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「お子様のことは伝えないのですか?」
スマホを握りしめて泣いている私を見かねた新藤さんが声をかけてくれた。
「光貴さんときちんとお話された方がいいですよ。ここは個室ですから電話の許可は下りています。お話もできますよ」
「光貴には言えません。ライブが終わるまでは伝えるつもりはありません」
「律さん……」
「今、詩音のことを光貴に伝えたら、最高のギターが弾けなくなります。彼だけの問題ではありませんから。サファイアのメジャーデビューのライブなんです。もし光貴が最高のプレイを見せないと、大勢の人に迷惑かかります。家族に知らせたら絶対に光貴に伝えてしまうでしょう。私の気持ちを理解してもらえるとはとても思えません。ですから家族にも知らせません。一人で頑張ります」
「無理しないでください! 一番辛いのは律さん、あなたですよ!?」
新藤さんに肩を少し揺さぶられた。真剣に私の事を心配してくれている。有難いと思った。
「………でも私、もう嫌なんです!」心のしこりみたいなものが言葉になって溢れた。「光貴と組んでいたバンド、素人の私がボーカルを引き受けてしまったから、メジャーに行けずに彼の夢を頓挫させてしまったんです。けど今、メジャーデビューできるチャンスをやっと掴んだんですっ」
詩音を失った悲しみとは違うまた別の悲しい感情が溢れた。
辛く苦しい感情ばかりが私の心を支配していく。
「軽い気持ちだったんです。RBのコピーバンドして、ただ楽しく音楽したいってそれだけだったのに………辞め時がわからなくてずっと活動して……光貴とバンドを組んでたことを何度も後悔しました。…………ずっと負い目に感じていて……もう嫌なんです。断ち切りたい!!」
光貴への負い目がいつも私を縛る。
苦しかった。
辛かった。
気が付かないふりをしていた気持ちさえも、どろどろの感情となって私の中から次々と溢れた。
「辛い気持ちをお一人で抱えないで下さい」
新藤さんに抱きしめられた。「私が傍にいます。貴女を救いたい……」
新藤さんは私に妹の影を重ねているのだろう。
救いたいだなんて。妹を助けられなかった負い目が彼にもある。だから新藤さんは私を助けようとしてくれてる――そうすることによって、彼も救われるのかもしれない。
似た境遇を経験し、苦しく辛い気持ちを分かち合える者同士だからこそ寄り添えるのだと思った。
新藤さんがいなかったら、誰も私の気持ちを分かち合ってくれる人がいなくて、私は死んでいたかもしれない。
これを罪と呼ぶのなら、なにが罪になるのだろう。
今だけ。
ただ寄り添うだけだから。
今日はこれから産まれてくるはずの
我が子を失ってしまった
深い悲しみに濡れた夜だから――
※
翌朝目覚めると最初の視界に入ったのは白い部屋の白い壁だった。
無機質な白いこの部屋にいると気が狂いそうになる。
昨日新藤さんはずっと私の傍にいてくれた。眠りに就くまで手を握ってくれて、目覚めたらもう姿は無かった。いつの間にか帰っていたのでお礼も言えなかった。また後で連絡をしておこう。
ベッド上のテーブルを見ると『少しでも食べてください』という達筆な字で書かれたメモと昨日のヨーグルトが残されていた。他の食器は片づけてくれたようでなにもなくなっていた。
私のために書いてくれたメモを見た。綺麗な字……几帳面でしっかりした彼らしい字だった。
辛い気持ちを分かち合える人いる――それだけが救いだった。
絶望の淵で一人きりだったら恐らく今日の朝日を見ることはできなかっただろう。迷惑も考えずに突っ走ってしまう未来が見えた。
詩音……。
大きく膨らんだ自分のお腹の中で詩音は生きていない。撫でてもお腹を蹴り返してくれることはもうない。
昨日はたくさん泣いた。多分私の一生でいちばん泣いただろう。
その時に新藤さんが寄り添ってくれたことが、私の中で大きな支えになった。
詩音の名をつぶやくだけで涙は枯れずに溢れてくる。
目じりから溢れた涙が零れて頬を伝っていく。
無機質で白い地獄に放り込まれたような気がしたが、同じ出産を控えた妊婦を見るのもつらい状況の私にはこの部屋の方が自分の居場所に思えた。
この白い部屋は産科病棟から一番離れた場所にあった。二階堂さんの配慮だろう。
ここはそういう場所なんだ。行き場のない悲しみを抱えた人間だけが存在を許されているような。