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怖いんだ。あの家は、あの暗い部屋は。
思い出すと眠られなくなってしまう。未だに手が震える。
長い間閉じ込められて、存在を否定され続けて、ずっと浴びされ続けた彼を傷つける言葉。
怖い。
逃げ出した今も、あの家は恐ろしい。
ある日のことだった。いつも通り、主の側に付きながら執務をみんなで片付けている時間。
「ルスト、仕事だ。ウィルスタント家の当主から。面談予約が取られてる。」
「どんな要件だ?」
「騎士団の運用についての相談らしい。」
「わかった。予定組み込んでおいてくれ。」
「了解」
レンさんと主が話している声を聞く。
“ウィルスタント家”。その単語に息を呑んだ。
昔の記憶がフラッシュバックする。
あの頃の。
「セツ…?どうしたの、大丈夫?」
ユイさんが動きを止めてしまった俺に気付いて手を止めて覗き込んでくる。
「あー、すんません、まだ寝ぼけてました。」
「珍しいな、どうした、熱でも?」
主がそういい、レンさんが俺の額に手を当てて自分の体温と比べる。
レンさんの手、冷たくて気持ちいい。
「……結構熱いな。」
「いやいや、マジで大丈夫ですって。ここでバク宙出来るくらいには元気ですよ」
まずい、心配させた。
主が近づいてきてレンさんと同じ様に熱を図る。
「お前これ、熱あるだろ。お前の大丈夫は信用ならないからな。今日はもういいから休め。」
「って言われても」
「命令。」
「わかりました、すみません。」
「時間作って見に行くから。きちんと体休めろよ。明日になって大丈夫だったら動くことを許すからな」
「結構厳重じゃないですか?それ」
「文句言わない」
「はい」
彼らの前では笑いつつ、その裏で心臓が煩い。あの名を聞いてからずっと。
「それじゃお先に失礼します。明日には元気になって復活しますんで、寂しくしないでくださいよ!」
「お大事にね」
「お大事にな。」
「あったかくしろよ。」
「はーい、んじゃまた後ほど。」
「はぁーーー…。」
主がどこの出かもわからないような俺に多少の無理をして身分と共に用意してくれた部屋のベッドにダイブし、大きなため息をつく。
部屋は暗いままだ。
『ウィルスタント家が面談を。』
レンさんの言葉が頭の中で響く。
心臓が煩い。枕に顔を押し付けるように枕を抱え込み丸くなり、頭の上まで布団を被る。
『お前なんかいなければ。』
『誰からも必要とされてない存在なんだよ、お前は。わかる?ほら、お前のせいでお母さんは死んでしまった。でも僕だけは愛してあげる。存在を疎まれる君を、生まれてこなければよかった君を。』
『レン、ルイ。おいで。今日もお見舞いに来てくれてありがとうね、2人は優しいね』
『お前の。お前のせいで』
『お前がいたから』
『当然の報いだろう?』
頭の中で声がする。忘れたと思ったのに。
忘れたはずなのに。もう俺は、あの家に、囚われてなんか、ない、はずだって…
『――あぁ。まだ生きてたのか。』
「ヒュ…っ」
あの日の、アイツの言葉が蘇る。息が出来ない。
呼吸が浅い。
「ヒッ……ウェ…ッ」
気持ち悪い。抑えられない嗚咽が漏れる。
思い出したくもないあの頃の記憶が蘇っていく。
嘔吐が症状の風邪にかかった時だった。
汚い、気持ち悪いと。吐いて、なに汚しているんだと自身の吐瀉物が散らばった床に投げられ、蹴られる。
吐くな、と思ってもずっと気持ち悪い。身体が勝手に吐くものも無くなって尚胃液を吐いてしまう。
ずっと暗い部屋に閉じ込められて、邪魔な物だと扱われる。
――ダメだ、吐いちゃ。
「カハッ、グゥ……」
