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ワイはリンゴを片手に持ちながら、一人で果樹園の外へ歩き出した。行き先は、すぐ近くの荒んだスラム街や。そこには、貧しい暮らしを送る子どもたちがようけおる。
「あいつらには、”見張り”としての利用価値がある……」
ワイはニヤリと笑った。
昨日、リンゴを盗んだ子どもたちを見て思ったんや。彼らは空腹で、まともに食べるもんもない。けど、機敏で、夜でもスルリと入り込めるほどの身軽さを持っとる。獲物を見つける目も、危険を察知する勘も鋭い。それもこれも、生き抜くために必要やったからこそ、やろう。なら、その力、ただの盗みに使うには惜しい。
もちろん、ただ働きやない。報酬としてリンゴを渡す――いや、もっとええもんを用意してもええ。腹を満たすだけやなく、彼らにとってこの果樹園近郊が”自分らの居場所”になるようにしたいんや。そうすれば、自然と守る意識も芽生える。外からの余所者に荒らされることもなくなる。ワイらも、彼らも、互いにとって都合のええ関係になれるはずや。
スラム街に足を踏み入れると、空気が変わる。湿った土と煤けた煙の臭いが鼻を刺し、狭い路地にはぼろぼろの布を纏った人影がぽつぽつと座っとる。日暮れ時の薄暗さもあいまって、まるで影そのものが蠢いとるようやった。
何人かの住民とすれ違い――そして、ようやく見つけた。
昨日のリンゴ泥棒の一人や。焚き火のそばに蹲っとる痩せた少年。薄汚れた服の袖口をぎゅっと握りしめ、寒さをしのぐように膝を抱えとる。その肩が、ワイの足音に反応してビクリと震えた。
「……あんたは」
少年の声は、か細く、怯えとった。
昨夜のリンゴ泥棒の件で、ワイが追いかけてきたと思ったんやろう。逃げ道を探すように視線が彷徨っとる。けど、逃げるには力が足りんのやろな。寒さと飢えで、体が思うように動かんのが見て取れる。昨日の逃走は、火事場の馬鹿力みたいなもんやったのかもしれん。
ワイは何も言わず、手に持ったリンゴを軽く放った。赤い果実は弧を描いて、少年の元へ。
少年は反射的に手を伸ばし、器用にキャッチする。けど、すぐにはかじらへん。指先でリンゴの表面を撫でながら、ちらりとワイを見上げる。疑念と警戒。そう簡単には信用せん、ってことか。
「食え」
ワイがそう促すと、少年はゴクリと喉を鳴らした。目の前の赤い果実に、触れたらあかんもんでも見るような目を向けとる。けど、抗えん。腹の虫は正直や。ためらいがちに、それでも引き寄せられるように、そろそろと歯を立てる。
しゃくり。
果肉が裂ける音が、湿った夜の空気にやけに響いた。鼻をくすぐる甘酸っぱい香りが広がる。少年の肩がびくりと震え、一瞬、表情が強張る。警戒か、それとも罠を疑っとるんか。だが、舌に広がった味に思考が追いつかんかったんやろな。少年の目が大きく見開かれた。
「……う、うまい……! 昨日のやつより、ずっと……!!」
唇の端から滴る果汁も拭おうとせん。ただひたすらに、むさぼるようにかじりつく。その必死な様子に、ワイは笑いそうになるのを堪えた。そらそうよ。昨日こいつらが盗んで食ったんは、夜闇の中で適当に集めた青リンゴばかりや。渋みが勝って、舌がきゅっと縮こまるようなやつ。けど今渡したんは違う。ちゃんと赤く熟した、一級品や。
少年が無心で食らいつく様子を見て、周囲の影が揺れた。すすけた壁の向こう、木箱の陰、擦り切れた布きれの下――そこらじゅうに潜んどった小さな影が、そろそろと顔を出す。痩せた手、泥まみれの頬、大きく見開かれた瞳。空腹に耐え続けた者だけが持つ、期待と警戒が入り混じった目。
