先日の秋晴れがこのまま続きそうな暖かい月曜日だったが、日が暮れると同時に寒さが増してきて、戸締まりをしようとしていたウーヴェは窓の外の気配に身体を震わせる。
今日からまたいつもの様に仕事を始めたが、やって来る患者に三週間近くの休診の理由を問われて具体的なことは何一つ言わずに遅いバカンスを取っていたと答えたり、学会で隣の国にまで行っていたと誤魔化したりしつつ、何故か心の何処かがまるで浮かび上がったかのような感覚に襲われながら診察をしていた。
浮ついたような心持ちで今日の診察の総てを終え、お疲れ様でした、これからもよろしくと毎日交わしている挨拶を今まで通りのオルガと済ませ、今日は寒くなりそうだから風邪をひかないようにと笑顔で彼女を送り出したが、この調子では自分が風邪をひきそうだと気付き、診察室の隣の小部屋で着替えを済ませてコートを引っ掛けて診察室に戻ってくる。
その時デスクにある電話が外線の着信をランプで告げた為、デスクの端に尻を載せながら受話器を取る。
「バルツァーです」
『・・・まだ残っていたんだな』
「────っ!」
電話の相手は兄のギュンター・ノルベルトで、その声に条件反射のように息を呑んで身体を硬くしたウーヴェは、ぎゅっとデスクの端を握った後、何だろうかと固い声で問い掛ける。
ヴィーズンの間、幼い己が巻き込まれた事件現場で一人過去と向き合っていたが、そもそもの事件の発端となったのは、今どんな表情かは分からないが穏やかな声で電話をしてきている兄だった。
その兄の声に身体が硬くなり、声が出にくくなることはどうすることも出来ない事だったが、以前ならば声を聞くだけで恐慌を来して随分と酷い事になっていたのだ。
長い時間を掛けてようやくここまで回復した事を実感しつつ、何だろうかともう一度沈黙する兄に向かって呼びかければ、小さな小さな溜息が聞こえてくる。
『今年の万聖節はどうするつもりなんだ?』
「・・・・・・」
兄とウーヴェにとって深い関わりのある女性の墓参りには行かないのかと、毎年拒否しているにも関わらずに今年も誘われてしまい、拒絶の声を出そうとするが喉に蓋をされたように声が出なくなる。
『フェリクス?』
「・・・まい、とし・・・言っている・・・っ」
『そうだったな。────まだ許せないか?』
辛うじて伝えられた言葉に兄が深々と溜息を吐くが、やや躊躇いを覚えた様な声で問われ、ウーヴェが拳を握って腿に押しつける。
出来る事ならば忘れ去ってしまいたい辛く苦しい過去。その総ての原因を作り出したのは他でもない兄なのだ。
いつものウーヴェならば間違い無くそれを背負わせた本人が何を言うんだと冷笑して会話を終えようとしただろうが、不意に脳裏にリオンの笑顔が浮かび上がると同時に左足の薬指を永遠の居場所と決めたリザードのひやりとした感触が全身へと伝わっていく。
「・・・あの事件で殺された・・・ハシムと約束をした」
冷たい熱としか言い表せないそれを全身に感じ、ごく自然と連想することの出来る恋人の顔を閉ざした瞼の裏に浮かべて何とか伝えたウーヴェだが、次いで聞こえてきた言葉に目を瞠り、腿に押し当てた拳を開いてシャツの喉元を握りしめる。
『そうか。ハシムの約束を守っていたのか。ならジーナにも顔を見せてきたんだな』
「・・・知ら・・・っ・・・ない!そ・・・んな人など・・・俺は知らない・・・っ!!」
自分には関わりのない事だ、自分があの教会に毎年足を向けるのは、幼くして命を奪われた少年との約束があるからであり、その人に顔を見せる為ではないと受話器を握りしめて喉を絞るような声で伝えたウーヴェは、苦しそうに呼気の塊を吐き出すと同時に左足を抱え込むように引き上げ、靴の中できつく指を曲げて薬指に巻き付いているリザードの感触を今以上に感じ取ろうとする。
