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夢汰🌩️

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湊は、僕が気づいていないと思っている。
たぶん、今も。
僕が眠っていると思っている時間。
玄関の鍵が回る音。
少し乱れた足音。
リビングの明かりが消える音。
そして。
トイレのドアが閉まる音。
全部、聞こえている。
同じ家に住んでいるのだから、当たり前のことだった。
壁一枚向こうの生活音。
蛇口をひねる音も、冷蔵庫を開ける音も、湊が帰ってきた瞬間の「ただいま」も。
僕は全部知っている。
だから、分かる。
あの音が何の音なのか。
したくて知らないふりをしているわけじゃない。
知らないふりをするしかない日があることを、僕は知っている。
昔の僕も、そうだったから。
*
高校生の頃。
僕は食事が怖かった。
食べたくない。
食べれば後悔する。
頭の中はそんなことでいっぱいだった。
周りから見れば、小さな変化だったと思う。
少し食べる量が減った。
少し笑わなくなった。
少し疲れやすくなった。
でも、自分の中ではどんどん大きくなっていった。
止めたいと思っていた。
でも止められなかった。
食べることも。
食べたものをなかったことにしようとすることも。
どちらも、自分で選んでいるようで、選べなくなっていた。
そんな時、唯一変わらずにいてくれた人がいた。
祖母だった。
何も聞かなかった。
何も責めなかった。
ただ、夜遅く帰った僕に、
「晴、お味噌汁あるよ」
と言った。
湯気の向こうで笑う顔を、今でも覚えている。
あの時の僕に必要だったのは、「ちゃんと食べなさい」という言葉じゃなかった。
帰ってきてもいい場所があることだった。
温かいものが、まだ自分のために用意されていることだった。
*
「湊」
朝、キッチンで声をかける。
「なに?」
湊は寝癖のついた髪のまま、振り返った。
昨日の夜のことなんて、何もなかったみたいな顔をしている。
いつもの湊だ。
明るくて。
よく笑って。
周りを元気にする人。
僕が好きになった人。
「今日、夜遅い?」
「んー、多分」
湊は冷蔵庫を覗きながら答える。
「またスープ作っとくよ。あとさ」
「なに?」
「無理しなくていいからね」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
湊の表情が止まった。
でもすぐに笑う。
「俺、晴に無理させてる?」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる」
湊は笑った。
優しい笑顔だった。
だからこそ、胸が痛くなる。
この人はきっと、誰かを安心させることばかり考えている。
ホストとして。
恋人として。
いつも誰かのために笑っている。
でも、自分のことは後回しにする。
昔の僕と、少し似ていると思った。
だから、怖かった。
どこまで壊れたら気づくのか。
どこまで我慢したら、自分を大事にできるようになるのか。
でも、僕には分かっている。
言葉だけでは届かない時がある。
「やめて」と言われても、やめられない時がある。
僕自身が、そうだったから。
だから今日も作る。
湊が帰ってきた時に飲めるように。
冷えた体を温められるように。
味が分からない日でも、少しだけ安心できるように。
鍋の中で、スープが静かに揺れる。
湯気が上がる。
その向こうに、昔の祖母の背中が見える気がした。
大丈夫。
まだ間に合う。
そう言ってくれている気がした。
夜。
玄関の鍵が開く。
僕は目を閉じたまま、耳を澄ます。
足音。
ドアの音。
そして、少し長い沈黙。
僕は布団の中で拳を握った。
聞こえている。
でも、今は行かない。
行けば、湊はきっと笑うから。
「大丈夫」
って言うから。
その言葉が、本当じゃないことを僕は知っている。
だから。
明日の朝も、味噌汁を作ろう。
夜の街を歩く人が、ちゃんと朝を迎えられるように。
コメント
1件
このエピソード、静かで深い優しさに泣きそうになりました。晴が湊の夜の音に気づいていて、でも「今は行かない」と距離を取る選択…祖母の「お味噌汁あるよ」という記憶が、そのまま湊へのスープになっている構造が美しい。言葉で「大丈夫」と言わせない、ただ温かいものを用意するという愛情の形が、二人の関係性を物語っていて切なくも温かいです。連載3話目、続きがすごく気になります。