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#BL
七瀬🍏
4,036
翌日、窓からさす強い朝日に目を覚ますと視界いっぱいに涼ちゃんのふわふわの頭がうつり、夢にまで見たようなその光景に一瞬まだ目が覚めていないのかと錯覚した。
昨日涼ちゃんを連れて帰ると、思った通り母は喜んで迎え入れてくれた。そうして、涼ちゃんが今日この日のことをどうか、どうか忘れてしまわないようにと強く願いながら、少し先にすっかり眠ってしまった涼ちゃんの隣で眠りについた。
まだ隣で心地よさそうに眠っているその手を緩く握ってみた。あまりに静かで動かないから、知らない誰かにどこか遠くへ連れていかれてしまうような気がして、不安に胸が震えた。
「……ん…。」
握った手の温もりに反応するように、涼ちゃんがゆっくりと瞼を開けた。パチパチと何度か瞬きをして、ぼんやりとした瞳が僕の顔を映し出す。期待と祈りで張り裂けそうだった。
「おはよう…涼ちゃん。」
けれど、涼ちゃんの口から漏れたのは、昨日と同じ透明な声だった。
「あれ、元貴…?あ、れ…僕家で寝てなかったっけ…。ここ…元貴の家?」
やっぱり、だめだった。昨日の夜、二人で歩いた藍色の夜道も、焦げるような夏の熱さも、全部朝の光の中に溶けて消えてしまっていた。
握っていた手に、そっと力を抜く。分かっていたはずなのに、冷たい刃で胸を撫でられたような痛みが走った。
涼ちゃんを家に送っていく道中で、向かい側から歩いてくる若井と鉢合わせた。若井は僕たちの姿を見て、どこかホッとしたような、けれど少しいがんだ様な表情を浮かべた。
「涼ちゃん!昨日どこ行ってたの?心配したんだけど。」
「あ…ごめん!昨日は元貴の家にお邪魔したみたいで…。」
「ふーん、…そ。晩御飯は?」
「元貴の家で、ご馳走になった。」
涼ちゃんが申し訳なさそうに眉を下げる。若井は慣れた様子で、いいよ、無事だったならと涼ちゃんの頭をぽんぽんと撫でた。
そのやり取りを見て、胸の奥がキュッと縮こまるのを感じた。
昨日、僕の部屋で交わした熱っぽい視線や、夜道での手のぬくもり。それらは全部、僕の頭の中にしか残っていない『幻』だったのかと、ふいに思った。
涼ちゃんにとって、夜に若井と過ごしていることは、いつもの当たり前の日常だったのだ。昨日の夜、僕が特別だと思って過ごした時間は、涼ちゃんがその日常をたまたま忘れてしまったから生まれた、気まぐれな空白に過ぎなかった。
「元貴も、ありがと。涼ちゃんが一人じゃなくてよかった。」
若井が放った言葉には、純粋な感謝と同時に、まるで縄張りを主張しているような、人懐っこいこの男からの静かな壁を感じさせた。
そのまま3人で涼ちゃんの家に向かい、居間で過ごすことになった。クーラーの風が静かに通り抜ける部屋で、冷たい麦茶を飲みながら、ただ夏の終わりを感じさせるような穏やかな時間が流れている。
カチャリ、とグラスの中で氷が小さく揺れ、溶けて角の丸くなった氷同士がぶつかる高い音が響いた。
それ以外の音といえば、壁際で首を振り続けるクーラーの低く一定な機械音と、薄いカーテン越しに届く遠くの蝉時雨だけだった。
静かすぎる部屋の中で、僕は手の中の冷えたグラスをじっと見つめていた。
ほんのさっきまで、二人で過ごしたあの熱っぽい夕闇の余韻に浸っていたはずだった。けれど、目の前で若井とごく当たり前に言葉を交わす涼ちゃんの姿を見ていると、あの時間は僕の都合のいい妄想だったんじゃないかとさえ思えてくる。
二人の間に流れる、いつもの日常の空気が、部屋のあちこちに満ちている。
僕がどれだけ言葉を重ねても、どれだけ必死に過去の光景を思い出させようとしても、その空気の層を一枚破ることすらできない。
でも、昨日、一瞬だけでも、きっと涼ちゃんのなかで僕はただの友達ではなかった。今はまだ皮膚に鮮明に残るあの熱が、時間とともに溶けて消えていくのが、ひどく名残惜しく、恐ろしい。
途端、激しい焦りに襲われた。
朝の、初めて会った時のことを彷彿とさせるような挨拶。若井との当たり前の日常。
沈黙が長くなればなるほど、僕の居場所がこの部屋からすーっと消えていくような感覚に襲われる。そんな恐怖から逃れたくてたまらなり、思いついた疑問をそのままに口に出した。
「…そう、いえばさ、涼ちゃん。涼ちゃんのお母さんって結局今どこにいるの?」
「え…? えと、…あれ?」
涼ちゃんが、麦茶のグラスを持つ手をぴたりと止めた。
涼ちゃんがつまってしまったのを見て、違う話題を続けようとした。けれど、その顔を見た瞬間、言葉が喉に突っかかった。
涼ちゃんの顔から、すっと血の気が引いていた。瞳が焦点を結ばず、眉間に深くシワが寄せられている。
涼ちゃんの手が激しく震え始め、カタカタとグラスが音を立てた。