『そろそろ許してやって欲しいな』
それに、いつもはとりつく島もない声と調子だが、何だか久しぶりにお前自身の声を聞いた気がすると苦笑され、抱えた膝に額を押しつけて受話器に向かって叫んでしまう。
「うるさい・・・っ!!」
自分に一生消えない傷を、下ろすことの出来ない重荷を背負わせたあなたがそんな事を言うなと、悲鳴混じりの声で叫んで受話器を叩き付けたウーヴェは、久しぶりに出した大声に全身から力が抜けてデスクから滑り落ちた絨毯の上に座り込んでしまう。
自分があの山麓の村に2週間以上も滞在し、忌まわしい事件現場へと足を運んだのは、あの日々で唯一の救いとなっていた少年との約束を果たす為だけで、決して今電話で兄が告げた女性の墓に花を手向ける訳ではなかった。
例え最期の時にウーヴェを庇って命を落としたとしても、自分に深い傷を負わせた事に変わりはなく、到底許せる気持ちにはなれなかった。
兄の声から思い出さされた最後の夜と、満足そうな笑みを浮かべたその女性が自分の上で息絶えた光景が甦り、頭を抱え込んで立てた膝の間に上体を折り、乱れた呼吸を整えるように激しく肩を上下させる。
この数日で恋人に抱え込んだ過去の一端を話して晴れやかな気分で新たな朝を迎えたのに、また過去に囚われそうになっている事に気付き、それだけはイヤだと歯を噛みしめるが、信じてくれと真摯な顔で告げ傍にいると誓ってくれたリオンにも伝える事の出来ない真実があった。
それは、誘拐犯の一人がウーヴェの実の母であり、主犯格の女はその姉だという事実だった。
何の関係もないハシムと3人の男性の命を奪い、ウーヴェに消えることのない傷を残したのが実の母と伯母であるなど、どうしてリオンに伝える事が出来るだろうか。
しかも彼女達はそれぞれの恋人とともに、酒とドラッグを買う為の金が欲しいというただその理由からウーヴェを誘拐し、関係のない4人もの命を奪ったのだ。
金とドラッグの為に誘拐殺人という罪を犯した女の息子が自分だと言えるはずもなかった。
頭を抱え込んだまま次第に込み上げてくる可笑しさに肩を揺らして嗤いだしたウーヴェは、己の嘲笑と過去のそれが入り混じったような声に耳を傾け、やはり自分はまだあの夢のような時間にいるのだと思案し、次第に思考能力が奪われていく事に気付くが、それを止める手立ては無かった。
身体が徐々に傾いで行こうとしたその時、デスクに置いたコートからただ一人を示す軽快な映画音楽が流れ出し、身体の傾きが止まると同時に逆に動きを停止しかけていた脳味噌が一気に目覚めたような感覚に囚われ、眩暈を覚えてしまうのを何とか堪えて慌ててデスクに手を伸ばし、音の発生源である携帯を掴んで震える指で操作する。
「・・・リオン・・・っ」
『まだクリニックにいるのか?』
いつもならば陽気な声がハロと呼びかけてくるのに、さすがにウーヴェの様子がおかしいことに気付いたのか、まだそこにいるのかと鋭く問われて見えないのに頷くことで返事をしてしまう。
『んー、そうだなぁ・・・後20分、我慢できるか?』
「・・・平気だ・・・っ」
『そっか。あ、そうだ。お前のリザードはどうしてる?』
その言葉に足の指に巻き付いている冷たい身体を持つリザードを思い出し、靴の上から手を宛がってここにいると言えば安心したような気配が伝わってくる。
『な、20分以上遅れたらどうしようか?』
