ブライデマンという意外な人物の来訪を受けたリオンはロスラーの調書を穴が開きそうなほど読み込んでいたが、写真を見て文字でロスラーが体験した光景を思い描くうちにここまで手酷く痛めつけたのはやはりジルベルトではないという結論に至ってしまう。
ジルベルトの性格は確かに暴力的だったがそれはあくまでも女性に向けられていて、男に対してここまで狂気的な暴行を加えるとは思えなかった。
二年前の事件でジルベルトが直接拷問を加えたのはゾフィーだけで、そのゾフィーをレイプしていた二人の男についてはまるで無駄なものを処分するかのような気軽さで射殺している風にすら感じていたのだ。
そして先程ヒンケルやブライデマンにも伝えたようにロスラーの傷の中から見つかった祈りの一節が書かれたメモの存在が、リオンの中で描かれるジルベルトという人物像からかけ離れているように思えるのだ。
己と同じ教会が運営している児童福祉施設で育った者同士の共感というよりはここで背中合わせに座りながら日々やるせない現実に向き合ってきたフィルターを通すと、やはり見えてくるのはジルベルトではない別の誰かの姿だった。
ロスラーの検死写真は見るに堪えないものだったがその傷の一つ一つが何かを教えてくれている気がし、吐き気を覚えそうな写真をじっと見つめる。
「どうした、リオン?」
「なーコニー、これってさ、恨みだと思うか?」
「は?」
リオンが考え込む姿が珍しいことから声をかけたコニーは見せられた写真がロスラーの遺体写真だったことから一瞬息を飲み、深呼吸をした後に恨みよりも拷問自体を楽しんでいる気がすると答える。
「そう思うか?」
「ああ。人の悲鳴を聞くのが好きな奴が起こした事件みたいだな」
ただ痛めつけるだけならばナイフで皮膚だけを切った後に火で焙ったりしないだろうと吐き気を抑えるために口元を手で押さえながら呟くと、周囲にいた仲間達もやってくるが、リオンの持つ写真を見た瞬間コニー同様の顔色になってしまう。
「これ、ロスラー?」
「ああ。……こんなひでぇ死に方しなきゃならねぇぐらい恨まれてたのかなーって」
いくら犯罪者であってもこんな無残な最期を迎えなければならないのかとやるせない溜息をついたリオンに、組織を裏切るとこうなるという見せしめの意味もあるだろうとコニーがようやく人心地ついた顔で呟き、確かに見せしめならここまでされてもおかしくはないと皆が一様に溜息をつく。
リオンの周りに集まって皆が話をしているとブライデマンとヒンケルが姿を見せ、仕事が終わればブライデマンと飲みに行くがどうすると部下の顔を見渡したため、リオンが行きたいが先にこれをウーヴェに見てもらうから遅れて合流すると答え、マクシミリアンとヴェルナーが行くと手を挙げる。
「コニーとダニエラはどうする?」
「私は無理です。もし警部がまだこちらにいらっしゃるのなら明日のランチをご一緒したいです」
紅一点のダニエラが今夜は先約があるから明日のランチはどうだと提案すると、自分と一緒に酒を飲みに行ってくれるだろうかと不安を覗かせていたブライデマンの顔に嬉しそうな色が浮かび、二度ほどしっかりと頷く。
「俺は少し調べ物をしたいので残念ですがパスします」
「分かった。もし時間があればいつも行くクナイペにいるから来い」
「Ja.」
二年前の事件当時ここにいる刑事達に当初は快く思われていなかったブライデマンだったが、事件が終わりを迎える頃にはその誤解も解消し、自分たちと同じ仕事熱心な刑事だということが分かった為に当初のような蟠りはなくなっていた。
だが、その確証が得られない不安をブライデマンが抱えていて今のそれぞれの一言で受け入れられていることに気付くが、リオンが発した一言が気になって肩越しに手元の写真を覗き込む。
「その写真をあの時のドクに見せるのか?」
「Ja.もう診察は終わってる頃だし……あ、今夜は飲みに行くって言ってたっけ」
今朝のウーヴェとの会話を思い出したリオンは飲みに行く前にさすがにこんな写真を見せるのも何だかなぁと肩を竦め、書類をデスクの引き出しにしまい込む。
「んー、思い出したら会いたくなったからオーヴェのクリニックに顔を出してから店に行きます」
「付き合いだしたばかりの高校生か、お前は」
