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稽古場の空気は、舞台本番が近づくにつれて緊張感を増していた。
舞台監督の指示が飛ぶ中、大森元貴は台本を手に座っていた。読み合わせの順番待ち。しかし、背中に視線を感じる。ちらりと目を上げると——やっぱり、あの男がいた。
「……また見てるし」
呟いた声は、誰にも聞こえないようにかすかに漏れただけ。それでも風磨は、にやっと唇を上げた。
「なんか言った?」
耳打ちのように近寄ってきて、元貴の後ろから覗き込むように話しかけてくる。周囲に人がいるにもかかわらず、距離が近すぎる。
「近いって、稽古中だよ……!」
「別にキスしてるわけじゃないんだから、平気でしょ?」
「っ……バカか、お前……」
そう呟いて立ち上がろうとした瞬間、腰を支えるように風磨の手がそっと添えられる。表面上は何気ない仕草。でも、その手のひらの位置と指の角度——
まるで昨夜、触れていたところを確かめるようだった。
「……そんなとこ触んな……!」
「触ってないよ? 支えてるだけ。足元ふらついたら困るじゃん。ね、昨夜あんだけ泣いたし」
「声小さくしろ……!」
元貴が小さく怒鳴ると、風磨は楽しそうに鼻で笑った。
「ほら、赤くなってる。ねえ先生? バレたくないなら、もっと普通の顔して?」
まるで弄ぶような声音。けれど、誰にも聞こえないギリギリの距離感でその言葉を投げかけてくる風磨は、まさに“甘S”そのものだった。
「ふーまくん、大森くん、次のシーンお願いしまーす!」
スタッフの声が飛ぶ。ふたりは立ち上がり、舞台中央へと向かう。
「……集中しろよ」
「してるよ、ずっと。元貴に、ね?」
芝居が始まる。観客も照明もない稽古場なのに、風磨の視線だけが妙に熱くて、演技にすら集中できない。
けれど、台詞の合間、唇が触れそうになるシーンで、彼は囁く。
「ほんとは今すぐ、ここでおまえ、壊したいくらい」
その声は台詞に紛れて、誰にも届かない。
けれど大森元貴の鼓動だけは、はっきりと彼に聞かれていた。
「本番、五分前です!」
スタッフの声が廊下を走っていく。
楽屋には舞台衣装をまとった大森元貴と菊池風磨。ふたりきり。衣装の襟を正しながら鏡を見つめていると、背後からじっと見つめる視線を感じた。
「……何?」
「いや、似合ってるなって思って」
風磨は椅子に腰掛けたまま、足を組んで腕を組んで——その余裕の態度が癪に障る。けれど目だけは真剣だった。
「初日だし、さ。……誰にも渡したくないって思うの、俺だけかな」
「は?」
「ほら、この衣装も、“あの時”脱がせたのと同じだし?」
「風磨……! 今、そういうのやめろよ……!」
「緊張してんでしょ。俺が落ち着かせてやる」
言い終わるより先に、椅子から立ち上がった風磨が背後に回る。そして——首筋に、やわらかく唇を落とした。
「っ……ば、バカ、やめろって、誰か来たら……!」
「来たら止めるよ。ていうか、止めてほしいの?」
キスは一瞬で終わらなかった。鎖骨を舐めるようにたどるキス。演技じゃない、本気のキス。甘くて、支配的で、逃れられない。
「なあ、元貴」
「……なに」
「“好き”って、まだ言ってないよね、俺」
「えっ……」
「言ってないけど、体だけ先に俺に堕ちた君の顔、好きだったよ」
そう言って、彼は軽く頬を撫で、唇の端に触れるだけのキスを落とした。
「……行こう。本番」
その言葉だけを残して、風磨は楽屋を出ていった。
残された元貴は、深く息を吐くしかできなかった。首筋に残るぬるい感触と、心臓の鼓動だけが、異常なほどリアルだった。