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◇ ◇
数日後、ターミナル駅から歩いて5分ほどの場所にあるオフィスビル。そのエントランスから出てきた愛理は振り返り、案内板のデザインプレートを確かめるように眺めた。先ほどまで居た洗練されたオフィスは、清潔感があって、信頼できそうな雰囲気だった。
愛理はこのビルの5階にある弁護士事務所で、淳との離婚の相談をしてきたのだ。
夫、淳の不倫の証拠として、インストやLIMEなどのスクショや見守りカメラで収めた映像、叩かれた時の診断書まで提出した。それで、大丈夫かと思ったら、財産分与の関係でお互いの通帳の支店名から通帳番号まで必要らしい。
慣れない相談に神経がピリピリと、ささくれ立っているようで、首のコリをほぐすように手をあて、空を見上げると朱を含んだ薄紫の夕空が街の上に広がっていた。
晩秋の風がビルの間を吹き抜け、体から体温をさらっていく。大判のスカーフをバッグから取り出し、コートの上から羽織り歩き出す。
駅直結のショッピングビルの入り口付近までたどり着き、キョロキョロと辺りを見回した。
「愛理さん」
名前を呼ばれて振り向くと、スーツ姿の翔が片手を小さく振っている。
細身のスーツは、背が高くバランスの良い体躯に似合っていた。
見慣れないその姿にドキンと心臓が音を立てる。愛理は、その意味を考えないようにして小さく手を振り返す。
「翔くん、お待たせ」
「お疲れ、どんな感じだった?」
「んー、事務所は綺麗だった。弁護士さんもゆっくり話しを聞いてくれて、落ち着いて話せたと思う」
弁護士事務所の感想を話しながら、帰りの通勤ラッシュで混雑する電車にふたりで乗り込んだ。
朝ほど混雑していないとはいえ、座れる席などあるはずもなく、隣の人と肩が触れ合う。愛理は、ドア付近の手すりにつかまり足元を確保していると、部活帰りの学生グループが乗り込んで来て、急に車内の人口密度が上がり、ギュッと押される。
「愛理さん、大丈夫?」
そう言って、翔の腕がかばうように愛理の顔の横を通り越し、後ろにあるドアを押えた。胸の中にすっぽりと包み込まれているような近い距離、翔からグリーンノートが仄かに香る。それを吸い込んだとたん、愛理の胸の鼓動が早く動きだす。
気恥ずかしさで顔があげられず、頬が火照っているような気がして、肩をつぼめて小さくなった。
広い胸、力強い腕、近い距離。
愛理は、否が応でも義理の弟だったはずの翔を男性として意識してしまう。
「今日は、ずいぶん混んでるな。いつもはここまでじゃないのに」
翔のつぶやきが耳の側で聞こえて、さっきよりも心臓がドキドキと早く動き、耳まで熱くなっている気がする。きっと赤くなっているはず。
その愛理の様子に気づいた翔はクスリと笑い、わざと首を傾げ耳元で囁く。
「愛理さん、大丈夫?」
息が掛かるほど近くで聞こえた翔の声に愛理の心はソワソワと落ち着かなくなる。それなのに混雑している車内では、逃れることも出来ない。
愛理は俯いたまま「大丈夫」と小さな声で答えた。
電車が揺れるたびに、触れ合う距離がもどかしい。
やっと、降りる駅のホームが見えて、この状態から抜け出せると、ホッとしたのも束の間。電車がガタンと大きく揺れて停車する。その拍子に揺れに押された愛理は、翔の胸にしがみついてしまった。
「ご、ごめんね」
焦りながら、顔を上げると翔の顔を間近で見上げる形になり、視線が絡む。
「オレは平気だよ。愛理さんは?」
と甘やかに微笑まれると身の置き所がない。
自分ひとりだけが、変に意識してしまって空回りしているように感じた。
「う、うん」
焦って意味のない返事をしてしまう。
プシュッとドアが開いて、熱くなった頭を冷やすような冷たい風が駅のホームを駆け抜け、体温をさらっていく。
ぶるりと身を震わせる愛理の手を大きな手が包み込む。
「愛理さん、こっちだよ」
愛理の手を引き、翔は少し前を歩き出した。
冷たい風が和らいだ。それは、前を歩く翔が風よけになってくれていたから。
