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#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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7
最終話 月虹のリライター
夜明け前の冬木は、まだ眠っていた。
空は深い群青で、東の端だけがかすかに白み始めている。
街灯は濡れた道路を淡く照らし、遠くの川面には、夜と朝の境目が細い銀色の線になって揺れていた。
遠坂邸のリビングには、誰も大きな声を出す者はいなかった。
凛は宝石礼装をテーブルに並べ、一つ一つの魔力状態を確かめている。
士郎は無言で双剣の投影確認を繰り返していた。
ユイは返事の庭の観測記録を開き、ミライはその横で黒い丘の奥に灯った小さな火の安定を見ている。
そして衛二は、アストルフォと並んで座っていた。
二人の間には、例のメモ帳がある。
恋人用約束書。
いつの間にか、ただの非常用メモ帳ではなくなっていた。
声が奪われた時、名前が隠された時、宛先が消えた時、二人が何度も返事を探して書き重ねたもの。
そこには、いくつもの約束が残っている。
声がなくても、手を離さない。
声がなくても、返事を探す。
声がなくても、好きは消えない。
声がなくても、好きは返せる。
相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
届かなくても、返そうとした心は消えない。
届かない返事も、星になる。
返事が消えても、火種を守る。
火が小さくても、二人で囲む。
そして、最後の空白。
そこに何を書くべきか、衛二はまだ決められずにいた。
沈黙冠の最後の問い。
――すべての返事を抱えたまま、君たちは何を選ぶ。
その答えを、今日見つけに行く。
アストルフォが静かに手を伸ばした。
「エイジ」
「うん」
「手、握っていい?」
昨日までと同じ問い。
恋人になってからも、アストルフォは必ず聞く。
衛二はその優しさが好きだった。
恋人という名前は、勝手に触れる権利ではない。
大切に聞くための名前だと、二人は少しずつ覚えてきた。
「いいよ」
衛二が手を差し出すと、アストルフォはその手を取った。
強すぎず。
弱すぎず。
今まで何度も確かめてきた、二人の力加減。
「今日の手は?」
アストルフォが聞く。
「怖い」
衛二は正直に答えた。
「でも、火はある」
アストルフォの瞳が揺れる。
「うん。ボクも怖い。でも、火はある」
二人はメモ帳を見る。
最後の空白。
衛二はペンを取った。
指先が少し震える。
けれど、それでよかった。
怖くないふりをする必要はない。
震える手でも、書ける。
衛二は最後の行に、ゆっくりと言葉を刻んだ。
――すべてを抱えても、返事を続ける。
アストルフォはその文字を見つめ、息を呑んだ。
「エイジ」
「まだ、答えになってないかもしれない」
「ううん」
アストルフォは首を横に振った。
「すごく、エイジらしい」
そして、アストルフォもペンを取る。
衛二の文字の下に、彼は丸い字で書いた。
――一人で抱えない。二人で続ける。
衛二の胸が熱くなる。
その二行を見た瞬間、答えの輪郭が少しだけ見えた気がした。
すべての返事を抱える。
それは、一人で背負うことではない。
叶えられなかった言葉も、届かなかった返事も、拒まれた手も、失われた名も、声なき祈りも。
全部を完璧に救うことはできない。
でも、消さないことはできる。
聞こえたと返すことはできる。
ここに置くことはできる。
次の誰かが返事を探せるよう、火を残すことはできる。
凛が二人のメモを見て、少しだけ目を細めた。
「決まったみたいね」
衛二は頷く。
「うん」
士郎が静かに立ち上がった。
「行こう」
◇
