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聖杯
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聖杯
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前日譚 祈りの五年間
第四話 影に咲く花
二年目の春、間桐桜は、ひとりで桜並木の下を歩いていた。
冬木の春は、少し遅れてやって来る。
川沿いの桜が満開になる頃、街の空気はようやく柔らかくなり、冬の名残を含んだ風が、薄桃色の花びらを運んでいく。
桜は、その花びらを目で追った。
ひらひらと落ちる。
水面に触れる。
流れていく。
それだけのことを、彼女はしばらく見つめていた。
昔の自分なら、きっと何も考えずに通り過ぎていた。
あるいは、綺麗だと思っても、綺麗だと言えなかったかもしれない。
けれど今は、思う。
綺麗だ、と。
そして、その感想を自分の中に置いておける。
誰かに許可をもらわなくても。
誰かに否定されるのを恐れなくても。
「……綺麗」
小さく呟いて、桜は少しだけ笑った。
その声は風に消える。
けれど、消えたわけではない。
自分が言った。
自分が思った。
その事実だけは、胸の奥に残る。
桜はそれを、最近になって少しずつ知り始めていた。
◆
聖杯戦争が終わってから、二度目の春だった。
遠坂凛は時計塔にいる。
衛宮士郎は冬木に残り、霊脈の簡易監視と日常の維持を続けている。
藤村大河は相変わらず騒がしく、衛宮邸の朝はだいたい賑やかだ。
桜も、以前と同じように衛宮邸へ通っていた。
けれど、すべてが以前と同じではない。
同じ朝食。
同じ台所。
同じ通学路。
同じ呼び方。
その中に、少しずつ違うものが混ざり始めている。
桜はもう、ただ誰かのためだけに台所へ立つわけではなくなった。
誰かに必要とされるためだけに、笑うわけでもなくなった。
まだ完全ではない。
不安になる日もある。
自分の居場所が急になくなるような気がする日もある。
何かを間違えただけで、全部が壊れてしまうと思う日もある。
それでも、前より少しだけ、自分の足で立っている。
そのことを、士郎は気づいていた。
そして、気づいていても、必要以上には触れなかった。
それが桜にはありがたかった。
ある朝、衛宮邸の台所で、桜は味噌汁の鍋を見ながら言った。
「先輩」
「うん?」
士郎は隣で魚を焼いていた。
「今日、お味噌少し変えました」
「そうなのか?」
「はい。前より少し甘めです」
士郎は味見をする。
「本当だ。うまい」
「よかった」
桜はほっとしたように笑う。
士郎は魚を返しながら、何気なく言った。
「桜の味って感じがする」
桜の手が止まった。
「私の、味ですか?」
「ああ。優しいけど、薄くない」
桜は鍋を見つめた。
その言葉は、ただの感想だったのだろう。
士郎は深く考えずに言ったに違いない。
けれど、桜には不思議と胸に残った。
自分の味。
誰かの真似ではなく。
誰かに合わせるだけでもなく。
自分が選んだ味。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「いえ。何でもありません」
桜は小さく笑い、味噌汁を椀へ注いだ。
◆
その日の午後、桜は遠坂凛からの手紙を受け取った。
時計塔から届く凛の手紙は、いつも少し不思議だった。
文章はきちんとしているのに、時々妙に雑になる。
体調を気遣う言葉の後に、士郎がちゃんと手順書を読んでいるか確認してほしいと書かれている。
自分の近況を短く書いた後に、なぜか冬木の霊脈観測の注意点が三行ほど追加されている。
姉らしいと言えば姉らしい。
魔術師らしいと言えば、あまりにも魔術師らしい。
桜は衛宮邸の縁側で、その手紙を読んでいた。
『桜へ。
そっちはどう?
