守の八畳間は、いつものようにどこか雑然としていた。
読みかけの漫画や脱ぎっぱなしのジャージが視界の端に転がっている。
その一角、使い古された座椅子の上では、黒と白のはちわれ猫、フクが丸くなって微睡んでいた。
時折ぴくりと耳を動かす以外は、完全に平和そのものだった。
部屋の真ん中には、空になったピザの箱が置かれている。その片隅で
マリアが最後のひときれをつまみ上げていた。守は端に座り、膝の上で指を組みながら
不安げな表情を浮かべて尋ねた。
「でも、その母体がどこにいるかわからないんじゃ?」
マリアは一切れを口に運びながら、もぐもぐと咀嚼する。
「そうだね。でも、母体からの信号はそんなに遠くには届かないはずだよ。」
守はひとつ頷き、視線をピザの箱からマリアに移した。
「じゃあ、あのホテル街のどこかにいる可能性が高いってことですか?」
マリアはピザを食べ終えると、紙ナプキンで口元を拭き、空になった箱を畳み始めた。
「そういうこと。でも、どの建物かまではわからないね。」
守はふぅと小さくため息をつきながら、視線を膝元の組んだ指先に落とした。
どうやってこの広大なエリアから、特定の建物を見つけ出すというのか。途方に暮れた声が漏れた。
「それじゃあ、どうやって探せば……?」
その時、マリアはピザの箱を完全に畳み終えると、急に部屋の隅にいる小百合を指差した。
その口元には、何かを思いついたような、少し意地の悪いような笑みが浮かんでいる。
「小百合を連れて行けば、その場所を特定できると思うよ。」
守は顔を上げ、その言葉に目を見開いた。
「小百合さんを!?でも、もしまたモンスター化したらどうするんですか?」
小百合を連れて行く。それは確かに、未知の「母体」を探し出す有効な手段かもしれない。
だが、彼女が再びあの忌まわしい姿に変貌する可能性は?そのリスクが、守の心臓を鷲掴みにする。
マリアはそんな守の狼狽を面白がるように、肩をすくめてあっけらかんと言った。
「その時はフクちゃんが守ってあげればいいじゃん。」
「え、ボクが!」
守はマリアの冗談めかした発言にただ呆然としていた。しかし、マリアは
そんな守の反応を楽しむかのように、にっこりと微笑みながら立ち上がった。
「大丈夫大丈夫。一応、動かないように縛って運べば安心でしょ。ね、ルナ?」
その言葉に、ルナが無言で頷く。そして、背負っていたバッグから、艶のない黒い、特殊な縄の
ようなものを取り出した。まるで生きた蛇のようにしなやかなそれは、一般的なロープとは明ら
かに異質だった。守は、ルナが当然のようにそんなものを取り出したことに、目を丸くした。
「そんなものまで持ち歩いてるんですか……?」
守が問いかける間もなく、ルナは素早く小百合に近づき、その身体に縄を巻きつけ始めた。
迷いのない手つきで、関節や胴体など、要所要所を的確に締め上げていく。
あっという間に、小百合はまるで荷物のようにしっかりと縛り上げられてしまった。
その流れるような、一切の無駄のない手際良さに、守はただ唖然とするばかりだった。
小百合を背中に担ぎ上げると、ルナは静かに守とマリアの方を向いた。
その顔には、一切の表情の動きがない。
マリアはそんなルナの準備完了を見て、満足そうに説明した。
「この縄、防衛軍の特殊装備だから。普通の人間はもちろん
モンスター化しても簡単には外せないよ。結構お高いんだからね?」
守はルナの手際の良さにも、マリアのその説明にも、ただただ困惑しながらも
彼女たちの常識外れな行動力と準備に驚かざるを得なかった。
「本当に、ゲームの世界と同じなんですね……。」
それは呆れとも感心ともつかない、複雑な感情が入り混じった呟きだった。
マリアは守のその反応を、心底楽しげに笑いながら言った。
「でしょ?さぁ、行こうか。」
これから何が起こるのか守には想像もつかなかったが、これ以上立ち止まっている場合ではないことは理解できた。
小さく深呼吸をし、覚悟を決めるように頷く。
「わ、わかりました……。」
未知の「母体」を探しに、特殊な縄で縛られた小百合を連れて、あの危険なホテル街へ向かう。
これから始まるであろう事態への不安は拭えないが、マリアとルナという、
常識外れな力を持つ彼女たちと共に行くしかないのだと、守は自分に言い聞かせた。
夜の街を駆け抜ける音が響いた。アパートを飛び出したマリアとルナは、
小百合を背負いながらも軽やかに前方を進んでいく。一方、守は必死にその後を追いかけていた。
「え、ちょっと、走って行くんですか?」守が息を切らせながら叫ぶ。
「この方が早いでしょ。小百合を担いで電車に乗ったら目立つもんね!」マリアが振り返ることもなく言い放つ。
守は荒い息を吐きながら、なんとか言葉を絞り出した。
「そ、そんな……マリアさんたちはアバターになってるからいいけど、生身の人間にはキツすぎますよ!」
「だから、通知が来たらすぐにログインしなよ!」マリアは軽快な足取りのまま返事をした。
「はぁ、はぁ……ま、待って……」
43歳の守にとって、このペースでのランニングは地獄そのものだった。
大きく遅れを取った守が足を止めそうになった瞬間、ルナがすっと横に現れた。
「ル、ルナさん! 来てくれたんですね! はぁ、ちょっと休ませて……」守は息を整えようとしたが、
その次の瞬間――
ルナの張り手が守の頬を打ち抜いた。
「ぐはっ!」守は反射的に地面に倒れ込む。「な、なんで!? なんで張ったんですか!」
ルナは冷たい目で守を見下ろし、静かに言った。「そんなことで小百合を守れるのか?」
「え?」守はぽかんとした表情でルナを見上げる。
「フク、あなたが小百合を人間に戻したいと言った。母体を倒すには命がけで挑まなければならない。
地球防衛軍として任務を全うする覚悟があるのか?」
その鋭い声に、守はようやく覚悟の重みを感じた。自分が何を言ったのか、
そしてこれから何をしなければならないのか。
「は、はい!」守は力強く返事をしたが、体はまだ震えている。
「ならば行くぞ。」ルナは背を向けると、再び走り出した。
守は自分の頬を押さえながら立ち上がり、
「小百合さんを早く人間に戻さないと……」と呟く。だが次の瞬間、彼は思い出した。
「って、まだボク、ログインしてないし!」
それでも、守は走った。43歳の疲れた体に鞭打ちながら、夜の街を駆け抜けていく。
どこかにいるはずの母体を探し出すため、そして小百合が完全にモンスター化する前に!
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