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泣いちゃった元貴さんと必死に止めるりょうちゃん…、読んでて本当に幸せになってほしいと思います…。 次回も楽しみです…!
リビングには、アンプを通さないエレキギターの生音と、鍵盤を叩く乾いた音だけが静かに響いている。
若井は一定のフレーズを繰り返しながらも、その意識は寝室へと向いていた。ギターを弾く指先が、時折ふっと止まる。元貴が部屋に入ってから、もうかなりの時間が経っていた。あまりにも静かすぎて、かえってそれが不気味だった。
「……ねえ、なんか静かすぎない?」
若井が耐えきれずに切り出すと、藤澤も待っていたかのように鍵盤から手を離した。その表情には、隠しきれない懸念が色濃く滲んでいる。
「うん…俺も思ってた」
藤澤は楽譜から顔を上げ、ペンを回す手を止めた。
彼らの知っている大森元貴は、いつだってストイックで、自分の弱さを安易に表に出す男ではない。けれど、今の彼は文字通り「子ども」なのだ。その小さな体が、重荷に耐えきれなくなっているのではないか。そう思うと、胸がざわついて仕方がなかった。
「俺、ちょっと見てくる。…なんか嫌な予感する」
若井が立ち上がると、藤澤は無言で頷いた。静かにリビングのドアを開け、寝室へ向かう。暗い廊下に自分の足音だけが響く。寝室のドアの前で立ち止まると、薄く開いたドアの隙間から、冷たく重い空気が流れ出してくるのが分かる。そこから聞こえてくるのは、規則正しい寝息などではなかった。
「……っ、ひくっ……ぅう…ぐすっ…」
掠れた、苦しそうな音。
若井は胸を締め付けられるような感覚に襲われながら、急いでドアノブに手をかけた。
ドアを押し開けると、遮光カーテンで閉ざされた闇の中に、ベッドの上で小さく丸まった影が見えた。
シーツに顔を強く押し付け、自分の肩を抱くようにして激しく震えている。指先は何かを必死に探すようにベッドの上を彷徨い、何も掴めないことに絶望しているかのように、何度も空を切っていた。
「元貴」
若井が暗闇に溶け込むような低い声で呼びかける。その瞬間、元貴の身体がびくりと跳ねた。けれど、彼は顔を上げようとはしない。むしろ、見られるのを拒むように、さらに深く枕に顔を埋めた。
廊下から差し込む細い光の筋が、暗い部屋のフローリングを横切り、ベッドの端を淡く照らしている。 若井はそのまま一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
「…元貴、どうしたの。大丈夫?」
若井は立ち膝になり、布団の隙間へ顔を近づける。けれど、元貴は枕に顔を埋めたまま、頑なに姿を見せようとはしない。わずかに覗く耳の先まで、熱を帯びたように赤くなっているのがわかった。必死に声を殺そうとして、肺に残った空気を無理やり押し出しているような、苦しげな泣き声。聞いているだけでも苦しそうで、背中を摩る。その背中が熱くて、思わず眉間に皺を寄せた。
「ちょっと起きようか」と声をかけ、元貴の脇に手を差し込み抱き上げると、その体は驚くほど軽い。ひっ、ひっと、喉をひきつらせて泣き続ける元貴をゆっくりと抱き上げると、そのままベッドの縁に腰を下ろし、自分の体へと深く密着させた。
若井の胸の中で、元貴は自分からしがみつくこともなく、ただ力を失ったように両腕をだらんと下げていた。若井の腕に包み込まれるがまま、無気力に体を預けているその様子は、まるで魂がどこか遠くへ行ってしまったかのようで、若井の胸をひどくざわつかせる。
若井は黙って、元貴の背中をゆっくりと摩り、お尻のあたりを一定のリズムでポンポンと叩き続けた。
「大丈夫、大丈夫」
