コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「――土は土に、灰は灰に、塵は塵に」
その言葉が厳かに参列者に告げられると、顔色は良くないものの表情はしっかりとしているマザー・カタリーナが穏やかな永遠の眠りに就いた娘のため、幼い頃に良く布団や毛布を掛けてやったときと同じ手付きで土を掛けて短いが真摯な祈りを捧げて一歩下がる。
その次に続くのはブラザー・アーベルで、彼も同じような神妙な面持ちで土を掛け、次いで仲の良かったシスターや教会の趣旨に賛同し手を貸してくれていた女性達が涙を堪えながら土を穴の中に掛けていく。
非業の死を遂げたゾフィーを神の元へと送る儀式である葬儀を執り行う日の朝は、短くも充実した人生を生ききった彼女を送るに相応しい晴天だった。
約一月近く世間を騒がしたシスターの葬儀ともなればマスコミが押しかけてくるかと予測されたが、今マスコミや世間が注目しているのが政治家と金に絡む事件で、ゴシップ誌ですら小さな記事を載せる程度だった。
事件の最中であれば決してこんな穏やかな晴れた日に彼女を送ることは出来なかったと墓地に向かう葬列の中でブラザー・アーベルが呟き、その周囲にいた人たちも頷いていたぐらいだった。
彼女が容疑者であり被害者にもなってしまったため、皆の元に帰ってくるのに思いも掛けない時間が必要になったが、皮肉なことにその時間を取った結果、こうして本当に彼女を理解し愛していた人たちだけに見送られることが出来るようになった。
一人ひとりが彼女との思い出を胸に抱き、感情に唇を震わせたり手を震わせながら土を被せ、教会関係者や児童福祉施設に戻りつつある子ども達が土を掛け終えた時、皆の視線が一斉にリオンに投げ掛けられるが、見つめられた方は無言で肩を竦めて教会の行事で世話になっていた人たちを先にと促す。
マザー・カタリーナがリオンの真意を読み取れずにブラザー・アーベルを見るが、アーベルも理由が分からないと首を小さく左右に振るだけだった。
マザー・カタリーナを除いた人たちの中で彼女が最も信頼し、情を置いていたリオンが他の参列者が土を掛けるのをじっと待っている横では、沈痛な表情を浮かべたウーヴェも立っていて、リオンが先を譲った理由をぼんやりと思案していたが、軽く手を引かれて顔を上げると、あとは己とリオンだけだと気付いて苦笑する。
「……リーオ、先に掛けろ」
「俺は最後で良いから先に掛けてやってくれねぇか?」
リオンに促されてやや躊躇いつつも土を手に取り、己が用意した向日葵に囲まれて眠っているゾフィーの安寧を思って土を掛けて短く祈ると、最後にリオンがその横にしゃがみこむ。
「悪ぃ。いつか約束したアネモネは用意出来なかったけど、それだけ向日葵があれば十分だよな」
一人で旅立ってしまうが向日葵に囲まれているから大丈夫だよな、そう呟いて土を掛けてウーヴェと一緒に立ち上がると、スラックスのポケットに手を突っ込んで晴れ渡る空を見上げるが、片手を伸ばして触れた温もりを指先で確かめると己の思いに気付いた優しい手がそっと引き寄せてくれる。
「空に行くのに土に埋めるって変な感じだよな」
「そうだな。神は……空にいるからな」
自らのためには決して祈らない上に死後の世界など存在しない、ひいては神などいないと断言するウーヴェだったが、さすがに持論を今この場で披露する程無神経では無いため、リオンの疑問に微苦笑しつつ答え、握った手を一度離して組み直すときゅっと小さな子どもが握ってくるような弱さで握り返される。
それが頼りなさを感じさせ、自分はここにいると視線で告げたウーヴェにリオンも青い瞳を細めてうんと返すと、葬儀を取り仕切っていた司祭がマザー・カタリーナに何かを囁き、頷いた彼女がお茶の用意が出来ているのでこの後彼女を思い出して語ろうと誘い、厳粛な式が終わった安堵に参列者の口々から溜息やら何やらがこぼれ落ち、皆がマザー・カタリーナに付き従って行くが、リオンはその場を動かなかった。
