あれは確か、8年くらい前の事だった
母親の怒鳴り声に目が覚めてリビングに行くとその本人は何処にも居なくなっていて、代わりに兄ちゃんがその場に座り込んでいた
駆け寄って顔を覗くと頬を赤く腫らしながら、ただ静かに涙を流していた
強く名前を呼んでも気付かずに、小さくごめんなさいと繰り返す兄ちゃん
ようやく気付いて俺を見たその瞳には光は宿っておらず、ぐるぐると黒く濁っていた
『…おかぁさん、出てっちゃったぁ…』
嗚咽を零しながら兄ちゃんはずっと謝っていた
母が出て行ったのは俺の所為だと、何度否定しても、兄ちゃんは呪文のように繰り返していた
母は普段から遊び呆けて碌に家にも帰らず、帰って来たかと思えば父と大喧嘩をしていた
2年前に既に出て行った父はそれなりに俺達の世話をしてくれて、優しい父親だった
だが、俺達は一緒に連れて行く程の存在ではなかった
みんな最初こそ涙を流したが、数日すればいつも通りの生活に戻っていた
父が居なくなり、母は狂変し、俺たちに暴力を振るう様になった
振り翳された掌が俺に向かって来て、目を強く瞑るが痛みは来ず、激しい音だけが響いて
『……っにいちゃん!!!』
目を開くと目の前には兄ちゃんが座り込んでいて、頭が真っ白になった
『母さんもう辞めて!』
なーくんが母の腕にしがみつくが母は怒鳴り散らかすだけで何も聞こえていない様だ
『…にぃ、ちゃ』
『…いやぁ、やっぱ慣れないねぇ。さとちゃんは怪我とかしてない?』
顔を上げる兄ちゃんの頬は赤く腫れ上がっていた
『おれは…へいき…』
『そっか、なら良かった』
兄ちゃんは頭を撫でて、にっこりと微笑んだ
そっと頬に触れるとピクリと肩を揺らし、頬からは熱を感じる
目の前が真っ赤に染まり、これ以上ない程の怒りを抱いた事は、今でも鮮明に覚えている
それからも母の暴力は続いて、兄ちゃんはずっと俺たちを庇って母の暴力を受けていたのだ
そんな人に流す涙などある訳がないのに、今目の前にいる1番被害を受けていた兄ちゃんは『俺の所為でごめんなさい』と涙を流している
そうじゃないと何度も言っているのに聞く耳を持たずにずっと謝っていた
兄ちゃんは昔からそうだ
1度決めつけて仕舞えば頑なにその意思を曲げようとしない
頑固者
それから、徐々に兄ちゃんは可笑しくなっていった
学校に行くたび、いい点を取ったテストを見せるたび、家事を手伝おうとするたび、兄ちゃんは表情を歪ませて
笑顔を見せなくなった
幸せだったんだ
ずっと
兄ちゃんの笑顔が見られるだけで
兄ちゃんが側に居てくれるだけで
なのに
それなのにー…
その幸せは崩れ落ち、一瞬で地獄へと変わってしまった
「________……、」
窓明かりが顔を照らし、目が覚めた
寝返りを打って仰向けになり、目にかかった前髪を払う
また今日が、始まる
あれからもう学校にも行かずに、ずっと、この家にいる
お腹が空いた時と、トイレと、お風呂以外は、ずっとこのベッドの中
誰も、何も言わなかった
行きたくないと言えば、なーくんは優しく笑って頭を撫でてくれた
その手が、あの人だったら…なんて最低なことを思いながら、部屋に戻ったのは、1週間ほど前のこと
その会話を聞いていたのか、それとも聞かされたのか、その日から兄ちゃんが俺を起こすことは無くなって、ころんを起こすとそのまま部屋を出ていった
安心すると同時に、心がぽっかり空いた気がする
スマホを手に取り、時刻を確認するともう昼近くになっていた
「………何やってんだろ。俺」
ゆっくりと体を起こすとパキパキっと骨が鳴る
深く息を吐いて何か食べようと体を動かした
キッチンに行き、冷蔵庫を物色した後にソファーに座ってバナナを口に頬張る
3口程でなくなったバナナによくもまぁこれで腹がいっぱいになるわと弟を思い浮かべながら、最後の一口を飲み込んで背もたれに寄りかかりぼーっと一点を見つめる
『____』
…………嫌になる
ふと、カチャリとドアの開く音がした
「………?」
それと同時にドサっという音が響く
腰を上げてリビングの扉を開けて、目を見開く
「……ころん…?」
玄関には、蹲るように倒れているころんがいた
コメント
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フォロ失です!
すごく深そうなお話で、続きがとっても気になります
続きは♡500〜