柳洞寺へ着く頃、空は薄紫に変わっていた。
朝と夜の境目。
冬木の街の屋根の上に、細い月が残っている。
太陽が昇ろうとしているのに、月はまだ消えない。
その淡い光が、空の端に虹のような輪郭を作っていた。
月虹。
夜の水滴が月光を受けて生む、淡い虹。
衛二はそれを見上げた。
なぜか、胸の奥で何かが静かに鳴った。
太陽の虹ほど鮮やかではない。
でも、確かにそこにある。
届かないようで、消えそうで、けれど見ようとすれば見える光。
返事の庭に咲いた花々に似ている。
柳洞寺の境内には、宗真と柳洞悠馬が待っていた。
宗真は深く頭を下げる。
「お待ちしておりました」
柳洞は衛二を見る。
その表情はいつも通り落ち着いているが、目だけは真剣だった。
「遠坂」
「何だ?」
「今日は、何を言えばいいか分からない」
衛二は少し笑った。
「柳洞でも?」
「ああ。寺の息子でも、分からない時は分からない」
柳洞は少しだけ息を吐く。
「だから、これだけ言う。帰ってこい」
衛二は頷いた。
「ああ。帰ってくる」
アストルフォが胸を張る。
「ボクが連れて帰る!」
柳洞はアストルフォを見て、少しだけ笑った。
「頼んだ」
「任せて!」
宗真は鐘楼を見上げた。
「鐘は、まだ鳴りません」
境内の鐘は静かだった。
だが、その静けさは昨日までとは違った。
何も届かない沈黙ではない。
鳴る時を待つ沈黙。
衛二はその違いが分かるようになっていた。
凛が石扉の前へ立つ。
「始めるわ」
ユイとミライが封印鍵を重ねる。
地面の奥で、低い振動が走った。
石扉が開く。
その向こうから、白でも黒でもない空白が滲み出してくる。
返事が生まれる前の空白。
沈黙冠の核へ続く道。
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも衛二を見る。
「怖い?」
衛二が聞く。
「怖い」
アストルフォは答えた。
「でも、行く」
「ああ」
「恋人として」
「恋人として」
二人は手を繋いだまま、階段を下りた。
◇
返事の庭は、夜明け前の空の色をしていた。
白い花々は閉じている。
だが完全に眠っているわけではない。
花弁の隙間から、かすかな光が漏れている。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
その返事たちは、今は声を潜めている。
黒い丘の根元には、これまで生まれた花々が並んでいた。
沈黙の蕾。
時計の芽。
桃色の停止芽。
手の芽。
信頼の芽。
名前になる前の約束の蕾。
恋人の花。
もう一度呼ぶ花。
音なき鐘の花。
星路の花。
そして昨日、沈黙冠の核へ置いた小さな火。
それは黒い丘の奥で、今も消えずに揺れていた。
門は開いている。
奥には、空白。
昨日よりも深い。
しかし、昨日とは違うものもある。
その空白の中心に、小さな火がある。
衛二とアストルフォが置いた火種だ。
ユイが涙を堪えるように言った。
「火は残っている」
ミライが頷く。
「核が完全な沈黙ではなくなった。だから、今日なら届く」
凛が衛二を見た。
「ここからは予定通り。衛二、あなたが無窮剣界を完全展開する。アストルフォは契約線を通じて錨になる。私たちが外側から返事の庭を支える」
士郎が続ける。
「ただし、無理に沈黙冠を消そうとするな。あれは敵であると同時に、返事が届かなかった痛みの集合でもある」
衛二は頷いた。
「分かってる」
凛は少しだけ目を細める。
「本当に?」
「消すんじゃなくて、書き換える」
「書き換える?」
「なかったことにするんじゃない。沈黙の意味を変える」
ユイが息を呑む。
ミライも目を見開く。
衛二は黒い丘の奥を見つめた。
「返事がなかった沈黙を、返事を待つ沈黙へ。終わりの沈黙じゃなくて、火を守る沈黙へ。沈黙冠を、返事を奪う冠じゃなく、返事が生まれる前の静けさへ書き換える」
アストルフォが嬉しそうに笑った。