手を繋いでいるリオンが動かないためにウーヴェもじっとしていたが、参列者の姿が見えなくなり、墓地にウーヴェと二人きりになったのを確かめたリオンがその場に膝を着いて土を掛けられた棺に向けて笑いかける。
「ゾフィー、もうノーラと会って二人で笑ってんのか?」
非業の死を遂げた二人、旧交を温めながら地上を見下ろして笑っているんじゃないだろうなと声を掛けて笑っていても良いけれどこれから自分たちの行く末を見守ってくれとも伝えると、立ち上がって膝の土を払い、愛おしそうに見守っているウーヴェを見つめれば、繋いでいた手が離れた代わりに肩にしっかりと腕を回して抱き寄せてくれる。
「――あなたに約束したとおり、リオンは何があっても俺が護ります」
だからこれから先、共に歩んでいくつもりの自分たちを見守ってくれれば嬉しいと告げ、リオンの頭が傾いで肩に重みが掛かったのもしっかりと受け止めて頷いたウーヴェは、マザー・カタリーナが遠くで呼んでいる声に気付いてリオンを促し、ゾフィーが永遠に眠る墓を後にしようとするが、繋いでいた手を一度離して踵を返した後にしっかりと握り直した二人に、ケンカをしないで仲良くしなさい、いつまでもあたしは見守っているからと優しい声が投げ掛けられた気がして二人同時に背後を振り返る。
「……見守っていてくれよ、ゾフィー」
「……行こうか、リーオ」
これから先何があるか分からない自分たちだが、いつまでもこうして手を繋ぎ心も同じように繋げていようと囁き合い、戻ってこないリオンとウーヴェを心配して駆け寄ってくるマザー・カタリーナに手を挙げるのだった。
故人を偲んでお茶を飲み司祭からの真面目な話は聞き流し、それに対して説教を受ける和やかな時間が終わり、一人また一人と帰っていった児童福祉施設は静まりかえっていたが、戻って来た子ども達がシスターらに喉が渇いただのお腹がすいただのと告げる声が部屋に届き、マザー・カタリーナが微笑ましそうに目を細めながら目の前の二人にこの後どうするのですかと問いかける。
「あー、そう言えば腹減ってきたっけ」
「そうだな……マザーはどうなさるのですか?」
三人がいるのは主を亡くした部屋で、今日から少しずつゾフィーの遺品を整理していくつもりだと返されて頷いたウーヴェは、事件解決に向けて大きなヒントとなった彼女の手帳は返却して貰えるように弁護士を通じて働きかけるが、もしも重要な証拠の為にそれが叶わないのならば手帳カバーだけでも返して貰えるように頼むと告げると、リオンがダンケと呟いてウーヴェの手を取る。
「マザー、俺とゾフィーが一緒に写ってる写真ってあるか?」
「え? ええ、探せばありますよ」
あなた達はここにいる時はいつも一緒にいましたからと遠い昔を懐かしむ顔で微笑む彼女に頷き、その写真を欲しいと伝えてウーヴェにも許可を求めたリオンは、リビングの暖炉の上の一角に飾りたいと告げて頷かれて小さく笑みを浮かべる。
「そうしようか」
「ダンケ、オーヴェ」
ゾフィーが生きていた頃、ウーヴェとゾフィーが顔を合わせることは滅多になく、あったとしてもリオンが望んでいるような仲の良さを見ることは無かったが、彼女が最早思い出の中にのみ生きることになった今は彼女に対する思いも昇華されていて、リオンと一緒の写真や前言通り葬儀に参列しなかったカイン達も一緒の写真も飾ろうと提案されて笑みを深くする。
「ゾフィーのロザリオさ、ばらばらになっちまったけど、あれ、返して貰ったら修理できるか、マザー?」
「ええ。あのロザリオを作ったのはわたくしですからね」
ちゃんとあの子が愛用していた頃の姿に戻してあげますと断言されて頷いたリオンは、そう言えば今回の事件の発端もゾフィーが作ったロザリオだったと思い出し、二人の少女は祖国に帰ったのだろうかと呟くが、そこまでは自分が気にすることではないかもしれないと苦笑する。
