オリオン座の一角を担(にな)う、ペテルギウスが爆(は)ぜた。赤色巨星になった時から、決まっていたことだ。四十四億六千万年という幾星霜(いくせいそう)を駆けていれば、大抵の事には慣れる。早い者で二百七十万年、遅い者でも二千六百年に終わりがくる。星達の終焉(しゅうえん)を見届けながら、果てない宇宙空間を揺蕩うのも、また予定調和の一つ。それでも、寿命という名の終わりを迎えられる星に私怨(しえん)と哀悼から、月は一筋の滴を溢す。滴は何億光年もの月日をかけて、青く輝く星の渓谷に自生する、萎(しお)れた月見草の一つへと落ちた。涙を受け止めた花は、再び息づき、月の導かれるまま、形を変容させた。地面に近かった視点が、急速に高くなり、視覚に映る己の異形さは、花だった者を当惑させた。花弁だった部分から、黒く柔らかい毛が生い茂り、茎側面には、二対の枝が形成され、根だった部分からは、縦に割かれた枝が二本生えていた。
讃美歌(さんびか)に包まれていた渓谷が、一斉にいろめきたつ。変異してしまった者を見ては『あれはなんだ』と、互いに投げ掛け合う。同胞達の姦(かしま)しさに、寝ていた風が目を覚ます。先ほどまでは凪いでいた渓谷に、一陣の風が通り過ぎた。風は『人だ』と、分かったなら、静かにしろと言いたげに告げた。噂に聞く、人間だと知り、大層脅かせた。ここは断崖によって隠された禁足地(きんそくち)。故に、渓谷に居住を置くものは、実物の人間を見たことがない。同胞 (はらから)の一つが『人間とは如何様なものか』と放浪癖のある風へと尋ねた。教えてくれるまで、お喋りを続けそうだとして、風は二度寝を諦めて、自分が見聞き知る人間の事について話だした。
根が変化したものは、足と呼び、二本を交互に動かすことで、どこにでも歩いて行くことが出来る。茎の側面から生えたものは、手や腕といって、物を運んだりするときに使う。花弁だったものは、毛髪、頭髪、毛と様々な呼び方をし、人によって短長だったり、存在しなかったりする。また髪は黒だけに留まらず、黄金(こがね)色、白銀(しろがね)色、楊梅 (やまもも)色と、無数の色をもっていると、風は語ってみせた。
ーー人間とは、とにもかくにも面妖(めんよう)な生き物のようだ。
勝手の違いに、当初こそは戸惑いをみせたも、翌日には、順応していた。容姿こそ、人と寸分違(たが)わぬが、元は花だ。朝陽と気紛れな雲が溢す恵みを貰い受け、月光に促されるままに起床し、陽光に見守られながら眠りにつく。取り巻く環境も、渓谷内の完成した世界も、容貌が様変わりした部分さえ除けば、何の変哲もない。同胞達含め、これは稀にある、神の気紛れ珍事だとして片付けた。
いつものように月に向けて、讃美歌を歌っていた。そんな折、月夕 (げっせき)に導かれて、禁足地に人なるものが、足を踏み入れた。
形が酷似(こくじ)していたため、以前、風が語って聞かせた、人間だということは直ぐに分かった。個々によって、人は容姿が異なるとも言っていたが、なるほど、と頷けた。人なるものは、俺と形こそは似ていたが、全てが同じというわけではなかった。豊穣(ほうじょう)を具現化したような小麦の肌に、土と雪が入り混じったような髪に加えて、俺よりも視線が高かった。見比べてみれば、違いがはっきりと分かる。
「今晩は、花の妖精さん。俺は南雲梗平。君は?」
ーー花の妖精とはなんだ?君とは、俺の事だろうか?
大気を振るわせることで、会話する自分達にとって、風と同じように南雲が音を介したことで、渓谷中が騒然となった。風の噂には聞いていたが、目にする機会はなかったが故に、渓谷に群生するもの達にとって、音を発する南雲は、複雑怪奇(ふくざつかいき)そのもの。
「名前は?」
同胞達は『喋った』『これが声というものか』と騒ぎたてるなか、再び、南雲から声がかかる。どうやら、南雲は、俺の『名前』とやらを知りたいらしい。
ーー名前とはなんなんだろうか?