ワイは、ふっと笑う。
「もっとあるで」
袋の中から、いくつかのリンゴを取り出すと、無造作にポンと放った。ひゅっと息を呑む音。わずかな間のあと、歓声が弾けた。
「うおお! 赤いリンゴだ!」
「本当に食べていいのか!?」
「あ、甘い! 甘いよ、これ!」
リンゴを掴んだ子どもたちは、まるで飢えた獣のように奪い合いながらかじりつく。小さな指が果実をぎゅっと握りしめ、泥だらけの手のひらにじんわりと果汁がにじむ。しゃくり、しゃくり。瑞々しい音があたりに響くたび、彼らの目は一層輝きを増した。頬をふくらませ、無心に味わう様子は、まるでこの世のすべての幸福がそこに詰まっているかのようやった。
ワイはそんな光景を眺めながら、ゆっくりと口を開く。
「このリンゴ、いつでも食えるって言ったらどうする?」
途端に、しゃくりという音がぴたりと止まった。子どもたちは口をもごもごさせながら、ワイの顔を見上げる。その瞳には、期待と、ほんの少しの疑念が入り混じっとる。一度甘みを知った舌は、もう元には戻れん。彼らは理解していた。今、自分の口に広がるこの甘さとほのかな酸味――それは、ただの果実やなくて、希望の味や。
長く続く乾いた日々の中で、一瞬でも満たされる感覚。その一口がどれほどの幸福をもたらすかを、彼らはすでに知ってしまった。喉を鳴らしながら、もう一度、もう一口と欲する目。誰もが、次の甘さを手に入れる方法を探している。
「追加のリンゴが欲しそうやな。ほな、ちょっとした仕事をしてくれへんか?」
ワイがゆっくりと言葉を継ぐと、子どもたちはぴくりと反応した。「仕事?」と、か細い声が返ってくる。発した少年は少し身を縮め、慎重な瞳をこちらに向けとる。怖がっとるわけやない。でも、ただの施しやないと察しとるんやな。
ワイは肩をすくめ、あくまで気軽な調子で言うた。
「せや。ワイの果樹園の周りを、ただぶらぶら歩いてくれるだけでええ。何か怪しい奴がおったら、ワイに教えてくれ。もちろん、見張りやなんて仰々しいもんやない。適当でもええんや」
静寂。目の前の子らは互いに顔を見合わせる。けど、それは長くは続かんかった。誰かが無意識に果汁に濡れた唇を舐める。別の子は、そっと仲間を見やる。躊躇と期待の間で揺れる時間。
「それだけで……またリンゴがもらえるのか?」
ぽつりと、誰かが尋ねた。疑念と欲望がない交ぜになった声。ワイは小さく笑う。
「せや。定期的に持ってきたる。たまにはマンゴーもやるわ」
その一言で、空気が一気に変わった。子どもたちの瞳が、一瞬で輝きを増す。リンゴだけやなくて、マンゴーも。口の中でとろけるあの果実、あの甘さ。想像しただけで、誰もが心を奪われるはずや。
「やるやる!」
「俺、足速いから、変な奴見つけたらすぐに知らせる!」
「戦ったりしなくていいんだろ? 楽勝だって!」
一気に賛同の声が上がる。ちょっとした不安も、果実の甘みにかき消されたようやった。ワイは彼らの笑顔を眺めながら、内心で頷く。これで、この子らの生活も少しはマシになるやろうし、ワイの果樹園も守られる。まさに一石二鳥や。ぶらつきながら適当に見張るだけなら、連中が子どもに目をつけるリスクも低めやしな。
「頼んだで。ほな、また持ってくるわ」
ワイがそう言うと、子どもたちは満面の笑みを浮かべながら、リンゴを頬張り続けた。
果樹園の防衛力は、これで少し強固になったはずや。ワイは満足げに頷き、歩き出す。
振り返れば、夕陽に照らされた子どもたちの影が揺れていた。
笑い声が風に乗って遠ざかる。
ワイは目を細め、そっと呟いた。
「……ええ風が吹いとるな」
ワイは静かに、果樹園へと続く道を歩いていった。