テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
そうして翌日、僕は手術を終えた。いつものように安静にしながらモニターの規則正しい音を聞いている。
「暇だなぁ。」
どうせ手術直後だし面会は禁止だろう。当分勇斗くんに会えない日が続くな。
そんなことをずっと考えて、いつ会えるか計算いると、僕のスマホが鳴った。
「手術終わった?目が覚めて動けたら連絡返して。」
と勇斗くんから連絡が来ていた。今は傷跡が痛くて動けない。
申し訳なく思いつつ、することが無いのでまた眠りにつく。
思ったより寝ていたようで、気づけば翌日の朝になっていた。
それくらい手術や学校生活で僕の体に疲労が重なっていったのだろう。
スマホを手に取って連絡を返そうとする。
「手術終わってやっと動けるようになりました。連絡遅れてすみません。」
と送るとすぐに既読が着いた。勇斗くんらしいな。と少し口角が緩むと、すぐに返信が帰ってきた。
『生きててなにより。』
それだけ。
「お疲れ様」とか「体調はどう?」とか、そういう普通の気遣いの言葉は一つもない。だけど、
送ってから一秒も経たないうちに既読がついたことが、何よりも彼がスマホを握りしめて待っていた証拠のような気がして、僕の胸の奥をじんわりと温める。
『まだちょっと痛みますけど、大丈夫です。勇斗くんは学校ですか?』
文字を入力するだけで、点滴の針が刺さった左手が少し突っ張る。スマートフォンの画面が、僕の青白い顔を無機質に照らしていた。
『授業中。つまらん』
短い返信。想像通りすぎて、思わず声を出さずに笑ってしまう。
真面目そうな顔をして、授業中に堂々とスマホをいじっている勇斗くんの姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。
彼はきっと、窓際の席で頬杖でもつきながら、退屈そうに外を眺めているのだろう。
『怒られますよ。ちゃんと授業受けてください』
『うい』
そこでラリーは途絶えた。
本当に、どこまでも引き算の男だと思う。だけど、その飾り気のない「うい」という二文字があるだけで、
このひんやりとしたこの病室の空気が、一瞬だけあの楽しかった通学路の匂いに変わるような錯覚を覚える。
手術の傷跡は、呼吸をするたびにズキズキと痛んだ。
胸を開くという大手術のダメージは、僕が想像していたよりも遥かに重く、体中の自由を奪っていた。
体に繋がれた何本ものチューブと、規則的な音を刻み続ける心電図のモニター。それが今の僕の世界のすべてだった。
どうせ手術直後だから、一般病棟に移るまでは面会禁止だ。当分、勇斗くんに会えない日が続く。
そんなことは最初から分かっていたはずなのに、一度彼の温かさに触れてしまったせいで、一人の病室が以前よりもずっと広く、寂しく感じられた。
それから一週間、僕は痛みと微熱の間を行き来しながら、ただ泥のように眠る時間を過ごした。
数日してようやく体に刺さっていた管が抜け、一般病棟の個室に移ることができた頃、
季節は完全に6月の終わりを迎えていた。窓の外は、しとしとと途切れなく降る梅雨の雨。
灰色に霞んだ空を見上げながら、僕はベッドの上でスマートフォンを開くのが一日の唯一の楽しみになっていた。
勇斗くんからの連絡は、毎日必ず一通は届いた。
『今日、数学の小テストあった。爆死』
『隣の家の犬が、俺の制服に吠えてきた。解せぬ』
送られてくるのは、本当にどうでもいい学校生活の切り抜きばかり。それでも、
学校に行けない僕にとっては、彼が運命のように運んできてくれる「日常」のピースが、何よりも貴重な救いだった。
『大変でしたね。僕の方は、今日から歩く練習が始まりました』
そう返すと、夜、消灯時間の少し前に返信が来る。
『ほお。進歩じゃん』
やっぱり、短い。
だけど、その短い言葉の行間から、彼なりの不器用なエールが伝わってくるから不思議だ。
「律稀くん、今日のお薬持ってきましたよ」
夕方、看護師の木下さんが笑顔で病室に入ってきた。
「ありがとうございます、木下さん」
「どう? 手術の傷はまだ痛む?」
「歩くときは少し響きますけど、前よりずっと楽になりました」
「よかった。先生もね、手術自体の経過はすごく順調だって言ってたわよ。このままいけば、