南雲が、風の姿を捉えられないのを良いことに、風は好き勝手に講釈を垂れ始めた。矢鱈と人は名前とやらをつけたがる。未知という、恐怖から逃れるために。名は決して一つというわけではなく、風、そよ風、突風など色々な名称で、我を呼ぶ。ほんに不思議なものよと、何が面白いのか、風は小枝を揺すり笑う。
「もしかして、名前がないのか?困ったな。声も出ないみたいだし、帰り道を聞きたかったんだけどな」
俺の顔をじっと見つめていた南雲は、指で頬をかきながら、眉毛で八の字を作ってみせた。
「文字は……書けそうにないか」
未だ、首を傾げる俺に何を思ったか、南雲が名前ついて語りだした。南雲曰く、この世に存在するもの全てに、名前がついており、概念という、目に映らない物にすら呼び名が存在する。名前がなければ、生活に支障をきたす。中には同色同型の物も存在するため、呼称がないと何れを指しているのか、互いに伝わらない。名があることで、共通認識が生まれ、意思の疎通が成り立つ、とのことだった。先ほど、風が俺に聞かせた話とは違っており、からかったなと、風を睨 (ね)め付けるも、旗色が悪いと悟るやいなや、風は嘯(うそぶ)く。
「名前がないと不便だろ。もし、嫌じゃなかったらさ、俺が君の名前をつけてもいい?」
南雲の説明を受けてもなお、名前とやらの必要性を感じなかったが、あった方が良いのならと、首を縦に振ってみせた。
「はなはだしく、華々しいという意味で、華太なんてどうだ?」
どうだと聞かれても、花である自分に、人の是非など分からない。何かを期待するような目で見てくる南雲に、応えなければいけいような気がして、先ほどと同じく、首を縦に振った。
「気に入ってくれて、良かった。よろしくな、華太」
風とは違った方法で、南雲は笑んでみせた。
名とは、不思議なものだ。利便性は感じられないも、名前を呼ばれると、何故だか、こそばゆくも、胸の辺りがほんのりと温かい。
それからというもの、空に月が昇る時のみ、南雲が訪れるようになった。
「絵本持ってきたぞ。今日は『幸福の王子』だ」
外の世界を知らない俺にとって、南雲の視覚を通してみた世界は、星々のような煌めきに満ちていた。
「エジプトに旅に出ようとしていた燕は……」
昨晩みた鳥と似ているが、違うと、指先でトントンと鳥の絵を叩く。南雲と違い、音を発することの出来ない俺は、考えを仕草で伝える術しかもたない。けれど、不便はない。音にならない言葉を、南雲が汲み取ってくれるから。
「これは燕といって、昨日の絵本に出てきた雀と、同じく鳥類に分類される仲間だ」
南雲は時々、華太の質問に答ながら、絵本の続きを読み聞かせた。
『幸福の王子』の話を聞き終えた華太は、何処が幸福なんだと憤る。自分が知る幸福と、王子の幸せは、かけ離れていた。助けた相手からも顧みられることはなく、最後は壊されるなんて、救いがないと。
「それでも王子は幸せだった。最期まで、燕が寄り添ってくれたからな」
羨ましそうに、どこか遠い目をした南雲が『王子は幸せものだ』と呟いた。南雲の言うことは、時折、華太にとって、不可解だ。どうやら、花であった自分と、人である南雲とでは、幸せの定義が違うようだと、この時は、種族による隔たりからくる齟齬(そご)だと、華太は片付けた。
今晩もまた、三日月を背負った南雲が訪れた。南雲の手には絵本はなく、代わりに甘い匂いのする包みが握られていた。
「今日はクッキー持ってきてみたんだが、食べれるか?」
南雲は、一枚摘まむとクッキーを口へと放りこむ。華太も真似をして齧る。サクッとした音が鳴り、口の中でほろりと淡雪のように溶けて、消えていく。雨と太陽と土しか知らなかった華太にとって、クッキーとの出会いは、まさに天地がひっくり返るほどに衝撃的だった。頬まで、雪のように解けてしまうのではないかと、慌てて手で確かめる。
「そんなに喜んで貰えたなら、持ってきた甲斐があるな。ほら、まだあるぞ」