自分で20分だけ我慢しろと言い放った癖に突然そのような事を言われて瞬きをし、先程までの過去に引きずられていた気分を忘失したウーヴェは、そんな事を突然言われても困ると伝え、どうしようか答えてくれないと俺も困ると胸を張っていることを簡単に想像させる声で告げられて絶句する。
『な、どうする、オーヴェ』
「・・・どうすると言われても・・・」
『んー。オーヴェが決めてくれないなら俺が決めるかー』
仕方がないと言いながらどうしようかなーと、己を罰する為に何をするかを思案するリオンに呆気に取られるが、次第にその可笑しさに気付いたウーヴェの口から小さな、それでも間違える事のない笑い声が流れ出す。
『あー、笑うなよ、オーヴェっ。ひでぇっ』
「・・・お前がおかしな事を言うから・・・だろう?」
『えー、お前が決めてくれないから自分で決めるしかないじゃないか』
ブツブツとウーヴェが悪いと文句を垂れるリオンに謝罪をすれば、早く着いた時はキスで許しなさいとこれまた寛大さを装った本音が投げ掛けられ、それで許してくれるのならば光栄です、陛下と、ついウーヴェも冗談交じりに返してしまう。
『本当にそう思うか?』
「ああ」
本心からそう思っている、だから早く来てくれと、先程とは比べられない程穏やかな表情で目を閉じたウーヴェは、じゃあキスしてくれと携帯を宛がった耳と外の音を聞いている筈の耳から同じ言葉を聞き、勢い良く顔を振り向けて携帯を取り落としてしまう。
「早く着いたからキスな、オーヴェ」
「リオン・・・っ」
「うん。────はい」
片目を閉じて戯けた顔でキスをしろと言うリオンだったが、そっと差し出したのは己の左手で、無我夢中という言葉が相応しい様子でその手を掴んで引き寄せたウーヴェを逆に抱き寄せ、白い髪に口付ける。
「20分掛からなかったなんて偉いだろう?」
「・・・リオン、リオン・・・っ」
「うん。どうした、オーヴェ」
生まれて初めて言葉を話す子供のように辿々しく、自分が知っているのはそれだけだというようにリオンを呼んだウーヴェに根気よく付き合うように頷いていたリオンは、床に落ちている受話器の外れた電話機とデスクの上に散乱するコートだの何だのから何かあったのかと問い掛け、長い長い沈黙の後兄から電話があったと教えられて納得の溜息を吐く。
以前ならば冷酷な声で兄の話など聞きたくないと、八つ当たり気味にリオンに訴えたこともあるウーヴェだが、どうやら今日は気分が内ではなく外に向いていた様で、いつもは整然としているデスク周りは見事な程散乱していた。
「そっか。・・・大丈夫か?」
その言葉に頷かれて安堵の溜息を零し、ここを一緒に片付けようとこめかみにキスをして手を離そうとするが、逆にウーヴェにしがみつかれてしまって困惑気味に名を呼ぶ。
「オーヴェぇ」
「・・・うるさいっ」
過去から戻って来られた感謝の思いと、不意に湧き起こった情けない顔を見られた羞恥から顔を上げる事が出来ずにリオンの肩口に押し当てていたが、離れて行く気配を察して腕に力を込めて困惑する恋人をそっちのけに離れるなと言葉ではなく態度で示せば、我が侭の恥ずかしがり屋さんなんだからーと、暢気な声が落とされ、ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
「このまま帰ったら明日来たリアが驚くだろ?」
「・・・・・・駄目だ」
「陛下、その様な我が侭を仰有っても困りますっ」
「うるさいっ。私の言葉に逆らうな」
「ひーっ。お許し下さい、陛下っ!愛してますっ!!」