そう自分自身に言い聞かせるように、何度もそう呟いた。言葉にすればするほど、危うさが浮き彫りになっていくような気がして怖い。しかし今の自分にできるのは、この小さな体を体温で温め続けることだけだ。そう思い、若井は腕の力を強め、震える元貴をさらにぎゅっと、壊さないような力加減で抱きしめた。
しかし元貴の涙は止まる気配がなく、若井のTシャツの肩口をぐっしょりと濡らしていく。その熱い湿り気が、今の元貴の苦しみの深さを物語っていた。
若井が黙り込んだことで、部屋の静寂はいっそう重く、冷たいものに変わる。それも相まって不安が限界を迎えたのか、震える肩をさらにすくませ、元貴は自らの右手の親指を口元へ運び、縋り付くようにしてそれを咥えた。
ちゅ、ちゅ、
静まり返った暗い寝室に、幼い吸い付き音が虚しく響く。涙で濡れた瞳が、視線を定まらぬまま彷徨わせるその姿は迷子の子どもそのものだった。
若井はその光景を目の当たりにして、目を見開く。
目の前にいるのは、身体が縮んだだけの大人ではない。何らかの理由で、記憶も、知性も、振る舞いも、すべてが巻き戻ってしまった、本当の意味での子どもなのだと。
指先が、微かに震える。
元貴は指を吸いながら、ぐずぐずと鼻を鳴らし、空いている左手で若井のシャツをぎゅっと握りしめた。その力加減は驚くほど弱く、けれど必死だった。
元貴は、涙で濡れた睫毛の間から、ようやく顔を上げて若井の瞳を正面から見据えた。そして突然若井の胸を小さな手で突き放すと、よじよじと体を激しく捻り、若井の腕の中から無理やり抜け出した。
「待って元貴、どこ行くの!」
若井が慌てて手を伸ばしたが、元貴はその手をすり抜け、裸足のままフローリングに飛び降りた。
「ない、ない、」
うわ言のように繰り返しながら、元貴は暗い廊下へと駆け出していく。そのまま勢いよく廊下を駆け抜け、リビングのドアを乱暴に開け放った。
そこには、目を丸くした藤澤が座っていた。元貴は一瞬、弾かれたように足を止めて藤澤と視線を合わせたが、その瞳には味方に会えた安堵などは微塵もなかった。
「どうしたの」
藤澤は困惑しながら椅子から立ち上がり、耳にかけていたヘッドホンを外した。しかし、元貴はその問いかけを無視し、まるで何かに追い立てられているかのように、リビングの隅から隅へとバタバタと走り回り始めた。
「ない……ここにも…ない、ない」
棚の隙間やソファの下を覗き込み、小さな手で必死にバタバタと動く元貴の姿は酷く危うげだった。
「え、どうしたの、何がないの?」
藤澤が歩み寄って優しく声をかけたが、返答はない。そこへ、大きな足音を立てながら若井が寝室から追いかけてきた。藤澤は若井と視線を合わせ、眉を寄せて「何があったの」と目で問いかける。若井は困り果てたように首を傾げる。
「…ずっと泣いてたんだと思う。それでたぶん、心まで子どもになっちゃったみたい」
「え…そっか…うーん」
二人は元貴の動向に気を配りながら、小声で作戦会議を始めた。
「なんか心当たりある? この家にあるものかな」
「うーん…分かんないなぁ…でも、あんなに必死に探してるってことは、相当大事なものなんだろ」
藤澤は、一心不乱にクッションを投げ飛ばしている元貴の背中を見つめた。いつもは穏やかな藤澤の表情も、今は不安と心配で固くなっている。ふたりで顔を見合わせ、どうやって宥めようかと思案している隙だった。気づくと、バタバタと走り回っていた足音が消え、リビングから元貴の姿がいなくなっている。
「……あれ?どこ行った?」
若井が慌てて廊下へ飛び出し、藤澤もその後に続く。洗面所の方から、微かに機械的な音が聞こえてきた。ゴウン、ゴウンと重たい音を立てて回る洗濯機。急いで向かうと、脱衣所の隅、洗濯機の前で元貴が小さくアヒル座りをしていた。