楽しげに喉を鳴らしながら、南雲がクッキーを差し出すと、華太は躊躇(ためら)うことなく齧(かじ)りつく。クッキーが、溶けて無くなる前に、南雲の服を摘まみ、引っ張る。南雲は、包みから、また一つクッキーを取り出す。
「こら、華太。それは俺の指だから、美味しくないぞ」
夢中なあまり、南雲の指まで口へと納めてしまっていたようだ。口を開き、指を離す。もう少しで、南雲まで食べてしまうところだったと、頭と眉を下げた。
「怒ってないから、気にしなくていいよ。また今度持ってきてやるからな」
硬くも柔らかな手が、華太の頭を撫でる。
ーー気持ちいい。でも、なんだか、胸の辺りがが落ち着かねぇ。
南雲と過ごす内に、時々、華太の心が気まぐれに弾む。知識に明るくない華太は、自分がどんな状態にあるのか、理解する言葉をもたない。南雲に撫でられる度に、忙しくなく動く心に戸惑いつつも、手を伝う温めりに身を委ねる。
「時間だ。また明日な」
黎明(れいめい)が訪れるとともに、また南雲は帰っていく。今日という日が終わるのは、名残惜しいが、明日が待ち遠しいという相反した心持ちになる。代わり映えしない世界を知らなかった華太にとって、南雲という存在は、変化そのものだった。
新月でも、雲が月を悪戯に隠している訳でもないというのに、幾ら待ってども南雲が姿を現さない。空を見上げてみても月は晧晧(こうこう)としているのみ。
遅れているだけだ、待っていれば、その内来るだろうと、同胞達と久方ぶりに讃美歌を歌い、南雲を待つことにした。が、太陽と眠りにつく頃になっても、終 (つい)ぞ、南雲が姿をみせることはなかった。それどころか、この日を境に南雲は現れなくなった。
南雲は帰り道を思い出したのかもしれない。だから、もうここには来ないかもしれない。ならば、喜ばしことだとしながらも、心から華太は祝えなかった。
南雲が来る前に戻っただけだと、自分に言い聞かせてみるが、何故だか、凡庸(ぼんよう)でつまらないと感じてしまう。俺達の話を、そばだてていた同胞達も『南雲は来ないの?』『退屈で、今にも花弁を散らしてしまいそうだ』『つまらない』と不満を溢し、誰も讃美歌を歌おうとせず、代わりにため息の合唱を始めた。
そろそろ両手で数えきれなくなるほど、望月(もちづき)が巡ったころ、再び南雲が訪れた。久方ぶりに見る南雲は、様相が異なっていた。土気色を帯びた肌、赤黒く染まる胸。膝から崩れ落ちそうになる南雲の体を、腕で抱き止めるも、支えきれず、二人して、同胞達の上に倒れ込む。
「会いにこれなくて悪い」
ぐったりとした南雲の姿は、華太の心をこれ以上ないほどに、ざわめかせた。限られた知識しか持たない華太だが、弱った南雲の姿には見覚えがあった。花は終わりを迎えると、土へと返っていく。南雲は花と同じく、命の終りを迎えようとしていると、華太が理解した瞬間、胸が潰れるほどの痛哭(つうこく)と取り残される残される孤独に、いつかの夜、南雲が『王子は幸せだった』と、語った言葉の意味を、知った。
ーーそうか。そうだったのか。
現世に生を受けた瞬間、命を宿す者全てが死へと向いて歩む。短かったり、長かったり、与えられた時間に差はあれど、終わりは平等に設定されている。短き者は、円環(えんかん)へと戻り、転生の時を待つ。長き者は、しばし、帰り道を忘却(ぼうきゃく)してしまうことがある。一度道を外れてしまうと、帰るべきところに辿り着けず、居たところにも戻れず、泡沫になることも許されない。されど、如何なる存在だろうと終わりから逃れることは、調和が許可しない。故に、理を外れた者にも、消滅という終わりがある。が、それは恒久に等しき牢獄をさ迷ったのちに訪れる。今宵もまた、取り残される孤独に咽(むせ)ぶ、哀れな魂の一つが慟哭(どうこく)をあげた。常ならば、声は誰かに届くことはなく、刻が飲み込んでしまう。消えるはずだった嘆きは、永遠を生きるうちに、自分が何者だったのか、忘れてしまった神へと届いた。孤独を知る神は、道を忘れたならば、知る者が導けば良いと、瞬きほどの間 (ま)に、終わりを迎える花に『神の慈悲』を与えた。