「マザー、写真探して持って帰るぜ」
「ええ。ああ、そう言えばカインから花輪とカードが届いていました」
葬儀には参列しない代わりに、花輪とカードと毎月の命日に供える花を買う為のお金を持ってきてくれましたと、不器用ながらも己の思いを行動で示す赤毛の息子を自慢するように頷いたマザー・カタリーナは、カードと呟いて何かを思い出したように顔を上げ、二人に少し待っていて下さいと言い残して部屋を出て行く。
「どうしたんだ?」
「どうしたんだろうな?」
彼女が慌ただしく出て行くのを見送り同じように慌ただしく戻って来るのを出迎えた二人だったが、差し出されたカードに瞬きを繰り返し、何だこれと声を挙げる。
「ええ。昨日遅くに名前を告げずにカードとお花を持って来て下さった方がいたのですが……」
確かにあの子は地獄に落ちても仕方がない様な罪を犯しましたが、もうクランプスが迎えに来たのでしょうかと心底悲しそうな顔で呟かれてリオンが素っ頓狂な声を発する。
「何だそりゃ?」
「ええ、このカードが……」
差し出されたカードは葬儀に送るものとしては有り触れた一般的なもので文面もごくごく平凡なものだったが、最後に記された自筆のサインが一般的なものを裏切っていた。
「クランプスと愉快な仲間達ぃ!?」
リオンの声に驚いたウーヴェが手元を覗き込んで言葉通りのサインがあるのを見つけ何かに気付いて目を瞠った後、リオンと顔を見合わせて次第にこみ上げてくる笑いを堪える為に口を左右に引くが、堪えきれずに小さく吹き出してしまう。
「ウーヴェ? どうしたのです?」
「マザー、安心して良いぜ。これ、ボスからだ」
「え?」
不安そうなマザー・カタリーナにリオンが何とも言えない顔で前髪を掻き上げ、本当にあの人達はと呟いてカードをマザー・カタリーナに返すと、ボスと刑事仲間達がカードと花を贈ってくれたと伝えれば彼女の目がみるみるうちに見開かれていく。
「そうなのですか……?」
「うん。花とカードは受け取れないって言ったんだけどな」
その話をした時の上司の顔を思い出し、納得出来なかったから自分がいない時に花とカードを持って来てくれたのだろうと呟くと、ウーヴェが本当に理解のある優しい上司や仲間達だなとリオンの仕事の人間関係を総て認めるように頷く。
「うん……みんな優しいな」
「そうなのですね……。リオン、皆さんにお礼を言って下さいますか?」
「ああ。ちゃんと礼を言っておく」
犯罪者であろうとも部下や同僚の姉に悔やみの言葉を伝えられる優しい人達の顔を思い浮かべ、仕事に復帰したらちゃんと伝えると頷いたリオンは、少し躊躇ったような後、マザー・カタリーナを呼んでその顔を見つめつつウーヴェの手を握って力を分けて貰う。
「マザー、俺、引っ越すから」
「え?」
「うん。オーヴェの家で一緒に住むことになった」
今はまだ落ち着かないしアパートの更新の関係もあるから月が変われば引っ越しをする、だからこれからはあのアパートではなくオーヴェの家が俺の家になるとも告げると、彼女の顔に安堵の笑みが広がり何度も何度も頷いてその決断を認めてくれる。
「ええ、ええ。分かりました。これからは二人で一緒に住むのですね」
「うん。……オーヴェが一緒に住もうって……」
言ってくれたから、その言葉を口の中で転がしたリオンに苦笑したウーヴェは、マザー・カタリーナの信頼の視線を受けて目を伏せるが、先程ゾフィーにも誓ったようにこれからは楽しいことも嬉しい事も、そしてあまり経験したくはないが避けられない悲しい事が起きても二人繋いだ手を離さずに一緒にいますと穏やかな強さで誓うとリオンが軽く息を飲む音が聞こえ、マザー・カタリーナもそっと目を閉じる。
「…………いずれは俺たちを心配してくれる人達を安心させられればと思ってます」