繋いだ手の温かさを感じて歩き続けた。
「翔くん、ごめんね。私が部屋を借りちゃっているから、不便だよね」
今日、待ち合わせをしたのは、翔が実家暮らしで、足りなくなった仕事のための本や服を取りに来たからだ。部屋に着くと翔は荷造りを始めた。
「たいした手間でもないし、気にしないで。それより、弁護士さん、何て言っていたの?」
棚から本を取り出し、手を動かしながら愛理に話しかける。愛理はキッチンでお茶を入れていてカウンター越しに翔の方へ顔を向けた。
「しっかりとした不貞の証拠があるから、たとえ裁判までもつれ込んだにしても離婚は出来るって、でも、財産分与とか慰謝料の話になると、弁護士の先生はしっかり取れるって言うけど、請求したら……いけないような気がして」
「そんなことを言わないで、慰謝料はもらえばいいよ。愛理さんは、兄キに尽くしてきたのにそれを裏切ったのは兄キなんだから」
愛理がキッチンからやって来て、ローテーブルの上に不揃いのマグカップが2つ並ぶ。
「でも……。私に慰謝料をもらう資格なんてないよ」
福岡で北川と過ごした事を後悔するつもりはない愛理だったが、自分のことを棚に上げて、慰謝料を請求するのは後ろめたさがあった。
福岡のことを引きずる愛理の様子を見て、翔は困ったように眉尻を下げる。
「愛理さん。兄キと暮らしていたマンションから出るんでしょう? 新しいところを借りるにしても、結構出費がかさむし、引っ越したら引っ越したで、家具や家電をそろえれば、あっという間に100万ぐらいなくなっちゃうんだよ。もらえるものは、もらっとけばいいんだよ。新しい生活を始めなければならない迷惑料だと思ってさ」
自分のマンションにある、お気に入りの家具を思い浮かべた愛理は、細く息を吐き出した。淳と美穂が抱き合った、あの家具を新居で使おうとは到底思えない。新しい暮らしを始めるなら全部買い替える必要がある。
気持ちを落ち着けるようにマグカップを手に取ると仄かな温かみを感じホッとした。
「迷惑料……そうだね。きれいごとだけじゃ済まないんだよね。弁護士の先生に相談してみる。最低でも相手からは迷惑料はもらわないと。あとは新しいマンションも早く探さななきゃ、翔くんにいつまでも迷惑かけられないし」
「別に急がなくても愛理さんのペースでかまわないよ。急いで探してセキュリティが甘いところだと危ないから」
「はあ、セキュリティか……。ひとり暮らしだもんね。家賃と通勤時間との兼ね合いもあるし、大変」
愛理はそう言いながら、マグカップに描かれているうさぎのゆるキャラを無意識に撫でている。
それに気づいた翔は目を細めた。
「いっぺんに何もかも片付けようとすると、疲れて無理が出るからひとつずつ片付ければいいよ」
「うん、ありがとう」
──甘えることに慣れていなくて、何もかも自分でやらなければいけないと思い込んでいた。けれど、まわりの人に「助けて」と言っていいと教えてもらい、少しずつだけど前に進んでいる。
自分のペースでいいと言葉をかけてくれてる、翔の存在に癒されている。
愛理のスマホがメッセージを着信した。
画面をタップして、相手を確認した愛理は表情を曇らせ、直ぐにスマホをテーブルの上に伏せる。
「どうしたの? オレならもう実家に行くから遠慮しないで、返信して平気だよ」
そう言って、立ち上がった翔の瞳に不安気な様子の愛理が映る。
「あの……。淳からメッセージだったの。あれから毎日、メッセージが入って来て……。だからと言って、この先、話し合いとかあるだろうからブロックも出来なくて、ちょっと困っている」
一度立ち上がった翔だったが、慌てて座り直し、前のめりになって、愛理に話しかけた。
「兄キからのメッセージ、見せてもらってもいい?」
「うん、これなんだけど……」
愛理は、メッセージ画面を呼び出したスマホを翔に見せた。
そこには、”悪かった””やり直そう””反省している””帰って来て欲しい”などの言葉が並んでいるのを見て、翔は眉をひそめる。
「愛理さんは、どう思ったの?」