「きょ、へ、い」
初めて発した声は、辿々しく耳障りで、頭の中で描く音に変換しようにも、舌がもつれ、もどかしい。それでも、伝えなければならない。俺の生まれた意味を。
「かえろ。かぶ、と、いっ、しょ」
南雲と、この日を迎えるために、俺は生まれたのだと。南雲の手をとる。伝えきれなかった部分を、補うために。血で染まった手に、頬を寄せて。
「声、初めて聞いた。そんな声してたんだな」
生への執着を手放し、死を受諾した南雲の顏は、どこまでも朗らかで、瞳は慈愛に満ちていた。
突如、臓腑(ぞうふ)にまで轟くほどの唸り声をあげながら、風がうねり狂う。風は猛々しく、花弁をもぎ取っていく。生きながら、引き裂かれる痛みに、同胞達は辛苦に満ちた悲鳴をあげた。渓谷中が、沸き立つほどの悲鳴にも、目をくれず、最期を迎え入れようとする、二人のことも歯牙にもかけず。風は全てを飲み込んだ。やがて、風は細く長く渦を巻きながら、天へと昇っていく。
時たま、風は癇癪(かんしゃく)を起こす。風とて、円環へと戻りたいのだ。されど、円環が滞ることなく、循環させる役目を担っている以上、役職を放棄することは、理が許さない。『ずるい』『孕 (はら)へと帰りたい』と、感情を剥き出しで、喚き散らす風を、積乱雲が受け止める。何も言わずに。年嵩(としだか)な雲は知っている。一時的なもので、嵐が過ぎ去れば元通りになることを。だから何も語らず、見守るだけに留めているのだ。
風だって、覆ることはないと知っている。それでも、己が内に巣くう声に、己だけでも心を傾けやらなければ、誰にも救って貰えないのだから、遣る瀬無いのだ。
内に秘めたものを吐き出しきって、漸く風は止んだ。取り込んだものも、全て吹き消して。嵐が過ぎ去り、渓谷が静けさを取り戻した頃には、毎夜、讃美歌を奏でていた者達も、最期の時を迎えた二人の姿も、もうどこにも残っていなかった。
侘びしい渓谷に残ったは、地面を山吹色に彩る絨毯と、ひっそり寄り添い咲く、青と茶色の二輪の花だけ。
おわり
あとがき
本編は『だ、である調』で書いてますが、あとがきは『です、ます調』で書かせていただきます。敬体の方が文書に柔らかみがあるのと、説明するときは、こちらの方が書きやすいので。
世界観が難しく、年齢の開きから、解説挟まないと理解しきれないと思うので、此方では説明いれておきます。pixivの方では、解説してません。
解説を入れてない理由としては、普段の小説と違って、今回は『読者の想像する余地を残す』という部分に重きをおいているからです。分かりやすくいえば『答えを言わない』ということ。小説における『読者の想像する余地を残す』ことを『ぼかし』といいます。文豪作品や一般文学は『ぼかし』を入れたものが、王道です。
何故、この『ぼかし』を残すのか。それは、ぼかすことで、読者には想像の余地が残り、物語の深みが一気に増すからです。1から10まで説明した場合(いつもはこっちが多い)、物語の全てを語りつくしてしまうため、作者が作り上げた面白さ以上のものしか残らず、読者の中で生み出される面白さが消えてしまいます。
だから敢えて『答えを書かない』ことで、読者は『華太は、あの時、こんなことを考えたかもしれない』『結局、二人はどこに行ってしまったのか?』と自由に考えることができ、より作品に没入して貰いやすくなります。
この手法で書く際は、どこまで説明を入れるか、描写する割合はどれくらいにするかを決める必要があり、説明不足だと『話がよく分からない』となってしまい、物語を楽しんで貰えません。だから、最低限の説明は必要となります。ただ割合は作者の裁量で決めるものなので、何割がマストですよという答えはありません。オリジナルや二次でもファンタジー話を書こうと思っているのであれば、参考にしていただけたら幸いです。
※世界観の説明(わざと描写してない部分と湾曲表現で説明している描写)
※この世界における月や風や雲は神様。