「月虹のリライター」
衛二は少し驚いて彼を見る。
アストルフォは続けた。
「夜の中でも、薄くても、ちゃんと光を架ける人。エイジは、そういうのが似合う」
衛二の胸が熱くなる。
「俺一人じゃない」
「うん」
アストルフォは衛二の手を握った。
「二人で」
「みんなで、だ」
凛がふっと笑った。
「そこは分かってるじゃない」
士郎も微笑む。
「なら、行ってこい」
衛二は頷いた。
アストルフォと共に、門の前へ立つ。
「アストルフォ」
「うん」
「もし俺が沈黙に飲まれたら」
「呼ぶ」
「声がなくなったら」
「手に書く」
「手も届かなかったら」
「星にする」
「星も見えなかったら」
アストルフォは少しだけ考えた。
そして、笑った。
「火を囲む」
衛二は頷く。
「俺もそうする」
二人は門をくぐった。
◇
空白の中に、火があった。
昨日、二人が置いた小さな火。
それは頼りないほど小さく、息を吹きかければ消えてしまいそうだった。
けれど、消えていない。
衛二はその火の前に立つ。
アストルフォは隣にいる。
今度は手が消えない。
だが、分かる。
沈黙冠は待っている。
二人がすべての返事を抱えきれず、火を手放す瞬間を。
空白の奥から、黒い冠が現れた。
沈黙冠。
昨日、亀裂が入ったはずの冠。
その亀裂の中には、無数の声なき光が揺れている。
返されなかった言葉。
届かなかった祈り。
言えなかった好き。
遅すぎたごめん。
誰にも向かわなくなったありがとう。
火種ごと消えてしまった心。
沈黙冠は、声なき問いを落とした。
――すべてを抱えれば、君たちも沈む。
衛二は答えた。
「抱える」
アストルフォも言った。
「でも、一人じゃ抱えない」
――返事は痛みを増やす。
「痛い」
「でも、温かい時もある」
――届かないものは救えない。
「救えないこともある」
「でも、なかったことにはしない」
――失われたものは戻らない。
「戻らない」
「だから、名前を呼ぶ」
――沈黙こそが、最後の安らぎ。
衛二は首を横に振った。
「沈黙にも、種類がある」
黒い冠がわずかに揺れる。
「逃げる沈黙。押しつける沈黙。奪う沈黙。終わらせる沈黙」
アストルフォが続ける。
「でも、待つ沈黙もある。隣にいる沈黙もある。声がなくても返事を探す沈黙もある」
衛二は小さな火を見る。
「俺たちは、沈黙を全部否定しに来たんじゃない」
アストルフォは頷いた。
「返事を奪う沈黙を、返事が生まれる場所に変えに来た」
沈黙冠の亀裂が広がる。
中から、声なき痛みが溢れ出した。
昨日よりも強い。
すべての返事。
すべての未答。
すべての後悔。
それらが一斉に二人へ向かう。
衛二はアストルフォの手を握った。
「展開する」
「うん」
「錨、頼む」
「任せて」
アストルフォは衛二の胸に手を当てた。
「ボクはここにいる」
その一言が、衛二の内側に深く沈む。
衛二は目を閉じた。
内側の炉へ降りる。
無窮剣界。
剣を作る工房ではなく、剣という理が支配する世界。
だが今日は、剣だけではない。
返事の火を鍛える。
沈黙を、別の意味へ書き換える。
衛二は詠唱を始めた。
「我が骨子は、刃の夢を覚えている」
声は空白に響いた。
小さな火が揺れる。
「血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃」
硝子の大地が広がる。
空白の底に、夜の鍛造炉が現れる。
「幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず」
返事の庭の白い花々が、無窮剣界の地平に咲き始める。
「ただ一度も背を向けず、ただ一度も己を赦さず」
星座のような剣の設計図の間に、返事の言葉が流れ込む。
「彼の者は、常に境界に立ち、贋作と真実の狭間で、勝利を鍛つ」
恋人の花が炉の中心に根を下ろす。
もう一度呼ぶ花が星座になる。
音なき鐘の花が炉の上で震える。