士郎が変なものを拾ってきたり、勝手に危ない場所へ行ったりしたら、すぐ私に連絡すること。
本人に任せると、善意と根性で事故を起こすから。
時計塔は相変わらず面倒。
人も面倒。
授業も面倒。
でも学ぶことは多い。
最近、冬木の記録を見直している。
一年目の白い線、白い花、白い光。
全部まだ意味は分からないけど、念のため記録は続けて。
それと。
無理して元気なふりをしなくていい。
怒っていい。
嫌なら嫌って言っていい。
私にも。
すぐに上手くできなくてもいい。
私もたぶん、上手くないから。
凛』
桜は、最後の部分を何度も読み返した。
怒っていい。
嫌なら嫌って言っていい。
私にも。
その文字は、紙の上にあるだけなのに、とても重かった。
桜は手紙を膝の上に置き、庭を見た。
衛宮邸の庭には、春の光が落ちている。
風鈴はまだ出ていない。
けれど、縁側の空気は少し暖かい。
怒っていい。
そう言われても、すぐに怒れるわけではない。
怒り方を知らない。
怒ってもいい相手と、怒ってはいけない相手の区別が、まだうまくつかない。
怒った後、相手がいなくならないという保証もない。
だから怖い。
けれど、姉は書いた。
私にも。
桜は手紙を胸に当てた。
「姉さん……」
その声は小さかった。
会いたい、とはまだ言えなかった。
寂しい、とも言えなかった。
怒っている、とも、許したい、とも、何もはっきりとは言えなかった。
けれど、言葉にできない感情があることを、自分で認めることはできた。
それだけで、少し前へ進んだ気がした。
◆
夕方、桜はひとりで間桐邸へ戻った。
門を開けると、古い屋敷が静かに立っている。
以前ほど恐ろしくはない。
けれど、完全に平気になったわけでもない。
この家には、重い空気がある。
壁に染み込んだ沈黙。
廊下に残った足音。
部屋の隅に溜まった冷たさ。
もう終わったことだと、頭では分かっている。
けれど、身体は時々覚えている。
怖かった時間。
逃げられなかった夜。
声を出せなかった自分。
桜は玄関で靴を脱ぎ、しばらく廊下を見つめた。
「ただいま」
返事はない。
それでも、言った。
この家に戻る自分へ。
この家にまだ残っている過去へ。
そして、もう黙っているだけではない自分へ。
二階の部屋へ向かおうとした時、桜は足を止めた。
地下へ続く扉。
そこから、微かな魔力の気配がした。
以前なら、絶対に近づかなかった。
今でも近づきたくはない。
だが、その気配は禍々しいものではなかった。
むしろ、弱い。
消えかけの火のような、あるいは暗い場所で震える小さな影のような。
桜は扉の前に立つ。
手を伸ばしかけ、止めた。
呼吸が浅くなる。
心臓が速くなる。
怖い。
当然だ。
ここを怖いと思うのは、間違いではない。
桜は凛の手紙を思い出した。
無理して元気なふりをしなくていい。
怒っていい。
嫌なら嫌って言っていい。
桜は小さく息を吸った。
「嫌です」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
地下へか。
過去へか。
この家へか。
それとも、怖いのに平気なふりをしようとする自分へか。
「今日は、行きません」
そう言って、桜は扉から手を離した。
逃げたのではない。
選んだ。
今日は行かない。
その選択を、自分で決めた。
桜は二階へ上がった。
その背後で、地下の扉の向こうにある小さな魔力反応が、ほんの一瞬だけ揺れた。
黒いものではなかった。
白いものでもなかった。
ただ、暗い場所で眠る小さな残り香。
桜はそれを知らない。
知らないまま、自分の部屋へ戻った。
◆
その夜、桜は士郎へ電話をした。
「先輩」
『桜? どうした?』
士郎の声は、少し驚いていた。
桜が自分から夜に電話をすることは、まだ少なかったからだ。
「少し、話してもいいですか」
