王宮の空気が、少しだけ張り詰めていた。 春の終わり、風は穏やかでも、廊下の空気はどこか緊張していた。
「アイリス、王様がお呼びです」 侍女の声に、私は思わず手を止めた。
「…私が、ですか?」
「はい。王妃様と王子様の最近の振る舞いについて、話を聞きたいとのことです」
私は、胸がざわついた。 セレナとレオが、私を守るように振る舞ってくれた日々。 それが、王様の目に“変化”として映ったのだろう。
謁見の間は、静かだった。 王様は、背筋を伸ばして玉座に座り、鋭い目で私を見ていた。
「君が…毒を食べたメイド”か」
低く、重い声だった。
「はい。味見のつもりでしたが、結果的に…」
「王妃と王子が、君に随分と心を許しているようだ。 その理由を、君自身の言葉で説明してもらおう」
私は、深く一礼してから、まっすぐ王様を見た。
「私は、ただ正直に話しているだけです。 紅茶が渋ければ渋いと言い、果実が甘ければ甘いと言う。 それが、王妃様と王子様の心を少しだけ軽くしたのかもしれません」
王様は、眉をひそめた。
「正直であることが、王宮で許されると思うか?」
「許されるかどうかは、わかりません。 でも、私は“誰かの役割”ではなく“私自身”としてここにいたいと思っています」
沈黙が流れた。 玉座の上で、王様はじっと私を見ていた。
「君は…変わっているな」
「よく言われます。母にも、食べ方が変わってる”と」
王様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「王妃が笑うようになったのは、君の影響か?」
「そうだとしたら、光栄です。 でも、セレナ様はもともと、優しくて茶目っ気のある方です。 私は、それを引き出すきっかけになっただけかもしれません」
「王子が君を“大切な人”と呼んだそうだな」
「…はい。驚きましたが、嬉しかったです」
王様は、深く息を吐いた。
「君のような者が、王宮にいることに最初は疑問を感じた。 だが、話してみると…不思議と、空気が柔らかくなる」
私は、少しだけ笑った。
「それ、よく言われます。 “空気係”だと、王子様にも言われました」
王様は、玉座から立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
「君は、王宮の秩序を乱す者ではない。 むしろ、秩序に風を通す者かもしれんな」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。 私は、ただ素直に生きているだけです」
王様は、私の赤毛を見て、ぽつりと言った。
「夕焼けのようだな。 だが、沈むのではなく、照らしている」
その言葉に、胸が熱くなった。
謁見の間を出たあと、セレナとレオが待っていた。
「どうだった?」
レオが、心配そうに聞いた。
「…王様、少しだけ笑いました」
私は、そう答えた。
セレナは、目を細めて微笑んだ。
「それは、王宮にとって大きな一歩よ」
セレナの言葉に私は自分を誇らしく思えるようになった。
王宮の庭に、初夏の陽射しが差し込んでいた。 果実の香りが風に乗り、紅茶の湯気がふわりと立ち上る。 私は、セレナといつものようにお茶を楽しんでいた。
「今日の紅茶、少しだけ甘いですね」
私がそう言うと、セレナは笑った。
「あなたが戻ってきてから、甘みを足すようになったの。 渋みだけじゃ、物足りなくなって」
そのとき、庭の奥から足音が聞こえた。 重く、でもどこか控えめな足取り。
「…王様?」
私は思わず立ち上がった。
「父上が、来るって言ってた」
レオが、果実の籠を持って現れた。
王様は、少しだけぎこちない様子で庭に入ってきた。 でも、その目はどこか柔らかかった。
「茶会に、参加してもよいか?」
その言葉に、セレナがにっこりと微笑んだ。
「もちろん。あなたが来てくれるなんて、嬉しいわ」
王様は、椅子に腰を下ろし、紅茶を受け取った。 しばらく沈黙が続いたあと、彼はぽつりと言った。
「君たちは、名前で呼び合っているのか?」
私は、少しだけ緊張しながら答えた。
「はい。セレナとレオは、私にそう呼ばせてくれています」
王様は、紅茶を見つめながら言った。
「私も…名前で呼ばれたい」
その言葉に、三人とも目を見開いた。
「え?」
レオが、思わず声を漏らした。
「父上が…?」
「“王様”では、距離がある。 君たちのように、柔らかい空気の中で、名で呼ばれるのも悪くないと思った」
セレナは、目を細めて微笑んだ。少し得意げで私は笑ってしまう。
「では、あなたの名前を教えてくださる?」
王様は、少しだけ照れたように言った。
「…アデルだ」
私は、紅茶のカップを持ったまま、そっと言った。
「じゃあ…アデル様、今日の紅茶はいかがですか?」
王様――いや、アデルは、ふっと笑った。
「渋みと甘みのバランスが、ちょうどよい。 君の味見は、信頼できるな」
その言葉に、セレナとレオが顔を見合わせて笑った。
「父上が笑ったの、久しぶりに見た」
レオが、果実を差し出しながら言った。
「アデル、これも味見してみてください」
アデルは、果実を受け取り、一口かじった。
「甘い。だが、芯に少し酸味がある。 …君のようだな、アイリス」
私は、思わず吹き出した。
「それ、褒め言葉ですか?」
「もちろん。素直で、芯がある。 それが、王宮に風を通す理由だ」
その午後、王宮の庭には、四人の笑い声が響いていた。 “王妃”“王子”“王様”という肩書きではなく―― “セレナ”“レオ”“アデル”として、ただの人として。
そして私は、赤毛のアイリスとして、 その輪の中に、自然と座っていた。
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