テラーノベル
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第7章 帯びる熱求める体温
店の二階に位置する彼の家は、下の階の店内の雰囲気を色濃く残していた。
外階段を上がった先、玄関扉の小窓もステンドグラスで出来ていて、鍵を開けて中に入ると、暗がりの部屋に灯った灯りが、虹色の影を落とした。
「……素敵だ」
思わず声が出てしまうほど、暖かなその空間に、冷え切った体はほんの僅かだが、温かくなった気がした。
タオル片手に立ち竦む俺は、何だか気が引けて、ゆっくりとはならなかった。冷たいままの暖炉の前に置かれた、木のベンチに腰掛け、体を拭き上げた。
ゴツゴツと硬い椅子に座って自分を戒めるかのように彼を待つ間に、いつの間にか眠ってしまっていた。
パチパチと弾けるような音と、頰を撫でる熱で目を覚ますと、濡れた横髪を白い指で梳く、彼の姿があって、微睡中で見た彼は目尻を下げて優しく微笑んだ。
「ゆっくり寝な」
言われるがままにまた、静かに目を閉じると、心地よい彼の香水の匂いに包まれて、いつの間に伸びてきた腕が俺の肩を抱き寄せた。
「勘違いするよ」
「いいよ構わない」
「戻れなくなる」
そう言った俺の声は、震えていて格好悪いったらなかった。
「ふふっ…何処に戻るの?」
「………ひかる?」
気のせいかな?彼の声も震えていて、緊張している気がした。ゆっくり目を開けて、深く瞬きを一回だけ。
彼を……微睡の中でない彼を、しかと確かめる。
ただの客じゃ、なくなった?
……貴方も、俺のことを?
そう期待して良いのだろうか?
「いつ呼んでくれるの?………翔太って」
そう言われて分かっていたはずなのに、
彼の名前を一度も呼んでいなかったことを、
今さら思い知らされた。無意識に彼のことを〝ただの店主〟だと避けていたのは俺の方だったのかもしれない。
彼の手を掴むと、冷たかった。
今まさに仕事を終え、すぐに俺の元へ駆け寄って来てくれたこの手が愛おしくて、迷うより先に、彼の了解もなしに手の甲にキスをした。
翔太 side
自分が奏でる音がこんなにも、煩わしく思えたのは初めてだった。
〝お前、無防備すぎ〟
冷ややかなその声に、胸に痛みを覚えた。
客との距離が近いと、昔、渉に言われたのを思い出す。
都会の真ん中で夢を抱いて店を構えた。若い頃はバカみたいに〝カリスマ美容師〟という名前に固執して、格好つけてハサミを握っていた。
そんな自分がこの場所に行き着いたのは、彼に出会う為だったのだとすら思えるほど、あの日俺は〝照〟に一目惚れした。そうきっとあれは、一目惚れだった。
生真面目に保つ距離感も、躊躇いがちに伸びてくる逞しい腕も。
〝また降られちゃった〟と言って差し出した濡れ髪を、俺は鏡越しの君に恋心を抱きながら梳いた。
乾いたドライヤーの音。指先に残る水気。立ちのぼる照のシャンプーの香り。
〝好き〟を増幅させるには、刺激が強すぎた。
あの日のことを、思い出す。
渉に襲われたあの日から、俺は照を待つのをやめた。
雨が降るたびに、ステンドグラスの光が差し込むあの場所でくしゃくしゃに笑った笑顔が、〝ただのお客様〟になる日を望んだ。
自分の醜態を晒してまで、彼に好かれようなんて思わない。穢れなく笑う彼が愛おしいあまり、その想いに蓋をした…
筈だった。
彼の無邪気な笑顔。
寄せる皺の、その愛おしさに。
蓋なんて最初から出来ないと分かっていながら、この気持ちに気付かないふりをしていた俺は、随分と滑稽な生き物だった。
そう思っていたはずなのに。
〝終わるまで待ってて…〟
一種の賭けだったのかもしれない。彼が居残っている可能性なんて無いかもしれない。その一つに賭けた。
雨が打ちつける外階段がこんなに重苦しく感じたのは初めてだった。後戻りできない距離を一歩ずつ上がっていく。
居ても居なくても、俺達の距離に変化を生むこの時間が、無くなってしまえばいいのにと思える程に、今は、君が居るか分からない家への扉が重くて、怖かった。
次に会う時は〝また降られたの?〟って君に尋ねる事が出来るかな?
そう思うだけで、扉の向こうが、少しだけ怖くなくなった。
重い扉の先に飛び込んできた、君らしい寝顔に、自然と笑みが溢れた。自重していた筈の想いに箍が外れ、気付いたら君の頰を撫でていたんだ。
ふかふかのソファーで、寛ぐことも出来ただろう?
寒さに震える体を、暖炉に灯した熱で温めることも出来ただろう?
それをしないのは彼が誠実だからだ。
穢れた俺が、この純真無垢な身体に触れていいのかも分からないまま、安心し切って俺に体温を預けた彼に、本能に抗えず触れ合うと、自然と胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
コメント
4件
ワタルだけなのに穢れてるの?🥺