『もちろん』
その返事が早くて、桜は少し安心した。
電話の向こうから、台所の音が聞こえる。
水の音。
何かを置く音。
たぶん、士郎は明日の準備をしているのだろう。
「今日、家の地下から、少しだけ魔力の気配がしました」
電話の向こうで、音が止まった。
『危ない感じか?』
「分かりません。でも、強くはなかったです」
『見に行ったのか?』
「行きませんでした」
桜は少しだけ身構えた。
怒られるかもしれない、と思った。
けれど士郎はすぐに言った。
『そっか。行かなくてよかった』
桜は目を瞬かせる。
「よかった、ですか?」
『桜が行きたくないと思ったなら、それでいい。無理に確認しなくていい』
その言葉に、桜の胸が少しだけ温かくなった。
「でも、異常かもしれません」
『だったら、俺が明日一緒に見る。遠坂にも報告する』
「姉さんにも?」
『うん。怒るだろうけど』
桜は小さく笑った。
「怒りますね」
『絶対怒るな』
二人は少しだけ笑った。
それだけで、地下の扉の冷たさが遠くなる。
桜は電話を握りしめた。
「先輩」
『うん』
「私、今日は行かないって、自分で決めました」
『うん』
「怖かったから」
『うん』
「それでも、いいんでしょうか」
士郎は少し黙った。
そして、静かに答えた。
『いいと思う』
「……本当に?」
『ああ。怖い場所に行かないって決めるのも、自分を守ることだろ』
自分を守る。
その言葉は、桜にとってまだ慣れないものだった。
誰かを守る。
誰かに守られる。
それなら分かる。
でも、自分を守る。
そんなことをしていいのだと、誰も教えてくれなかった。
桜はしばらく何も言えなかった。
電話の向こうで、士郎も急かさず待っていた。
やがて桜は、小さく言った。
「ありがとうございます」
『礼を言われることじゃないだろ』
「いえ。言いたかったので」
『そっか』
士郎の声が少し柔らかくなる。
『明日、迎えに行く』
「はい」
『それと、遠坂に報告しておく。たぶんすぐ連絡来るぞ』
「分かりました」
電話を切った後、桜はベッドに腰かけた。
外は静かだった。
地下の気配はまだある。
けれど、今は怖さだけではない。
明日、誰かと一緒に見に行ける。
行かないと決めてもいい。
行くと決める時も、一人でなくていい。
そのことが、桜を支えていた。
◆
数十分後、凛から連絡が来た。
画面に表示された名前を見て、桜は少し緊張した。
通話を繋ぐ。
『桜?』
「はい、姉さん」
凛の声は、いつもより少し硬かった。
『士郎から聞いた。地下の気配、今もある?』
「弱いですけど、あります」
『近づかなくていい。絶対に一人で確認しないこと』
「はい」
即答すると、凛は少しだけ黙った。
『……ちゃんと行かなかったのね』
「はい」
『よかった』
その声は、本当に安心していた。
桜は胸が詰まった。
「姉さん」
『何?』
「私、怖かったです」
『うん』
「だから、今日は行かないって決めました」
『うん』
桜は手を握る。
「それを、先輩に言えました」
凛の声が少しだけ柔らかくなる。
『そう』
「姉さんにも、言えました」
電話の向こうで、凛が息を呑む気配がした。
しばらく沈黙が続いた。
凛はすぐに返事をしなかった。
けれど、その沈黙は冷たいものではなかった。
言葉を選んでいる沈黙だった。
やがて、凛は言った。
『言ってくれて、ありがとう』
桜は目を見開いた。
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ揺れた。
ありがとう。
怖かったと言ったことに。
行かなかったと言ったことに。
助けを求めたことに。
ありがとう。
桜は唇を噛んだ。
泣きそうだった。
でも、泣きたくないわけではなかった。
「姉さん」
『うん』
「私、まだ怒れるか分かりません」
『うん』
「でも、怖いって言うことは、できました」
