暖炉の炎が日に日にありがたみを増し、季節が灰色の低く重い雲に閉ざされることを体感させてくれるようになったある夜、仕事に精を出している生涯の伴侶がまだ戻ってこられないことを短いメールから知ったウーヴェは、特に見たいテレビがあるわけでも無いためにベッドの中で本を読んでいようと決めてソファから立ち上がるが、その瞬間、すっかり馴染んでしまった疼痛が左足に生まれ、咄嗟に痛む足を押さえてソファに倒れ込む。
「……!」
ウーヴェがなかなか癒えない傷を心身に負った事件から時は流れたものの平穏に過ぎる日々の中に埋もれようとすると、こうして痛みを伴って事件を思い出せと過去から声が聞こえてくるのだ。
その声はウーヴェの人生を決定づけた男女のものであったり、またはこの左足の痛みを生み出す原因となった男のものであったりしたが、もう過去から解放されて良いのだと根気強く諭し抱きしめてくれたリオンのおかげで以前とは違って目も耳も心も塞ぐことなく、一度己の中にしっかりと受け入れてから心の中の決まった場所に収めるようにしていた。
その作業を痛みの中で何とか行ったウーヴェは額にびっしりと汗が浮いていることに気付き、腕でそれを拭うとその手がひどく柔らかなものに触れ、それが何であるかを確かめるために顔を向けると、そこには異様な大きさを誇る金色のテディベアがどっしりと座ってつぶらな瞳を向けていた。
その瞳に誘われるように手を伸ばして這いずるようにレオナルドと名付けられたテディベアの腿に上体を載せると、無意識に安堵の溜息が零れる。
焦げ茶色のテディベアが無いと眠れなかったのは幼い己だったが、あの頃から何の進歩もしていないのかと思わず自嘲したウーヴェは、今はテディベアが無くても眠れると脳内で反論の声が響いて確かにそうだと苦笑し今度はその巨体に寄りかかるために何とか起き上がる。
「ちゃんと……眠れる……」
誰に対する言い訳か分からないことを呟きつつもう一度ソファから立ち上がるが先程のような痛みは生まれずに胸を撫で下ろしたウーヴェは、ソファの背もたれや壁伝いにリビングから廊下に出、その先にあるベッドルームにステッキを頼りに時間を掛けて足を引きずり歩いて行く。
足を痛めるまでは何を思うことも無かったリビングからベッドへの移動が酷く重労働になってしまった今、ようやくたどり着けたベッドに潜り込むだけで精一杯だった為、パジャマに着替えることもせずに珍しくそのまま横になったウーヴェは、遠くから軽快な映画音楽が聞こえている気がしたが、確かめる気力が起きずにそのまま目を閉じてしまうのだった。
人を不幸にしたくせにお前は幸せになるのか、なれると思うのか。
その声が暗い世界に響いた瞬間、声にならない声を思わず上げたウーヴェは、これは夢だ、済んだことを夢に見ているだけで現実では無いとどこかから聞こえる声に縋るように手を伸ばすが、その手が空を掻き左足に激痛が走り、その反動で上体が跳ね上がる。
「……ッア!」
痛いという言葉すら口に出来ない痛みに一瞬で全身に汗が浮かび、痛みに呼吸を忘れて目を見張って身体を震わせつつ痛む足を抱え込む。
左足の傷は神経網をずたずたにし暑さや冷たさも感じられないようになっているのにどうして痛みだけは知覚するのだろうと、脳味噌の片隅が至極冷静に呟きを発する。
どうせ感覚の総てが無くなったのであれば痛みも感じなければ良いのに人体の不思議なのか痛みだけはいつまでも感じていたが、この痛みは足が感じているのでは無く脳が記憶している痛みだといつかどこかで聞いたとも思った時、激しく上下していた肩に暖かな何かが覆い被さったことに気付く。
「……っ……!」
「……もう大丈夫だ、オーヴェ」
もう大丈夫だからゆっくりと息を吸えと促されて何度か深呼吸を繰り返したウーヴェは、一気に覚えた疲労から全身の力を抜き、そんなウーヴェの身体を後ろからしっかりと支え、痛む足に手を重ねて大丈夫だと繰り返しながら青白い頬にキスをしたのはいつもと比べれば随分と遅くまで仕事をして帰宅したらしいリオンだった。
「遅くなったな、オーヴェ」
「……リーオ……」
「うん、悪ぃ」
ウーヴェの肩を横抱きにし、胸元に引き寄せられていた左足をウーヴェの代わりに撫でたリオンは、足が痛くなったのかと問いかけて頷かれる。
「な、オーヴェ。触っても痛くねぇか?」
「……あ、あ」
「ん、分かった」
青白い顔のウーヴェに問いかけて了承を得たリオンは、ウーヴェの背中をベッドヘッドに立てかけたクッションに預けさせると、ウーヴェの左足を己の足に載せて向かい合うようにあぐらを掻いて座り、痛みを訴えている足をそっと両手で挟んでそのまま足の甲に口付ける。
