薄い色合いのブルーの瞳に知性を湛えた様に穏やかな表情で面々の騒々しさを窘めるように苦笑しているのが、マウリッツ・アスペルだと紹介され、そのマウリッツの肩に腕を載せているのがこちらもまた見るからにイタリア系の顔立ちのミハエル・ベルトリーノだった。
ウーヴェが一人一人を紹介するとオルガが口の中で小さく今聞いた名前を転がし、にこりと完璧な営業スマイルを浮かべて軽く一礼をする。
「リア・オルガです。どうぞ宜しく」
「こちらこそ、宜しく」
「マンフリートはどうした?」
後一人いつも連んでいる仲間はどうしたと問えばカスパルがひょいと肩を竦め、急患の容態が一刻を争う状態だったらしいと返され、どうこう言っても彼らの職業が人の命に関わるものである事を伝えてくる。
「・・・そうか」
「特に胎児が危険な様子だったらしい」
つい先程手術が無事に終わり、母子共に危機を脱したものの念のために産まれたばかりの子供は集中治療室に入っている為、今日一日目が離せないと教えられ、産婦人科医として働く友人がその腕前を遺憾なく発揮した結果、一組の親子の命が助かりそうだと胸を撫で下ろしたウーヴェは、オルガに視線が集中していることに気付いて拳を口元に宛がって軽く咳払いをする。
「そんなにじっと見つめれば失礼だろう?」
「いや・・・お前、彼女とは本当にただの友達なのか?」
カスパルのその場にいた面々を代表するような質問にウーヴェのターコイズが冷たく光り、彼氏のいるリアに悪いだろうと眉を寄せれば、カスパルが慌てたように顔の前で両手を振ってすまんと謝罪をする。
この辺のウーヴェの気配を察する能力の高さはさすがに学生の頃からの付き合いだと感心するが、あなたの彼女と間違われた事は不愉快ではないわとオルガが口元に手を宛がってくすくすと笑い、その様子にウーヴェが腕を組んで不満を現すように足も組んでソファにもたれ掛かる。
「いつまで経っても変わらないね、諸君」
彼女の笑いとウーヴェの不機嫌さが辺りに漂った頃、さも楽しげな声が投げ掛けられ、一斉に声の主を見つめたり振り返ったりした面々は、声の主が今日のパーティの主賓である恩師だと知ると同時に立ち上がって各々彼の傍に向かい、少し後ろで控えめな笑みを浮かべる恩師の妻にも笑顔で久闊を除するように手を伸ばして握手をしたり言葉を交わし合う。
「ウーヴェ、フラウ・オルガも良く来てくれたね」
「いいえ」
「ご招待ありがとうございます」
アイヒェンドルフの言葉にウーヴェが当然だと頷き、オルガが立ち上がって優雅に一礼しつつも私など直接師事したわけではないのにと、今でも心に引っかかる事を告げれば、教授ではなくその夫人がにこりと笑みを浮かべて気にしないでちょうだいとオルガの手を取る。
「人が多い方が嬉しいと言う訳ではないけれど、来て下さってありがとう、フラウ・オルガ」
アイヒェンドルフ夫人の暖かな声により、抱えていた後ろめたさを解消させたオルガは、ウーヴェが歩き出した為に皆がアイヒェンドルフを先頭に続いた事に気付き、彼女と同じ早さで歩きながら前をゆく細い背中を見つめる。
「ウーヴェの所で働いてどれくらいになるのかしら?」
フロアを横切りながら問いかけられて2年が経ったぐらいだと思いますと返すと、あなたのボスとして彼はどうかしらと目を細められ、理想に近い上司に間違いありませんと断言すると、何の話をしているのか気になったらしいウーヴェが肩越しに振り返ってくるが、仕事中とは違って表情豊かに笑みを浮かべたオルガは、心配しなくても悪口は言ってないわと小さく返し、夫人と顔を見合わせてくすくすと笑う。
「少し夫から話を聞いたのだけれど、あなたのような人が彼を助けてくれている事は本当に嬉しいことだわ」
学生時代から今少し先を歩いているいくつかの背中を見守り続けてきたが、皆それぞれ背負う物も増えたのか、男としての厚みも幅も出てきたようだと目を細める夫人の横顔を見つめたオルガは、彼女が言ういくつかの背中については分からないが、ただ一つの背中であれば、細くても全てを任せられるような安心感が知り合った当初からあったと頷き、エレベーターホールへと向かう。
その時、ホテルではあまり目にすることはない制服警官の姿が目に付き、何かあったのだろうかとぐるりを見渡し、入口付近に一人とフロントで話し込んでいる一人、そしてエレベーターから降りてきた一人がいて、その数の多さに不安から自然と眉を寄せてしまうが、夫人に先を促されてエレベーターに乗り込めばウーヴェが顔を寄せてくる。
「・・・何かあったようだな」
「あなたもそう思う?」
声を潜めてお互いに感じ取ったことを確認し合う二人だが、覗き込んだ互いの双眸には同じ疑問が浮かんでいて、ここに来る前に確認をしておくべきだったとウーヴェが珍しく感情を露わにした舌打ちをする。
「どうした?」
「いや・・・もしかして他にもここでパーティがあったんじゃないか?」
駅近くの名の通ったホテルだから一日中何処かの団体が使っているのだろうが、その案内等を見なかったかとカスパルに問いかければ、確か何処かの企業の記念式典の案内がロビー近くに掲げられていたと宙を睨むような目つきで答えられてウーヴェの目が眼鏡の下で細められる。
「記念式典?」
「ああ。どこの企業かは分からないけどな」
「そうか」
カスパルが肩を竦めた為ウーヴェもそれ以上は何も聞かずに顎に手を宛がっていたが、エレベーターが会場フロアに辿り着いた事を伝える軽快な音が響き、ドアが開いた為に夫人とオルガを先頭に教授が続き、その後ろをウーヴェ達が続いていく。
フロアにはすでに受付を済ませた他の同級生や教授の元同僚達がいて、ドアマンが開けてくれているドアを潜って華やかに飾り付けられているホールに入れば制服警官の事を忘れてしまうが、その寸前、脳裏に浮かんだ恋人の顔に軽く眉を寄せ、警官の姿と恋人の遅刻の理由が繋がるのかどうなのかに思案を巡らせてしまう。
「ウーヴェ、始まるぞ」
「あ、ああ」
ぼうっとしているなとオイゲンに背中を軽く突かれて苦笑したウーヴェは、壇上に登る恩師の背中をホール中程のテーブルの傍で見守り、懐かしい恩師のスピーチに目を細めるのだった。
だがどれほど恩師の声やそれを聞いていた友人が相変わらずだと語りかけてくる声があっても、その奥ではリオンからの連絡が来ない事実がもたらす不安と、複数人見かけた制服警官の姿と、先日の記念式典でのドレスコードは何だと問いかけてきた声が混ざり合って鉛のように重くたゆたい始めるのだった。