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隣の男の手を握った。そして顔を見る。
サノスはと言うと、その抽象化されたネコのような無表情でいるわけでもなく、緊張で心を満たしている俺のようなこわばった表情を浮かべるでもなく、ただ広角を緩やかに上げながら下を見下ろしている。
ここしばらく、ドラッグはやってなかったはずだ。なのに。
どうしてそんな顔ができる。
緊張の対象を移すつもりで手を繋いだはずなのに、自分が独りになってしまったように感じて、その風に靡く紫色の髪を眺めることしかできなくなった。
高さに怖気づいた俺は一歩も動けないのに、右側に並んでいる男はまるで地面が繋がって見えているかのように、日常の延長の中で足を踏み出そうとした。震える俺に気付いてから、その足を引っ込めて「大丈夫か」と俺に問う。
あまりにも自然すぎるサノスの存在が、この場においては、このマンションの屋上で、こんな夜で、冷え込んで、2人きりという状況では不自然すぎる。
高さか男か、対象のわからない恐怖から、一歩下がってサノスの手を引いた。
「なんだ、ナムス」
寒さによるものか、呂律の回らない口でサノスが俺を呼ぶ。
「やっぱりやめませんか」
「そうするか?」
案外あっさりと、俺が掛けた水は流れていった。
「まぁ、今日やめれば、明日もチャンスはあるだろ」
そう言って笑うタンパク質が怖かった。
チャンスってなんだ。
この場から飛び降りることをただそうとしか認識していないような物言いをする男は、未だ俺を間違った名前で呼んでいた。
これがさいごかもしれなかったのに。
そう思ったらなんだか体が軽くなってきて、行動によって自分がどうなるのかを考えるのが面倒になった。
未来をつぶすチャンスを未来に託すなど、本当に意味の分からない人だと隣の男を見やる。
「ヒョン」
そう呼んでから、俺は男の手を強く引いた。下がった分も進まなくてはいけないと気付いて、やはり食器をシンクにためておく必要性などないことに気付いた。この期に及んで、日常について心配するなど無駄なのに。
人間に対してもそうだよな、と
コンクリートを蹴った。
「待て」
隣から呟く声がした。
気付けば俺たちは地面を失っていた。この体が地球の重力のはやさで落ちていく。
「ナムギュ」
ギリギリ聞こえたその声に、俺の本物の名前を呼ぶ声に向けて、笑顔の電気を体に送る前に、俺の身体の司令塔は潰れた。
俺を保っていた境界が解けて、俺が道に染みていく。
右手に繋がれた男は首があちらへ向いていて、ナムギュは男の最後の顔を拝めぬまま、いつしか途切れていた。