その言葉をウーヴェが告げると同時にマザー・カタリーナとリオンが顔を見合わせ、次いで緊張らしさを一切感じさせない穏やかな顔で頷くウーヴェを見つめ、異口同音にもしかしてと呟いた為、リオンと繋いでいる手に力を込めた後にその通りだと頷く。
「いずれはリオンと家族になりたい、そう思っています」
「……っ!」
今はまだ様々な条件が整っていない為に急いで事を行えば種々様々な問題が壁になって自分たちの前に立ちはだかるだろうが、その壁も二人ならばいずれ乗り越えられること、そうなる為には周到な準備が必要だから今はまず応援してくれる人達を安心させる為の暮らしを一緒に送ると気負うでもなく告げたウーヴェは、息を飲んだ後に微かに涙を浮かべて頷くマザー・カタリーナをそっと抱きしめる。
「俺の家はあなたの息子の家にもなります。だから近くに来た時などは是非遊びに来て下さい」
前もって教えて貰えれば食事を一緒にすることも出来ます、泊まって頂くことも出来ますと告げたウーヴェは、腕の中で小さく震えながらありがとうございますと繰り返すマザー・カタリーナに頷き、彼女の手を取って労るように手を撫でる。
「引っ越しはまだ少し先になりますが、その時は連絡します」
「ええ、ええ……お願いしますね、ウーヴェ。……リオン」
「………………ぅ、ん」
「あなたがずっと欲しかった家族が出来るのですね」
涙を拭いたマザー・カタリーナが泣き笑いの顔で息子を見ると表情が薄くなっていることに気付き、ああ、この子も驚いているんだと察すると同時に手を伸ばしてリオンを抱きしめる。
「おめでとう、リオン。ウーヴェと仲良くするのですよ」
「…………うん」
母の優しい言葉に一度拳を握りしめたリオンだが、その手を広げて母の背中をぎゅっと抱きしめた後、安心させるように頬にキスをしてはにかんだような笑みを浮かべる。
「ダンケ、マザー。引っ越しする時は連絡するな」
「ええ」
マザー・カタリーナから手を離したリオンの手がウーヴェの手に触れ、そのまましっかりと重なったのを見守っていた彼女は、いつも密かに望んでいた自分自身の家族を手に入れることが約束されたリオンの顔にまた涙が溢れ出すが、何とかそれを堪えて笑みを浮かべ、今日は帰ることを告げる二人に頷いて部屋を出て行く背中が見えなくなるまでその場に立っているが、背中が見えなくなり声が聞こえなくなると安堵の為に身体から力が抜けてしまい、ゾフィーが使っていたベッドに蹌踉けるように腰を下ろす。
「ゾフィー……リオンがウーヴェといずれ家族になるようですよ」
いつの頃からかリオンがずっと願いあなたも密かに願っていた自らの家族、ようやくそれを手に入れることが出来るのだと呟いてシーツを撫でると、ヘル・バルツァーならば安心して任せられると何処かから声が聞こえ、顔を上げて室内を見回すがその声は己の裡から響いたものだと気付いて苦笑する。
「そうですね。彼なら安心して任せられますね」
幼い頃、一人にされることを何よりも嫌い、自分たちの前では感情の総てを顕さなかったリオンだが、ウーヴェの前では総てをさらけ出しているようだと笑い、その日が早く来ることを祈っていますと呟いて祈りを捧げた時、開いているドアからブラザー・アーベルが顔を出す。
「マザー、子ども達がお腹を空かせているようです。食事にしませんか?」
「ええ、そうですね。そうしましょうか」
生きている私たちは食べなければならないのだから、そう笑って立ち上がった彼女は窓の外に広がる青い空に娘の笑顔を思い描き、そちらで再会するまでわたくし達を見守っていて下さいねと目を細めるのだった。
いずれ家族になりたい。
その言葉はリオンが幼い頃から口には出さないものの密かに願い続けていたもので、それが己をもっとも理解してくれる男から聞かされた事実に顔が上がらなくなる。
