エントランスを出てくるなり、運転席に座っている琴子を顎で助手席に回るよう指示すると、壱道はハンドルを握った。
運転する姿勢は昨日より崩れ、シートに埋もれるように身を沈めている。
「昨日も寝てないんですか?」
「案ずるな。運転に支障をきたすほどではない」
「いえ、そうではなくって。壱道さんのお身体を心配してるんですよ。病み上がりなのに。今日も遅くなりそうなんですよね」
「そのことだが。お前は次のところが終わったら帰っていい。その後は一人で回る」
「え、何でですか」
「これと言って理由はない」
ショックだった。壱道には自分は必要ないのか。
「浅倉さんと行くんですか」
「一人で行くと言ってるだろう」
「ならいいですけど」
ちらりと視線が投げられる。
「何が言いたい」
「お言葉ですが、彼女は刑事じゃありません。パソコンだって携帯だって、言ってくだされば私だって中身を調べたり、履歴を見るとくらいは」
「自惚れるな」
ピシャリと遮られる。
「出来ないから浅倉さんに頼んでるんだ」
やらせもしないで。
「そもそも彼女は他の仕事もあるでしょう。一つの事件を追いかける私たちと違うはずです」
自分でも不思議なほどむきになっている。
「お前が口を出すことじゃない」
話しながら少し左右に振れた頭から、浅倉と同じ女物のシャンプーの香りがした。
いよいよ腹が立ってくる。やめればいいとわかってるのに止まらない。
「もしお二人で一緒にいたいだけなら、もう邪魔しませんけど」
沈黙のあと、低い声が続く。
「低俗な妄想をするのは勝手だが、口に出すな。不愉快だ」
やってしまった。
今度はとうとうご立腹のようだ。
壱道はそれきり口を開かなくなってしまった。もともと事件以外のことでの会話はないが。
車は郊外を抜け、田んぼ道をひた走る。
たまに脇を通りすぎる山に、まだ残雪が窺える。
どこに向かっているのか皆目検討もつかないが、聞ける雰囲気でもない。琴子はただただ窓の外を流れていく、まだ耕されていない田んぼを眺めていた。
横断歩道が急に増えたかと思うと、車は大きな建物に進入していく。
どうやら学校のようだ。
駐車場に車を停め、ドアを開ける。
「ファイトファイトー!」
女子テニス部の高い声が聞こえてきた。中学校だ。
青春の一頁には目もくれず、壱道はスーツの第一ボタンを締めながら、正面玄関の階段を、二徹とは思えない軽快さで上っていく。
昨日の河川敷でも感じたが、彼には重力が働いていないようだ。
慌ててついていくと、入って正面が階段。
上った二階が職員室になっている。
数人の教師たちが振り向く。
「電話した松が岬署捜査一課の成瀬です」
奥に座っていた頭の薄い男が駆け寄ってくる。
「教頭の長谷部です」
「問題のパソコンは」
会釈もなく本題に入る。
「問題のって」
苦笑した長谷部がートパソコンを差し出した。
「先ほど試しに送ったメールは届きましたか」
「あ、はい。届きました」
「過去に同じアドレスからの受信は」
「一応迷惑メールが保存されているフォルダもみたのですが、何も」
「わかりました。パソコンをしばらく借ります。本間先生と梅津先生は」
「おります。ただ午後からとお聞きしてたので、二人とも今は部活に出ています。呼んで参りますから少々お待ちいただけますか」
そう言いながら廊下を挟んで向かい側の応接間に案内される。
「電話で話した通りに、二人は一つ間を開けた二つの教室に」
「わ、わかりました。それではこの応接間を中間として、隣接する多目的室にそれぞれ通していいですかね」
「結構」
「・・・確認なんですが、あくまで何かの事件の当事者というわけではなく、参考に話を聞くって解釈でいいんですよね」
「そうです」
納得しきれない顔で長谷部が去ると応接間は二人きりとなった。
壱道が右足を折り上にパソコンを開いて何やら確認している。
なぜこの中学校に?
これから呼ばれてくる二人の教師は何なのだろう?
取り調べをするのか?
今回の事件との関係は?