「……リーオ……っ!」
足へのキスなどまるで主従関係のようで嫌だとウーヴェが軽く足を引こうとするが、この傷はお前が頑張った証だからと片目を閉じるリオンに何も言えず、腕で目元を覆い隠したウーヴェは、暗闇の中で左足から生まれた痛みが同じ場所から薄らいでいくことに気付く。
「今日はさー、ボスが相変わらずひでぇの」
人を馬車馬のごとく働かせるくせに自分はのんびりとお茶をしていたので腹が立ったから後で食べるつもりだったお菓子を隠してやったと、その時の様子がありありと分かる声が聞こえ、腕を外して声の主を見やれば少しでも早く痛みが消えろと言いたげな顔で足を撫でてくれていた。
「……またそんなことをして、明日知らないぞ」
「平気だって。それぐらいした方が良いんだよ」
あまり働かなさすぎてボケられては迷惑だからちょっとぐらい腹を立てさせた方が彼のためだと、誰が聞いても彼のためにはならないと思う事を呟きつつ傷口がくっきりと浮かんでいる左足の甲を撫でその手で脛を撫でたリオンは、呆気に取られたように見つめるウーヴェに片目を閉じる。
「……痛み、マシになったか?」
表情はおどけていても声音は真剣なもので、ウーヴェがその言葉に僅かに目を伏せると恐る恐る左足に力を入れる。
予想していた痛みが来なかったことに無意識に安堵の溜息を零したウーヴェにリオンも釣られるように溜息をつくと、そのまま伸び上がってウーヴェの口の端にキスをする。
「命の水、作ってくるから飲めよ」
「……うん。ダンケ、リーオ」
「どういたしましてー」
リオンが育ての母であるマザー・カタリーナから受け継いだ命の水と呼ぶ心身を暖める飲み物を用意するためにリオンがベッドから降り、その背中を見送ったウーヴェだったが、リオンがマグカップを片手に戻って来たのを見ると、己でも抑制できない感情が胸に苦痛を生み出し、シャツの胸元を握りしめる。
こんな風に足を痛めた己はリオンにとって重荷ではないのか。あの時彼が言ったように己はリオンの足枷になっているのでは無いのか。
そんな疑問が生まれた胸が痛み、つい前屈みになって膝に額を押し当てる。
「どーした、オーヴェ?」
ウーヴェの様子がおかしいことに気付いたリオンがマグカップをサイドテーブルに置きウーヴェの横に腰を下ろすと同時に痩躯が傾いで寄りかかってきたため、しっかりとそれを支えて白とも銀とも付かない髪に口付ける。
「大丈夫だ、オーヴェ」
ウーヴェが口に出来ない思いに気付いているリオンが宥めるように背中を撫でて髪にキスをし、あの日の誓いを忘れたのかと大切な言葉を軽い口調で問いかける。
「ずっと一緒にいるって誓ったのにさぁ、もう忘れたってのかよ、オーヴェ」
酷い、ひどすぎるぜダーリンと情けない声を出してウーヴェを非難したリオンは、腕の中の身体が揺れ血の気が失せた顔が上げられたのに気付くと、その顎に手を掛けて軽く持ち上げる。
「な、あの時の誓いは嘘じゃねぇだろ?」
「……あ、ああ……」
「じゃあさ、今お前が言おうとしてるの、飲み込むんじゃ無くて吐き出せよ」
口にすれば本当になると恐れるお前の癖は知っているが口にすることで本当にならないように二人手を取ってそれを阻止しようと誘うと、ウーヴェの頭が一つ上下に揺れる。
「リーオ……俺、は……」
幸せになっても良いのか。お前の重荷になっていないのか。
その疑問の声に瞬きをしたリオンはウーヴェの背中を今度はシーツに預けると、顔の横に腕をついて額と額を重ね合わせて笑みを浮かべる。
「えー、オーヴェ、俺と一緒に幸せになるの、イヤ?」
「そ、んなことは……っ!」
「だったら幸せになっても良いんだよ」
いや、なってもいいのではなくなるべきなんだと口調を少しだけ強くしたリオンは、驚いた様に目を見張るウーヴェの顔を見下ろし、ウーヴェが惚れてやまない太い笑みを浮かべて破顔一笑。
「お前と幸せになる為に俺は生まれてきたんだからな」
だからお前も俺と一緒に幸せになれと優しい強さで命じたリオンは、ウーヴェがただ目を見張っている様に目を細め、お前に出逢ってから生まれてきた意味を知り、生きていく意味を見つけたとも笑うと、ウーヴェの唇が軽く噛み締められる。
「いっぱい色々経験してきたけどさ、またこれからもあるかも知れねぇけど、お前とだったら乗り越えられる」