言葉が持つ意味とその意味に秘められた己の思いすら読み取ってくれる人の感情の機微に敏感な恋人は、その思いを伝えるだけではなく己の言葉を現実のものとする為の努力を惜しまないこと、夢の実現にとって最短の道が遠回りになるものであってもそちらを選ぶ勇気を持っていることを改めて気付き、声に出して名を呼べばシフトレバーに乗っていた手が静かに移動し、俯いている頭にぽんと載せられる。
「どうした、リーオ」
「…………オーヴェ、さっきの言葉……」
「ああ。嘘じゃない。信じてくれ」
自分自身突然すぎて驚いているが、あの言葉に一切の嘘はなく、いつか伝えようと考えていたものだと伝えたウーヴェは、己の手の下で頭が揺れてそれが声にも伝わったかのように震える声が名を呼んでくる。
「オーヴェ……っ」
声が震える理由が分からずに小さく溜息を吐いたウーヴェが車の流れを読んで安全な場所に停止すると、俯く金髪を撫でて頭の形をなぞるように手を滑らせていく。
「リーオ。信じられないか?」
俺の言葉が信じられないか、そう苦笑混じりに問いかけるウーヴェにリオンが頭を振り、違うと震えたままの声で否定をし、ならばどうしたんだという次に来る問いを予測したようにリオンが顔を向けると疑っていないが言葉の意味を考えると胸が苦しくなると答える。
子どものような性格と称されることのあるリオンは、子どもが己の感情のままに全身で思いを伝えていると思われている節もあった。
だが現実は当然ながらいい年をした男が子どものように我が儘を言えるはずもなく、また幼い頃からマザー・カタリーナやゾフィーらが悲しむことを言ってはいけないという思い込みから密かに本心を押し殺していたリオンの本音を垣間見、ウーヴェが安心させるように頷いて頬を撫でる。
「じゃあその苦しいのを無くそうか」
「……無くせるのか?」
「ああ。だから家に帰ろう」
これから共に過ごすと決めたあの家に帰ろうと笑い、頷く金髪に胸を撫で下ろしたウーヴェが再度スパイダーを走らせ、自宅アパートの駐車場に車を止めると、何だか久しぶりにここに来た気がするとリオンが笑う。
「そうだな」
こうして二人で駐車場からエレベーターに乗るのも久しぶりだが、これからは当然になるんだと笑うウーヴェにリオンが頷くがその表情は心ここにあらずで、密かにウーヴェがリオンの心の在処を探って不安を感じるものの無意識に伸ばされた手がウーヴェの手をしっかりと繋いでいる為、ただ戸惑っているか羞恥を感じているかだろうと決め、自宅フロアに辿り着いてただ一つ存在するドアを開けてリオンを招き入れれば、上下左右と見慣れたはずの空間を見回して小さく溜息をつく。
「リオン、スーツをクリーニングに出すから着替えよう」
「あー、うん……」
廊下の壁に手を付き歩く速さで壁を撫で、ドアノブにも触れてまた壁を撫でていくリオンに首を傾げたウーヴェだが、左はキッチンへ続く廊下、右はベッドルームのドアがある位置に来るとベッドルームのドアを開けてその場で足を止める。
「どうしたんだ?」
「や、う、ん、……バルコニーがある家が夢だったって言ったけどさ……」
まさかこんな立派な家に住めるとは思わなかったと呟きハッと我に返ったように口を閉ざしたリオンの背中をぽんと叩いたウーヴェは、まだ引っ越しをしていないし何の手続きもしていないがここはお前の家でもあるしこのベッドルームはこれからは二人で使う部屋になると僅かの照れを早口言葉で表すとリオンが目を丸くした後、何故か耳まで真っ赤に染めて小さく頷く。
「あ、う、ん、そう、だよな……」
バルコニーに出る掃き出し窓のすぐ傍にはセミダブルのベッドがあり、向かって右側の壁は鏡張りのクローゼットになっていて、そのクローゼットの横には使い込まれている小さなデスクとソファがあり、そのソファで二人抱き合ったまま眠ったこともあり、リオンが目を覚ましたときに小さなデスクに腰を下ろしてウーヴェが書き物をしている姿を見たこともあった。
その光景がこれからもずっと続くのだと、断片として見るのではなくこれから二人の人生が続く限り見られる光景なのだと気付くと、鼻の奥がツンとしてリオンが顔を背ける。
