テラーノベル
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規律とは、組織の背骨である。
それを乱す者は、たとえ些細な綻びであろうと見過ごしてはならない。
その信念のもと、私はこの査察部門を二十年近く率いてきた。
書類が整然と積み上げられた執務机。王都、巨大武具商会オクタヴィアの本部、査察部門の一室。今朝も、若い部下が持ってきた報告書に目を通しながら、私は眉を寄せていた。
「……この工房への発注は、即刻停止しなさい。0.3ミリの妥協が許されるなら、いずれ3センチの妥協も許されるようになる。規律というのは、そういうものです」
とある下請け工房が、規定より0.3ミリだけ薄い革を、納期に間に合わせるためだけに使用していたという。たかが0.3ミリ、と侮る者もいるだろう。だが、その慢心の積み重ねこそが、いずれ致命的な欠陥を生む。
「は、はい。かしこまりました」
若い部下が退出しようとする。私は立ち上がりざま、わずかに視界が揺れるのを感じ、机の端に指先を這わせて体勢を支えた。
(……また、これか。もう何年も付き合ってきた目眩だ。今更、気にするほどのことでもない)
誰にも気づかれてはならない。深く、しかし表には出さぬよう静かに息を吸い、何事もなかったかのように振る舞う。この程度の目眩、もう何年も付き合ってきた馴染みのものだ。気にするまでもない。
だが部下は退出せず、扉の前で立ち止まった。
「あ、それと、もう一件、ご報告が」
「なんです」
「辺境都市グランベル……職人街の外れに、無許可で営業を続けている防具店があるようでして」
「……無許可、ですか。よくある話です。然るべき手続きを踏むよう、書面で警告を」
「それが……その、少々不思議な報告が続いておりまして。鉱山ギルドの採掘量が、組合創設以来の記録を更新したと」
「採掘量と防具店に、何の関係が」
「その採掘師が、例の店で装備を見直してもらったのが直接の理由だと、本人が周囲に話しているそうです。他にも……駆け出しの弓使いが射的大会で優勝したこと、それに」
部下が言い淀む。
「はっきりお言いなさい」
「……迷宮の最深部で、天盤を貫くほどの正体不明の魔法が暴発したという報告が。その現場に居合わせた冒険者の証言によれば、装備を新調したばかりのフェリア魔導師が関わっていたと」
「あのフェリア特級導師が、か?」
私は思わず、持っていた書類を握りしめた。
(……たかが一軒の、無許可の防具店が。これほどまでの異常事態を、いくつも引き起こしているというの……?)
○
部下には現地の若手に任せるよう進言されたが、私はそれを退けた。
これほどの異常事態を、経験の浅い若手に任せるわけにはいかない。組織の秩序を脅かす芽は、責任ある立場の者が、自らの目で摘み取らねばならない。
辺境の職人街に降り立ち、噂通りの質素な店構えを前にした時、私はいつも通り、背筋を伸ばし、寸分の隙もない足取りで扉を開けた。
カウンターの奥、裁断作業をしていた黒髪の男が、店主のトウヤなのだろう。
「いらっしゃいませ。……ご用件は」
作業の手を止めることなく、男が問う。
「商業ギルド査察部門、エレノアと申します。この店の営業実態について、いくつか確認したいことがあります」
「……なるほど。査察、ですか」
「単刀直入に申し上げます。この店は、商業ギルドへの正式な登録がなされていません。また、使用している素材ですが、スライムの糸や氷結蚕の糸とやらは、いずれも公的な品質認証を受けていない。そして、あなたが販売している『インナーアーマー』とやらは、正規の防具としての最低防御基準を満たしていないにもかかわらず、実質的に防具の代替品として機能している」
「登録については、来月までに提出できるよう書類を用意しています。素材の品質については、こちらに独自の検査記録がありますので、ご確認ください」
トウヤが作業台から一枚の書類を差し出す。