「私は、どんなに謝られても淳を信じられない。だって、やり直しても、生活に慣れた頃また同じことが起こるような気がして、ビクビクしながら暮らして行くなんて耐えられそうにないの。結局、夫婦なんて他人同士なんだから、お互いの信頼関係が崩れたら、もう一度やり直すなんて無理だと思う」
きっと、好きという気持ちが残っていたなら、もう一度だけ信じてみようと愛理は思ったかもしれない。いろいろあった今は、どうしても一緒に暮して行くなんて考えられなかった。
愛理の口からはっきりと、淳とはやり直すなんて無理という言葉を聞いて、翔は険しくなっていた表情を緩める。
「兄キのメッセージか……。愛理さんとの連絡は、うちの実家経由で連絡するようにするとか、もしくは、弁護士経由にしてもらって、愛理さんとは直接連絡を取らなくても済むようにしたらどうかな?」
「そうだね。弁護士の先生にそれもお願いしてみる。気が重かったんだ、ありがとう」
そう言って、愛理は悲し気にうつむいた。
「どうしたの?」
「好きで結婚したはずなのに……。連絡が来るのもイヤだなんて、そんな終わりを迎えるなんて、寂しいよね。どこで間違ったんだろうとか、いろいろ考えちゃって……」
兄の恋人から兄の妻になり、知り合ったころは、明るく屈託のない笑顔を浮かべていた愛理が、月日の流れと共に表情を暗くしていたのを知っていた。それを歯がゆく思っていた翔だった。けれど、今は自分が手を差し伸べることができる。
「今は大変だけど、後で振り返った時、ここで決断して良かったと思えるはずだから。それに間違ったのは愛理さんじゃなくて、兄キなんだ。愛理さんが気に病む必要はないんだよ」
今まで、ひとりで悩みを抱え込んでいた愛理が、自分から悩みを打ち明けている。ふたりの距離が少し近づいているように翔は感じていた。
「翔くん、ごめんね。へんな愚痴を言って……」
「オレで良かったら、愚痴でも何でも聞くから、いつでも連絡して」
「うん、ありがとう」
「じゃ、そろそろ帰るね。戸締りちゃんとするんだよ」
本当はまだ愛理のことが心配で、このまま留まりたい翔だったけれど、誤解の元にもなり兼ねない。後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。
「おやすみなさい。翔くん」
「ん、おやすみ。愛理さん」
パタンと玄関のドアが閉まると、愛理は寂しさを感じていた。
ドアの前で佇んでいた愛理は、気持ちを切り替えるように浴室に入り、お風呂のスイッチを押した。バスタブにお湯がちょろちょろと溜まり出したのを見て、あとは、自動お湯はり機能にお任せとばかりにリビングに戻る。
すると、棚の前の床に建築の本が置かれたままになっているのに気が付き、慌てて手に取った。
「あれ⁉ 翔くん、バッグに入れ忘れたんだ」
直ぐにスマホの通話ボタンをタップした。呼び出し音は鳴るけど、電話に出る気配がない。駐車場にある乗用車で実家に戻る予定だったのを思い出し、ベランダから駐車場の車を確認する。
「まだ、車がある。今なら間に合うかも」
本と鍵とスマホを手にサンダルを履き、エレベーターホールに急ぐ。スイッチを押してもエレベーターが来るまでの時間がもどかしい。その間にも翔に電話をかけるけど、呼び出し音が鳴り続けるだけだ。
やっと来たエレベーターに乗り、ようやく1階へ到着。ドアが開くなり、パタパタと小走りに駐車場へ向かう。すると、エントランスを出て、建物の裏手にある駐車場へ続く小道に入ったところで名前を呼ばれた。
「愛理!」
愛理は声のする方へ顔を向ける。
「やっぱり、ここに居たんだな」
そう言って、暗がりから人影がゴソリと動く。
その姿を認めた愛理はヒュッと息を飲み込んだ。
「……淳」
「迎えに来たんだ。さあ、帰ろう」
淳に手を差し出されても、その手を取る気持ちにはなれない。そして、一番の不安を口にした。
「……翔くんは?」
自分より先に出たはずの翔の姿が見えない。このタイミングなら絶対に会っているはずだ。
さっきからスマホをコールしても反応がないのは、なぜ?