わからないことだらけだったが、どうしても声をかけられない。
もちろん大人げなく『低俗な』ことを言った、引け目もあった。
しかしそれ以上に、期待も頼りもせず、こちらの感情も覚悟もを無視したまま、一人で捜査をしている壱道に、まだ憤りを感じていた。
「聞かないのか」
壱道がパソコンに目を落としたまま言う。
「何もわからないまま取り調べに同席するつもりか。
お前は見学にでも来たのか。
なら邪魔だから帰れ。タクシー代はくれてやる」
ブチン。何かの糸が切れた音がした。
「壱道さん。声、だいぶ治りましたね。思いの外いい声で、びっくりしました」
「…お前、バカにするのも大概にしろよ」
「壱道さんこそ、私のことバカにしすぎなんじゃないですか」
「あ?」
「やることがあるなら言ってくださいよ。
櫻井が殺された夜に、あなた、私のことを指名しましたよね。
それなのに、なに早速一人でマンション戻ってるんですか!
連れていってくださいよ。
昨日だって、私を送ったときは何も言わなかったくせにそのあと夜通し捜査してたってことですよね。
なんで混ぜてくれないんですか!
おかげで帰っても悶々としたまま眠れなくて、いろいろ想像して妄想して、ゲイのこと調べたりガラスアート見たりネットサーフィンしすぎて、最終的にBL読み漁って、変な夢見たじゃないですか!」
思わず立ち上がった琴子を壱道は唖然としながら見つめている。
ーーー何言ってるんだ、私は。
「昨夜の発言でも勝手にガッカリしてましたけど、あなた、一言でも言いました?
殺人事件だって!
一番肝心なところ言いもしないで、捜査の手伝いもさせないで、私、単なる付き人じゃないですか!
なにが『見学に来たのか』ですか!
壱道さんがいつも私に見学しかさせてないんじゃないですか!」
壱道が瞬きを一つする。相変わらず感情の読み取れない顔だ。
「櫻井の事件の担当は、あなたと、私でしょう!違いますか!」
なんだ、この言い方。
嫉妬する女子みたいじゃないか。
そうではなくて、配属されてどんなに日が浅くても、ちゃんと刑事として認めてほしいというか、人一人が殺された殺人事件なんだから、もっとがむしゃらに、必死に真剣に、事件を追いたいというか、そういうことを言いたかったはずなのに。
分厚い応接間の扉がノックされる。
「準備できました]
長谷部が姿を現す。
「北側の教室に本間先生、南側に梅津先生です。では」
ドアが閉められると、応接室はまた静粛に包まれた。
立ち尽くしたまま、一気に上った血液が、今度はすごい勢いで急降下していく。
ーーー私、この巡査長に何を言った?
壱道は微動だにせず、足を組んだまま座っている。唖然として見上げていた顔は、今は俯いていて表情は窺い知れない。
話しかけようとした瞬間、静かに沈黙が破られた。
「取調べ、お前が一人でやってみろ」
間髪いれずに、
「この学校のパソコンのアドレスは、ホームページに乗っているため、誰にでも入手可能なものだ。
そのアドレス宛に、櫻井のパソコンから、去年の5月、例の音声データが送られている。
ちなみに件名も本文も記入がなかったため、櫻井がどんな目的で送ったかは不明。
脅迫か、嫌がらせか、牽制か。学校側のパソコンからは削除されているため、確認はできない。
去年、この学校に勤めていた教師のうち、櫻井が通っていた松が岬東中学校に、櫻井が在籍していた三年間で勤めていた教師は2名。
どちらも担任や顧問ではなく、授業を受け持ったことがある程度の関係だ」
そこで言葉を切り、琴子を睨むように見上げた。
「どちらかが、十四年前、中学生だった櫻井秀人を強姦した男だ」
櫻井が被害にあったのは、どうやって調べたのかは謎だが、中学校時代だったのか。
昨日今日やっと声変わりしたような少年に、よくも手を出せたものだ。沸々と怒りが込み上げてきた。
「ちなみに、櫻井が殺された日のその時間は、二人とも部活、その後は職員室に残っていたのを確認済み。学校入口の監視カメラの映像も事前にメールで送ってもらい確認済み。
少なくても実行犯である可能性はない」
一晩でどれだけのことを調べてるんだ。
「音声データを落としてきた。好きに使え」
胸元から小型のレコーダーを取り出しながら、壱道が立ち上がる。
その顔は無表情で、怒っているのか、期待しているのか、感情が計り知れない。
受け取った琴子は、小さく、しっかり頷いた。
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