テラーノベル
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初夏の王宮は、果実の香りと穏やかな風に包まれていた。 でも、その空気の奥に、見えないざわめきが潜んでいた。
「アイリス様、最近王族の方々と…随分親しくされてますね」
廊下で声をかけてきたのは、侍女長のエリナだった。 彼女は、王宮の秩序を守ることに誇りを持つ人物。
「はい。話し相手として、日々お茶を…」
「それが、問題なのです」
エリナの声は冷たかった。
「あなたは、元は厨房のメイド。 王妃様や王子様、そして王様にまで名で呼ばれるなど――前例がありません」
私は、言葉を失った。
「私は…ただ、素直に話しているだけです」
「それが、秩序を乱すのです。 王宮には、守るべき距離があります」
その言葉は、まるで冷たい霧のように胸に広がった。
その日の午後、セレナの部屋で紅茶を淹れながら、私はその出来事を話した。
「エリナ様に“前例がない”と言われました。 私がここにいることが、王宮の秩序を乱していると」
セレナは、静かにカップを置いた。
「前例がないことは、悪いことではないわ。 でも、王宮ではそれが“恐れ”に変わることもある」
「私は…ここにいて、いいんでしょうか」
「アイリス」
セレナは、私の手を取った。
「あなたがいることで、私たちは変われた。 でも、それを受け入れられない人もいる。 だからこそ、改革が必要なのよ」
その夜、レオが庭で私を待っていた。
「君が傷ついてるって、母上から聞いた」 彼は、果実の枝を揺らしながら言った。
「私は、ただ…素直に話してるだけなのに。 それが“贔屓”に見えるなら、どうすればいいのか…」
レオは、私の赤毛を見て、静かに言った。
「君が“贔屓”されてるんじゃない。 君が“信頼”されてるだけだ。 それを理解できない人が、壁を作ってる」
私は、少しだけ笑った。
「でも、その壁は…高いです」
「じゃあ、君の素直さで、少しずつ崩していこう。 僕たちが、君の隣にいることで」
翌朝、アデルが私を謁見の間に呼んだ。
「王宮の空気が揺れている。 君の存在が、秩序に波紋を起こしているのは事実だ」
私は、黙ってうつむいた。
「だが、それは“変化の兆し”でもある。 改革を始める前に、まずこの揺れを受け止めねばならん」
アデルは、私に向かって言った。
「アイリス。君は、王宮の“鏡”だ。 君に向けられる言葉は、王族への反応でもある。 だからこそ、君の素直さが必要だ」
私は、深く一礼した。
「…わかりました。 私は、渋みも甘みも、正直に伝えます。 それが、王宮の空気を整える一歩になるなら」
王宮の空気私が揺らしてしまった。 でもその揺れは、変化の前触れ。 いい方向へ揺れていると思う。わかってもらえるように頑張るしかない。
王宮の空気が、確かに変わり始めていた。 アデルの提案で始まった“改革”は、まず内装からだった。
「アイリス、君の目で見て、暗いと思う場所を教えてくれ」
アデルは、そう言って私に地図を渡した。
私は、廊下の隅、窓のない部屋、重たい色のじゅうたん―― 王宮の“影”を歩きながら、少しずつ“光”の場所を探していった。
「この廊下、昼間でも暗いです。 窓を増やして、白い壁にしたら、風も通ります」
「このじゅうたん、色が重すぎて、足音が沈んでしまいます。 明るい色に変えれば、歩く音も軽くなるかも」
セレナは、私の提案に耳を傾けながら言った。
「あなたの目は、空気を感じる目ね。 それが、王宮を柔らかくしていく」
レオは、メイドや執事たちに声をかけた。
「これからは、名前で呼び合おう。 肩書きじゃなく、心でつながるために」
最初は戸惑いがあった。 でも、少しずつ名前が飛び交うようになり、笑い声が増えていった。
「ルカ、今日の掃除、ありがとう」 「マリア、紅茶の香り、すごく良かったよ」
王宮は、明るくなっていった。 光が差し込み、風が通り、笑顔が増えた。
でも――その光が強くなるほど、影も濃くなる。
ある夜、私は廊下の奥で、違和感を覚えた。 鏡の前に立ったとき、そこに“映らない何か”が私の後ろにあった。
「…壁?」
私は、鏡の奥に、ぼんやりとした“気配”を感じた。
その瞬間、背後から足音が聞こえた。
「あなたが、王宮を変えたのね」
冷たい声だった。
振り向くと、そこに侍女長のエリナが立っていた。”映らない何か”は彼女だった? 嫌な空気を感じて私は彼女の手に視線が向いた。そこには、銀のナイフがあった。
「エリナ様…?」
「私は、秩序を守る者。 あなたの“素直さ”は、秩序を壊す毒」
私は、静かに言った。
「でも、毒を食べた私は、王宮を守ったつもりです。 それが、壊すことになるなら…私は、どうすれば」
エリナの目が揺れた。
「私は…ずっと見ていた。 王妃様が笑い、王子様が心を開き、王様までもが名前で呼ばれるようになった。 それが、怖かった」
私は、一歩だけ前に出た。
「怖いのは、変わることですか? それとも、変わらない自分ですか?」
エリナは、ナイフを握りしめたまま、動かなかった。
「私は…名前で呼ばれたことがない。 誰も、私を“エリナ”と呼ばなかった」
私は、そっと手を伸ばした。
「じゃあ、今呼びます。 エリナさん、あなたは…王宮の空気を守ってくれた人です」
その言葉に、エリナの手からナイフが落ちた。 鏡の奥にあった“壁”が、音もなく崩れていくようだった。
その夜、王宮の空気は、静かに変わった。 最後の影が、光に溶けていくのを感じた。
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