テラーノベル
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西陽が傾き、長い光が廊下から炊事場へと差し込んでいた。
夕餉の支度をしていた凪は、味噌を溶きながら鍋をかき混ぜる。
「おい、凪!」
いつもとは違う、どこかわくわくと弾んだ将臣の声が届いた。
呼ばれて振り返ると、将臣が結丸を抱いて立っていた。
腕の中の結丸は、すっかり元気を取り戻したように喉を鳴らしている。
「結丸が、ごはんを全部食べたぞ!」
どこか誇らしげな声音だった。
「まあ、それは良かったです。朝も食欲がなかったですから」
凪が微笑むと、将臣は結丸の頭を優しく撫でる。
「さっきも庭を走り回ったんだ。もう痛みも気にならないようだな」
「軟膏が効いたんですね」
「それもある」
将臣は頷いた。
「だが、一番はお前が丁寧に世話をしたからだろう」
思いがけない言葉に、凪は目を丸くした。
「いいえ。私は、お薬を作っただけですから。将臣様の診察あっての薬です」
「違う。結丸は、人を見ている」
将臣は結丸を見下ろし、小さく笑う。
「安心できる相手だから、素直に薬を塗らせたんだ」
結丸はその言葉が分かったかのように「にゃあ」と鳴き、凪へ身を乗り出した。
凪がそっと抱き上げると、胸元へ頬をすり寄せてくる。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
「将臣様は、本当に結丸がお好きなんですね」
そう言うと、将臣は少しだけ視線を逸らした。
「まあ、……猫は喋れぬからな。こちらが察してやらねば」
「え?」
「余計なことを言わないから、いい」
照れ隠しのようなぶっきらぼうな返事だった。
思わず凪は吹き出してしまう。
「……ふふっ」
鈴を転がすような笑い声につられるように、将臣の口元もわずかに綻ぶ。安藤家へ来たばかりの頃には決して見られなかった、心からの穏やかな笑みだった。
(なんて、心の優しい人なの)
戦場では冷徹な軍医という噂の人だった。
でも、家では結丸の食事を嬉しそうに報告しに来る人。
ぶっきらぼうなのに、不器用なくらい真っ直ぐな人。
知れば知るほど、この人には違う顔がある。
結丸の柔らかな毛並みを撫でながら、凪はそっと将臣を見つめた。
(もっと、この人のことを知りたい。
優しいところも、不器用なところも──全部)
その時、将臣がふと顔を上げた。
「……どうした?」
「いえ……」
凪は慌てて視線を逸らす。
胸の奥に生まれた、この温かな気持ちを言葉にすることはできなかった。
将臣もそれ以上は尋ねず、ただ静かに凪を見つめる。
二人の間を、西陽に照らされた穏やかな時間が流れていく。
凪の胸に芽生えた小さな熱は、静かに、けれど確実に膨らんでいた。
──しかし、二人はまだ知らなかった。
このささやかな安らぎを揺るがす『報せ』が、すぐそこまで迫っていることを。
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