手に持っていた麦茶のグラスがカチャリと音を立てて揺れ、テーブルの上に数滴こぼれ落ちる。唇が青白く震え、呼吸が荒くなっていくのが目に見えて分かった。
慌てて駆け寄り、肩を支えようとした瞬間、涼ちゃんが悲鳴のような声を上げた。
「…お母さん、…お母さん、…?」
涼ちゃんの手が、虚空を泳ぐように激しく彷徨い始めた。
その瞳は開かれているのに、僕の顔を映していなかった。焦点の合わない透き通った瞳が、恐怖に大きく見開かれている。
「うそ…嘘でしょ、涼ちゃん! ここにいるよ!」
必死になって涼ちゃんの手を握りしめる。けれど、その手に怯えるように、びくりと振り払われた。
焦点の合わない瞳で、泣きそうになりながらこちらを向く。
「…だれ…?」
頭の中に、冷たい衝撃が走る。その一言が、頭の上から氷水を浴びせられたように鼓膜を刺した。血の気が一気に引いて、視界の端がぐにゃりと歪む。
僕の手を振り払った涼ちゃんの肌は、あんなに温かかったはずなのに、今は冷たく酷く遠かった。
僕が急激に思い出させようとしたからか。それとも昨日の精神的なストレスが、涼ちゃんの病状を刺激してしまったのではないか。
罪悪感と恐怖で、僕の手はガタガタと震えて何もできなかった。ただ「ごめん、ごめんね涼ちゃん」と愚かに繰り返すことしかできなかった。
その時、激しく部屋のドアが開く音が響いた。
「涼ちゃん!?」
飛び込んできたのは、さっきまで他の部屋にいた若井だった。
若井は部屋の異変を一瞬で察知すると、弾かれたように駆け寄ってきた。棒立ちになっている僕を容赦なく押し退け、迷いのない動きで涼ちゃんの体を横に倒す。
「涼ちゃん、落ち着いて。俺だよ、大丈夫。息吐け、吐いて…そう上手。」
彼の声は、信じられないほど冷静だった。部屋のカーテンを素早く閉めて部屋を暗くすると、慣れた手つきで涼ちゃんの首元を緩め、枕を頭の下に差し入れた。
涼ちゃんの手をしっかりと握り直し、低い、安心させるような声で何度も語りかけていく。
「わ、わかいっ…、まっくら、みえない」
「大丈夫、またあの発作だから。少し休めば視界は戻るよ。ちゃんと俺がここにいるから、怖くない。ゆっくり息吸って。大丈夫だから。」
若井の手に握り返された涼ちゃんの手が、少しずつ力を取り戻していく。激しかった呼吸が、若井の規則的な声に合わせて、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
僕は、薄暗くなった部屋の隅で、ただ呆然とその光景を見つめていた。
パニック状態の涼ちゃんが、若井の声を聞いた瞬間に見せた安堵の表情。そこにあったのは、僕のどんな言葉も届かなかった、現実だった。
若井の手は迷いがなくて、僕みたいに恐怖で震えてなんていなかった。幼い僕が押し付けた、忘れないでほしいという愛おしさの後も、若井はこういう激しい発作や病状の進行と、何年も何年も向き合い続けてきたのだ。
涼ちゃんを守っていたのは、僕の甘い思い出なんかじゃない。若井が重ねてきた、血の滲むような現実のケアだった。
自分がどれほど無神経で、愚かで、涼ちゃんを追い詰めていたか。
そして、涼ちゃんの隣に立つ資格があるのは誰なのかを、突きつけられた気がした。
やがて荒い息遣いが静かな寝息に変わり、涼ちゃんが深い眠りに落ちた。
若井は静かに立ち上がり、汗ばんだ額を拭うと、ゆっくりと僕の方を振り返った。
その瞳には、今まで見たことのない、暗く鋭い怒りの色が宿っていた。
「…元貴。外、出ろ。」
静かな、けれど氷のように冷たい声が、薄暗い部屋に落ちた。
コメント
6件
最初の❤️くん目線、やっぱり忘れられてしまってるのが❤️くんを想うと辛くてたまりません😭 お母さんは何かあったのかな…🥲 描写が本当に上手で、💙くんと💛ちゃんを見つめる❤️くんの思ってる寂しさがすごく伝わってきて大好きです。 自分がこの空間にいないかもって思っちゃって、咄嗟に投げかけた言葉に大好きな💛ちゃんがパニックになるのを目の前で見て、❤️くんはどう思ったのかなって🥹 誰も悪くないのに、❤️くんはずっと自分のこと責めてて。 💙くんにも怒りを込めた視線を向けられて😭 色んなことを考えて生きてきた💛ちゃんも、ずっと💛ちゃんと一緒にいた💙くんも、少し不利な立ち位置にいる❤️くんも。 誰も悪くないし必死なのに、3人とも切ないです🥹 更新ありがとうございます、続き楽しみにしてます😊♡
更新ありがとうございます✨ 💛ちゃん😭 きっと色々な事を抱えながら今まで過ごして来たんでしょうね😭 ❤️君の焦りも切なさも、ほんとに辛い💦 💙さんがここまで💛ちゃんのケアが出来るようになるには本当に長い期間の献身的な愛情が必要だったんでしょうね😭 3人ともすごく切ない💦 また次のお話も楽しみにしています✨
遅くなりましたし、短かった…😢 もう九月も終わりが見えます…😥