ザワリと嫌な予感が走る。
愛理はじりじりと後ずさりをしながら、淳を見据えた。
「……翔くんは、どうしたの?」
エントランスから漏れる明かりが、淳の横顔を照らしていた。
愛理の問いかけに、淳の口角が上がるのが見える。
「翔は来ないよ。だから、愛理は俺と家に帰ろう」
「翔くんに何をしたの? 自分の弟に何をしたの!」
愛理の言葉を聞いて、淳は怪訝な表情を浮かべる。
「おかしなことを言うなよ。俺が翔に何をするっていうんだ。それより、この前は殴ったりして悪かった。これからは、家のことも手伝う。話もする。だから、いつまでも拗ねるなよ」
不安気に周りを見回したが、こんな時に限って人通りがない。
あの僅かな時間、翔に何かあったとしたら、エントランスから車までの距離のはずだ。すぐにでも車まで見に行きたいけれど、淳から視線を外したら何をされるか不安を感じる。
スマホはあるけど、淳の眼の前でアプリを立ち上げ録画機能を起動させるのは難しそうだ。
愛理は身を守る盾のように翔の本を胸元へ抱え直した。
そんな愛理に淳がにじり寄る。
「なあ、謝ってるだろ。それに翔とのことも水に流してやるよ」
「何言ってるの? 翔くんのことを水に流すって……?」
思いも寄らぬ淳の言葉に愛理は訝しげに目を細め、聞き返してしまう。
「そうだ、もう、翔と会わないと誓ってくれれば、不貞は責めない。今まで通りに暮していけばいい」
「さっきから、何を言っているのか意味が分からない。不貞を責められるのは、私じゃなくて、淳! あなたでしょう!」
もう、弁護士に証拠を提出し、離婚のための書類作成に入っている。いまさら淳に遠慮する必要もない。それに翔の身に何か起こっているとしたら、助けられるのは自分しかない。
目の前にいる淳が怖くて、怯みそうになる心を奮い立たせるように胸にある翔の本をギュッと握り込んだ。
「なんで俺が責められないといけないんだ⁉」
この期に及んで、しらを切る淳をにらみつけるように見上げた。
目の前にいる淳と視線が合うと、前回殴られたことが脳裏に過り、気持ちが怯む。
そんな自分を心の中で励まして、淳を激高させないようにゆっくりと話し始めた。
「私、気づいているの。淳が不倫しているって……。相手も誰だか知っているの。だから、もう、淳を信じられない。今まで通りに暮していくなんてできない」
「翔に余計なことを吹き込まれたんだろ。 いいかげんなことを言うな! 愛理、俺と一緒に来るんだ」
声を荒げ、淳は愛理の手首をグッと掴む。そのはずみで胸元で抱えていた、翔の本がバサバサッと音を立てて足元に落ちていく。
それを見た瞬間、愛理は勇気を振り絞って、大きな声を上げた。
「イヤーッ、だ、誰かっ! 誰か、助けて! 助けてください」
すると、隣りのマンションのベランダから「なんだ⁉ おい、大丈夫か」と人の声が聞こえて来た。誰かが愛理の叫び声に反応してくれたのだ。
「助けて! 男に絡まれてるの」
愛理は、もう一度声を張り上げた。淳に掴まれている手首にはいっそう力が籠り、怒りが伝わって来る。
「何言っているんだ。黙れ!」
空いている方の淳の腕が動いた。手に何かを握っている。また、殴られるのかと身をすくめた瞬間。
「今、警察を呼んだぞ」
ベランダの方から声が届く。
すると、淳の動きが、ピタリと止まった。
「チッ」と言う舌打ちと共に掴まれていた腕が解かれ、淳は踵を返して暗闇の中に消えていく。
緊張から解かれた愛理は、足の力が抜けてヘナヘナと、その場に崩れ落ちてしまった。そのとき、指先が地面に落とした翔の本に触れた。
「翔くん……」
そう呟いて、よろよろと立ち上がり、マンションのベランダへ「ありがとうございました」と頭を下げた。
「大丈夫か?」「はい、助かりました。ありがとうございます」と、短いやり取りをした後、急いで駐車場へ向かう。
ドキドキと自分の心臓の音がうるさく聞こえてくる。
駐車場へ足を進める間も不安が募る。