7月の上旬には一度、体調を見て少し外出の許可が出るかもしれないって」
「外出……!」
その言葉に、僕の心臓がトクンと小さく跳ねた。
頭に浮かんだのは、あの病室で交わした約束だ。
――7月にさ、この近くでデカい花火大会があるんだって。それ、一緒に行こう。だからさ、約束。
「木下さん、あの、7月の中旬にある花火大会なんですけど……」
僕が食い気味に尋ねると、木下さんはあたたかい目で僕を見つめ、困ったように眉を下げた。
「ふふ、やっぱりそこよね。お隣の男の子、毎日病院の受付に来ては『律稀くんの面会、まだですか』って聞いてるのよ? 私たちも心が痛んじゃって」
「え……? 勇斗くんが、毎日?」
知らなかった。そんなこと、彼はLINEで一言も言っていなかった。
毎日、学校帰りにこの病院まで足を運んで、会えないと分かっていながらも僕の様子を気にしてくれていたなんて。
『授業中。つまらん』とか、のんきに送ってきていたあの裏で、彼はそんな風に僕を待ってくれていたんだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように愛おしさで満たされていく。
「先生には私からもプッシュしておくから、まずはしっかりご飯を食べて、体力を戻すこと! いいわね?」
「はい! 頑張ります」
木下さんが病室を出て行った後、僕はすぐに勇斗くんにメッセージを送ろうとして、スマートフォンの画面に指を当てた。
『毎日、病院に来てくれてるって聞きました。ありがとうございます』
そう打ちかけて――やっぱり、消した。
なんだか照れくさいし、彼のことだから「別に、散歩のついでだし」なんて素っ気なく返すに決まっている。
代わりに、僕はこう送った。
『7月の花火大会、先生が頑張れば外出できるかもしれないって言ってくれました』
今度は、すぐに既読はつかなかった。きっともう部活中か、あるいは家で夕飯でも食べている時間だろう。
窓に打ち付ける雨の音を聞きながら、僕は返信を待った。
一時間後。スマホが短く震える。
『いくぞ』
相変わらずの、三文字。
だけど、画面を見つめる僕の視界が、なぜか少しだけ潤んだ。
行くぞ、の一言に込められた、彼の絶対的な確信。そこには一ミリの迷いも、僕の体を気遣うような同情もなくて、
それが何よりも嬉しかった。僕たちは、あの夏の光の下へ一緒に行くんだ。絶対に。
それからの日々は、まるでその約束だけを目標にするように、僕の体調は奇跡的に回復していった。
リハビリの距離も伸び、顔色も少しずつ戻ってきた。医者も「若いから回復が早いね」と太鼓判を押してくれるほどだった。
6月が終わり、カレンダーが7月に切り替わった日、ついに梅雨が明けた。
嘘みたいに突き抜けた青空が広がり、セミの声が遠くから病室まで届くようになる。本格的な、夏の到来だった。
そして同時に、僕の「面会制限」が解除された。
その日の午後、病室のドアが、いつになく遠慮がちな音を立てて開いた。
「失礼します……」
入ってきたのは、見慣れた制服姿。だけど、1ヶ月ぶりに見るその姿は、僕の記憶にあるよりも少しだけ大人びて見えた。
「勇斗、くん」
名前を呼ぶと、勇斗くんはドアのところでピタリと足を止め、じっと僕の顔を見た。
その目は、いつものポーカーフェイスではなく、どこか言葉を失っているようにも見えた。僕が痩せてしまったからだろうか。それとも、本当に会えたことが信じられないのだろうか。
「……おう」
勇斗くんは一歩、また一歩とベッドに近づき、いつものように丸椅子を引き寄せて座った。
手には、コンビニの袋。中からは、僕が好きなメーカーのゼリーが覗いている。
「なんか、久しぶりだな」
僕が微笑むと、勇斗くんは視線を少しだけ泳がせてから、短く言った。
「痩せたな」
「まあ、絶食期間とかもありましたからね。でも、もう大丈夫ですよ。普通のご飯も食べられるようになりましたし」
「そっか」
会話が、そこで少し途切れる。
画面越しにはあんなに毎日言葉を交わしていたのに、いざ目の前に本物が現れると、何を話していいか分からなくなってしまう。勇斗くんの体から、微かに夏の太陽の匂いと、制服の柔軟剤の匂いがして、それが「外の世界」をリアルに連れてくる。