「元貴?なにしてるの?」
若井が背中に手を添えて優しく尋ねると、元貴はゆっくりと指をさしてこちらを向いた。その瞳には、今にもこぼれ落ちそうなほど大きな涙が溜まっている。
「…ここにいるの」
「何がいるの?」
若井が聞き返すと、元貴は力なく俯いた。藤澤もその場にしゃがみ込み、片膝をついて元貴の目線を真っ直ぐに見つめる。
「ぬいぐるみか何かかな」
「んーん」
「違うかぁ、じゃあ何かなぁ……」
藤澤が困ったように独り言を零すと、元貴は蚊の鳴くような声で「ひつじさん」と呟いた。
「羊さん?…でもぬいぐるみじゃないんだよね」
若井の問いに、元貴は再び頷いて小さい唇を尖らせて答える。
「おふとん。いつもいっしょにねてるんだよ」
二人はようやく、それが特定の布団かブランケットの柄が羊なのだと理解した。けれど、藤澤の家の洗濯機の中にあるのは、先ほど使っていたタオルや下着類だけだ。そこに羊なんて柄のものは一つも入っていない。
「そっかぁ……元貴ね、そこには羊さんいないよ。俺の家のやつしか入ってないから」
藤澤が諭すように言うと、元貴は泣きそうになりながら、ぎゅっと唇を噛んで洗濯機に目線を戻した。
「……ちがうよ、いるもん」
藤澤は、元貴のあまりにも切実な横顔を見て、胸が締め付けられるような思いがした。 困り果てたように若井を振り返り、縋るような視線を送る。若井もまた、眉をハの字に下げて首を振る。二人は立ち上がり、元貴に聞こえないよう、数歩離れた場所で視線を交わしながら小声で言葉を交わし始めた。
(どうする?絶対納得しないよこのままじゃ) (元貴の家に? でも、この時間にこの状態で連れ出すのも……)
アイコンタクトを交え、必死に解決策を探る二人。しかし、そのわずかな「大人のお話」が、元貴の胸の奥にある古傷を容赦なく抉った。
「……こそこそばなししてる」
足元から聞こえてきた、低く震える声。二人は心臓を射抜かれたようにハッとして、同時に視線を落とした。元貴は二人を見上げることなく、ただ拒絶するように顔を背け、再び無機質に回る洗濯機へと視線を戻していた。その背中は、先ほどよりもずっと小さく、孤独に見えた。
「……っ、違うよ、羊さんどこかなって二人でお話してただけだよ」
藤澤が慌ててその場にしゃがみ込み、元貴の機嫌を伺うように顔を覗き込んだ。若井も反対側に回り込み、膝をついて必死に言葉を重ねる。
「ほんとだよ。嫌な話してないよ」
焦りからくる二人の早口な弁解。それが、かつて自分を疎んでいた周囲の空気感と重なってしまったのかもしれない。元貴は二人と目を合わせようとはしなかった。
期待することも、信じることも、今の彼にはあまりにも痛くて苦しいことだったのだ。
「……いいもん、べつに。なれてるし」
ポツリと、誰に聞かせるでもない独り言のように元貴が呟いた。その声には、深い悲しみと諦めが混じっていた。元貴はよろよろと立ち上がると、二人の間を通り抜け、再びどこかへ行こうとする。
「あ、元貴……っ」
若井が伸ばしかけた手は、空を切った。
元貴は二人の制止を振り切り、短い廊下を無我夢中で駆け抜けていく。
「待って元貴、ほんとに悪口とか言ってないよ!」
藤澤の声が廊下に響く。若井も必死にその後を追ったが、二人の胸中は苦い罪悪感でいっぱいだった。本人が聞いたら不愉快だろうと考えた気遣いのつもりだったが、疎外感や不安感を助長させるものだったと気づき、自分たちの配慮のなさを激しく悔いた。
リビングに戻った元貴の様子は、もはや探索というよりは、感情のままにそこらじゅうをひっくり返していく癇癪のようなものだった。
洗濯機の中にもいない。 なら、次はどこだ。
彼は、一直線にある場所へ向かった。それは かつて、彼の家でブランケットが干されていたベランダだった。しかし、当たり前だが夜中なので洗濯物は干していない。