(……先手を打たれた? いえ、まだ他にも理由はある)
「仮に素材の品質に問題がなかったとしても、あなたの製品は正規の防具ではありません。これを防具の代替として使用させることは、利用者の安全を著しく損なう行為です」
「私の製品は、防具の代替ではなく、防具の性能を最大限に引き出すための補助具です。実際、これまで施術した全員が、従来より高い防御・機能を発揮しています」
「口先だけの主張では、証明になりません」
「証明は、既に街中に転がっていますよ。……採掘量の記録更新、射的大会での優勝。あなたがここへ来られた理由も、その辺りではありませんか」
図星を突かれ、一瞬、言葉に詰まる。
(……この男、こちらの手の内を、随分と正確に読んでいる)
○
規約違反の指摘が次々と的確な反論で切り返され、私は苛立ちを募らせていた。
長年、部下たちを詰問し、追い詰めることには慣れている。それなのに、この男には一切の動揺が見られない。
「屁理屈を並べたところで、規約違反の事実は変わりません。この店は、即刻」
声を張り上げようと、大きく息を吸い込む。
その瞬間だった。
トウヤの視線が、初めて私の顔から胸元、そして肩の強張り方へと滑り降りる。
「……失礼ですが、先ほどから、呼吸のたびに肩が上下していますね。それに、話す合間に、無意識に片手で腹部を支えている」
「……なんですって?」
「あなたの服の下、相当に締め上げたコルセットを着用されていますね。しかも、その締め方は、一般的な社交用のものではない。もっと過酷な、拘束に近い水準です」
心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
「……何を根拠に、そのような無礼な発言を」
「根拠なら、あなたの身体が示しています。顔色は青白く、唇の色もやや悪い。姿勢は完璧に保たれていますが、それは自然な姿勢ではなく、締め付けによって『矯正』されている状態だ。……失礼ながら、査察官という職務柄、常に隙のない姿を見せねばならないという事情でも?」
(――なぜ、この男に、そこまで……)
「わたくしの服装について、あなたに指図される謂れはありません。話をすり替えないでいただきたい」
「すり替えてはいません。……あなたのその『規律』とやらが、あなた自身の身体を確実に壊していっている。それを指摘しているだけです」
「無礼にも程があります。わたくしは、二十年、この装いで職務を全うしてきました」
「二十年、その負荷を積み重ねてきたということですね。……それは、そろそろ限界が近いという意味でもあります」
怒りのあまり、さらに大きく息を吸い込もうとした瞬間――。
(――あ)
視界の端が、白くにじみ始める。
頭の芯が、すっと冷たくなる感覚。視界の端から色が失われ、床が奇妙に傾いで見える。
二十年間、幾度となく味わってきたはずのその感覚が、今日に限って、いつもよりずっと急激に、そして深く私を呑み込もうとしていた。
(……いけない。これは、いつもより)
声を出そうとするが、うまく言葉にならない。
「わたく、し……は……」
膝から力が抜けていく。手を伸ばして何かに掴まろうとするが、指先が空を切った。
「……っ」
トウヤの声が、遠くから響いた気がした。駆け寄る足音が、それに続く。
意識の輪郭が、そこで途切れた。
〇
ぼんやりと像を結び始めた天井の木目を、私は虚ろに見つめていた。
(……ここ、は……)
意識の輪郭が戻ってくるにつれ、まず自覚したのは、これまで一度も経験したことのない、奇妙なほどの軽さだった。
「気がつきましたか。……動かないでください、まだ完全に酸素が行き渡っていません」
「わたくし、は……」
自分の胸元に視線を落とすと、あれほど固く、寸分の緩みも許さず締め上げていたはずのコルセットの紐が、根元から無残に切り裂かれている。
(――なんという、無様な……。査察官たる者が、こんな姿を……!)