過去に怯えて涙を流した顔も恐怖に引き攣らせた顔も総てを見たのだ、今更恥ずかしがることはないと伝える為に戯けた風に陛下と言えば、リオンのそれに調子を合わせるようにウーヴェが尊大な声を挙げた為、リオンがどうあっても変わる事のない思いを言葉尻に混ぜ込んで言い放った時、やっとウーヴェがリオンから離れて顔を上げる。
「な、オーヴェ。愛してる。だからもう・・・」
一人で苦しむなと、今まで何度も伝えたがこれからも何度となく伝える事になるだろう言葉を告げ、小さく頷く頬を手で挟んだリオンは、薄く開く唇にそっと唇を重ねて予定よりも早く着いてしまった許しを請う。
「リオン・・・」
「腹減ったからさ、早く片付けてメシ食いに行こうぜ」
「・・・うん」
唇が離れた後、いつもの笑顔で早く片付けてしまおうと笑うリオンに素直に頷いたウーヴェは、それでもやはり離れてしまう事が何故か出来ず、差し出された左手をしっかりと握りながら転がっているメモ帳などを拾い集めていく。
手を繋いだことで可動範囲がどうしても狭くなってしまうが、それに不満を訴えることもなく二人揃っていつもの様に整然としたデスク周りに戻して戸締まりをし、クリニックを後にするのだが、地下駐車場に向かうエレベーターの中でもやはり手は繋いだままだった。
帰りにまだ開いていたスーパーで夕食と明日の朝食の材料を買い込んだ後、ウーヴェの家に向かうつもりだったリオンを苦笑混じりに制したウーヴェの言葉により、結局リオンの家に向かうことになった。
買ってきた物を適当に調理し、椅子とテーブルなど当然無い家でサイドテーブルをダイニングテーブルの代わりに食事をすることにしたが、いつもながら片付かない部屋にウーヴェが特に文句を言うこともなく、手早く作った-と言ってもソーセージを焼いてゼンメルに挟んだだけのサンドに二人揃ってかぶりつく。
いつも以上に食の細いウーヴェを心配そうに見つめたリオンだが、大丈夫だと髪を掻き上げられて額を撫でられて安堵し、食べ終わったらシャワーを浴びてから録画しておいたサッカーでも見ようと誘うが、どうやら今日はサッカーを見る気分ではないらしく、無言で頭を左右に振られてしまう。
食べ終えた後にリオンがシャワーを浴びようと笑えば、いつもならばああだこうだと理由を付けて一人で入れと言う癖に、今夜は一も二もなく頷いて先に入るぐらいだった。
そのいつもならば見られる事のない素直さから、クリニックに掛かってきた兄の電話がもたらしたものの大きさに気付いたリオンは、家と比べれば遙かに古くて今にも壊れそうなシャワーヘッドから出る湯を頭から浴びてぼうっとしているウーヴェの身体に手を回し、訝る声を挙げさせてしまう。
「どうした?」
「・・・身体、洗ってやる」
これもまたいつもの言葉だったが、やや躊躇った後大人しく頷くウーヴェの濡れた白い髪に口付け、首に浮かんでいる痣にも口を寄せてボディソープを手に取ると、ウーヴェに見えるように手の先から泡まみれにしていく。
今回ウーヴェの過去を知ってからこの痣のことを教えられたが、過去に繋がる事象を見聞きしたときにだけ浮かび上がると言うのならば、兄の存在はその過去に直結する事なのかも知れなかった。
そうでもなければ仲の良かった兄の声を聞くだけであのように取り乱してしまうとも思えないのだ。
兄と父との不仲の理由は教えて貰っていないが、もし二人がウーヴェの過去に何かしら絡んでいれば、兄の声を聞いてこの痣が浮かんだことも、また今までの冷たい貌で兄を拒絶していた事も納得出来た。
それを聞き出した方が良いのかどうか思案するが、また無理に聞き出して涙を流されるのはさすがに嫌だった為、いつか話してくれよなと目を細め、喉を取り巻く痣を泡で見えない様に洗っていく。
「あ、痣が消えたぜ、オーヴェ」