『うん。十分よ』
凛の声は震えていた。
ほんの少しだけ。
『今は、それで十分』
桜は頷いた。
電話越しなのに、凛に見えるような気がした。
「はい」
その夜、姉妹は長く話したわけではない。
霊脈のこと。
地下の気配のこと。
明日の確認手順。
士郎に何を持たせるか。
無理をさせない方法。
話題の多くは実務的だった。
けれど、その下に別のものが流れていた。
姉妹としての会話。
まだぎこちない。
まだ痛い。
まだ触れれば揺れる。
でも、切れてはいない。
桜は通話を終えた後、窓の外を見た。
夜の庭は暗い。
しかし、その暗さが以前ほど怖くなかった。
影は、すべてを呑み込むものではない。
影の中にも、眠れるものがある。
いつか、そこに花が咲くこともあるのかもしれない。
◆
翌日。
士郎と桜は、間桐邸の地下扉の前に立っていた。
士郎は凛から送られてきた簡易測定器と、宝石を持っている。
「遠坂からの指示、その一。扉を開ける前に測定」
「はい」
「その二。反応が規定値を超えたら即撤退」
「はい」
「その三。衛宮士郎は勝手に突っ込まない」
桜は思わず笑った。
「姉さん、本当に書いたんですか?」
士郎は紙を見せた。
そこには凛の文字で、はっきりと書かれていた。
『士郎は勝手に突っ込まない。桜が止めること。』
桜は小さく笑う。
「姉さんらしいです」
「信頼がない」
「心配されているんです」
「それは分かってる」
士郎は測定器を起動した。
針が少し揺れる。
だが、危険域ではない。
桜は扉を見つめる。
昨日より、怖くない。
怖さが消えたわけではない。
けれど、隣に士郎がいる。
遠くには凛がいる。
自分で行くと決めた。
それだけで、足が動く。
「開けます」
桜が言う。
士郎は頷いた。
扉が開く。
冷たい空気が流れ出す。
地下へ続く階段。
古い匂い。
記憶が身体を締めつけようとする。
桜は一瞬、呼吸を止めた。
士郎が何も言わず、少しだけ近くに立つ。
それがありがたかった。
大丈夫か、と聞かれたら、大丈夫ではないと答えなければならなかったかもしれない。
けれど、何も言わずに待ってくれたから、桜は自分で息を吸えた。
「行けます」
二人は階段を降りた。
地下室には、ほとんど何も残っていなかった。
少なくとも、表面上は。
凛と士郎が戦争後に処理したものも多い。
危険な術式は解除され、使えない礼装は破棄され、魔力の淀みもできる限り流された。
それでも、この場所は重い。
桜は部屋の中央へ目を向けた。
そこに、小さな白い花が咲いていた。
地下室の床の隙間から。
陽の光など届かない場所で。
本来なら咲くはずのない白い花。
士郎が息を呑む。
「柳洞寺の花と、似てる」
桜は花を見つめた。
怖い。
けれど、その花自体は恐ろしくなかった。
むしろ、寂しそうだった。
暗い場所で、誰にも見つからないまま咲いている花。
士郎は測定器を見る。
「魔力反応は微弱。危険な感じはしない」
桜はゆっくり花へ近づいた。
士郎が止めようとして、すぐに止まった。
桜はしゃがみ込む。
花には触れない。
ただ、見る。
「ここにも、咲くんですね」
士郎は何も言わない。
桜は続けた。
「こんな場所にも」
それは花の話だった。
同時に、自分の話でもあった。
暗い場所。
冷たい場所。
怖い場所。
そこにも、何かが咲くことがある。
過去が消えるわけではない。
地下室が突然優しい場所になるわけでもない。
それでも、花は咲いていた。
桜は小さく息を吐いた。
「姉さんに、報告しましょう」
「ああ」
士郎は頷いた。
その時、白い花がほんの少し揺れた。
風などない地下で。
花弁の端に、小さな光が宿る。
桜には、それが何かの声のように思えた。
けれど、まだ言葉にはならない。
だから、桜は言葉にしなかった。
代わりに、静かに頭を下げた。
「見つけました」
