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「週末、お前と旅行にでも行きたいな」
「えっ?」
専務室に行ったのぞみに、京平はそんなことを言ってきた。
最近、やたら、お茶持ってこいだの、ファイル持ってこいだのが増えたので。
少しは信頼され始めたのかな、と思っていたのに。
こんなくだらぬことを言うためだったのか?
仕事のうえでは、あまり認められていない気がして、のぞみは不満げに京平を見る。
五つの考え事が同時にできると言い張る京平は仕事をしながら、言ってきた。
「よく考えたら、うちの親には、もう挨拶したし、今週末、うちに行かなくてもいいだろう」
「いや、お母様にしかしてませんが」
とのぞみは言ったが、京平は、
「あっちはいい」
と言ってくる。
あっちとは父親のことだろうか、と思っていると、
「結婚するんだ。
ああ、そうかで終わるから別にいい」
と言ったあとで、京平は、突然、妄想を語り出す。
「お前と雪山にでも行きたいな」
何故、雪山。
そして、今、春です、専務、とのぞみは春の日差しに満ちた外を眺めた。
ぞわっと来ないよう、空だけを見つめる。
「何処かにまだ雪が降ってるところはないだろうかな」
だから、何故、雪山、と思っていると、ようやく顔を上げた京平は、
「雪で周りから隔絶されて、二人きりな感じがするだろ」
と言ってくる。
いや、二人きりにも限度があると思うんですが、と思うのぞみに、
「そのうち、橋が落ちて、誰も俺たちのところに来られなくなるんだ」
と京平は言った。
それは確実に殺人事件が起きますね。
私が今まで読んできた大量の本からの推察ですが。
ええ……。
「復旧まで時間がかかって、何週間も二人きり――」
そんな感じだと、そのうち、水や食料がなくなって、サバイバルな感じになりますよ。
のぞみの頭の中では専務と二人、物陰に潜み、雪の中を歩くマンモスを狙っていた。
「しかし、近くに携帯の基地局があって、光ファイバーが通ってないとな。
仕事ができないじゃないか」
仕事はするのか。
っていうか、全然、世間から隔絶されてないじゃないですか、それ、とのぞみが思っていると、ふと、正気に戻ったように、京平が呟いた。
「……中高生のときに、そんな阿呆な妄想をしなかったから、今、してるんだろうかな、俺は」
ご自分で阿呆な妄想だとわかってるのなら、大丈夫なんじゃないでしょうかね、と思っていると、京平は時計を見、言ってくる。
「お前は、もう帰る時間か。
気をつけて帰れよ」
「はあ、異人さんや、いいジイさんには、ついて行かないようにします」
と言うと、なんだ、それは、という顔をしていた。
よし、お手洗いに行って帰ろう、と思ってトイレに行ったのぞみだったが、出ようとした瞬間、出口を手で塞がれる。
ひーっ、壁ドンッ?
いや、後ろに壁ないが。
しかも、此処は女子トイレなんだが。
どっちかといえば、カツアゲか?
いや、こんな会社にヤンキー居るわけないがっ、と京平も顔負けのスピードで、瞬時に、いろいろ考えながら見上げたそこには、万美子が居た。
出ようとしたのぞみを中に向かって、しっしと手で追う。
……ドアを閉められましたよ。
不幸にも、トイレの中に他に人は居なかった。
まあ、居たとしても、万美子の迫力に震えがって出て来ないと思うが、などと考えていると、
「ねえ、あんた、祐人となにかあった?」
と万美子が訊いてくる。
「……ありません」
と答えると、腕を組み、切れ長の目で自分を見ていた万美子は、
「嘘のつけない子ね」
と溜息をつき、言ってくる。
「あっ、いえでも、あのー、御堂さん、別に私のこと、好きとかじゃないと思うので。
酔った弾みですよ、きっと」
と言うと、
「なんでそう言い切れるのよ」
と万美子は言う。
「いやだって、私は御堂さんの好みじゃないと思います」
こんな綺麗で見るからに、大人の女って感じの人に言い寄られてるのに、私を選ぶとかないだろう、と思って言うと、万美子は怒って言い出した。
「なに言ってんのよっ。
変わってんのよ、祐人はっ。
この私より、おねえちゃんが好きとか言うしっ。
おねえちゃんは、結婚して、結構太って、少し人相も変わったの。
まあ、それはそれで幸せそうでいいんだけど。
なのに、祐人には、おねえちゃんが、前のままの姿で見えてるみたいなのよ。
どんだけ脳内で補正されてんのよっ。
こんな美人でナイスバディな私が目の前に居るのにっ」
まあまあ、永井さん、とのぞみは、なだめる。
「あんた、祐人と何処までしたのよ。
祐人に迫られて、祐人を好きにならない女なんて居るわけないわっ」
恋は人をおかしくさせるようですね……、とのぞみは思っていた。
御堂さん、仕事中はかなり厳しいので、苦手な人も結構居ると思うんですが。
そのうち、誰かトイレに入ってきてくれるかも、と淡い期待を抱いていたのだが、ドアの向こうにも、かなりの剣幕でまくし立てている万美子の声は聞こえていることだろう。
誰も入ってきてくれないだろうな、と思ったのぞみは観念した。
「いや、あの、私は他にその……」
好きな人が――
居るのだろうか。
好きなのだろうか。
うむ……。
「なんなのよ、はっきり言いなさいよ」
黙り込んだのぞみを万美子が一喝してくる。
ひいっ。
まだ、好きか好きでないか、ほんのり迷っていたい時期なんですけど~と思っていたが、強制的におのれの感情を決めさせられる。
「す、好きなのかもしれませんねっ、はいっ」
「誰が?