「・・・本当だな」
白い肌に泡を載せて洗っていったリオンが新発見だというように声を挙げれば、ウーヴェもまた初めて気付いたかのように目を細め、今度はお前の身体を洗ってやると同じようにソープを泡立てて身体を洗っていく。
「くすぐったい、オーヴェっ」
「ボディブラシが無いんだから仕方がない、諦めろ」
「あー、でもお前の手ホント気持ち良いから、我慢するっ」
洗ってくれているウーヴェの泡まみれに身体に腕を回し、狭いシャワーブースの中で限界まで身を寄せ合うが、泡を流す為に交互にシャワーを浴びたとき、曇っていて本来の役割の1割程度しか果たせていない鏡にウーヴェの胸元が映り込み、それを見た二人が同時に驚愕に目を瞠って顔を見合わせる。
「痣が・・・」
「本当に消えたなぁ。ほら、昨日も言っただろ、オーヴェ!」
やっぱりお前が俺を愛しているから、あんな痣などあっという間に消えたんだ。
自信満々に笑みを浮かべ、コツンと額をウーヴェのそれにぶつけたリオンは、不意に恋人の膝が崩れた事に気付いて慌てて腕を差し入れて身体を支える。
「おっと」
その自信はどこから来るんだと昨日は少し呆れ気味に問い掛けたが、どうやらその言葉は的を射ていた様で、ウーヴェの喉を取り巻いていた痣は僅かに痕を残す程度に薄れていた。
痣が心理的な理由から浮かび上がるのであれば、消える理由もまた心理的なものが大きく左右するのかも知れなかった。
ようやく思い至ったそれに驚きただ瞬きを繰り返し、支えてくれるリオンの腕に縋るように身を寄せたウーヴェは、メンタルクリニックのドクターをしているのに己のことになれば見抜けないのかと自嘲し、唇の端に音を立てたキスを受けて目を瞠る。
「家に帰ればレオもいるしお前の足にはリザードもいる。・・・今は俺もいる」
だからお前を過去に引きずろうとしている誰かがいたとしても、そんな奴らには負けませんと見えない何かに宣戦布告するように告げたリオンは、驚きに目を瞠るウーヴェににやりと唇の端を持ち上げ、だからお前も一緒に戦おうと、ただ護るだけの存在ではなく傍にいて時には背中を護る存在でいてくれと囁きかけ、薄く開く唇にキスをする。
「お前みたいに頭のいいヤツが背中を護ってくれたら俺はホントに嬉しいんだけどな」
「・・・・・・リーオ・・・っ」
「約束だ、オーヴェ。もし過去を思い出して辛くなっても・・・リザードもレオもいる事を思い出してくれ。もちろん、俺もいる」
この数日の間に何度告げたか分からない言葉を根気よく告げ、これまた何度目になるのか分からない誓いの言葉を告げたリオンは、一度目を閉じた後ゆっくりと瞼を持ち上げて目を細める恋人に同じく目を細め、己の言葉が心の奥深くに浸透したことに気付くと、その背中に腕を回してしっかりと抱きしめる。
「・・・うん」
腕の中から聞こえるくぐもったうんが嬉しくて、滑らかな背中を一撫でしたリオンは、そろそろ出ようとシャワーを止めてカーテンを開け、便器の蓋に無造作に置いてあったバスタオルでウーヴェの髪を乱雑に拭いていく。
「自分で出来るっ」
「大人しくしてなさーい」
ガシガシと痛みを感じるほどに髪を拭かれ身体を拭かれてバスタオルで身体を包まれたウーヴェは、自分はぞんざいにタオルで水滴を拭いていくだけのリオンを上目遣いに睨むが、文句を言おうと口を開き掛けた瞬間に抱え上げられて目を白黒させてしまう。
「!?」
二人揃ってウーヴェの家に戻ってきたその日、二人ともお互いから離れる事が出来ずにベッドに縺れ込むように潜り込み、喉が渇いたり生理的な欲求以外からベッドを降りる事は無かったが、息も絶え絶えになっていたウーヴェがベッドから出る時はリオンがこうして横抱きにしていた事を思い出し、下ろせと瞬時に真っ赤になって叫ぼうとしたウーヴェは、ぬっと顔を近付けられて頭を仰け反らせてしまう。
