テラーノベル
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酒の匂いは、もう自分の一部みたいになっていた。
店を出たあと、冷たい夜風に当たっても消えない、スーツに染みついた香水と煙草の匂い。
その奥にある甘ったるいアルコールの匂い。
昔は苦手だった。
今でも、好きではない。
グラスを持つ手が震えることもあるし、喉を通る瞬間に身体が拒否しているのが分かる。
でも。
「仕事だから」
そう言えば、だいたいのことは片付いた。
ホスト六年目。
新人みたいに勢いだけで勝負できる年齢でもなくなった。
後輩は増えたし、店の中で求められる役割も変わった。
俺はまだ上を目指している。
No.1になりたい。
そのためなら、多少の無理くらい。
――できると思っていた。
「ただいま」
静かな部屋に声を落とす。
返事はすぐには来なかった。
もう寝ているのかと思った瞬間、リビングから小さな足音が聞こえる。
「おかえり、湊」
晴だった。
髪は少し乱れていて、たぶんもう寝るだけの姿。それでも俺を見ると、いつものように穏やかに笑った。
「まだ起きてたの?」
「うん。待ってた」
「先生って意外と暇なん?」
「高校教師をなんだと思ってるの」
呆れた顔をしながら、晴はキッチンへ向かう。
鍋の蓋を開けると、白い湯気がふわっと広がった。
「今日、スープ作った」
「毎日作ってない?」
「湊がちゃんと食べてないから」
その言葉に、一瞬だけ胸が詰まった。
でも、すぐ笑う。
「食べてるって」
「そう?」
「食べてる食べてる」
嘘だった。
正確には、口には入れている。
仕事前に何かを胃に入れることもあるし、晴が作ってくれたものを少しだけ食べることもある。
でも、最近。
何を食べても、味が薄い。
美味しいと思えない。
昔は好きだった料理も、腹を満たすための作業になっていた。
「はい」
晴がスープを差し出す。
温かい。
手のひらに伝わる熱だけは、ちゃんと分かった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
晴は向かいに座る。
食べるところを見られている気がして、少し居心地が悪い。
でも晴は何も言わない。
無理して食べろとも言わない。
だから余計に苦しい。
優しくされると、自分が隠しているものが全部見えてしまいそうになる。
「今日、売上どうだった?」
「まあまあ」
「湊がまあまあって言う日は、だいたい良い日だよね」
「晴、俺のこと分かりすぎじゃない?」
「一緒に住んでるから」
当たり前みたいに言われて、少し笑った。
こういうところが好きだった。
晴は俺を責めない。
いつも隣にいて、俺が戻ってくる場所を作ってくれる。
だから。
余計に言えない。
仕事で酒を飲んで。
帰って。
吐いて。
また次の日も笑って出ていくこと。
晴が知らないと思っていること。
俺は完璧に隠せていると思っていた。
――この時は。
スープを飲み干せないまま、俺は箸を置いた。
「ごめん、眠いから先寝るわ」
「うん」
晴は笑った。
「おやすみ、湊」
「おやすみ」
寝室へ向かう。
背中に視線を感じた。
でも振り返らなかった。
その夜も。
俺はいつものようにトイレの水を流した。
音を消すために。
何もなかったことにするために。
リビングでは、まだスープの鍋が温められていた。
あき💫🌙

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藤森朔
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コメント
1件
第2話、じんわりと胸に来る回だった……。湊の「仕事だから」って自分に言い聞かせてる感じとか、晴の「おかえり」の温かさが逆に苦しくてさ。スープを飲み干せないまま寝るふりするところ、トイレの水を流す音を隠すところ、全部リアルで、読んでて息が詰まった。この二人の関係、すごく繊細で好きだわ。続きが気になる〜🔥