「な……何をしてくれたのです! これは、わたくしの職務における正装であり……」
「正装である前に、あなたの肋骨が悲鳴を上げていました。放置すれば、本当に折れていたところです」
「そんな、大袈裟な……」
言い返そうとして、深く息を吸い込んだ瞬間、これまで感じたことのない量の空気が肺に流れ込んでくる。続く言葉を、私は失った。
(……なんですの、これは。息を吸うということが、こんなにも……)
「血流量、通常の40%以下です。二十年、その圧迫を続けてきた結果、身体が慢性的な酸欠状態に慣れてしまっている。……先ほどの目眩、恐らく初めてではありませんね」
「……」
「……その締め方、規約を守らせる立場の人間らしい発想ですね。緩みを、一切許さない」
「何がおっしゃりたいのです」
「工房のミリ単位の妥協すら見過ごさず許さない。なのに、ご自身の身体に対しては、それ以上の負荷を、二十年も見過ごしてきた。矛盾していませんか」
一瞬、答えに詰まる。
「わたくしは……この職に就いた時から、隙を見せてはならないと、そう己に課してきました。……女の身で査察部門を率いるということが、どういうことか、あなたには分からないでしょう」
「分かりませんね。ですが、隙を見せない、ということと、身体を壊れる寸前まで締め上げることは、同じではありません」
「……」
「あなたが守ろうとしている規律とは、他者に非の打ち所を与えないための、完璧な統制のはずです。……ですが今のあなたの身体は、統制どころか、いつ壊れてもおかしくない状態だ。それは規律ではなく、単なる自傷です」
「……自傷、ですって」
かちりと、何かが胸の奥で音を立てる。
「……わたくしは、ただ」
言葉を続けようとして、うまく纏まらない。
(……ただ、何だというの。誰にも文句を言わせないように。誰にも侮られないように。……それだけで、ここまで)
言葉を失った私を前に、トウヤはそれ以上追及することなく、静かに作業台へと向かった。
選ばれていく素材は、これまでのコルセットと変わらぬ格式高い意匠の生地。だが内側には、氷結蚕の糸で編まれた帯状の芯材が、骨盤から肩甲骨にかけて面で受け止めるように仕込まれていく。
「……見た目の格式は変えません。査察官としての威厳を保つ必要があるでしょうから」
(……何も言っていないのに、なぜ、それを)
程なくして仕上がったのは、見た目にはこれまでと寸分違わぬ、しかし内側の構造だけがまるで異なるコルセットだった。
「……本当に、見た目は変わっていないように見えますが」
「着けてみてください」
試着し、これまで通りの位置で締め上げる。だが、あの肋骨を押し潰すような感覚は、どこにもなかった。
「……嘘、でしょう」
「圧力を一点に集中させず、骨盤から肩甲骨にかけての面全体で受け止める構造にしました。……威厳を保ちながら、壊れずに済みます」
何度も呼吸を確かめる。深く吸い込んでも、どこにも抵抗がない。
(……二十年、こんなものが可能だと、知りもしなかった)
「対価については、追ってご相談を。……分割でも構いません」
「……結構です。正規の請求書を、後日商会宛に送りなさい」
身体の異常については、認めざるを得なかった。
仕立て師としての腕も、間違いなくトップクラス。
だが査察官としての職務は、まだ終わっていない。
むしろ、身体が楽になったことで頭が冴えたのか、これまで見過ごしていた違和感の輪郭が、急速にはっきりとしてくる。
この規模の技術力を持ちながら、なぜこの男は、無登録のまま営業を続けきたのか。無登録での営業など、通常であれば辺境の名もない小店か、誰の指図も受け付けない偏屈な老職人の工房、あるいは闇市場くらいのものだ。加えて、彼が使う氷結蚕の糸やスライムの粘糸といった素材は、高品質でありながら商業ギルドはおろか素材鑑定ギルドにすら登録のない代物。
それでいて、彼はこの業界における登録手続きや流通の常識に、驚くほど疎い素振りを見せる。
技術は本物、それも国内のどの職人よりも先を行っている。
それなのに、業界の作法だけを、まるで最初から知らなかったかのように振る舞う。
この矛盾を、私は問い質さずにはいられなかった。
「……一つ、伺いたいことがあります」
「なんでしょう」