「……俺の部屋、見てきても良いか、オーヴェ?」
「ああ」
だがその前に服を着替えろと苦笑し、渋々服を脱ぐリオンに苦笑を深めつつクローゼットのドアを開けたウーヴェは、リオン専用の棚から履き込んでいるジーンズを手渡すと、そそくさと受け取ったリオンがそれを穿いたかと思うとベッドルームを飛び出してしまう。
真冬でもないから上半身裸でも構わないと己を納得させたウーヴェは、自らのスーツもクリーニングに出すためバスルームのランドリーバッグに無造作に突っ込んでざっくりとしたサマーセーターとチノパンに着替えると、マザー・カタリーナに伝えたように自分たちを見守ってくれている人たちを安心させる為だけではない揃いの何かを二人で付けようと考えつつキッチンに向かい、冷蔵庫からビールを取りだすが、リオンの存在がないかのように家の中が静まりかえっていて、栓を抜いたばかりのボトルを作業台に乱暴に置いてキッチンを飛び出す。
「リオン?」
リオンの部屋にしようと決めたドアをノックするが返事がないため少しの不安を感じつつドアを開けると、以前姉のアリーセがこの家に来たときに使い、冬の間はリビングの暖炉前に運ばれているソファベッドがぽつんと存在する部屋に人影はなく、バルコニーに出る窓が全開になっていることに気付いてそちらに顔を向けて目の前の光景に身体を強張らせてしまう。
バルコニーには胸ほどの高さでシンプルな手摺りがあるのだが、その手摺りに腰を下ろしたリオンが両足をぶらぶらさせながらぼんやりと晴れ渡る空を見上げていたのだ。
バルコニーの手摺りに腰を下ろすなどウーヴェの思考回路には存在せず、制止の声を掛けようとするが、それに驚いたリオンがバランスを崩せばと考えれば声が出せず、掃き出し窓にそっと近付いて腕を組んで壁に肩で寄り掛かると、ウーヴェに気付いたリオンが顔を戻して器用に苦笑する。
「落ちたらどうするんだ、リーオ?」
「んー? 平気だって」
いつもこれぐらいの高さの建物の屋上で遊んでいたし、そこにあったフェンスはもっと細くて座れば折れ曲がりそうな程だったと幼い頃の悪事を思い出して笑ったリオンは、呆れたような顔で溜息をついて見上げてくるウーヴェの向こうに同じような顔で睨んでくるゾフィーの姿を発見し、軽く目を瞠って息を飲むとウーヴェが腰に片手を宛てて片手で白っぽい前髪を掻き上げる。
「……いつもそうして、シスター・ゾフィーに叱られていたんだな?」
「うん、そう」
すげー怖い顔して睨んで危ないから早く下りろって怒鳴ってたと笑うリオンだったが、そっと近付いてきたウーヴェが黙ったまま手を伸ばしてリオンの頭を抱き寄せた為、その強さに逆らわずにウーヴェの細い身体に全体重を掛けるように身を寄せると、見た目がどれ程細くても男であることを示すようにしっかりと受け止められて安堵の溜息がこぼれ落ちる。
「リーオ……もう泣くな」
「へ? 泣いてねぇけど、俺?」
「そうか?」
じゃあ今お前の目から流れているのはただの水なんだなと、驚きながら上体を引くリオンの頬を指の腹でウーヴェが拭くと、パチパチと瞬きをして涙を止めようとする。
「……オーヴェが……ヘンなこと、言うか……っ!」
だから涙が溢れて止まらない、オーヴェのトイフェル、悪魔、くそったれと罵りながらウーヴェにぎゅっとしがみつくリオンの背中を撫でつつトイフェルはまあ良いが最後の言葉は許せないなと笑い、オーヴェのイジワル、トイフェルと尚も叫ぶリオンについ声に出して笑ってしまう。
「リーオ」
胸に抱えたままの思いをすべて吐き出してしまえと囁きぎゅっと腕に力が込められたことに気付いて苦しいとも伝えたウーヴェは、リオンがそれでも泣いてねぇと叫ぶものの声は涙声でウーヴェの耳元で鼻を啜るような音も聞こえ出す始末だった。