もしも、翔に何かあったら……。
そんなことを考えてしまい、自分が殴られるよりも怖いと思った。
翔の車を見つけ、自然と足が速く動きだした。
息を切らせながら、おそるおそる車の窓を覗き込む。すると、運転席でぐったりと横倒しになっている翔がいる。
ドクンと、心臓が大きく音を立てた。
「うそっ……。翔くんっ!」
窓を叩き、声を上げても、翔は動かない。
得体の知れない恐ろしさで、心臓が痛いほど早く脈動している。
「助けなきゃ」
慌ててドアハンドルに手をかけた。すると、ガチャッとドアが開く。
「翔くん、翔くん」
名前を呼びながら覗き込み、頬に手を添えると温かみを感じ、ホッと息を吐きだした。
「きゅ、救急車!」
持っているスマホを立ち上げようとしようとした。指が小刻みに震えていて、上手く押せない。
「うっ、うぅ」
翔が小さな声を上げ、身じろいだ。
「翔くん、今、救急車を呼ぶから」
「っ、大丈夫だから……。呼ばなくていい」
「怪我は? どこか怪我しているんでしょ?」
「……大丈夫。救急車はいらない」
そう言って、翔はうつ伏していた体をけだるそうに仰向けにする。心配そうに覗き込む愛理と目が合うと、大丈夫だよというように笑みを浮かべた。
やっと、緊張から解かれた愛理の瞳が潤みだし、抑えきれない涙が翔の上にポタリとこぼれ落ちた。
「……怖かった、翔くんに何かあったらと思ったら……。本当に怖かった。無事でよかった」
翔の腕が上がり、愛理の涙を拭うように頬をなでる。
「ごめん」
と翔は小さくつぶやいて、愛理の髪に手を梳きいれると胸元へ抱き寄せ、ギュッと力を込めた。
広い胸に耳を寄せた愛理は、トクトク聞こえる心音をホッとしながら、目を閉じて聞いていた。
「本当に良かった。翔くんが倒れているの見つけたとき、何が遭ったのかわからなくて、もしかしてって、悪い考えばかり浮かんでしまって……」
そんな愛理の髪をなだめるように翔の手が優しく撫でる。
「ごめん、まさか、兄キが……」と言い切かけたところで、翔はハッとして、愛理を膝の上に置いたまま、椅子の上に起き上がり、愛理の頬や肩に手を這わせ、ケガをしていないか確認した。
「愛理さんは、大丈夫? ケガしていない?」
無我夢中で翔に抱き着いたり、今だって翔の膝の上に座っていたことに気づいた愛理は、急に恥ずかしくなって、開けっ放しだったドアの外に跳ね除いた。
「ご、ごめん。私は、大丈夫。それより翔くんのケガの方が心配だよ。何があったの?」
「車に乗り込んだところで、兄キに声をかけられたと思ったら、いきなりバチッて電気が走って……。普通スタンガンじゃ、気絶するほどじゃないって聞いたことがあるんだけど、情けないな」
スタンガンなんて、TVドラマみたいな出来事に愛理は驚きの色を隠せない。そして、さっき淳の手に握られていたのは……。と思い当たり、自分にも使われる可能性が遭ったかと思うとゾワリと悪寒走る。
「どこに当てられたの。ケガしてない?」
「首のところ、少しヒリヒリするぐらいだから大丈夫だよ」
マンションの駐車場へ、赤灯を回した警察車両が入ってきた。
「さっき淳に会ったとき、助けてくれた人が、警察を呼んだと言っていたから、通報で来てくれたんだと思う」
「オレも一緒に行くよ」
警察への説明が終わり、翔の部屋へふたりで戻ってきた。
「お疲れさま、お腹すいたね」
「なにか、デリを頼もうか?」
警察には、淳のDVを受けた愛理が、このマンションに避難していた。それをストーカー的に追いかけて来た淳が再び手を上げようとしたところを通報されたと経緯を説明した。ストーカー規制法も以前より強化され、待ち伏せ行為も処罰の対象となるらしい、警察もいろいろ相談に乗ってくれるそうで、心強い。
「お蕎麦の乾麺が買ってあるから、それで良ければすぐに食べれるよ。翔くんは、まだ無理をしないで、座っていて、めまいとか大丈夫?」
パタパタと動き回る愛理を翔が愛おし気に目を細め見つめていた。