だったら下の階に落ちてしまったのかもしれない。そう考えた元貴は、吸い込まれるように身を乗り出し、上半身が見えなくなりそうなほど深く中を覗き込んだ。
「っ待って元貴!!!落ちちゃう!!!!」
藤澤が叫びながら駆け寄り、元貴の細いお腹に腕を回して抱き上げた。
「やめて!!はなして!!ぅああぁあっ!!」
宙に浮いた元貴の体は、火がついたように激しくのたうち回った。藤澤は彼を落とさないよう、お腹と胸をがっしりと腕で固定して横抱きにするが、元貴は背中を弓なりに反らせ、必死に暗闇に手を伸ばそうとする。
「そこにはないよ! 羊さん、そんなとこいないから!」
若井も傍に寄り、元貴の顔を覗き込んで必死に言い聞かせる。けれど、元貴の目には、かつて自分を気持ち悪いと呼んだ母親の影が映っていた。
「なくない! すてた!!ぁああ”あぁあ!!」
喉が裂けるほどの絶叫。元貴は顔を真っ赤にし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら暴れ続ける。
「捨ててない、捨ててないよ元貴! 誰もそんなことしない!」
藤澤は必死に声をかけるが、暴れる元貴の力は驚くほど強く、心臓の鼓動が藤澤の腕にまで痛いほど伝わってくる。
「元貴、一回落ち着こう。ね?大丈夫、大丈夫」
藤澤は必死に声を絞り出した。暴れる元貴の力は予想以上に強く、腕の中から滑り落ちそうになる。彼は無理に立ち続けるのを諦め、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして横抱きにしていた元貴を、今度は自分と向き合うように縦向きに抱き直し、小さな体を自分の胸へとぎゅっと押し付けた。
「元貴、大丈夫。捨ててないよ。誰もそんなことしない。大丈夫、大丈夫……」
藤澤は元貴の耳元で、壊れたレコードを回すように何度も同じ言葉を繰り返した。背中を一定のリズムでとんとんと叩き、逃げ場を失っている彼の心を必死に繋ぎ止めようとする。
感情に任せて、喉を潰さんばかりに泣き喚いていた元貴の体が、藤澤の温もりと確かな鼓動に触れて、ほんのわずかだけ弛緩した。言葉の内容よりも先に、藤澤が自分の苦しみを受け止めてくれているという事実が、パニックを起こした元貴の耳に届き始めたようだった。
「ひつじさんっ…いなくなっちゃったぁ……」
嗚咽に混じって、ようやく言葉になった悲鳴が漏れる。
「いなくなっちゃったの、悲しいね」
藤澤は元貴の目線に合わせるように、努めて穏やかに、その感情をなぞるように返した。
「やぁだ……」
「そうだね、嫌だね。大事なんだもんね」
元貴の代わりに、彼が抱えている混沌とした感情を一つずつ丁寧な言葉に変えて、空気に溶かしていく。元貴は藤澤の肩に顔を埋め、震える指先で彼の服を弱々しく掴んだ。藤澤は、トントンと背中を叩きながら、暴れて捲れ上がった服を直す。
自分でも制御できない不安の正体を、藤澤が「悲しいね」「嫌だね」と肯定してくれる。その受容のプロセスを経て、元貴の中の嵐が少しずつ、凪に向かっていくのが分かった。若井もその傍らで膝をつき、祈るような心地で元貴の様子を見守る。まだしゃくり上げるようにして涙がポロポロと零れてはいるが、ひとまず落ち着いていたことに二人は胸を撫で下ろした。
……………………………
相変わらずの激遅更新で申し訳ないです。
気を抜くと話の筋から逸れるほど大森さんに甘々な若井さんと涼ちゃんになってしまうので苦戦しています…😭
そして改めてですが、今後もリクエスト作品によって話の長さが異なる可能性がありますが、特に何も理由はありません!
ご承知の程、よろしくお願いいたします。