それは誰に向けた言葉だったのか。
花へか。
過去へか。
自分自身へか。
士郎はその横顔を見ていた。
桜の影が、地下室の床に落ちている。
以前なら、その影はただ暗く見えたかもしれない。
けれど今は違った。
影の中に、白い花がある。
それだけで、何かが少し変わった気がした。
◆
その日の夜、凛へ送った報告は長くなった。
間桐邸地下。
微弱魔力反応。
白い花を確認。
柳洞寺の白い花に酷似。
攻撃性なし。
浸食性なし。
桜が確認。
士郎同行。
単独行動なし。
凛からの返信は、まず短かった。
『単独行動なし。よし。』
士郎は少し笑った。
続けて、凛から長い解析依頼が届く。
花の形状。
大きさ。
魔力波形。
写真。
周囲の温度。
床材の状態。
地下室内の霊脈接続。
その後に、桜宛の短い文があった。
『桜へ。怖かったと思う。ちゃんと報告してくれてありがとう。花は危険がない限り、抜かないで。そこに咲いていることも、たぶん意味がある。』
桜はその文を読んで、胸が温かくなった。
そこに咲いていることも、たぶん意味がある。
その言葉が、花だけでなく自分にも向けられているように思えた。
桜は返信を打つ。
『はい。抜きません。しばらく見守ります。』
送信。
少しして、凛から返事が来た。
『無理はしないこと。見守るのと背負い込むのは違うから。』
桜は小さく笑った。
姉さんらしい。
厳しくて、遠回しで、不器用で、でも優しい。
桜は携帯端末を胸に当てた。
◆
季節は進んだ。
二年目の夏。
間桐邸の地下の白い花は、枯れなかった。
大きく育つわけでもない。
増えるわけでもない。
ただ、静かに咲き続けた。
桜は時々、それを見に行った。
最初は士郎と一緒に。
次に、玄関の扉を開けるところまで一人で。
その次に、地下扉の前まで。
そして、ある日、一人で階段を降りた。
怖くなかったわけではない。
けれど、怖いまま降りた。
地下室の中央で、白い花は静かに揺れていた。
桜は花の前にしゃがむ。
「こんにちは」
返事はない。
けれど、それでよかった。
桜は続けた。
「今日は、一人で来ました」
白い花は揺れる。
風はない。
でも、揺れる。
桜は少しだけ笑った。
「まだ怖いです。でも、今日は来るって決めました」
彼女は自分の影を見る。
床に落ちた影。
暗い。
けれど、恐ろしいだけではない。
影は、自分が光の中に立っている証でもある。
桜はそっと手を伸ばした。
花には触れず、その近くの床へ手を置く。
冷たい床。
その冷たさを、今の自分は感じられる。
感じても、壊れない。
「私、まだここが嫌いです」
初めて、そう言った。
地下室へ。
過去へ。
この場所へ。
「でも、ここに咲いた花まで嫌いになりたいわけじゃありません」
それは矛盾しているかもしれない。
嫌いな場所に咲いた花を、見守りたいと思う。
怖い場所へ、自分の意思で来る。
怒りたい相手のことを、まだ好きだと思う。
人の心は矛盾する。
桜はそれを、ようやく少しずつ許せるようになっていた。
「姉さんに、今度そう言ってみます」
白い花が揺れた。
桜は立ち上がる。
階段を上る。
地下室を出る時、彼女は振り返って言った。
「また来ます」
それは、逃げないという宣言ではない。
行かない日があってもいい。
怖い日があってもいい。
それでも、また来る日を自分で選べる。
そういう約束だった。
◆
三年目の秋。
凛が短期間だけ冬木へ帰ってきた。
時計塔での予定が詰まっているため、滞在は一週間にも満たない。
それでも、衛宮邸では小さな帰国祝いが開かれた。
「凛ちゃん、おかえりー!」
大河が大げさに抱きつこうとして、凛に華麗に避けられた。
「いきなり何するんですか!」
「愛の突撃!」
「迷惑です!」
「迷惑な愛もある!」
「開き直らないでください!」
士郎は台所で笑いながら鍋を見ていた。