「暴れると落としてしまうぜ?」
ここはお前の家と違ってぼろぼろのアパートなのだ、お前が落ちれば階下の住人が文句を言いにやってくるぞとほくそ笑まれてしまって絶句するが、さすがに悔しい為にリオンの滴が垂れる前髪を思い切り引っ張ってやる。
「ぃて」
「うるさいっ!」
「前髪が抜けたらどうしてくれるんだよー」
「ふん」
羞恥と悔しさとが入り混じった鼻息で返事をしたウーヴェは、まるで荷物か何かのようにぽいっとベッドに投げ出されて不満の抗議をする為に身体を起こすが、難無く抑え込まれて眉を寄せる。
「────今日はあまり大きな声を出さないようにしてくれよ、オーヴェ」
隣近所にお前の声を聞かせたくないと囁かれ、ぞくりと背筋を震わせたウーヴェの首筋に顔を寄せたリオンは、すっかりと痣が消えたそこに小さな音を立ててキスをすると、バスタオルを勢い良く引っ剥がす。
当分セックスは禁止だと言ったとリオンを睨むが、昨日はガマンをしたときっぱりと言い放たれてしまえば何も言えず、リオンの身体を受け止めて広い背中に腕を回して目を閉じると予想外の優しい力で抱きしめられ、総てを委ねるように全身の力を抜くのだった。
夜明けには程遠い、まだまだ深夜とさえ言える早朝、そっとベッドに起き上がったウーヴェは、隣で気持ちよさそうに眠るリオンに目を細めて子供のような寝顔にキスをすると、あの日と同じようにベッドを抜け出して手早く着替えを済ませる。
眠っている恋人を起こさないように最大限に気を配りつつも、昨夜買ってきた物を冷蔵庫から取り出して手早く朝食の用意をすると、サンドとリオンの命とも言えるチーズをスライスしたものを何種類か、後は栄養面で気をつけて欲しいとの思いから小振のリンゴを皿に盛りつけた後、もう一度冷蔵庫にそれを戻すと、小さなシンクで顔を洗って身支度を調える。
可能ならばゆっくりと二人で朝食を食べたかったが、心の蟠りが解けた後の夜はさすがに声を堪えることが出来ず、リオンが困り果ててしまうような声を挙げてしまったのだ。
そんな濃厚な夜を越えた翌朝、もし万が一隣の住人と顔を合わせる事にでもなれば、ウーヴェは二度とこの家にやって来られないだろう。
ただその一心で早朝に朝食の支度をし終え、ベッドを振り返ってみればまだまだ恋人は夢の中にいるようで、コンフォーターが規則正しく上下していた。
あの日とは違う理由からそっと出て行こうとするが、その時になってようやく自分が今まで眼鏡をこの家に置きっぱなしにしていたことを思い出して苦笑し、目が悪いと言うよりは幼い己が立ち直る為の一つのツールだった眼鏡をこの家に残した時の心理状況をついつい癖で分析し始めてしまう。
恐怖から逃げ出すようにこの家を飛び出したものの本当は離れたくなど無かったのだと結論づけて苦笑を深くすると、今まで預かってくれてありがとうと礼を言って眼鏡を掛けるとベッドサイドに膝を着く。
ここを無言で出て行った日とは違う状況で同じ言葉を告げる為にそっと顔を寄せたウーヴェは、穏やかな寝息に笑みを浮かべて頬にキスをし、遅刻をするなよとその髪を何度も撫でる。
「・・・・・・オーヴェ・・・?」
「まだ寝ていても大丈夫だ。ちゃんと目覚ましを合わせてある」
睡魔に襲われたままの声に名を呼ばれて苦笑し、朝食の用意を冷蔵庫にしてある事を告げ、まだ寝ていろともう一度口を寄せたウーヴェは、伸ばされた腕が首に回されて抱き寄せられてしまって苦笑を深め、離してくれと裸の腕をつるりと撫でる。