「オレは、大丈夫。愛理さんも大変だったのに、食事まで悪いよ」
「平気だよ。ひとり分もふたり分も手間は変わらないんだから」
鶏肉や油揚げ、長ネギを刻み。出汁とめんつゆで作った簡単なお汁で煮る。別の鍋で乾麺を湯がき、どんぶりに盛り付ければ……。
ここまで来て、ハタと愛理の動きが止まる。
「どうしよう。どんぶりが、ひとつしかない!」
「あははっ、食器が揃ってなくて、ごめん。オレ、鍋から直接もらうよ」
クスクスと笑いながら、夕飯のお蕎麦をいただいた。
怖い出来事があったばかりなのに、今、笑えているのは、ふたりで居るからだ。
でも、愛理は不安に駆られていた。自分の存在が翔にとって、マイナスに作用しているような気がしてならない。
「翔くん、私、今日は他のところに泊まるから、翔くんはこの部屋で休んで、お願い。それと今まで甘えていたけど、お部屋を出ようと思っているの」
「愛理さん……」
さっきまで、ゆっくりと部屋を探すと言っていた愛理の突然の申し出。翔は驚きを隠せず、言葉を失った。
「大丈夫、変なところには泊まらないから、レディースフロアがあるホテルを見つけたんだ。前から色々調べていたの。ここからタクシーを使えば直ぐのところで、危なくないよ」
淳と愛理の仲がこじれる前は、つかず離れずの普通に付き合いのある兄弟だった淳と翔。それが、今では危害を加える不安まで出てきてしまった。自分さえ、差し出された手の居心地の良さに、甘えていなければこんなことにはならなかったと、愛理は後悔をしていた。
「翔くんは、お部屋でゆっくり休んで、お風呂も沸いてるから、大丈夫だったら入ってね」
「オレは、平気だから実家に帰るよ。愛理さんはここに居て」
翔ならそう言ってくれるのはわかっていた。けれど、これ以上甘えてはいけない。愛理はテーブルの下でギュッと手を握りしめる。
「ありがとう。でも、淳もここに来たから……ホテルに行くね。今まで、翔くんが手助けしてくれから心強かった」
真っ直ぐに向けられる愛理の視線に翔の胸は切なく痛む。
やっと、愛理が気を許し始めていたはずだった。それなのに、一線を引いたような愛理の様子に、近くなったふたりの距離が、また遠くなってしまったのを感じた。
「愛理さん、そうやって、なにもかも自分ひとりで背負うのは悪い癖だよ。助け合う方が、道が開けるはずだ」
「でも……。淳と翔くんは家族なんだよ。それなのにスタンガンで気絶させるなんて、私を|庇《かば》わなければ、こんなことにならなかった。今日だって……本当に怖くて……私が夫婦の問題に翔くんを巻き込んだから、こんなことになって、ごめんね」
愛理は、感情が高ぶり涙が溢れそうになる。それをこらえるように唇を引きむすんだ。
「愛理さんのせいだけじゃない。ウチの家族の問題でもあるんだ。兄キは、オレが両親といろいろ話し合っていることに気付いているんだと思う。だから、愛理さんとの復縁をアピールして、揉めごとなど何も無かったことにしたいんだ」
「でも、私、淳とはやり直す気がないのに……」
愛理の言葉に頷いて、翔は言いにくそうに口を開く。
「兄キは、愛理さんのことを……無理やりにでも抱いて、子供を作ろうと考えているんだと思う」
淳の行動を振り返ると、翔の推測は間違っているとは思えない。何かあると無理矢理押さえ込んで、体を重ねようとする。愛理はあのときの感触を思い出し、ゾワリと背筋が寒くなる。
「なんにしても、都合のいい嫁、家政婦としての私が必要なんだよね。だって、淳の不倫相手は家事をするタイプじゃないし、私と別れたからと言って、淳と結婚するとは思えない。もしかしたら……不倫相手にも捨てられたのかも」
御曹司と結婚する予定の美穂が、いつまでも淳と付き合っているメリットはない。友人の夫との不倫は結婚前のスリルある遊びだったのだろう。
「淳は、相手と別れたんだから、それでいいのかと思っているのかも……」