桜は隣で皿を並べている。
凛は以前より少し大人びて見えた。
立ち方。
目つき。
言葉の選び方。
時計塔での時間が、彼女を磨いているのが分かる。
けれど、味噌汁を飲んだ瞬間に少しだけ表情が緩んだのを、士郎は見逃さなかった。
「どうだ?」
凛は椀を見つめる。
「……悪くないわね」
「それは褒めてるのか?」
「かなり褒めてる」
桜が微笑む。
「姉さん、素直じゃないですね」
凛がむせた。
「桜!?」
桜は穏やかに笑っている。
士郎も大河も、思わず笑った。
凛は顔を赤くしながら、箸を手に取る。
「もう、みんなして……」
その夜の食卓は賑やかだった。
だが、食後。
桜は凛を間桐邸へ誘った。
凛は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
士郎は同行しなかった。
これは姉妹の時間だと思ったからだ。
◆
間桐邸の地下で、凛は白い花を見た。
長い間、報告だけは受けていた。
写真も見ていた。
魔力波形も確認していた。
だが、実際に見るのは初めてだった。
地下室の床の隙間から咲く、小さな白い花。
凛はしばらく黙っていた。
桜は隣に立っている。
「姉さん」
「うん」
「私、この場所が嫌いです」
凛の肩がわずかに震えた。
桜は続けた。
「怖いです。今でも。何もかも終わったって分かっていても、ここに来ると息が苦しくなる時があります」
「……うん」
凛はそれだけ言った。
言い訳しなかった。
謝罪もしなかった。
まず聞いた。
桜は白い花を見る。
「でも、この花は嫌いじゃありません」
凛は花を見る。
桜は続ける。
「嫌いな場所に、嫌いじゃないものが咲くこともあるんだって、思いました」
「……そう」
「だから、私もたぶん、全部を一つに決めなくていいんだと思います」
「桜」
「姉さんのことも」
凛が息を止める。
桜は少しだけ震えながら、それでも言った。
「怒っています」
凛は目を伏せた。
「うん」
「寂しかったです」
「うん」
「見つけてほしかったです」
凛の手が震える。
「うん」
「でも、今こうして一緒に花を見ていることは、嫌じゃありません」
桜の声は静かだった。
「それも、本当です」
凛は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
すぐに謝りたくなった。
けれど、謝罪でこの場を終わらせたくなかった。
桜は怒りを言った。
寂しさを言った。
そして、それでも嫌じゃないと言った。
その全部を、凛は受け取らなければならない。
都合のいい部分だけを拾ってはいけない。
「桜」
凛はようやく声を出した。
「聞いたわ」
桜が凛を見る。
凛は続けた。
「今言ってくれたこと、聞いた。忘れない」
桜の目が少し潤んだ。
凛は拳を握る。
「すぐに正しい返事はできないかもしれない。何を言っても足りないと思う。でも、聞かなかったことにはしない」
桜は小さく頷いた。
「はい」
地下室で、白い花が揺れた。
その揺れは、まるで小さな返事のようだった。
凛は花を見つめる。
「この花、抜かなくてよかったわね」
「はい」
「危険がない限り、このまま見守りましょう」
「はい」
二人はしばらく、地下に咲く白い花を見ていた。
嫌いな場所。
怖い場所。
過去が沈む場所。
そこに咲いた、小さな白。
それは救いではない。
すべてを帳消しにする奇跡でもない。
ただ、そこにも何かが咲くことがあるという証だった。
◆
四年目の冬。
冬木に小さな雪が降った。
積もるほどではない。
けれど、朝の屋根や庭の端に、薄く白が残る程度の雪。
衛宮邸の縁側で、桜は湯呑みを持って庭を見ていた。
士郎は台所で大根を煮ている。
大河はこたつで眠っている。
平和な冬の朝だった。
携帯端末が震える。
凛からの連絡だった。