『孤独を生きる神様』と作中で、月は神様だと分かる描写がありますが、残り二つについては言及していませんが、風も雲も神様です。神様は円環、予定調和が乱れないよう、循環させる役目を担っています。風も雲にも寿命は存在します。風と雲の寿命は、地球が消滅するときに訪れるため、円環も同時に消失します。その為、風や雲は円環へと帰ることの出来ない存在です。
※円環とは
母体であり羊水。風の『孕へと帰りたい』というセリフが読者へ向けたヒントとなっており、腹ではなく、孕という漢字を使っているのもその為です。作中の『短き者は転生の時を待つ』という描写も同様で、意味が分かると、円環は母体ですよという、文書説明がなくても伝わるようになっています。
※風の『孕へと帰りたい』とは
『再び、母の子として生まれたい。母の元へ帰りたい』という願い。しかし、風は円環とともに消滅する身であるため、願いは叶わない。人間や動物や植物は何度も円環を巡り、時がくれば、再び生まれる出でる。だから『ずるい』という台詞へと繋がります。
※南雲は消滅仕掛かった魂
南雲は円環の理から外れ、長いこと、さ迷う内に記憶が欠けてしまい、自分が死んだことを忘れてしまった魂です。魂だったからこそ、禁足地である渓谷へとこれた。死んだら円環へと帰ると、この世の全ては魂にプログラムされています。南雲もプログラムに従い、円環へと帰ろとするのですが『帰り方』を忘れてしまい、帰れずに、孤独に耐えながら、消滅する時がくるまで、現世で帰り道を探し続けていた。
※月が出ている時にしか、南雲がこない訳と作中に『帰り道を聞きたかった』とあるのに『南雲は帰っていく』という矛盾した描写がある理由。
月が出ている時にしか『来ない』のではなく、正確には『来れない』。
消滅仕掛かった魂は、非常に不安定で一定の形に魂を保てないため、普段は空と同化してしまっていて、思考だけは残っている状態にある。月の魔力を借りることによって、南雲は生前の姿で顕現することが出来るようになった。『月夕に導かれて』『三日月を背負って』『新月、月が曇っているわけでもないというのに』という描写のみに留めているのは、読者が好きなように推測出来るように、あえて描写不足にしている部分です。
因みに長い間さ迷う内に、南雲は記憶の混乱が激しく、自分が死んだことも魂だけの存在であることも忘れてしまっています。
華太も南雲も帰ったと思っていたが、実際は月の力が弱まるにつれて、空と南雲が同化して見えなくなったからであり、華太は太陽と一緒に眠りにつくため、南雲を見送ったことはない。南雲は、空と同化したあとも思考は残るものの、直ぐに時の牢獄をさ迷っていた日々のことを思い出し、孤独から慟哭をあげるを、夜が来るまで繰り返す。月が昇るに連れて、思考は孤独から『今日は華太に絵本を読み聞かせてみようか』『美味しいものを食べさせてやりたい』とへと切り替わり、気付いた時には、渓谷の入り口に立っている状態から始まる。華太と過ごす内は、空に溶けていた時の孤独を薄れさせた。
※何で南雲が姿を現さなくなったのか
いよいよ消滅する頃合いが近づくにつれ、月の力を借りても、姿を保つことが出来なくなったから。この時になって、やっと南雲は自分が死んだことを、魂だけの存在だということも思い出した。最後にどうしても華太に会いたいと強く願ったことで、再び顕現することが出来たが、死んだ日を思い出したことで、死んだときの姿で顕現してしまった。ここも敢えて、描写してません。好きなように、推測して下さいというように、読者にお任せにしてます。
※円環へと帰る条件。
『帰り道』を知る以外にも、円環とは神聖なものであるため、業や穢れを持ったままでは、帰れないという条件が存在する。
長き者は帰れず、短き者は迷わず帰ることが出来る理由は『心残り』があるかないかです。
『孫の成長を見届けたい』『もっと色んな所を見て回りたい』『友達や家族と一緒にいたい』という想いが、業となり、現世に魂を縛りつけてしまうが故に、円環へ帰られなくしてしまう。更に、時が経つにつれて、帰り道まで忘れてしまうという負のスパイラル。
