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特別編
第六章 「よく頑張ったね」
診察室。
幼い頃から何度も通った部屋。
優しい色のカーテン。
窓辺に置かれた小さなぬいぐるみ。
何も変わっていない景色なのに、今の千弥にはそれを見る余裕もなかった。
「はぁ……っ……。」
千景の腕の中で小さく肩を震わせながら、必死に息を整えようとしている。
「千弥くん。」
担当医は慌てることなく、穏やかな声で呼びかけた。
「先生だよ。」
「……。」
「ここまで来られたね。」
「よく頑張った。」
その言葉に、千弥はゆっくりと医師のほうを見た。
「……せんせい。」
「うん。」
「くるしい……。」
か細い声だった。
医師は優しく頷く。
「そうだね。」
「苦しいね。」
「でも、大丈夫。」
「今は先生も、お兄ちゃんも、遥くんもいる。」
「一人じゃないからね。」
千弥は少しだけ力を抜き、千景の胸へ額を預けた。
「結城さん。」
医師は千景へ静かに声を掛ける。
「診察台へ寝かせていただけますか。」
「はい。」
千景はできるだけ揺らさないように抱き上げたまま診察台へ移す。
しかし。
「……っ。」
千弥はすぐに千景の服をぎゅっと掴んだ。
離れたくない。
その様子を見た医師は穏やかに微笑む。
「今日はそのままで大丈夫ですよ。」
「お兄ちゃん、隣にいてあげてください。」
「ありがとうございます。」
千景は診察台の横へ椅子を寄せ、千弥の手を優しく包んだ。
反対側には遥が立つ。
「ちーちゃん。」
「……。」
「僕もいるよ。」
遥がそう言うと、千弥は小さく頷いた。
診察が始まる。
「まず熱は……。」
体温は三十六・七度。
「呼吸。」
聴診器を当てる。
「肺や心臓の音も問題ありません。」
血圧。
脈拍。
瞳孔。
一つずつ丁寧に確認していく。
#完全オリジナルストーリー
𝐀𝐘𝐀_

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身体には大きな異常は見当たらなかった。
医師は千弥の目線までしゃがみ込む。
「千弥くん。」
「……。」
「先生のお話、少し聞けそう?」
「うん……。」
「今、一番苦しいのはどこかな。」
千弥は自分の胸へ手を当てた。
「ここ。」
「胸?」
「うん。」
「痛い?」
「ちがう。」
「じゃあ重たい?」
「……。」
しばらく考える。
「もやもや。」
「もやもや?」
「うん。」
「いっぱい。」
「いっぱいになる。」
医師はゆっくり頷いた。
「そうか。」
「その”もやもや”が苦しいんだね。」
「……うん。」
「悲しい?」
「わかんない。」
「怖い?」
「……ちょっと。」
「泣きたい?」
「……。」
千弥は小さく頷いた。
「でも。」
「うん。」
「なんでないてるか。」
「わかんない。」
その一言を聞いた医師は、優しく微笑んだ。
「それでいいんだよ。」
「え?」
「理由が分からなくても苦しい時はある。」
「千弥くんは何も悪くない。」
その言葉を聞いた瞬間。
ぽろっ。
また涙がこぼれた。
「……。」
「泣いてもいい。」
「今は我慢しなくていいから。」
千弥は声を押し殺すように泣いた。
その背中を千景がゆっくりさする。
遥も黙ってティッシュを差し出した。
しばらくして。
涙が落ち着くのを待ってから、医師は千景と遥へ視線を向けた。
「結城さん、遥くん。」
「はい。」
「千弥くんの様子ですが。」
二人の表情が引き締まる。
「現時点では、身体の病気というよりも、以前診ていた心の症状が再び出始めている可能性が高いと思います。」
千景は静かに頷いた。
やはり、そうだった。
「最近、環境の変化や疲れはありませんでしたか。」
「大学生活は落ち着いていました。」
「ただ……。」
千景は少し考える。
「本人は周囲に気を遣う性格です。」
「体調も崩しやすいので、無意識に頑張り過ぎていたのかもしれません。」
遥も続ける。
「ここ数か月は、大学と会社を行き来する生活でした。」
「毎日は楽しそうでしたが、知らないうちに疲れが積み重なっていた可能性もあります。」
医師はカルテへ静かに書き込みながら頷く。
「十分考えられます。」
「この症状は、本人にも理由が分からないことが多いんです。」
「だから『どうして苦しいの?』と答えを急がせるより、『苦しいね』『一緒にいるよ』という関わり方が大切になります。」
二人は真剣な表情で耳を傾けていた。
「今日は。」
医師が穏やかに続ける。
「ご自宅でゆっくり休ませてください。」
「大学もしばらくお休みしましょう。」
「会社も、可能なら一緒にいてあげてください。」
「必要なお薬はありますが、それ以上に安心できる人がそばにいることが、千弥くんには何よりのお薬です。」
「はい。」
千景は迷わず答えた。
「僕たちがそばにいます。」
遥も頷く。
「一人にはしません。」
医師は安心したように微笑んだ。
「それなら大丈夫。」
「また数日後に様子を見せてください。」
「もし途中で症状が強くなったり、自分を傷つけようとしたり、食事や水分がまったく取れなくなった場合は、時間を気にせずすぐ連絡してください。」
「分かりました。」
診察室を出る頃には、千弥はまだ疲れた表情ではあったものの、呼吸は少しずつ落ち着いていた。
「……にぃに。」
「なあに。」
「おうち、かえる?」
「うん。」
千景は優しく微笑む。
「三人で帰ろう。」
「はるにぃも?」
「もちろん。」
遥もしゃがみ込み、千弥の目線に合わせる。
「今日は帰ったら、何もしなくていい。」
「眠くなったら寝よう。」
「お腹が空いたら食べよう。」
「笑えなくてもいい。」
「僕たちはずっと一緒だから。」
千弥はくぅちゃんを抱き寄せ、小さく頷いた。
「……うん。」
その返事は弱々しかった。
それでも、病院へ来た時より少しだけ安心したような響きがあった。
千景はその小さな変化を感じ取り、静かに千弥を抱き上げた。
「帰ろう、ちーちゃん。」
外ではまだ雨が降っていた。
けれど三人の足取りは、病院へ来た時よりもほんの少しだけ穏やかだった。
特別編 第六章おわり。
特別編 第七章へ続く。
コメント
1件
第六章、読ませていただきました。 千弥くんの「もやもや」が苦しいっていう表現、すごくリアルで胸がぎゅってなりました。理由が分からなくても苦しいことってあるんだよな…って。医師の「何も悪くない」「泣いていい」の言葉に、私までじんわりきました。 千景さんと遥くんがただただそばにいる、それだけで千弥くんの心の薬になるんだなって。雨の中でも三人の足取りが穏やかだったラスト、すごく好きです。 続き、楽しみに待ってますね。