星路の花が硝子の大地に道を描く。
「故に、その生に解はなく」
沈黙冠の影が伸びる。
それでも、火は消えない。
「されど、この手は誰かの願いへ届いた」
アストルフォが衛二の手を強く握る。
少し強い。
でも、今はその強さが必要だった。
「――その魂は、きっと剣を超えていた」
衛二は目を開けた。
「固有結界――展開」
世界が反転する。
「無窮剣界」
夜の鍛造炉が、返事の庭を抱いた。
硝子の大地に白い花が咲き、星座の剣が花弁の上に光を落とす。
空は深い夜。
その夜の中央に、月虹が架かっていた。
月の光でしか見えない、淡い虹。
太陽のように強くはない。
だが、闇の中でこそ見える橋。
衛二はその虹を見上げる。
「月虹……」
アストルフォが隣で微笑む。
「きれい」
「ああ」
その月虹は、返事の庭に残ったすべての花の光が、無窮剣界の炉火で屈折して生まれたものだった。
沈黙冠へ向かう道。
届かなかった返事たちが、月の光を受けて橋になった。
衛二は右手を上げる。
炉から一本の剣が鍛たれる。
それは星鉄の刃でありながら、花弁のように柔らかな光を持っていた。
刃の中には、すべての返事の言葉が流れている。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
待っている。
走ろう。
止まっていい。
握らなくてもいい。
もう一度呼ぶ。
声がなくても返事はある。
届かない返事も星になる。
火が小さくても、二人で囲む。
衛二はその剣を握った。
アストルフォが隣で、もう片方の手を重ねる。
「名前は?」
アストルフォが聞く。
衛二は答えた。
「月虹のリライター」
剣が淡く輝く。
それは、沈黙冠を消すための剣ではない。
沈黙の意味を書き換えるための剣。
終わりの沈黙を、始まりの静けさへ。
返事を奪う冠を、返事を待つ月虹へ。
◇
沈黙冠が、すべての痛みを解き放った。
無数の影が現れる。
それは敵兵ではない。
願いの形。
黒い花。
止まった時計。
拒まれた手。
崩れる名前。
音を失った鐘。
宛先のない手紙。
消えかけた火。
これまで向き合ってきたすべての問いが、同時に押し寄せる。
凛たちは外側で支える。
凛の宝石が赤い星になり、月虹の端を固定する。
士郎の双剣が硝子の大地に亀裂が走らないよう支える。
ユイとミライが返事の庭の花々を一つずつ開かせる。
宗真と柳洞の祈りが、地上から鐘の形になって降り注ぐ。
衛二とアストルフォは、月虹の橋を走った。
最初に迫ったのは、黒い花。
返事を拒む願い。
花は叫ばない。
ただ、開かない。
衛二は剣を振るわなかった。
アストルフォと共に、その前で一瞬立ち止まる。
「返事はいらないって泣いてた花」
アストルフォが言う。
衛二は頷く。
「押しつけない」
二人は黒い花のそばに、小さな沈黙を置いた。
待つための沈黙。
黒い花の根元に白い光が灯る。
次に、止まった時計が現れる。
待てない願い。
秒針が狂ったように回り、月虹を切ろうとする。
「待てないなら」
衛二が言う。
「一緒に走る!」
アストルフォが続ける。
二人は月虹を駆け抜け、時計の針を追い越した。
針は砕けず、道へ変わった。
次に、動けない泥が足元を絡める。
進めない願い。
衛二は無理に引き抜こうとしない。
アストルフォが隣で膝をつく。
「動けないなら」
「隣で止まる」
二人が一瞬止まると、泥は固い地面になった。
次に、拒まれた手が伸びる。
握ってほしい。
でも握れない。
近づかないで。
でも置いていかないで。
衛二は手を差し出す。
しかし握らない。
アストルフォも同じように手を置く。
「握れなくてもいい」
「手は、ここにあるよ」
拒まれた手の指先が、月虹の光に触れる。
次に、崩れる名前が降ってくる。
文字が砂になり、呼ぼうとする声が曇る。
衛二はアストルフォを見る。
「アストルフォ」
「エイジ」
「何度でも呼ぶ」