※南雲の業とは
『もう少し生きていたい』という、生き物としての、当たり前の願いが、南雲を現世に留めさせ、永遠に近い孤独を、魂として生きる羽目になった。
※何故、華太は花から人間に変化したのか
南雲が人であったから。花と人間の姿のままだと、想いを通わせられないから、神様は南雲と同じ姿へと、華太を作り替えた。
※華太は喋れない筈なのに、最後に喋ったという矛盾
人間に変化した時点で、華太は実は喋ることが出来た。華太は元は花だったため、変容したあとも同胞と、大気を震わせることで会話しており、声を出す必要がなかったので、自分は喋れないものだと思い込んでいた。言葉を発したことがなかったこともあり、発声の仕方も知らなかった。
また、元は花だという名残と、華太が最後まで話さなかったからこそ、ラストシーンが最大限の魅せ場に繋がるという、側面からの理由もあります。最初から、華太がペラペラ喋りまくってたら、ラストシーンで、感動は生まれない。
※南雲の姿をみて、何故、華太は残される孤独を知ったのか。
自分だけが取り残されてしまう事に気づいてしまったから。
華太も土に返ろうとしていた身であり、同胞を見送ったこともあったが、花の時には、終わりがきたら土に返るのが、自然の摂理として、何の疑いもなく受け入れていたため、そこに悲しみなどの感情は存在しなかった。
しかし、南雲と過ごす内に、華太の中に、花であった時には感じなかった『楽しい』『悲しい』『寂しい』などの感情が、種が芽吹くように生まれいった。
同胞と一纏めにしているが、華太とともに育った同胞は、土へと返っていく。来年、同じ場所に咲いた月見草は、華太が去年一緒に過ごしていた者たちとは別花であり、自分を知らない存在。花から人へと変容してしまったことで、華太は、いつ寿命がくるか分からない上に、南雲まで居なくなってしまったら、命の終わりがくるまで、孤独を生きていかなくてはならない。だからこそ『残される孤独』という描写に繋がっている。ここも具体的な心理描写を避けて、読者の想像任せにしいます。
※最後に残った二輪の花の意味
南雲は自分の死を受け入れたことで、円環に返る条件を満たものの、帰り道を知らないために、消滅してまうはずだった。消滅すれば、二度と転生することは出来ない。
花の一生は短い、故に『短き者』であり、華太は円環への帰り道を知っている存在で、華太に導いて貰えば、南雲も円環へと戻ることが可能となる。
しかし、それには華太側にも手離しが必要となってくる。南雲と過ごす内に、育ててしまった『新しい世界を知りたい』という気持ちを手離さないといけない。心を残したままでは、円環へと帰れないこと知っていた華太は、この先、孤独を生きるよりも、南雲と還る方を選んだ。
渓谷に残された二輪の花は、二人が手離した『生きたい』という思いの残滓(ざんし)。
ここも想像する余地として残してます。なので、この花をどう捉えるかで、物語の見方が変わってきます。
例えば、二人は花に生まれ変わったと考えていたとしても、間違いではありません。この場合、作者が作中で答えを提示していないのですから、読者が考えた答えが正解となります。その人の感じ方によって、終わりが異なるというだけですけども。
この作品において、読者に伝えたいテーマは『死とは救いであり、終わりでもあると同時に次なる始まりである』ということ。
死は恐怖の象徴でありながらも、救いの側面を持っています。終わりのない、孤独から救いあげてくれるのが死です。また死ぬことで、輪廻転生という円環を巡り、再び生を受ける。円環とは、丸い輪であり、一度巡り会えた人とは、転生を繰り返すうちに、どこかで会うようになっています。故に死んだら終わりではなく、次の始まりとなるわけです。
※作品における残された課題