愛理は、そう思いあたった。
「そうか、それなのに思い通りにならなくて|自棄《やけ》になっているようにも見える。余計に気を付けないと」
「でも、警察へのストーカー被害届けのことなんだけど、この先、跡取りで役職のある淳が摘発されるようなことになったら、『不動産リフォーム樹』の信用が大きく揺らぐことになると思う。会社に携わるたくさんの人の生活がかかっているのに、個人的な問題で迷惑をかけたくないの。だから、今回のことがあるから警察には相談はするけど、届けを出すのはもう少し様子を見てからにする」
「愛理さん……。会社より自分の身を守ることを考えて」
「でも、お義父さんにも悪いし、会社の業績が落ちたときに、最初に整理されるのは下請けさんなんだよ」
愛理は、中村家、蜂谷家、両方を気に掛けているんだと翔は気づいた。愛理の実家の両親とは、上手くいっていないはずなのに、こんな状況でも思いやれる愛理の愛情深さに驚かされる。そして、淳が愛理に執着するのも理解できるような気がした。
「兄キもバカなことばっかりやっていないで、目を覚ましてくれるといいのにな」
「そうね。これ以上思い出を汚すようなことをして欲しくないな。嫌いになるために結婚したわけじゃないのに……」
そう言って、うつむく愛理の小さな肩を翔は抱きしめたくなる。けれど、代わりに、そっと髪を撫でた。
「愛理さん、いまは辛いけど、少しずつ進んでいるから、良い兆しが見えるようになるはずだよ」
「うん、ありがとう。長くなっちゃってごめんね。ひとりでどうにかしようなんて考えていないよ。でも、今日はホテルに泊まるね。翔くんはこの部屋で体を休めて、お願い」
結局、愛理は翔の体を心配して、ホテルへ行く意思を曲げようとしない。
翔は、細く息を吐いた。
「じゃあ、この後の避難場所考えておくよ。それにホテルまで送るから」
「翔くんが休んでくれないと、私が安心できないの。タクシーも下まで呼ぶし、ホテルの場所もURLも送る。私もちゃんと考えてるから大丈夫だよ」
「仕方ないな。でも、タクシーに乗るのを見送るのは、譲れないからね」
◇ ◇
部屋のドアを開けると、部屋の大半をベッドが埋め尽くしている。愛理は狭い部屋を見渡した。
ビジネスホテルの作りなんて、どこも似ていて、博多で泊まった部屋を思い出してしまう。
夫と友人に裏切られたと知ったあのショックが蘇る。そして、淳の抑圧的な態度と暴力を体験して、自分の行動が淳をあんな風に変えてしまったように思えてしまう。身内である弟の翔にまで危害を加えるなんて思いも寄らなかった。自分が甘えたから……。
そんなことをぐるぐると考えてしまって、翔と話しをしていたときの前向きな気持ちがどんどん萎み、思考がネガティブスパイラルに陥っていく。
気分転換に部屋のカーテンを開けた。けれど、隣りのビルが近くて景色など望めなかった。視線を上げるとビルの隙間から、今にも消えそうな三日月が儚げに浮かんでいるのが見える。けれど、その月さえも風に流れた雲が隠してしまった。
狭いビジネスホテルの無機質な部屋にひとり。
自分には、こんなときに身を寄せられる家族も友人も居ないんだと、虚無感にさいなまれる。
自分の何がいけなかったのか、何が足りないのか、そればかり考えてしまう。
疲労感で重たくなった体をベッドに横たえる。見上げた天井が、ジワリと浮んだ涙で滲む。
不意に、スマホがメッセージの着信を告げた。重だるい体をひねり、スマホを引き寄せタップする。
『愛理さん、ホテルに着いた? 部屋はどんな感じ?』
愛理の様子を気遣う翔からのメッセージだ。
翔のことを思えば、距離を置いた方が良いはずだと、わかっている。
けれど、翔の優しさが、弱っている心にジワリと沁みる。
寂しさでつぶれそうな心を隠してメッセージを返した。
『狭いけど清潔感がある部屋で快適』
スマホを手放し、寝返りを打って枕を抱きしめた。
もう、あの部屋に帰りたくなっている。