「何度でも返す」
名前の砂が星になり、月虹へ吸い込まれる。
次に、音を失った鐘が現れる。
鐘は鳴らない。
だが、アストルフォは衛二の掌に指で書いた。
エイジ。
衛二も書き返す。
アストルフォ。
音なき鐘が震え、声ではない返事が広がる。
次に、宛先のない手紙が舞う。
誰へ向けたものか分からない返事。
衛二は月虹のリライターを掲げる。
「届かなかった返事も」
アストルフォが続ける。
「星になる」
手紙たちは星座になり、月虹の道をさらに先へ伸ばした。
最後に、消えかけた火が現れた。
小さな火。
返事になる前の火種。
それは風もないのに揺れている。
沈黙冠の核が囁く。
――それを抱えれば、すべての痛みが来る。
衛二は火の前に立つ。
アストルフォも隣に立つ。
「抱える」
衛二は言った。
「でも、一人でじゃない」
アストルフォが両手を火へかざす。
「二人で囲む」
その瞬間、外側から無数の光が集まった。
凛の赤い光。
士郎の鋼の光。
ユイの白い光。
ミライの淡い青。
宗真と柳洞の祈り。
返事の庭に咲いたすべての花。
そして、衛二とアストルフォの桃色と蒼の光。
火は大きくなった。
燃え盛る炎ではない。
誰かを焼くための炎ではない。
手を近づければ温かい、ちいさな灯。
沈黙冠の核が、その光に照らされる。
◇
黒い冠の中心には、少女がいた。
いや、少女の形をしているだけかもしれない。
年齢も、名前も、顔も定まらない。
返事を待っていた誰か。
返事を拒んだ誰か。
待てなかった誰か。
動けなかった誰か。
手を取れなかった誰か。
名前を失った誰か。
声を奪われた誰か。
相手を見失った誰か。
返事の火を消してしまった誰か。
そのすべてが混ざったような存在。
沈黙冠の核。
少女は、何も言わなかった。
声がないのではない。
言葉になる前のまま、止まっている。
衛二は月虹のリライターを構えた。
けれど、刃を向けない。
アストルフォも隣で手を握る。
少女は、空っぽの目で二人を見た。
その目が問いかける。
すべての返事を抱えたまま、君たちは何を選ぶ。
衛二は息を吸った。
今までの答えが、胸の奥で一つに繋がっていく。
返事はいらないと泣く願いには、押しつけない沈黙を。
待てない願いには、一緒に今を動かすことを。
動けない願いには、隣で止まることを。
手を拒む願いには、握らなくていい手を。
失うことを恐れる願いには、束縛ではなく信頼を。
名前を恐れる願いには、逃げない約束を。
踏み出せない二人には、明日へ向かう半歩を。
名を得た想いには、選び続ける恋を。
失われた名には、もう一度呼ぶ道を。
声なき沈黙には、声以外の返事を。
宛先を失った返事には、星になる道を。
返事そのものを失った場所には、火種を。
そして。
すべてを抱えたまま、何を選ぶのか。
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォは頷いた。
二人は同時に少女へ向き直る。
「俺たちは」
衛二が言う。
「全部を救えるなんて言わない」
アストルフォが続ける。
「全部に完璧な答えを返せるとも言わない」
「届かなかった返事は痛い」
「失われた名前は戻らないこともある」
「声が消えた沈黙は怖い」
「相手がいなくなった返事は苦しい」
「火が消えた場所は、寒い」
二人は手を握る。
月虹が、二人の背後で淡く光る。
「それでも、俺たちは選ぶ」
衛二は月虹のリライターを掲げた。
「返事を続けることを」
アストルフォが言う。
「一人で抱えないことを」
「痛みを消すんじゃなく、聞こえたって返すことを」
「沈黙を終わりじゃなく、次の返事が生まれる場所にすることを」
少女の目が、わずかに揺れた。
衛二は一歩前へ出る。
「沈黙冠」
黒い冠が震える。
「お前を消さない」
その言葉に、空白が大きく揺れた。
アストルフォも続ける。
「でも、返事を奪う冠のままにはしない」