だからお前もそう思ってくれ、左足の傷を文字通りの足枷にしないでくれと声音を変えてひっそりと懇願したリオンに一つ頷いたウーヴェは、広い背中に腕を回してしがみつくように抱きしめると己だけが呼べる名を呼んで身を寄せる。
「リーオ、俺の太陽……」
あの日の誓いは嘘では無いしまた思い出させてくれてありがとうとくすんだ金髪に隠れる耳に囁くと、納得と安堵の溜息が顔のすぐ側に零れ落ちる。
「ひでぇぜ、オーヴェ」
「……うん、悪かった」
「許して欲しいのなら、キス」
どんなことがあっても互いを信じ側にいて支え合い手を繋いでいようとの誓いを危うく破ってしまいかねない言葉を吐露したウーヴェにリオンが軽口で許しを与えるが、言葉にしたのは許して欲しいのならばキスをしなさいと言う尊大な命令だった。
キスを強請る言葉でウーヴェを喪うという恐怖を覆い隠したリオンに気付いたウーヴェは、己が恐怖に囚われた結果リオンにもそれを感じさせていたことにも気づき、足の痛みなどすっかりと忘れた顔でリオンを見上げると、リオンの顔を逆に見下ろすように寝返りを打って体勢を入れ替える。
「リーオ。許してくれ」
「……仕方ないなぁ」
そんな顔で許せと言われれば許すしか無いと器用に肩を竦めるリオンに今夜初めて笑みを浮かべ、額と鼻の頭、頬の高い場所にキスをしていくと期待に満ちた目が次の場所へと誘ってきたため、その誘いに乗るように薄く開く唇にキスをするとリオンの腕がウーヴェの首の後ろでどこにも行かないようにとの思いを込めて交差する。
「リーオ」
「……オーヴェ、もっと」
たった一度のキスで許されると思うのかと笑われ、許して欲しいがそれだけでは無理だとも分かっていると笑い返すと二人の間に小さな笑い声が響き合う。
「オーヴェ、俺のオーヴェ。……二人で幸せになろうぜ」
あの日、神と愛する人たちの前で誓ったように二人で幸せになろう、その為に自分たちは生まれてきたのだからと笑うリオンの額に額を重ねてうんと小さく返したウーヴェは、そんなお前が重荷のはずが無いとも返されて軽く息をのむ。
「もしもお前が重荷だったとしても……そんなお前ごと支えてやる」
だから大船に乗ったつもりでいなさいと胸を張られてつい笑みを零したウーヴェは、船どころか何があっても揺らぐことの無い大地にしっかりと支えられているのだと実感し、リオンの肩に額を宛がって身を寄せるのだった。
リオンが作ってくれた命の水を時間を掛けて飲み干し促されるままにベッドに横になったウーヴェは、同じように潜り込んでくるリオンの為にコンフォーターを持ち上げる。
「ダンケ、オーヴェ」
素早く潜り込んで少し冷えた身体をウーヴェに寄せることで温めようとしたリオンだったが、意外な冷たさに驚いたウーヴェが身を竦めて距離をとろうとしたため、じろりと横目で最愛の伴侶を睨む。
「逃げるなんてひでぇ」
「……冷たいんだ、不可抗力だと思わないか、リーオ?」
「思わねぇ!」
リオンの不満にウーヴェが己は悪くないと返すと、獣宜しくリオンが吼える。
「ああ、うるさい」
「だー、さっきまでのあの可愛いオーヴェは何だったんだよ!」
俺がいなければ生きていけない、そんな顔をしていた可愛いウーヴェはどこに行ったんだと吼えるリオンに露骨に嫌そうな顔を向けたウーヴェは、男に向かって可愛いなどと言うなと言い放ち、恨みがましい目で睨んでくる伴侶の尖った唇に小さな音を立ててキスをする。
「もう夜も遅いんだ。あまり騒がないでくれ」
「むぅ」
リオンを宥める為のキスと言葉に機嫌を直す切っ掛けを掴んだリオンは、不満を一言だけ零した後、寝返りを打ってウーヴェの頭の下に腕を差し入れる。
「ほら、オーヴェ」
「ああ……お休み、リーオ」
「うん、お休み、オーヴェ」
万が一夢を見たとしても俺がいるから大丈夫だし夢の続きはどれほど願ったとしても見られないのだから安心して寝ろと笑って鼻先にキスをすれば、ウーヴェのターコイズ色の双眸が姿を隠す。
リオンの腕枕で寝ることに今やすっかりと慣れてしまったウーヴェは、少し前に夢に魘されて飛び起きたことを思えばやけにあっさりと眠りに向かうことが出来る己が不思議だったが、そうなるように仕向けてくれた存在がすぐ側にいて穏やかな顔で見守ってくれているからだと認識したのを最後に意識を手放す。
程なくして聞こえてきた穏やかな寝息にリオンが胸を撫で下ろすと同時に小さくあくびをし、一足先に眠りに落ちたウーヴェを追いかけるように目を閉じるのだった。
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