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欲しいものはない。
つい先日、月禎にそう答えたばかりだったのに、そういえばひとつだけ欲しいものがあったことを思い出した瑠菜である。
(……『指ラク・芯勝手にトガ〜ル』!)
それは、長時間書いても指が疲れにくいという、ちょっと高級なシャープペンシルの商品名だ。
税込で千円ちょっと。百均のシャーペンを愛用している瑠菜にとっては、なかなか勇気のいるお値段だった。
もちろん、今使っている百均製のものが壊れたわけではない。
ちゃんと芯も出るし、文字だって書ける。
ただ、長時間握っていると、どうにも指が疲れてしまうのだ。
「……いたた」
シャーペンを机に置き、凝り固まった指を一本ずつ揉みほぐす。右手中指のペンだこ部分が、くっきりと凹んでいてちょっぴり痛い。
瑠菜が目の前に広げているのは、高校の数学の参考書だった。
今日は朝の六時から、八時間のシフトだったので、十五時過ぎに帰宅した。洗濯物を取り込んで畳んだり、夕食を済ませてから勉強を始めたのだけれど、気が付けば随分時間が経っていた。
「わー、もう二三時過ぎてるっ」
時計を見て、瑠菜はいそいそと勉強道具を仕舞い始めた。
明日も六時からのシフトだ。まだお風呂にも入らないといけないのに、このままでは睡眠時間が足りなくなってしまう。
もっとも、こうして夜遅くまで勉強するのは、別に毎日のことではない。
早番の日は夕方から机に向かうこともあるし、休みの日には午前中から参考書を開いていることだってある。
その日のシフトや用事に合わせて、空いた時間に少しずつ。
それが、瑠菜の勉強の仕方だった。
高校へ進学しなかった瑠菜にとって、教科書や参考書は大切な宝物だ。
幼馴染が使い終えたものを譲ってくれたのが始まりで、それから少しずつ数を増やしてきた。
もちろん、新しいものを買うこともある。
ただ、参考書というのは案外高い。
欲しいと思ったものを片っ端から買っていたら、あっという間にお金がなくなってしまう。
(でも、今度のお給料が入ったら、一冊くらい……)
月禎さんには欲しいものはないと答えたけれど、案外あったなぁ……なんてことを考えながら、瑠菜は最後の一冊を本棚へ戻した。
「んーっ!」
両腕を頭上に伸ばすと、凝り固まっていた肩が少しだけほぐれた気がした。
長いこと机に向かっていたせいか、なんだか身体が重い。
(……ちょっとだけ、外の空気でも吸おうかな)
お風呂に入る前に、少し気分転換をしたい。
そう思って玄関へ向かい扉を開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫で、瑠菜はほっと息を吐いた。
瑠菜が暮らしているのは、エブリーハナザキ穂刈里店から歩いて数分のところにある、古い平屋の賃貸住宅だった。
二軒の家が壁一枚を隔てて繋がっている、いわゆる長屋のような造りである。
以前は祖父母と一緒に、店舗に併設された住居で暮らしていた。
けれど、仕事のシフトによって生活時間が不規則になるうえ、こうして夜遅くまで勉強することもある。
祖父母に気を遣わせるのが申し訳なくて、今はこちらで一人暮らしをしているのだ。
もちろん、祖父母のことが心配ではないわけではない。
だからこそ、何かあればすぐに駆けつけられる距離を選んだ。
そして、つい最近まで空き家だった隣の一軒には、今、月禎が住んでいる。
本社から研修に来るにあたり、会社が用意してくれた住まいなのだという。
ふと見たお隣は真っ暗だ。あるはずの車がないところをみると、まだ帰ってきていないらしい。
***
「今日も星がきれい」
民家がポツポツとしかないこの地域では、夜が暗くて星や月がよく見える。明日も晴れるかな? なんて思いながら夜空を見上げていたら、車のヘッドライトが瑠菜の身体を明るく照らした。
「眩しっ」
目を眇める瑠菜のすぐ近くに、見覚えのある車が停まる。
「……瑠菜?」
運転席から降りてきたのは、月禎だった。
「こんな時間にどうした?」
家の前に佇む瑠菜を見て、月禎が眉根を寄せる。
「出かけるなら車出すぞ?」
夜道の独り歩きは危ない、とお小言が始まりそうなのをスッと片手を上げて制すと、瑠菜はフルフルと首を横に振った。
「お帰りなさい、月禎さん。ちょっと勉強してたら疲れちゃって、外の空気を吸おうと思っただけです」
「勉強?」
「はい。学ぶの好きなので」
そう答えると、月禎は興味を引かれたように目を細めた。
「こんな時間まで?」
「気づいたら遅くなっちゃってて。明日も早いので、お風呂を済ませてから寝ようと思っていたところです」
「そうか。あまり無理するなよ」
「はい。……月禎さんは今お帰りですか?」
「ああ。仕事が終わってから食事をしてきた」
「また外食ですか?」
「昨日は弁当だったぞ」
「そういう意味じゃなくて!」
思わず言い返すと、月禎は何がおかしいのか、楽しそうに笑った。
「瑠菜は俺の食生活がそんなに気になるのか?」
「そりゃ、気になりますよ。毎日お弁当か外食ばっかりじゃ、栄養が偏っちゃいますもん」
「ふーん」
「……なんですか、その顔」
「いや。心配してくれてるんだなと思って」
「普通に心配しますよ!」
「俺だから?」
「誰が相手でも、です!」
「そうか。残念」
何が残念なのか。
瑠菜は呆れながら、月禎を見上げた。
コメント
2件
つきさだくんはルナちゃんに心配して欲しかったんだね🤣
うわ、瑠菜ちゃんのひたむきさに胸がぎゅってなった……! 夜遅くまで勉強して、指が痛くなるくらいペン握ってて、でも「欲しいものがない」って言っちゃう健気さがもう……。月禎さんとのやりとりも、からかい方と「残念」のニュアンスが絶妙で、この距離感すごく好きです。二人の日常がじんわり沁みますね🌙🤍