それでもまだ泣いていないと言い張るリオンが可愛くて、堪えられずに小さく笑い続けていると、イジワルオーヴェなんか大嫌いだと耳元で叫ばれてさすがに顔を顰めてしまう。
「悪かった」
何もイジワルで笑った訳じゃないと言い訳をするものの、絶対に絶対に何があっても信じないと怒鳴られて溜息をつき、バルコニーで叫んでいると何ごとだと思われかねないから中に入ろうと促し、ウーヴェの動きにあわせてずるずると足を引きずるようなリオンにウーヴェが重いから歩いてくれと告げるが、信じないと叫ばれて思わず絶句してしまう。
「もうオーヴェの言葉は信じねぇ!」
「……それならそれで構わないが、ランチにしようというのも信じられないか?」
「……っ……!」
ランチで何処か美味しい店に行こう、その誘いも信じられないかと笑えば、それとこれとは話は別だと叫ばれて呆気に取られて吹き出してしまう。
「オーヴェっ!」
吹き出して笑うウーヴェの肩を掴んでその顔を睨み付けたリオンだが、己が想像しているものとはまったく違う表情で見つめられて鼓動を早めてしまう。
楽しそうに笑って声すら出しているウーヴェだが、眼鏡の下の穏やかな湖面のような瞳にはリオンを笑っているような色はなく、マザー・カタリーナやゾフィーらが良く口では文句を言いながらも決してリオンを見捨てることも見放すこともないと教えてくれていた時と同じで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をポケットから出したハンカチで拭いた後、鼻に宛ってくれたために遠慮することなく鼻をかむと目を細められる。
「どうする? ランチを食べに行くか?」
「…………ぅん」
「じゃあ顔を洗って服を着替えて。それから出かけよう」
美味しいものを食べようと笑って目尻の涙を指で拭ったウーヴェは、リオンの顔に一瞬浮かんだ躊躇いを見逃さずにしっかりと受け止めると、涙を拭いた手で青い石のピアスが填る耳朶をそっと摘む。
「俺たちは彼女たちと再会するまでは食べなければならないんだ」
彼女たちが食べられなくなったのに何故自分は食べるのか、そんな考えを持ってしまうのは分かるが、食べなければならない己を責めたり罪悪感を抱く必要はないと伝えて涙の跡が残る頬にキスをする。
「……うん」
「良し。何が食べたい?」
「……オーヴェが作ってくれる料理が良い」
素直に頷くリオンの言葉に軽く驚いたウーヴェが食べに行かないのかと問い返すが、お前の料理が食べたいと俯かれてしまい、分かったと答える代わりに頭に手を載せる。
「じゃあ何が食べたい?」
作れる料理はたかが知れているがそれでも良かったら作ろうと笑い、何を食べたいんだと顔を覗き込むと、ぼそぼそと小さな声が何かを伝えるが、意を決したように顔を上げたリオンが伝えたのはレバーケーゼのスープとゼンメルのサンドという言葉で、それならば材料を買いに行こうと笑って頬を撫でるとリオンの顔に笑みが浮かぶ。
「昨日の朝に食ったチーズもサンドしたい」
「それも良いな」
やっと笑ったリオンにつられて笑みを浮かべ、今から作るからランチよりはディナーかも知れないと気付いたウーヴェがそう告げると、一緒に食うのだったらランチだろうがディナーだろうが構わないと返され、着替えをするためにベッドルームに行こうとリオンの素肌の背中を撫でると、引っ越しはいつにしようかと呟かれて顎に手を宛う。
「そうだな……契約の更新もあるんだろう?」
「あー、多分そのはず」
じゃあそれに合わせて引っ越しをするのが一番かなと、肩を並べて廊下を歩む二人だったが、触れあう手はしっかりと組み合わさっていて、もう決して離れることはないと互いに態度で伝えあっているようだった。
それは、着替えを済ませて食材やリオンのアパートの冷蔵庫の中身を取りに行く為に出かける時もそのままで、買い物をしているときはさすがに不便だからと離れていたが、車に乗り込むと同時にウーヴェの手にリオンが手を重ねているのだった。