テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第8章 朝に残る唇の熱
手の甲が、燃えるように熱い。
「しょうた……もっと、こっちへ来て」
低く掠れた声で呼ばれて、俺は一瞬だけ躊躇ってから、照の方へ身を寄せた。
初めて、名前を呼ばれた夜だった。
暖炉の前、絨毯の上に座った二人は、どちらからともなく唇を寄せ合った。確かめ合うように、逃がさないように。
〝好きだ〟とか、〝愛してる〟とか、そんな言葉は交わさない。
言葉にしなくても、触れた熱がすべてを語っている気がしていた。
でも本当は――
俺たちはまだ、互いの何も知らない。
ただ、時間だけが、ゆっくりと縮まっていく。
「……話して、照のこと。どうして山に登るの?
どうして……俺を求めるの?」
「……静かにして」
照の指が、俺の頰をなぞる。男らしい、少しごつごつした指先。言葉を拒むみたいに、唇が重なった。噛みつくほど強く、ヒリヒリするまで。それでもそれ以上、踏み込んではこない。
俺の身体が小さく震えていることに気づいたのか、照は、ただ抱き竦めるだけだった。優しく。逃げ場を残すみたいに。
その誠実な照の態度に、次第に、俺の胸の奥に張りつめていたものが、音もなくほどけていった。
「待って……息、できない」
「……大丈夫」
耳元で囁かれる。
「ちゃんと、ここにいるから」
その声に、胸が締め付けられた。
渉とは違う。奪わない。急がない。
時間すら、慈しむようなキス。
こんな触れ方を、俺は知らなかった。
だからこそ――
怖くなった。
「……待って。やっぱり、ごめん。やめて」
唇が離れ、視線が合った瞬間、違和感が胸を掠めた。
照の目が、
俺じゃない誰かを見ている気がした。
「……まだ、途中だろ」
落ち着いた声で、淡々と。
「言葉より、伝わるものがあるって……翔太が教えたんだ」
その一言が、胸を刺した。
「……言葉より、伝わるもの?」
自分でも驚くほど、声が冷たかった。
「体の触れ合いとか……求め合う、肉体……とか?」
照の表情が、はっきりと揺れた。
「……ごめん。そんなつもりじゃ……」
その言葉は、昔、聞いた声と、同じ響きをしていた。
――君も、結局そうなんだ。
体を求める側なんだと、そう言われた気がした。
しばらくの沈黙のあと、〝すまなかった〟そう言って立ち去ろうとする照の腕を咄嗟に掴んだ。俺は、息を整えて言った。
「……帰らなくて、いい」
そう口にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。それが安堵なのか、後悔なのか。その時の俺には、分からなかった。照は何も言わず、ただ一度だけ瞬きをして、確かめるように俺の頰に触れた。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
その音に紛れて、俺たちは、また唇を重ねた。
深く、確かめ合うような口付け。
奪うでも、試すでもない。
ただ、そこにある温度を、逃がさないためのキス。
ただ、それ以上は、互いに踏み込まなかった。
腕の中で、照の体が少しだけ力を抜く。その重さが、ひどく愛おしかった。
――この夜が、続けばいい。
この胸を熱くする名前も、理由も、未来も。
何も知らないままでいいと、
その時の俺は、本気で思っていた。
朝の光は、思っていたよりも、残酷だった。
暖炉の火は落ち、カーテン越しの淡い光が、床に影を落としている。
目を覚まして、腕の中に温もりがないことに気づいた。
66
ただ隣で眠っただけのはずなのに、傷付いている自分がいる。
床がギシっと軋む音がして、一瞬、心臓が跳ねた。
目尻を下げて、柔らかく笑う雨男。
照はもう支度を終えていた。
軋む床を愛おしそうに、踏み締めている。
昨夜とは違う、山の朝の匂いを纏って――
「……起こした?」
「いや」
嘘だった。
本当は、いなくなっていると思って、起きた。
照が近づいてきて、何か言いかけて、やめる。
そして――
不意に、指が伸びてきた。
右上唇の上。
そっと、なぞられる。
「……ここ」
低く、静かな声。
「アイツも……同じところにあった」
朝の空気に、その言葉は、あまりにもはっきり響いた。
俺は、何も言えなかった。
照の指が離れた場所が、じん、と熱を持つ。
はっと我に返った顔をした照。
バツが悪そうに――肩を竦めた。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、分からないまま、
照は視線を逸らした。
扉が開き、冷たい朝の空気が流れ込む。
閉じた扉の前で、俺は無意識に、自分の唇に触れていた。
そこに残っているのが、
彼の体温なのか――
それとも、誰かの記憶なのか。
もう、分からなかった。
――ただ、
消えない熱だけが、そこに残っていた。
コメント
3件
悲しい恋???🥺🥺🥺🥺