衛二は剣を下ろし、刃先を少女の足元へ向けた。
「書き換える」
月虹のリライターが光る。
「終わりの沈黙を、始まりの静けさへ」
アストルフォが手を重ねる。
「返事を奪う冠を、返事を待つ虹へ」
二人の声が重なる。
「月虹へ」
剣が振り下ろされた。
少女を斬るのではない。
黒い冠を砕くのでもない。
冠の意味を書き換えるために。
刃が黒い冠へ触れた瞬間、無窮剣界の炉火と返事の庭の花々が、一斉に光を放った。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
待っている。
走ろう。
止まっていい。
握らなくてもいい。
もう一度呼ぶ。
声がなくても返事はある。
届かない返事も星になる。
火が小さくても、二人で囲む。
すべてを抱えても、返事を続ける。
一人で抱えない。二人で続ける。
言葉が、光になる。
光が、月虹になる。
黒い冠に入っていた亀裂から、淡い虹が溢れた。
黒は消えない。
だが、真っ黒ではなくなる。
深い夜の色の中に、月光の虹が差し込む。
少女の目に、初めて光が宿った。
声はない。
でも、彼女は唇を動かした。
――聞こえた。
その一言は、音にならなかった。
けれど、確かに届いた。
沈黙冠は砕けなかった。
代わりに、形を変えた。
黒い冠は、淡い虹を帯びた輪になり、白い花々の上へ静かに浮かぶ。
返事を奪う冠ではない。
返事が生まれる前の静けさを守る輪。
誰かがすぐに言えない時。
返事を拒みたい時。
待つしかない時。
声が出ない時。
宛先が見えない時。
火が消えそうな時。
その沈黙を、終わりにしないための月虹。
少女の姿は、花弁になってほどけた。
最後に、彼女は衛二とアストルフォを見た。
ありがとう、と言った気がした。
ごめん、とも。
でも衛二は、どちらか一つに決めなかった。
ただ、頷いた。
「聞こえた」
アストルフォも頷く。
「ここに置くね」
少女は微笑んだ。
そして、月虹の花びらになって、返事の庭へ降り注いだ。
◇
世界が戻る。
夜の鍛造炉が薄れていく。
硝子の大地が白い花畑へ変わる。
星座の剣たちは光の粒になり、返事の庭の空へ溶ける。
無窮剣界が閉じる。
だが、完全には消えない。
返事の庭の奥には、硝子のように透き通る小さな泉が残っていた。
その水面には、月虹が映っている。
黒い丘はもう黒くなかった。
夜色の丘。
その上に、淡い虹の輪が浮かんでいる。
ユイが膝をついた。
涙が頬を伝っている。
「返事の庭が……変わった」
ミライも涙をこぼしていた。
「沈黙冠が、消えなかった」
「消さなかった」
凛が静かに言った。
その声には、驚きと安堵が混ざっていた。
士郎は衛二とアストルフォを見ていた。
二人は手を繋いだまま立っている。
疲れ切っている。
顔色も悪い。
けれど、倒れてはいない。
凛が二人に近づく。
そして、まず衛二の額を軽く小突いた。
「馬鹿」
「母さん」
「本当に、馬鹿」
凛の声が震えていた。
衛二は何も言えない。
次の瞬間、凛は衛二を抱きしめた。
強く。
母として。
「帰ってきたわね」
衛二は目を閉じた。
「ただいま」
士郎も近づき、衛二の肩に手を置く。
「おかえり」
その言葉に、返事の庭の白い花々が一斉に揺れた。
おかえりの芽。
かつて咲いた返事の一つが、今、確かに花になった。
アストルフォは少し離れた場所で、嬉しそうにそれを見ていた。
しかし衛二はすぐに彼の手を探した。
アストルフォが気づき、手を伸ばす。
握る。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力で。
「アストルフォ」
「エイジ」
「帰ってきた」
「うん」
「一緒に」
「うん!」
アストルフォは笑った。
泣きながら、笑った。
「おかえり、エイジ」
「ただいま、アストルフォ」
「ボクも、ただいま」
「おかえり」