物語として帰結することは大事ですが、少し綺麗にまとまり過ぎているのが、この作品の難点です。キャラ然り、小説とは対比。対比がないため、この世界観が持つ、最大限の美しさを表現するに至っていない。例えば、ゴミが散乱し、ゴミが一杯つまったゴミ箱の横に、塵一つ落ちておらず、ゴミ箱の中も空な状態なものが、隣にあったなら、前者の汚さは目を引き、反対に整えられた方の綺麗さが、より際立ってみえます。それなのに、対比になるものが、この小説にはありません。また現実世界との比較もないため、ファンタジーに寄りすぎており、浮世離れした世界観になってしまっているため、没入感を得にくい作風であり、描写不足の点が目立ちます。
文書のバランスの悪さ。
小説は、台詞のみで構成、地の文だけの構成は駄目です。双方をバランスよく、配置しなければいけませんが、冒頭部分は文書量が多く、詰まっているため、息苦しい感が否めません。
課題を克服し、手直しすれば、作品としての質が上がる可能性があるため、言うなれば作品としては完成してはいるけど、未完成な状態にあると言えます。
今の私が書ける精一杯がこれなので、いつか課題を克服して、この世界観の本来持つ筈だった魅力を最大限に引き出したものを書けたらと思っています。精進あるのみ(๑و•̀ω•́)و✧まあ、亀くらいの歩みなんですけどね。
今回、チャットノーベルではなく、何故ノーベル投稿なのか。
チャットノーベルだと、軽々しい印象の作品になってしまうからです。チャットノーベルは、華やかだし、誰が喋っているかアイコンがあるから分かやすく、見映えはいいですよ。でもね、幾ら見てくれは良くとも、作品の持つ世界観を壊してまうのでは、意味がありません。だから、今回はノーベル投稿にしてます。
たまに、夢小説はオリジナルに近いと言われる方がいますが、それは一からここまで世界観を作って話を書いたのならば、近いとも言えるでしょうけども、実際、あまりお見かけしません。ただ単にオリジナル夢主を捩じ込んでいるから、オリジナルに近いと主張しているように感じられます。腐だろうが、夢だろうが、もとの世界観から話を発展させている場合は、二次に毛が生えた程度で、多少設定を捻ろうが、オリジナルの域には届きません。世界観を一から作った場合は、キャラクターを借りてる点を除けば、オリジナルには近いとは思います。
せめて、一度ぐらいは、世界観を一から作る、苦労を知った上で、その言葉を言っていただきたいものですね(-∀-`; )
オリジナルを書こう、小説家になろうとするのは、別に構わないんですが、文才はなくとも、知識と多少の語彙力があれば、ある程度はカバー出来るというのに、調べもしないのは、如何なものかと存じます。
動画の『俺は小峠華太、武闘派極道だ』を、小説の冒頭に持ってくる人をみかけますが、あれは動画だから成立するのであって、これを小説の冒頭でやってしまうと、テンポ悪過ぎて、読者離れの原因に繋がるため、書き慣れている人はしません。というか、小説の冒頭でするなというわれるNG代表格の書き方です。
小説の冒頭部分は『面白さ』や『この先どうなるのか?』と言った、読者が読みたくなるような展開から始めるのがマストとされています。
例えば、急に殴りあいが始まったとしたら『何で二人は殴りあっているのか?』『原因は何か?』と続きが気になり、答えを知ろうとして、続きを読もうとなります。
ROM専の中にも、書いている人よりも、小説の書き方に精通している方がいらっしゃいます。冒頭で、キャラ説明や世界観の説明をしちゃうと、『こいつは、小説の書き方を知らない』として、敬遠されてしまうので、動画が、この始まり方で始まっているから、何となく真似してみましたで、やるのは推奨しません。
せめて、真似るのであれば、世界観を再現しようとしましたという理由であれ。
あと『睡蓮花』と『カルマ』を久々に聞いていたら、思い付いた世界観なので、興味あれば、そちらの歌も視聴していただければと思います。
以上。
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南雲の兄貴は【幸せ者】ですね😭 テラーでも出てて嬉しい😭