秘書の吉川? 同期の森村?」
と万美子は、ぼちぼのイケメンの名を挙げてくるが。
「……専務です」
「え? 誰?」
「専務です」
「……気は確か?」
いや、私が専務を好きではいけませんか?
釣り合っていないと言うのですか。
でも、専務は私と雪山に行って、マンモスを倒したい言ってますよ、と思いながら、
「私が好きなのは専務なんです。
実はその、入社前からの知り合いで……」
えーっ、と万美子が声を上げるので、慌てて口を塞ごうとしたが、その前に止めてくれた。
「なにそれっ。
まさか付き合ってるとか?」
まさか付き合ってるんですかね?
自分でもまだ、いまいち、専務と居るこの状況に馴染めていないのですが、と思いながら、のぞみが答えないでいると、肯定ととったのか、万美子は、
「じゃあ、専務があんたをこの会社に入れたとか?」
と訊いてくる。
「なんでですか……」
「いや、あんたの顔をいつも見ていたかったとか」
「そんなロマンティックな話ならいいんですが。
専務は私が此処を受けていたことは知りませんでした。
俺なら落としていると言っています」
うん、まあ、そういうかもね、と厳しいお答えが返ってきたが、
「でもさ。
あんたが居ると、なんか秘書室の空気が和むのよ」
と万美子は言ってきた。
「なんでかしらね?
ギスギスしてないから?
やる気がないから?」
いや、やる気はありますからね、永井さん……。
「女の子も最近、上昇志向が強い子が多くて。
入社早々、私が私が、みたいな感じで、教えるのも疲れるのよね。
まず、目の前の仕事から覚えなさいよって言うのに。
やる気があるのはいいことなんだけど。
ちょっと先走りがちで――
ああ、でも、あんたは、もうちょっと先走りなさいよ」
おかしい。
御堂さんとのことを問い詰められていたはずなのに、いつの間にか、色気のない話になり、叱られている。
「でもまあ、仕事中、あんたの莫迦みたいに笑ってる顔見ると、ちょっとホッとするのよね」
……褒められてるのか、けなされてるのか、よくわからない、と思っていると、
「でもまあ、それとこれとは別だからね。
っていうか、あんた、祐人とキスでもしたんでしょっ?
それなのに、専務の方がいいなんて、どういうことなの?
私なら、そんなことされたら、イチコロよっ」
とよくわからないことで怒られる。
ハートマークでイチコロではなかったのですか。
それは男子のみですか、と思いながら、仕事で叱責されるときのように、のぞみは、うつむき、ただただ耐えていた。
万美子から解放されたのぞみは、永井さん、よっぽど、御堂さんのことが好きなんだろうなあ、と思いながら、秘書室に戻った。
祐人はそっちの秘書室の方に居て、仕事で来たらしい同期の人と話していた。
ボウリング大会でも見た人だ。
確か、山下さん、って名前だったな。
今、山下って聞こえたからな……。
人の顔も名前も相変わらず、うろ覚えだ。
考えてみれば、高三の担任の顔と名前を覚えていただけで、奇跡ではあるまいか、と京平にどつかれそうなことを思う。
そんなことを考えながら、帰り支度をしていると、山下が、古いパソコンの載ったデスクの引き出しから物を取り出す祐人に言っていた。
「あれ?
そっちもお前のデスクなの?」
端のお誕生日席のようなところに座っている祐人の右前がのぞみで、左前が変色している古いパソコンと資料の積まれたデスクなのだが。
祐人はこのパソコンでよく昔のデータを読み出したりしているので、ほぼ祐人専用パソコンデスクとなっているのだ。
「いいだろう。
俺の机は二個あるんだよ」
と祐人は子どものように喜んでいる。
それを見て、山下も笑い、
「ずるいと思わない? 坂下さん」
と話を振ってきた。
「そうですねー。
でも、そのぶん働けってことでしょうねー」
と笑って言うと、
「おい……」
と祐人に睨まれたが、山下は楽しそうに笑っていた。
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