二人は抱きしめ合った。
返事の庭の中心で。
月虹の下で。
◇
地上へ戻ると、柳洞寺の鐘が鳴った。
一度。
深く、澄んだ音。
その音は冬木の朝に広がっていく。
誰かを責める音ではない。
終わりを告げる音でもない。
帰ってきたものを迎える音。
宗真は鐘楼の前で静かに手を合わせていた。
柳洞悠馬は衛二たちの姿を見ると、深く息を吐いた。
「帰ってきたな」
「ああ」
衛二は答える。
「帰ってきた」
柳洞はアストルフォを見る。
「君も」
「うん! 帰ってきた!」
「ならよかった」
柳洞は少しだけ笑った。
宗真が静かに言う。
「鐘が、返事をしました」
衛二は鐘楼を見上げた。
朝の光が差している。
そして、空にはまだ淡い月が残っていた。
月の光と朝の光が混ざる空。
その中に、見えるか見えないかの淡い虹が架かっている。
月虹。
夜と朝の境界に架かる、淡い返事。
◇
数日後。
冬木は、普通の顔を取り戻し始めていた。
穂群原学園では、声が消えた一連の異変は、奇妙な集団不調として片づけられた。
生徒たちは少しの間その話で盛り上がったが、すぐに受験や部活や購買の新作パンの話へ戻っていった。
宮原詩乃は学校へ戻ってきた。
弟の手術は無事に終わり、経過も良いらしい。
彼女は衛二に短いメモを渡した。
――あの時、待てって言わないでくれてありがとう。
衛二はそれを読んで、静かに頷いた。
柳洞悠馬は、以前より少しだけ衛二たちの事情に関わるようになった。
もちろん深く踏み込みすぎない。
だが、柳洞寺に何かあれば必ず連絡してくる。
彼はある日、衛二に言った。
「返事の庭、少し明るくなったらしいな」
「ああ」
「ならよかった」
「見に来るか?」
「境内まででいい」
「相変わらず慎重だな」
「少しずつでいいんだろう」
衛二は笑った。
「そうだな」
少しずつ。
それもまた、返事の形だった。
◇
遠坂邸では、日常が戻った。
凛は相変わらず衛二に厳しい。
「無窮剣界の反動が完全に抜けるまで、過度な投影は禁止」
「分かってる」
「本当に?」
「本当」
「アストルフォ」
「はい!」
「監視」
「任せて!」
「俺への信頼」
「信頼してるから監視するのよ」
以前も聞いたような言葉だった。
士郎は台所で笑っている。
ユイとミライは、返事の庭の再構築を続けていた。
沈黙冠はもう敵ではない。
だが、完全に安全なものになったわけでもない。
返事の庭の奥には、月虹の輪が浮かんでいる。
それは、沈黙を終わりにしないためのもの。
返事を急がせず、押しつけず、でも火を消さないための輪。
ミライはその前で、時々立ち止まる。
ユイは隣で待つ。
無理に手を取らない。
だが、取れる距離にいる。
ある日、ミライは自分からユイの手を取った。
「待っていてくれて、ありがとう」
ユイは泣きそうな顔で笑った。
「聞こえた」
◇
夕方。
穂群原学園の屋上。
衛二とアストルフォは並んで立っていた。
ここで、二人は恋人になった。
普通の放課後。
夕方の光。
冷たい風。
遠くの校庭の声。
あの日と同じように、冬木の街が見える。
けれど、二人の間には前よりもずっと確かな温度があった。
「エイジ」
「何?」
「手、握っていい?」
「いいよ」
アストルフォが手を取る。
強すぎず、弱すぎず。
ちょうどいい。
「今日の手は?」
アストルフォが聞く。
「落ち着いてる」
「ボクも」
「本当に?」
「ちょっとだけ甘えたい」
「それは手で分かるのか?」
「恋人なので分かります」
「便利だな、恋人」
「便利にしないの!」
アストルフォは頬を膨らませた。
衛二は笑う。
そして、少しだけ手を引いた。
「ぎゅーする?」
アストルフォの顔が明るくなる。
「する!」
彼は衛二に抱きついた。
衛二も抱きしめ返す。
夕方の屋上で、静かに。
強すぎず。
でも、確かに。
「力加減は?」
衛二が聞く。
「ちょうどいい」
「よかった」