『時計塔の資料で、冬木の白い反応に似た記録を見つけた。まだ断定はできないけど、願望や記録に関係する可能性がある。帰国したら詳しく話す。』
桜はその文を読んだ。
願望。
記録。
難しい言葉だ。
けれど、白い花のことを思い出すと、不思議と怖さだけではなかった。
桜は返信する。
『分かりました。花は今日も咲いています。私も元気です。』
少し考えて、追記する。
『姉さんも、ちゃんと寝てください。』
送信。
数分後、返事。
『士郎みたいなこと言わないで。寝るわよ。たぶん。』
桜は笑った。
たぶん、では駄目だと思った。
でも、今はそれでいい。
少しずつ。
すべては少しずつなのだから。
◆
その日の夜。
士郎は土蔵で記録ノートを開いていた。
白い線。
白い花。
白い光。
間桐邸地下の花。
柳洞寺の花。
庭の写真に写った光。
橋の下の声のような音。
四年分の記録は、思ったより厚くなっていた。
どれも小さい。
大きな事件ではない。
誰かが襲われたわけでもない。
街が壊れたわけでもない。
ただ、小さな違和感が積み重なっている。
士郎はノートをめくりながら思う。
これらに意味があるのか、まだ分からない。
もしかしたら、ただの残滓かもしれない。
聖杯戦争の後に残った、取るに足らない揺らぎかもしれない。
それでも、記録する。
忘れない。
見なかったことにしない。
それは凛が始めたことであり、桜が続けていることであり、士郎がようやく覚え始めたことだった。
戦うことだけが、守ることではない。
剣を取ることだけが、助けることではない。
誰かの小さな声に気づくために、記録を残す。
誰かが怖いと言った時、急かさず隣に立つ。
誰かが怒った時、逃げずに聞く。
そんなことも、たぶん守ることなのだ。
士郎はノートを閉じた。
土蔵の外で、風が吹く。
冬の風。
冷たいが、澄んでいる。
その時、ふと土蔵の床に目がいった。
何もない。
いつも通りの古い床。
けれど、士郎はそこに手を置いた。
構造解析。
木材。
鉄。
埃。
古い記憶。
微かな魔力残滓。
そして、その奥に。
ほんの一瞬だけ、白い線が走った。
士郎は息を呑む。
すぐに消えた。
幻だったのかもしれない。
だが、彼はもう見落とさなかった。
ノートを開き、日付を書く。
『四年目、冬。土蔵床に白い線。一瞬。危険感なし。要観測。』
書き終えて、士郎はペンを置いた。
「遠坂に送るか」
そう呟き、携帯端末を手に取る。
その瞬間、桜から先にメッセージが届いた。
『先輩。地下の白い花が、少し光りました。怖くはありません。でも、姉さんにも報告します。』
士郎は画面を見つめた。
同じ夜。
別々の場所で、白い光。
偶然。
そう言うには、もう少し積み重なりすぎている。
士郎はすぐに返信した。
『分かった。俺の方でも土蔵に白い線が出た。遠坂に報告する。明日、一緒に確認しよう。無理はしなくていい。』
送信。
すぐに桜から返事。
『はい。無理はしません。でも、見ます。』
士郎はその文を見て、少し笑った。
桜は強くなった。
強くなったというより、自分で選べるようになった。
行く日も。
行かない日も。
見ることも。
怖いと言うことも。
それが、どれほど大きなことか。
士郎は知っている。
◆
時計塔。
凛は深夜の研究室で、士郎と桜からの報告を同時に受け取った。
土蔵の白い線。
間桐邸地下の白い花の発光。
凛はしばらく画面を見ていた。
それから、冬木霊脈異常記録のノートを開く。
四年分の記録。
最初は小さな違和感だった。
今も小さい。
だが、分布が広がっている。
柳洞寺。
港湾区。
冬木大橋。
衛宮邸。
間桐邸。
冬木の要所に、白い反応が少しずつ現れている。
凛は地図へ線を引いた。
線はまだ完全な形にならない。
だが、何かを描きかけている。
魔術陣ではない。
召喚陣でもない。
もっと別のもの。
凛は眉をひそめる。
「何を作ろうとしてるの……?」