「もう奥さんからキスしてもらえなくなったからって僻まなくても良いのにねー」
用事が無くなったのに顔を見たくなったから会いに行くと嘯くリオンに呆気に取られたブライデマンだったが、リオンの思考回路の突拍子も無さに慣れている-慣らされている-ヒンケルがティーンエイジャーかと笑うと、自分は奥さんにキスすらしてもらえなくなったからって僻まないで欲しいなぁと更に嘯かれてギロリと部下を睨み付ける。
「早く終わらないかなー」
リオンの鼻歌に呆れかえった面々だったが今日は何事も無く終われそうだと皆が胸を撫で下ろし、それぞれ帰宅の準備を始めるとコニーが先程のロスラーの検死報告書を見せてくれとリオンに声をかける。
「どうした?」
「いや、何か色々気になるから調べたい」
調べ物とはそのことだったのかとリオンが同僚の生真面目さに呆れそうになるがこの生真面目さが事件を解決へと何度も導いていることを思い出し、尊敬の念を抱きながら書類を差し出す。
「ジル、戻って来てるみたいだからな」
出来る事ならこの手で逮捕をしたい、いやその前にあの綺麗な顔を一発ぶん殴ってやりたいとリオンが掌に拳を打ち付けると、刑事が殴れば職権乱用で問題になるから止めておけと暢気な声がコニーの席から上がる。
「ちぇ。……じゃあコニー、後頼んだ」
「おー。あまりブライデマンを苛めるなよ」
「苛めねぇよ」
どちらかと言えば苛められるのは俺だと肩を竦め、一足先に帰り始めた同僚の後を追ってリオンも職場を後にする。
今日はウーヴェの帰りが遅くなることからリオンは年季の入った愛車で出勤したのだが、飲みに行くのならば自転車は置いて帰ろうと決め、店に向かって歩き出した面々にまた後でと手を挙げて皆とは別方向へと歩き出す。
ウーヴェのクリニックはリオンが勤務する警察署とは比較的近い場所にありクリニックが入居するアパート前の広場を横切るが、クリニックの窓はまだ明るくて診察室にウーヴェがいる事を教えてくれたため軽い足取りでアパートのドアを開ける。
クリニックが入居するフロアに辿り着き両開きのドアをいつものように見たリオンは、診察終了の札が掛かっていることに気付いてドアノブを握るがドアは難なく押し開いて中に招き入れてくれたため、リア、ボスの仕事はもう終わったのかと声をかけて待合室を見回すが人の気配を感じることが出来なかった。
「ん? リア? オーヴェ?」
待合室でウーヴェが何かをしていることはそれが彼自身の仕事が終わりを迎えた合図だったが、いつも座ってクロスワードをしているカウチにも口では何だかんだと言いながらもリオンが好きだからと言う理由でチョコを入れてくれている小さな冷蔵庫があるキッチンスペースにも人の気配を感じられなかった。
怒鳴られる覚悟で診察室のドアをノックするが返事は無く、そっとドアノブを握ると何の抵抗もなくドアが開いたことから恐る恐る今度は顔を突っ込んでみる。
「ハロ、オーヴェ……?」
いつものように声をかけて室内を見回すがウーヴェが考え事をするときに座っているお気に入りのチェアも、診察の時に座って患者と向かい合う今は書類が山積みになっているデスクも無人で、部屋に響くのはリオンの声と立てる物音だけだった。
デスクの書類の山の横、書き物を中断した時のようにウーヴェ愛用の万年筆がそのまま置かれてあり、メモ帳や付箋が用意されているだけではなく立ち上がった時のままと思われる形で椅子が横を向いていた。
それが不意にリオンの中の根深い感情を刺激したようで、自然と身体を震わせると同時に大声でウーヴェを呼ぶ。
「オーヴェ! どこだ!?」
幼い子どもの頃夜半に目覚めてしまい、一人きりであることに不安を抱いた時のように大声で何度もウーヴェを呼ぶがクリニックのどこからも返事は無く、リアはどうしたと思いながら診察室の開け放ったままのドアから待合室に出ると、コートを着た肩を激しく上下させる男に気付いて目を丸くする。
「あれ、アニキ?」
「お? ああ、リオンか。ウーヴェを見なかったか?」
肩で息を整えているのはウーヴェの大学時代の友人のカスパルで、今夜の飲み会について何度も電話をかけているが繋がらないしクリニックに電話を入れても誰も出ないと舌打ちをし、前髪を掻き上げながらウーヴェを見なかったかと再度問いかけると、リオンがブルゾンのポケットから携帯を取りだしてリダイヤルの一番上にある番号に電話をかける。