意思とは別に吐き気は収まらない。
気持ち悪い。
「ッ…」
吐き気を押し殺して目を瞑る。
『あのままあの家にいて。死んでればよかったのに。』
「_!!!ッ、ゥ…」
そこまでの思考に至って、無意識に自分の首を締める。
『レノ』がそう言う。『セツ』なんて、新しい名を持って。それで、幸せになれるとでも、思っているの?って。
__必要のない、人間のくせに。
喉に指が食い込む。苦しい。でもそれでいい。
カハッと、喉の奥で辛うじて息を紡ぐ音が聞こえる。
このまま、消えて。
「ルスト、レン。セツの様子見に行ってきてもいい?様子、おかしかった様に見えたから。」
セツが部屋に戻ってからほんの数分たった頃、ユイトがそう2人に聞く。
セツが出てから少し考え込み、顔を上げてからの言葉だった。
「ああ。頼む、ユイト。」
「ありがとう、行ってくる。」
返事を聞くなり執務室を飛び出す。
あの時のセツ、明らかに恐慌していた。
酷く何かを恐れている様な、何かがフラッシュバックしたそれ。
嫌な予感がした。
「ウィルスタント家、か?」
「恐らくそうだろうな。」
セツが退出し、ユイトがセツの様子を見に行き、レンと2人っきりになった執務室で言葉を交わす。
書類を見て、といった訳では無さそうだった。
なら、あの時話題に出ていたウィルスタント家の方だろう。
「どうする」
レンが問う。
「面談をしない、という選択肢は出せないからな」
国の事だ。とてもでない限り、断ることは許されない。
「セツを面談から外すか、外さないかはセツ次第だ。俺はアイツの意思を尊重したい」
「だな。」
目線を合わせる。何か大切な事を話す時の2人の癖だ。
セツと出会ってからもう半年は過ぎた。
今更他人のようになんて、思わない。
「さてと、2人が抜けた分もさっさと片付けるぞ」
「ああ。」
『レノ。』
「っは、」
悪夢を見た。夢の中で捨てた自分の名が呼ばれ、反射的に目を覚ます。出ないと蹴られる。意識のない状態で水を口に含まされて息を出来なくさせられる。
あぁ。確かそれで水を吐き出したらまた暴力だったな。
嫌な目覚めだ。いつの間に寝ていたのだろう。
眠い目を擦ろうとして気が付いた。手が温かい。
「…?」
体を起こして温もりを感じる右手を見ると、ユイトさんが俺の右手を握ったまま床に下半身を付けベッドに腕と頭を預ける形で寝ていた。
俺の中で彼らに対するスイッチが入る。
迷惑をかけちゃいけない。
「ユイさん…。ユイさん。こんなところで寝たら風邪引いちゃうよ。」
右手の温もりを感じながらユイさんに呼びかける。
「ユイさん。」
何故だろう、右手の温かさに泣きそうになる。
あの家に居場所なんてなかった。ずっと否定され続けて、あのままいたら確実に殺されてた。
あの家は表立って殺そうとはしてこなかったけれど生かそうともしてなかった。死んだらラッキー。そんな存在。
あの家とは違って。何度もあの家の事を、思い出して1人苦しんでたあの汚れ仕事を請け負ってた頃とも違って。
ここには求めてくれる人がいる。側にいてくれる。
「……あったかい…」
そんな事を呟く自分に呆れ果てる。
認めたくない。あの家はもう捨てた。もうあそこにはいない筈だった。自分でいていい、と言ってくれた人がいて、名前を捨てて『セツ』になれた気がしていた。
あの家の名前を聞いただけでこんなになるだなんて思わなかったんだ。
嫌いだ。
こんな自分が。昔も今も。逃げて耳を塞いで、そのくせ囚われ続けている自分が。
右手を外そうとして、ユイトさんの握っている指が頑なで外れなくて、右手はそのままに寝ているユイトさんを抱き上げる。自分のベッドに寝かせて掛け布団をかけてあげると繋いでいる指が少し緩まって手を外す。