「・・・帰るのかよ・・・」
「今日は朝一番で厄介な患者の診察がある。それに備えたい」
リオンの不満の声にしなやかな強さを持つ声で答え、仕事が終わればまた連絡をくれとも告げられてようやく腕を離したリオンは、眠い目を瞬かせながら頬杖をつく。
「オーヴェ」
「何だ?」
「うん。やっぱさ、お前にはガマンさせたくねぇ」
その言葉が意味する諸々のものに気付いたウーヴェがただ苦笑し、まだ寝ていろと前髪をくしゃくしゃに乱した後、掻き上げて姿を見せた額にキスを残して立ち上がる。
「今日も頑張ってこい、オーヴェ」
「ダンケ、リーオ。お前もな」
「ああ」
静かにドアを開けて出て行くウーヴェの背中を見送ったリオンは、すっかりと目覚めてしまった為にサイドテーブルから煙草とジッポーを取って火を付けると目覚めの紫煙を天井に向けて燻らせ、のそのそと起き上がって二重窓になっている窓枠に肘をついて暗い世界に浮かび上がるヘッドライトを見つめる。
三週間近く前はただ黙って見送るしか出来なかった恋人だが、今朝は当然そんな事は無く、ゆっくりと走り去るキャレラホワイトのスパイダーを見送ったリオンは、完全に車が見えなくなったと同時に大きく伸びをし、吸い殻が山となっている灰皿に煙草を押しつける。
もしかすると別々の道を歩むことになったかも知れない自分達だが、またこうして互いの背中を見送り、再会したときにはその背中を抱き合えるようになった事が嬉しくて、リオンにしてはかなり早い時間にも関わらずにベッドから抜け出してシャワーを浴び、恋人が用意してくれていた朝食を食べて今日も一日頑張るかと己の頬を気合いを入れるように叩くのだった。
リオンの家から自宅に戻ったウーヴェは、ベッドルームにあるバスルームへ向かい、昨夜の情交の痕と汗を綺麗さっぱり洗い流し、お気に入りのバスローブに身を包んでベッドに腰掛ける。
シャワーを浴びていた時にも見たが、昨夜二人でシャワーを浴びたときの様に首の痣は綺麗に消え去っていて、ホクロや傷が一つもない滑らかな素肌が甦っていた。
今日はリオンに告げたように朝一番で彼が最も苦手とする患者の診察があるのだが、やって来る患者に己の不安定な顔など当然見せられる筈がなく、気分の切り替えを計るように膝の間で手を組んで目を閉じ、額を軽く触れさせる。
意識を集中しているその時、左足の指に冷たい熱を感じ、ああ、自分は独りではないのだと改めて気付いたウーヴェは、リビングに鎮座する異様な大きさのテディベアと、そのテディと同じ毛色を持つ恋人の笑顔を思い浮かべ、この温もりがある間は大丈夫だと、もう一人きりになることはないとの確信を抱いてゆっくりと瞼を持ち上げる。
「────良し」
今日も一日出来る限りの事をして、不安を抱えてやって来る患者の一助が出来る様にしようとメンタルクリニックの若きドクターの顔で呟くと、クローゼットのドアを開けて着替え始める。
その頃には夏に比べれば遅くなった太陽が顔を出し始め、彼が身支度を終えた時にようやく完全に姿を見せる程だった。
お気に入りのカフェに寄って朝食を食べて行こうと決め、左足の指に巻き付くリザードとリビングで留守を守っているテディベアにそれぞれ心の中で行ってくる事を告げ、脳裏で満面の笑みを浮かべる恋人にも告げると、気分を切り替えるように眼鏡を掛けて家を出るのだった。
抱え込んでいた過去のしがらみが少し解れたウーヴェの心は、今朝の秋晴れの空のように澄み切っていた。
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