いつもならばコールが5回ほどで穏やかな声が返事をしてくれるのに今は10回を数えても無機質な呼び出し音が流れるだけだったため何かあったのかと呟くが、カスパルが診察室横の小部屋のドアを開けて中が無人であることを確認し、コートはないが通勤で使っているカバンがあること、車のキーと家の鍵がついたキーホルダーもあることを口早に告げた時にはリオンの直感が恐ろしい言葉を呟いていた。
「……誘拐された?」
その言葉は刑事ならではの言葉で、通常人がいなくなったときにまず考えるのはどこかに出かけているか自発的な失踪だろうが、ウーヴェの過去を総て知るリオンにとっては自発的な失踪よりもごく自然と誘拐という言葉が思い浮かんで口に出してしまう。
肉体も精神も成長途上の思春期をとうの昔に通り過ぎたウーヴェが子どものように突発的な理由から失踪するなど想像出来ない事だった。
それに、財布と携帯を持って行くことは当然としても、それよりも大切な家の鍵を置いたまま行方をくらませるのだろうか。
犯罪者が逃亡するときでもあるまいしと呟いた時何かが脳味噌の奥で強く光るが、それが何であるかを認識するより先に掻き消すことの出来ない不安がリオンの中で鎌首を擡げ始め、リアが普段腰を下ろしているデスクに手をついて前髪を強く握りしめる。
「オーヴェ……!」
その呟きが噛み締めた歯の間から零れ落ちた時、どれほど不安を感じていようが刑事としての感覚が捉えた物音-正確には気配-に気付き診察室から出てきたカスパルに向けて掌を立てて静かにしてくれと態度で示し、脱いだブルゾンを腕に巻き付けることで万が一の防護にしたリオンは、気配がしたトイレのドアを勢いよく開け放って眼下に広がる光景に絶句する。
そこには長く伸びていた髪を無残にも切り刻まれ、身につけていた衣類も髪と同じように切り裂かれただけではなく、左太ももに鈍く光るバタフライナイフを突き立てられてぐったりとしているリアがいたのだ。
「リア!!」
目の前の惨状がリオンの脳裏で二年前のあの事件を蘇らせてしまい、抑えることの出来ない震えが駆け抜けていく。
その震えが脳天を突き抜けた瞬間、リオンが弾かれたようにリアの傍に膝をつき配管と繋がれている手を自由にするために何か無いかと探るが、リアの足に突き立てられたナイフを抜こうとし、リオンの背後からそれを見たカスパルが鋭く大きな声でリオンを制止する。
「ダメだ、抜くな!」
「アニキ……?」
「ナイフを抜けば大量出血が起きるかも知れない。どこを刺されているのかを病院で調べるからそれまで絶対に抜くな!」
足に刺さったナイフを抜いた瞬間に栓が抜けるように血が噴き出す恐れがあり、そうなった場合、出血のショックで命の危機にさらされる恐れもあることを医者の立場から強い口調で伝えるカスパルを呆然と見上げたリオンだったが、スカーフの結び目が比較的緩かったことに気付き、そちらを解くことにしてようやくリアをパイプから解放してやる。
「リア……、リア、聞こえるか?」
太もも以外には下腹部がうっすらと赤くなっているだけで目立った外傷がないことに胸を撫で下ろしたリオンがリアの頬を優しく叩いて意識を取り戻させようとするが、その間にカスパルが救急車の手配と警察への通報を済ませ、最後に友人達にメールでウーヴェに連絡がつかなくなったこととリアが負傷していることを簡潔に伝え、今夜の飲み会は延期することも伝えて溜息をつくと、そんなカスパルの耳に微かな呻き声が聞こえた直後、悲鳴がトイレ中に響き渡る。
「イヤァアア! お願い……っ、やめて……っ!」
「リア! 俺だ、リオンだ! もう大丈夫だから落ち着いてくれ」
リオンの腕の中で必死に身を捩り意識を失う前まで経験していた恐怖から逃れようと悲鳴を上げるリアをぎゅっと抱きしめたリオンは、もう大丈夫だから落ち着いてくれとパニックを起こして過呼吸すら発症しそうなリアの細い身体を抱きしめる。
根気強く大丈夫と繰り返したおかげかリアの悲鳴が小さくなり、リオンなのかという疑問の声が上がったために顔が見えるように距離を取ると、己を介抱しているのがリオンであることを認識出来たのかリアの顔に安堵の色が浮かぶが、次の瞬間、まるで小さな子どものように大声を上げて泣き出してしまう。