勇斗くんは、じっと僕の手元を見ていた。
点滴の針が抜けた跡の、小さな絆創膏。そこに、彼の手がゆっくりと伸びてくる。
触れるか触れないかの距離で、彼の大きな手が一度止まった。
「……痛かった?」
ぽつりと、勇斗くんが呟いた。
その声が、いつもより少しだけ低くて、掠れていた。
「え?」
「手術。痛かっただろ」
その真っ直ぐな瞳に見つめられて、僕は嘘をつくことができなくなった。
「……うん。最初は、息をするのも、ちょっとだけ、痛かったです」
正直に言うと、勇斗くんは小さく「そっか」とだけ言って、今度は優しく、僕の手の甲を自分の手のひらで包み込んだ。
彼の裏の手は、驚くほど温かかった。
1ヶ月前、一緒に下校していた時の、あの手の温もりそのものだった。
「でも、勇斗くんが毎日LINEしてくれたから、頑張れました。本当に」
僕がそう言うと、勇斗くんは少しきまずそうに視線を逸らし、耳のあたりをほんのり赤くしながら、ぼそっと言った。
「暇潰しだし」
「ふふ、やっぱりそう言うと思った」
「……でも、約束は果たすわ」
勇斗くんは、繋いだままの手の小指を、僕の小指にそっと絡ませた。
1ヶ月前に交わした、あの約束の再確認。
「花火大会、来週の土曜。先生にも許可もらったんだろ?」
「はい。夜の2時間だけなら、近くの土手まで行っていいって。勇斗くん、一緒に行ってくれますか?」
「当たり前。そのために浴衣、買ったし」
「えっ、浴衣買ったんですか!?」
驚く僕を見て、勇斗くんは少し得意げに、でもやっぱり短く答える。
「おう。形から入るタイプだから」
「あはは! 見たいです、勇斗くんの浴衣姿。絶対かっこいいんだろうな……」
「律稀の分もあるから」
「え?」
「おばさんから預かってきた。当日、俺が着付けしてやる」
「勇斗くん、着付けできるんですか?」
「YouTubeで見た。完璧」
短い言葉の中に、彼が僕のためにどれだけの時間を費やし、どれだけ楽しみにしてくれていたのかが、全部詰まっていた。
幸せだった。
手術の恐怖も、病気の苦しさも、この瞬間のためにあったんだと思えるくらい、僕の心は満たされていた。
――だけど。
勇斗くんが帰ったその日の夜、それは突然やってきた。
消灯時間を過ぎ、静まり返った病室。
勇斗くんの手の温もりを思い出しながら、心地よい眠りに落ちようとしていたその瞬間。
「……っ!?」
唐突に、激しい衝撃が僕の胸を突き刺した。
軽い痛み、なんてものじゃない。心臓を直接、冷たい刃物で抉られるような、息が詰まるほどの激痛。
「は、っ……、が、は……っ」
声が出ない。
ナースコールを押そうと手を伸ばすが、指先が震えて、ボタンに届かない。
心電図のモニターが、狂ったようなテンポでアラーム音を鳴らし始める。
ピッピッピッピと、静かな病室に、破滅の警告音がけたたましく響き渡る。
視界が、急激に歪んでいく。
僕の病室は7階、医療従事者ステーションは1階。
消灯時間になるとエレベーターは基本使えなくなる。
それに看護師ステーションは非常用エレベーターから1番遠いという欠陥構造。
(嫌だ……、嫌だ、嘘だろ……)
せっかく、退院できるって思ったのに。
来週、勇斗くんと、花火に、行くって、約束したのに。
(勇斗くん……)
スマートフォンの画面が、遠くのサイドテーブルの上で、新着の通知を知らせて一瞬だけ光った。
だけど、僕の目はもう、その光を捉えることができなかった。
僕の左胸を抑えていた手も、なんだか冷たいものを触っている感覚になってくる。
暗闇が、僕の世界をすべて塗り潰していく。
2ヶ月間の眩しい光、病室での短い言葉のやり取り、温かい手のひら。
そのすべてが、砂のように指の隙間から溢れ落ちていく感覚のなかで、僕の意識は深い、深い底へと沈んでいった。
これが、僕たちの短い夏の、終わりの始まりだった。
コメント
1件
うわ…読んでる途中で胸がぎゅっとなりました。勇斗くんが毎日病院に通ってて、LINEも短いけど「いくぞ」の三文字に全部詰まってる感じがたまらないです。花火大会、浴衣、着付けの約束…希望がちゃんと積み上がってたからこそ、ラストの急変が一層切なく響きました。「7階で看護師ステーションが遠い」っていう構造的な伏線、気づいた時ゾッとしました。続きが気になりすぎます…!
1