カーテンの外を見ると少し暗くなっていた。
時計を見ると執務室を出てから2時間ほど。
結構寝ちゃったな。
椅子に座りながらユイトさんの寝顔を見つめる。
うろ覚えの記憶だけれど、意識の落ちる直前に首を締めていた手をそっと外したのはユイトさんだった気がする。
様子を見に来てくれて、そのまま寝落ちたのか。
(申し訳ないな)
これからどうしようか。俺もユイトさんも抜けて執務が大変そうだし、手伝いに行こうか。ユイトさんはこのまま寝かしていて大丈夫だろう。
「すぅーー……はぁー…」
1度深呼吸をする。
大丈夫だ。囚われてていい。『レノ・ウィルスタント』が捨てきれていなかろうと、それでも。
彼らの前では『セツ』でありたい。そう決めた。
最初はそのうちここからも離れて、またなんとなくで別の場所に行く気だった。今まで1つの場所に自ら留まったことなんてなかったから。わからなかった。
3ヶ月前、主の側にいる為の肩書きを貰うのを躊躇った。
それでもあの時の俺は確かに『此処』で、『セツ』として生きたいと願って、受け取ったんだ。
(わかってる、逃げてちゃダメだよな。)
わかってたんだ。逃げ出した日から、ずっと。
まだ俺はあの家に囚われてる。
『セツ』であるために。『俺』として、彼らの隣に立てるように、向き合わなければ。
(…………。)
手が震える。そう、決めることは怖いけれど。あの傷はきっといつまでも消えないけど。
それでも、前に進みたいから。
向き合うんだ。
「……セツ?」
目を瞑りもう一度深呼吸をすると名前を呼ばれる。
目を開けるとユイトさんが目を覚ましていた。
「もう、大丈夫?」
ベッドから出てくると俺の額に手を当てて熱を測る。
俺とユイトさん。身長差がほとんどなく、同じ位置にある綺麗な瞳がこちらの様子を伺う。
「ユイさん、ダメじゃないすか、あんな姿勢で寝たら。体痛いでしょ、大丈夫です?」
いつものように、『セツ』のように軽い口調でユイトさんに言う。『レノ』を見られた。まだ過去を捨てきれない、惨めな自分を。
心配なんかしないで。俺にそんな価値なんてないから。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
もう、いっそ__
「セツ。」
「…!」
まずい、また『レノ』に縛られていた。
ユイトさんの瞳を見ると何故か自然と落ち着く。
「………頑張ってみます。」
そう告げる。まだ、大丈夫とは言えない。ここまでになっておいてまだ大丈夫だって、囚われていないって自覚しないほど疎くはない。
今の自分はどのような表情をしているだろうか。
どんな表情だろうと、前を向いているだろうと思う。
逃げ出して、逃げ出した気になって、耳を塞いで。でも逃げ出せてなんて全然出来てなくて。
ようやく、向き合うことが出来たから。向き合って、あとは一歩を進むだけ。
進むから。頑張ってみるから。
「頑張れたら、また名前呼んでください、ユイさん。」
『セツ』として貴方達の隣に立てる日が来たらどうか、また名前を呼んで。
「……うん、わかった。待ってる。」
「ありがと、ユイト」
「…!」
ようやく笑えた気がした。『セツ』として。
まだ『レノ』に囚われているけれど。
『セツ』を演じた『レノ』じゃなくて。
『セツ』として。
「どうだ、体調は?」
主の部屋に全員が集まって談笑していたとき。
ふと主が俺に向かって聞いた。
「体調はもう大丈夫です、なに、心配とかしてくれちゃったり?」
「当たり前だろ。」
「おっと、主が珍しく素直だ」
冗談のつもりで言ったら、即答で返ってきたことに驚く。