「リオン、足が、……っ! ウーヴェが、ウーヴェが……!」
痛みを訴える声に混じってリオンとウーヴェの名を繰り返す彼女にリオンが目を瞠るが救急車のサイレンの音が徐々に大きくなってきたことからカスパルの通報によって救急隊員と制服警官が駆けつけてくれたことを知り、カウチに移動させるためにリアを抱き上げる。
「リア、もうすぐ救急隊が来る。もう大丈夫だからな」
リオンの肩越しにリアに声をかけたカスパルだったが何事かに気付いて慌ててコートを脱いだかと思うと、ナイフには極力触れないように気をつけつつリアの身体にコートを掛けてやる。
リオンの胸に顔を押し当てて恐怖を忘れたい一心で大声で泣き続けるリアの切られてしまった髪を撫で、もう大丈夫だと落ち着かせるようにカスパルが声をかけ続け、リオンがその細い身体をカウチソファに寝かせたとき、救急隊員と制服警官が駆け込んでくる。
「けが人はどこですか?」
「ここだ」
救急隊員にリアを指し示したカスパルは、駆けつけたのが顔見知りの隊員であることに気付いて手短に事情を説明すると先生がいてくれて良かったと安堵されるが、泣きじゃくる彼女から話を聞き出すことは不可能そうだと気付き、とにかくナイフの処置をするために病院に運ぶが彼女の家族に連絡をして欲しいと隊員がカスパルに指示をする。
駆けつけた制服警官はリオンも知っている男女で、どういうことだと問われてカスパルと同様手短に説明をするが、泣きながらもリアがいくつかの言葉を口にした瞬間、シャイセと吐き捨てる。
「リオン?」
「……リア、今の言葉、もう一度言ってくれないか」
救急隊員がリアを搬送する病院とやり取りしているのを聞きながらリアの横に膝をついたリオンは、二年前に世話になったとアポもなく見たことが無い男が入って来たとリアが泣きじゃくりながらも必死に教えてくれた言葉を脳裏に刻み込み、床を拳で一つ殴る。
「……ジルだ」
「?」
その呟きの重大さを知るものは誰もおらず誰の事だとカスパルが呟くがそれに対する返事はなく、リオンは皆の視線を集めながら携帯を取りだしてヒンケルに電話をかけ、クナイペの楽しそうな雰囲気をBGMにヒンケルが仕事中とは違う明るい声で返事をする。
『どうしたリオン。まだ来ないのか?』
「……ボス……ジルが現れました」
『何だと!?』
「リアが、フラウ・オルガがナイフで足を刺されています」
感情を抑えて淡々と語るリオンの横顔は刑事のもので、あまりの真剣さにカスパルも声をかけるのを憚るほどだったが、リオンの片手がリアの頭を優しく何度も撫でていることに軽く驚いてしまう。
『フラウ・オルガの容態は!?』
「太ももを刺されているだけで他に外傷は見当たりませんが結構な時間トイレに監禁されていたようで、今救急隊員の処置を受けています。それと……オーヴェの姿が見当たりません」
カバンと車や家の鍵があることからジルが連れて行ったかも知れませんと告げた時、リオンの肩が感情の波に大きく上下するが、深呼吸でそれを押し殺しつつヒンケルに早く来てくれと声を震わせる。
「……ボス!!」
『今から向かう。現場の保全、フラウ・オルガの容態の確認しておけ』
日頃どれほど悪態を吐こうとも刑事として尊敬しているヒンケルに助けを求めるように名を呼んだリオンだったが、聞こえてくる声がいつもと変わらない冷静なものだった事から己の感情の高ぶりに気付き、深呼吸を繰り返す。
『良いな、リオン』
「Ja. 分かりました」
ヒンケルの厳命に素直に頷いたリオンは通話を終えた携帯を尻ポケットに戻し、カスパルを見ると一つ溜息をつく。
「今からボスが来る……アニキ、良ければリアに付き添ってやってくれないか?」
自分も病院に行きたいがこれから捜査が始まる為に無理だと小さく頭を下げ、不安そうに見つめて来るリアの額にキスをすると、もう大丈夫、皆が来てくれるから大丈夫とリアよりも己に言い聞かせるように何度もその言葉を呟くのだった。
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