アストルフォは衛二の胸に額を寄せた。
「終わったんだね」
「完全に全部が終わったわけじゃないと思う」
「うん」
「でも、沈黙冠はもう返事を奪わない」
「月虹になった」
「ああ」
アストルフォは空を見上げる。
夕方の月が、薄く浮かんでいた。
「エイジは、月虹のリライターだね」
「一人じゃない」
「うん。ボクも一緒」
「みんなも」
「でも、ボクは恋人枠」
衛二は笑った。
「そこは譲らないんだな」
「譲りません」
アストルフォは胸を張った。
それから少し照れたように言う。
「エイジ」
「うん」
「恋人になってよかった」
衛二の胸が温かくなる。
「俺も、アストルフォと恋人になってよかった」
「怖いことも増えたけど」
「嬉しいことも増えた」
「弱くもなったけど」
「強くもなった」
「好きも?」
「増えた」
アストルフォは真っ赤になって、衛二の胸に顔を埋めた。
「ずるい……」
「聞いたのはアストルフォだろ」
「聞いてよかった」
衛二はアストルフォの髪を撫でる。
桃色の髪が夕方の光に揺れる。
アストルフォは少しだけ顔を上げた。
「契約、再確認していい?」
「もちろん」
アストルフォは衛二の額に、そっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
何度も繰り返してきた言葉。
けれど、そのたびに意味が増えていく。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。沈黙が来ても、怖くても、声がなくても、名前が見えなくても、ボクはエイジへ返事を探す。これからも、力加減を一緒に探す。好きが増えたら、ちゃんと言う」
衛二は目を閉じる。
「俺はアストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。沈黙が来ても、返事を急がせない。押しつけない。でも火は消さない。これからも、アストルフォが選んで隣にいてくれることを大事にする。好きが増えたら、ちゃんと伝える」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今増えた?」
衛二は少しだけ考えるふりをした。
アストルフォが不安そうに見上げる。
その顔が可愛くて、衛二は笑った。
「増えた」
アストルフォの顔がぱっと明るくなる。
「ボクも!」
二人は屋上で笑った。
夕暮れの空に、薄い月が浮かんでいる。
その周りに、ほんの一瞬だけ淡い虹が見えた気がした。
月虹。
届かなかった返事も、言えなかった言葉も、消えた火も、完全には救えない。
でも、消さずに置くことはできる。
聞こえたと返すことはできる。
返事を続けることはできる。
衛二はアストルフォの手を握った。
アストルフォも握り返す。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力で。
冬木の街に、夜がゆっくり降りてくる。
けれど、その夜はもう、ただの沈黙ではなかった。
誰かが返事を探すための静けさ。
月虹の下で、二人は並んで立っていた。
そして、明日へ帰っていく。
手を繋いだまま。
返事を続けるために。
コメント
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最終話、読み終えたよ…!🌸 もう涙が止まらないんだけど!😭💕「月虹のリライター」ってタイトルがもうエモすぎてさ…エイジとアストルフォが最後の空白に書いた「すべてを抱えても、返事を続ける」「一人で抱えない。二人で続ける」、ここで完全にやられたわ…!返事の庭が月虹に変わって、みんなの「おかえり」が花になるシーン、最高すぎて何度も読み返したよ…!最後の屋上の「増えた」会話も、二人の力加減がちょうどいいのも、全部が尊い…!聖杯さん、本当に素敵な物語をありがとうございます!🙏✨