「この規模と技術力を持ちながら、なぜ今まで、商業ギルドへの登録を一度も行っていないのです。無登録での営業など、辺境の名もない小店か、頑固すぎて誰の指図も受け付けない偏屈な老職人の工房か、あるいは……闇市場くらいのものです」
「登録の必要性を、特に感じていませんでした」
「感じていなかった、では説明になりません。それに、あなたが扱っている素材、氷結蚕の糸や、スライムの粘糸……。これらは、商業ギルドはおろか素材鑑定ギルドにすら登録されていない代物のはずです。どこで、その存在を知ったのです」
「独自に見つけたものです」
「……独自に、と。腕は確かでしょう。ですが、あなたはこの業界の常識というものに、驚くほど疎い。登録の手続き、材料の流通経路、業界内の力関係……そういったものを、まるで最初から知らなかったかのように振る舞う。それでいて、その技術だけは、この国のどの職人よりも先を行っている。……一体、今まで、どうやって営業してきたのです」
トウヤは手元の作業を止めないまま、わずかに視線を上げた。
「……さあ、どうやってでしょうね」
「はぐらかすおつもりですか」
「はぐらかしてはいません。……ただ、その質問に、あなたが納得できる答えを、今の私は持ち合わせていないというだけです」
その黒い瞳の奥に、一瞬だけ、何か遠くを見るような色がよぎった気がした。
(……何なのです、この男は。まるで、この世界の作法そのものを、後から学び直したかのような……)
そこまで考えて、私は小さく首を振る。
(……いえ、詮索している場合ではありません。今は、目の前の事実だけを)
業界の常識に関する違和感は、結局のところ答えの出ない問いとして棚上げするしかなかった。だが、もう一つだけ、どうしても確かめておきたいことがある。
今日、私がここへ来ることを、まるで最初から知っていたかのような準備の良さ。あれだけは、単なる偶然では片付けられない。
「……もう一つ。今日、わたくしがここへ来ることを、まるで予期していたかのような準備の良さでした。登録書類も、検査記録も、すべてが前もって用意されていたかのように」
「実は、数日前に、商業ギルドがこの店を問題視し始めているらしい、という話を、小耳に挟んだだけです」
「……その情報源は」
「冒険者ギルドの受付嬢で、マイラという方です。以前、腰の不調でこちらに来られたことがあって、その際のご縁で、風の噂を教えてくださいました」
(……マイラ。……冒険者ギルドの、受付嬢が。まさか、そこまで広く……)
「それと彼女からの言伝です。『どうかご無理をされないように』と」
「……そう、ですか」
それ以上、追及する気力も湧かなかった。この店を巡る糸は、思っていたよりずっと、街の様々な場所に広がっているらしい。
「本日の査察の結果は、どうなさるおつもりですか」
「……営業停止、という結論には、至りません。無登録という事実は問題ですが、結果として街の事故率を下げているという事実もまた、無視できるものではない。……『継続監視対象』として、報告書には記載します」
「継続監視、ですか」
「ええ。……つまり、しばらくの間、定期的にこの店の実態を、査察官として直接この目で確認する必要がある、ということです」
トウヤは表情を変えないまま、小さく頷いた。
「承知しました。……次回のご訪問の際は、コルセットの締め付けに変化がないか、念のため確認させてください」
「……そ、それは、査察とは無関係な話でしょう」
「査察官の健康管理も、業務の一環かと」
(……この男、涼しい顔をして、随分と図々しいことを)
顔に出さぬよう努めながら、内心では動揺を隠しきれない。それでも、悪い気はしなかった自分に、私は気づかないふりをして、静かに店を後にした。
コメント
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もう、この査察官さん……二十年生きた信念を否定されたわけじゃなくて、ただ「壊れてもいい道理なんてない」って言われただけなのに、あれだけ固かった何かがほどけていくのが伝わってきて、じんわりきました。「見た目は変えず、内側だけ変える」ってトウヤの職人作為も沁みるし、最後の「悪い気はしなかった」で思わず顔が緩みました。続き、気になります。