「お前なぁ、さらりと居るもんだから見逃しそうになったじゃんか」
「いやー、それは光栄なことで」
「いや褒めてないて」
いつものように軽口を叩く。主相手だと面白いものが返ってくるから楽しい。
「それで。どうする?」
なにが、とは言わない。
「セツが望むなら留守番でもいいが。」
「行きますよ」
迷わない。
主の目をしっかりと見て言える。
「行かせてください。」
右膝をつき頭を下げる。
ウィルスタント家と繋がりがある自分が行くのは主達にとって不利が働く事かもしれない。
主達に全てを話しておらず、主達からすればどんなものかもわからない爆弾だ。連れて行かないに越したことはない。
それでも行かなければならないから。
「わかった。」
「…!」
「セツ。お前も来てもらう。」
顔をあげると主が満足そうに笑う。
そうだ、こういう人だ。この人のそんなところに惚れ込んだんだ。
もう一度頭を低くし、彼の直属騎士として一息に口にする。
この人の隣に立つ為に。
「ありがとうございます、主。」
「ルストはああ言ったけど。俺達にも立場があるから、一応聞いてもいいか?」
主の部屋を出て側近3人になった廊下でレンさんが口を開く。
主の安全を守るのがレンさんとユイトさんの役目だ。
勿論わかってる。
「ええ、なんでもどうぞ」
「助かる。」
信頼してもらえてるから、それに応えようと思う。
「単刀直入に聞くけど、お前が面談の場に出ることによってルストに何か害はあるか?」
「あー、一概に無いとは言えませんけど…でも何か危害が出たり主やお二人に傷がつけられるなんて事は無いです。あるとすれば捉えようによっては失礼な言葉が出てくるかもしれないくらいですかね。」
あの人たちの事だ。仮に俺に対して傷をつける事があっても主達に傷をつけるなんて馬鹿な事はしないだろう。主の直属騎士という立場を貰っている以上、捉え方によっては彼らの発する俺への侮辱は主も侮辱されると同意義になってしまうが。
「でも絶対に傷つけさせません。それだけは約束します。」
「わかった。」
心強い。認めて貰えてほっと息をついた。
「セツもな。」
「え?」
俺も?
「セツのことも、傷つけさせる気ないから。」
レンさんが優しく微笑みユイトさんが頷く。
「なんで…?」
何故かを考える前に困惑が勝った。レンさん達が主を守るのはわかる。
なんで俺がその対象に入るのだろう。
レンさんがどこか苦しそうに笑う。
なんでだろう。
「…わっ」
くしゃっとレンさんが俺の頭を乱暴に撫でた。
「なにするんすか、珍しい」
「いつかわかるようになるよ」
「…?ほんとにどうしたんすかレンさん、熱でもあります?」
「いや。」
本当にどうしたのだろう?
「じゃあ頑張れよ。持ってるから。」
ユイトさんから大体のことを聞いたのだろうか。
「はい。ありがとうございます。」
同行を許してくれて。信頼してくれて。
「それじゃ、おやすみなさい」
「あぁ。おやすみ」
ずっと黙ったまま2人の会話を聞いていたユイトさんがそっと俺に耳うつ。
「眠れなかったら、頼ってね」
「…!うん。ありがと。」
またあの悪夢を見たら。独りで耐えなくても。
「それじゃおやすみ。」
「おやすみなさい」
怖いんだ。あの家は、あの暗い部屋は。
思い出すと眠られなくなってしまう。未だに手が震える。
長い間閉じ込められて、存在を否定され続けて、ずっと浴びされ続けた彼を傷つける言葉。
怖い。
逃げ出した今も、あの家は恐ろしい。
それでも、彼らの隣に立ちたいと願うから。
自分を認めて、必要としてくれて。信頼してくれる彼らの隣に。
だから。
向き合うんだ。進みたいんだ。
もう__逃げない。