返事はない。
だが、研究室の窓の外で雨が降っていた。
ロンドンの雨。
冬木とは違う雨。
それでも、凛の意識は遠く冬木へ向かっていた。
彼女は短く返信する。
『二人とも、明日以降は単独確認禁止。私も資料をまとめて帰国準備に入る。断定はまだできないけど、五年目に入る前に一度冬木全域を調べ直す必要がある。』
送信。
少しして士郎から返事。
『分かった。帰ってくるのか?』
凛は画面を見つめる。
帰る。
その言葉が、思ったより胸に響いた。
彼女は返信した。
『ええ。帰るわ。冬木の管理者だから。』
少し迷ってから、もう一文を加える。
『それと、約束したでしょ。』
送信。
今度は桜から返事が来た。
『待っています、姉さん。』
凛はその文を見て、静かに目を閉じた。
帰る場所がある。
それは魔術師にとって弱さかもしれない。
だが、今の凛にとっては違う。
帰る場所があるから、前へ進める。
待っている人がいるから、戻ろうと思える。
そして、戻った時に何かが始まるとしても。
一人ではない。
凛はノートを閉じた。
表紙にはこう書かれている。
『冬木霊脈異常記録 一年目』
その下に、自分で書き加えた文字。
『共同管理用』
凛はその文字を指でなぞった。
そして、静かに言った。
「五年目で、終わらせるわよ」
何を。
まだ分からない。
だが、終わらせなければならない何かが、少しずつ形を持ち始めている。
そんな予感があった。
◆
冬木の夜。
間桐邸の地下では、白い花が静かに咲いている。
柳洞寺の境内でも、同じような白い花が風に揺れている。
衛宮邸の土蔵では、消えた白い線の痕が、誰にも見えないほど薄く床に残っている。
港湾区の水面には、月明かりに紛れて白い反射が一瞬だけ走った。
冬木大橋の下では、水音に混じって、声にならない音が眠っている。
それらはまだ繋がっていない。
まだ意味を持っていない。
まだ誰かを呼んではいない。
けれど、確かにそこにある。
誰かが見つけた。
誰かが記録した。
誰かが怖いと言った。
誰かが待っていると言った。
誰かが帰ると返した。
それだけで、小さな違和感たちは、完全な沈黙ではなくなった。
四年目の冬。
願いは、まだ燃えていない。
けれど、願いになる前の何かが、冬木の奥で静かに目を覚まそうとしていた。
その夜、間桐桜は窓の外を見ながら、凛への手紙を書いた。
『姉さんへ。
地下の花は、今日も咲いています。
私は、まだ怖い日があります。
でも、怖いと言えるようになりました。
嫌いな場所に、嫌いじゃないものが咲くこともあると知りました。
姉さんが帰ってきたら、一緒に見に行きたいです。
それから、辛すぎない料理を練習しておきます。
藤村先生も食べられるように。
待っています。
桜』
書き終えて、桜は手紙を封筒に入れた。
机の上には、白い花の写真が一枚置かれている。
暗い地下に咲く、小さな白。
桜はそれを見て、そっと呟いた。
「また明日」
それは花へ向けた言葉であり、姉へ向けた言葉であり、自分自身へ向けた言葉でもあった。
そして、冬木の夜は静かに更けていく。
五年目は、もうすぐそこまで来ていた。
――前日譚 第五話へ続く。
コメント
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もう、読み終わってしばらく放心してたわ……。桜が「怖いけど行かないって決めた」「今日は行くって決めた」って自分で選択するところ、胸にくるものがあった。凛が「言ってくれてありがとう」って返すシーン、あれだけで姉妹のここまでの距離が全部報われた気がした。士郎の「隣にいるけど急かさない」スタンスも完璧で、見守る強さってこういうことだよなって思ったわ。地下に咲いた白い花も、嫌いな場所だからこそ意味があるっていう凛の言葉に全部救われた。続き、めちゃくちゃ気になる🔥